生長の家会員の個人サークル
谷口雅春先生倶楽部
谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え
とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教
団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次
のとおりです。
『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ
尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、
処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心
帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』
生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である
谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか
危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に
教団内において正しいみ教えを学んで行きます。
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生長の家「今昔物語」・ 理性篇の再掲示 <第五十三話> (812) |
- 日時:2013年04月15日 (月) 16時43分
名前:信徒連合
生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇
第五十三話(通算第379話)
聖霊の干渉による治癒と見られる事実(2)
(『神癒への道』P.46−49)
<< それは兎に角、その空中に浮ぶ霊球が変貌した瞬間、X婦人にはK博士の説教の語が「余はすべての人類を余のところに引き上げる」と聞こえた気がした。「実際私には聞こえていたのだ」とX婦人は気がついたのである。そして説教の残余の部分は彼女にはハッキリと聴きとれた。
数日後、X婦人は耳科専門医の診察を受けた。と、完全に機能を失っていた方の耳は五十パーセントの聴力を回復しており、かすかに聴力を残存していた側の耳は、殆んど完全に正常の聴力を回復していたのであった。
これこそ全く神癒であり、メタフィジカル・ヒーリングであり、所謂る心理学的治療法、又は心理療法とは異なるものであるがこのような超物質的治癒を理解するには、先ず、階梯として幾分科学者にも理解しやすい心理療法や、精神分析治療によって肉体が癒される実例を知って置くことが必要なのであります。
肉体は心で操縦せられるものであって、誰でも、心が右手を上へ挙げたいと思ったら、その心の作用で右手が上へ挙がるものだと云うことを知っている。若し挙がらなかったらそれは肉体の機械的装置に故障があるものだと思っている。
しかし、その肉体的故障というのは、外傷の場合を除いては、(外傷さえも、心が外傷を受けるような状態の位置に肉体を運んで行くのであるが、これは又別項に譲ることにする)悉く「心」が故障を起こしているのだと云うことが出来るのです。
人間の心には、潜在意識という広汎な自覚に上らない意識(こころ)の分野がある。それが心臓の鼓動を昂(たか)めたり、弛緩(しかん)したり呼吸を遅くしたり、迅(はや)くしたり、胃袋から消化液の分泌を多くしたり少なくしたりするのである。
現在意識と云うのは、今、物を考えたり感じたり、欲したり、排斥したりしているところの自覚域上(おもいうかんでいる)の心であるが、この心(現在意識)の欲するようには必ずしも潜在意識は動いてくれないのである。
現在意識(いまのこころ)が胃腸の蠕動(ぜんどう)をよくし、消化液の分泌をよくならしめようと如何に欲しても、胃腸は弛緩し消化吸収は完全に行なわれ得ない。これが胃腸病患者の常である。
この様な場合、物質医学の治療者は胃腸の組織の機械的故障であると思い、胃腸の組織を物理的に興奮せしめる方法を用いたり、化学的に刺戟して蠕動(ぜんどう)と消化液の分泌を促進したりしようとする。しかし多くの場合の慢性的胃腸病患者はそのような物質的治療法では何らの効果もないのであります。
そのような患者に、潜在意識を変化する方法が講じられるならば、忽然として生まれ変ったように胃腸(いぶくろ)が強健になる実例がある。
高岡市の市会議員をしていた苗加(のうか)八郎右衛門夫人の半年以上にわたり下痢と便秘が交代し食後の膨満と苦痛とを伴う胃腸症は、私の家内に真理の話を聞くと、消化剤も健胃剤も捨ててしまい、翌日は硬い赤飯を二杯食べ、翌々日には小豆餡(あずきあん)でくるんだ大きな田舎の牡丹餅(ぼたもち)を四つも平らげて、胸につかえることなく、下痢も便秘も共に治ってしまったのは私が阪神間の住吉にいた頃の事である。
服部仁三郎氏が金地大差の令息が盲腸炎と診断され流動食のみを食って腹部に苦痛を訴えていたのに、病気本来なしと、真理の話をすると、治ってしまい、帰途には丼飯を二杯食っても何の苦痛もなかったと云う実話もある。
私が指導して癒された実例はたくさんあるがここには書かないことにする。『生命の實相』を読んで癒された数十万の人達は、すべて私の筆による真理の説教をきいて癒された人なのだから諄々(くどくど)申しあげる必要はないのである。
日本人はみずから精神の国だと自惚れながら、精神で治ったなどということを侮蔑(ぶべつ)したり、恥辱(ちじょく)に思ったりしている。だから表面は精神主義者のようで実は唯物主義者が多い。中には自分が癒されていながら、表面では「そんなことは迷信だ」と侮辱的口調で言い放つことを以ってインテリゲンチャの権威であるかの如く誤解しているものもあるのです。
日本人は戦前もそうであったが、敗戦後は殊更(ことさら)外国を崇拝していて外国の著書にあるものなら信用する。そこで吾々は日本人に起こった幾多の実例を有っていながら外国の著書から実例を引用することにせざるを得ない。そうすると、それは迷信だといわなくなるからであります。
アメリカでは何々博士と博士号のついた人が堂々と、心霊力又は精神力による治病体験をその著書に発表している。ウォルセスター博士の如きは、「物質で精神が動くと考えるのは、馬車の力で馬が動くと考えるのと同じことで、真実は馬が馬車を動かすのであり、精神が肉体に変化をあたえるのである」と巧みな比喩を以って説き、
唯物主義者が、「精神が肉体を動かすと説くのは、汽笛が機関車を動かすというような迷信だ」とやり返すと、「汽笛を鳴らす目に見えない蒸気の力こそが機関車を動かすのである」とて、目に見えない潜在意識の力を立証する幾多の実例を挙げているのであります。その実例の一つを次に挙げることに致します。>>
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