生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・霊界篇の再掲示<第六十四話> (948)
日時:2013年05月02日 (木) 08時59分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第五篇 霊界篇



第六十四話 


先祖供養、および個別霊の供養(その7)




(続) 霊による現実界への影響――<憑依(ひょうい)について>

(『霊供養入門』P.234−239)




肉体は現実世界での“作業服”


<< われわれは「死ぬ」というけれども、実際は、霊魂は生き通しであるから第一義的には「死」はないのである。ところが、「現象的」にいうと、われわれの霊魂は「肉体」という、一種の“地上生活の作業服”を着て地上へ天降って来る。そして地上生活の“任期”を終えると、この「肉体」という作業服を脱いで、そして霊界へ行く。そこで、われわれが「死ぬ」という時期は、霊界から観ると、ちょうど“誕生予定日”に当るわけで、祖先の霊魂は、われわれが地上で子供の誕生を待つように霊界で待ち構えているのである。

現実界からいうと「いよいよ御臨終でございます。お別れでございます」といって悲しむことになるが、本人が「人間は肉体ではなく、霊である」という悟りを開いていると、「死」は、「肉体」みたいな窮屈なものから脱出することであるから、「私は霊界へ行ったら、もっと自由自在になれるんだ」と喜び、霊魂が肉体に執着してしがみつくことはなくなるので、肉体からやすやすと脱(ぬ)ける。これは霊界における“無痛分娩”ともいえる。


 ところが「この肉体が人間だ」と思っている人は、霊魂が肉体に執着して、しがみついている。しがみついていたら、「この洋服脱がしてやろう」と思っても、なかなか脱ぎにくい。しかし、もう霊界へ誕生する時期が来ているから、いやでもこの“作業服”を引きむしらなければならない。このように肉体と霊魂の分離が難しい場合は、霊魂は“断末魔の苦しみ”というものを味わうことになる。

しかし、その苦しみがあまりひどいと、神様の摂理で、ある程度以上の苦しみは感じなくなるようになっているので、霊魂は気が遠くなって無意識状態になり、その無意識状態のまま霊界へ誕生することになるのである。

そこで、霊界で無意識で眠っているような状態にある間に、現実界では坊さんが来て戒名(かいみょう)をつけたり、死骸を焼場へもっていって焼いたり、土にうずめたりしても、霊魂はそういうことは一向に知らないということになる。

 ところが、ある日、目を覚ますと、霊魂には何でも見える。それは外套(がいとう)を脱いでいても目が見えるのと同じで、その脱いでいる外套を誰かが焼いたとしても、どこかへうずめたとしても、自分は見える。そして「私は生きておった」と思うのである。「生きておった」と思うと、今まで眠っていた間の「時間」というものは感じない。本当に熟睡していたら何日眠っていても、その間の時間は感じないのと同じで、起きると、寝る前の直前のことを思い出す。そして、気を失う前に「あ、肺炎だった」と思い出すと、肺炎の状態が、そこに“夢のように”顕われるわけである。

現実界からいうと“夢のように”という表現になるけれども、霊界は「思う通りに顕われる世界」であるから、霊魂本人にとっては“現実に”肺炎に罹(かか)っているわけである。それで苦しみながら「今日はお医者さん来てくれないか。ドクターは来ないか」と思って待っていても、ドクターは来ない。そこで「仕方がない。

家族でも呼ぶより仕方がない」というわけで、霊魂は一心に家族や親族を呼ぶのである。その“呼び声”は、霊には声帯がないから耳に聞こえる声ではないけれども、これは一種の“心の波”である。この“心の波”が、近親の親とか孫などにひっかかって、そこで近親者が病気の状態になるということになるわけである。(P.234−237)




『甘露の法雨』の功徳


<< このような迷っている霊魂に対して『甘露の法雨』を読んであげると、そこには「肉体も物質も、そんなものは無い。罪も病も無い」ということが書いてあるので、霊魂は「おやっ?」と気がつく。

そして霊界では“現実に”自分には“肉体”がないのであるから、「肉体も何もないのに、病気の姿を顕わしていた」ということを聞かされると、催眠術をかけられてビッコを引いていた人が、術者に「さ、もう足は治った」と言われると、ちゃんと立ち上がるのと同じように、病気が治ってしまうということになるわけである。そうすると、霊界から病的な心の波を送っていた放送局が送信しなくなるので、こちらの現実界でもその病念の波の放送を受信していた人が癒されてしまうということになるのである。

祖先の霊魂たちは、いろいろの種類の病気に罹(かか)ったままで霊界へ移転したのであるから、霊界からの影響による病気は「何病だけ」と特定するわけにはいかない。祖先が「何々病で死んだ」という病気の数だけ、霊界の病人たちから病念の放送が来ているわけである。>>(P.237−238)




霊界での時間のサイクル


<<ところで、霊界へ行った霊魂は、すぐに目がさめるわけではないのであり、中には二十年も三十年もねむっているものもある。霊界の時間のサイクルは、この現実界の時間のサイクルとは違う。だから、現実界で「三十年」というと、随分長いように感じられるけれども、霊界では「一分間のごとし」であって、大した長さではないのである。

霊魂は、眠っている間は苦しみを感じないものであるから、心臓病で死んだ人の霊魂でも、この眠っているあいだは心臓病の念波をおくらない。ところが、現実界のサイクルで二十年なり三十年なりの時間がたって目を覚ましたら、まえの心臓病の状態を思い出して「ああ心臓が苦しい誰か助けてほしい」と思って、その病気の念波を放送するようになる。

そして現実界の人間がその念波を受けたら、心臓病に罹(かか)るということになるのである。死ぬと同時に病気の念波を送るのではないのであって、目が覚めてから病念を送る。

ところがいつになったら霊魂の目が覚めるかは決まっていないから、祖先の霊魂の中に病気で死んだ人がある場合には、現実界では、その放送を受けた時に、「突然に」病気が顕われるということにもなるわけである。>>(P.238−239)



(註・コメント)この<霊界での時間のサイクル>のことは非常に大切な事でありまして、毎日の日課として心を込めて先祖供養をしていながら不都合な病気等が家族に起こって来る場合があるのは、遡れば多勢の御先祖様の霊魂の中には非常に長年月のあいだ霊界で昏睡状態でいてその霊魂が時期が来て覚醒されるケースがあるわけです。

この間の実際の事情は各家庭によって千差万別であります。したがって、先祖供養はこれで充分だと考えずに継続してゆく事が極めて大切であります。ここまで行き届いて先祖供養のことを説かれている宗教家は開祖・谷口雅春先生のほかには中々見当たらないと思われます。







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