生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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復習: 聖経『甘露の法雨』の奇蹟 F (308)
日時:2013年03月04日 (月) 13時42分
名前:ハスの華




合掌、ありがとうございます。
< 小は個人の病を癒し、大は国家の病を癒す > といわれて数えきれないほどの奇蹟が生じた天来の聖経『甘露の法雨』も、今や三代目の雅宣総裁は捨て去り、自分の頭で考え出した人間罪の子意識による「大自然讃歌」・「観世音菩薩讃歌」に置き換えようとことを進めております。果たして雅宣総裁の新・聖経?は『甘露の法雨』を凌ぐ奇蹟を生じさせるでしょうか? この際、これまで生じてきた『甘露の法雨』の奇蹟の数々を復習する事は大変意義のあるところであり、ニュー信徒さんにも認識を新たにして頂きたいと思います。

なお、『甘露の法雨』がどうしても手に入らない方々は、(株)光明思想社 TEL: 03−5829−6581 へ申し込めば手に入ります。また、末端の誌友会では、まだまだ『甘露の法雨』による地方講師の指導が依然として自信を持って行われておりますので、奇跡的な結果も指導を受けた信徒さんの身の上には起っていることも沢山あります。其の際には、間違っても「大自然讃歌」・「観世音菩薩讃歌」による奇蹟だとすりかえられないようにご注意願います。



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 聖経『甘露の法雨』の奇蹟 F



“真理は汝を自由ならしめん”
         
『生長の家』四十年史(p.49−52)



<< 私は七年前、はじめてアメリカを訪問してロスアンゼルスの空港に着いたとき役千五百名の歓迎者を向こうにして、マイクが林立している前で、この事実を語って、“「真理は汝を自由ならしめん、汝は真理を知らざるべからず」とイエスは言ったが爰にそれが実証された。ここに真理を内臓する聖経がある”といって、携帯して往った聖経を右手で高く掲げながら叫んだものであった。

 マイクに吹き込まれたこの話は全米の放送局を通じてラジオ・テレビで放送せられたのであった。このような大袈裟な伝道の機会が与えられたのは、ロスアンゼルスに本部を持つ新しきキリスト教“リリジャス・サイエンス”を主宰するウイリアム・ホルナディ博士が深切に計画されたプログラムによるのである。ここに深くホルナディ博士に感謝する。


 原爆の“第三の火”も傷つけることが出来ないという奇蹟は、宮崎県の青年、甲斐延佳君にも起こったのであった。甲斐君は、もと満鉄に勤めていたが肺結核に罹って満州は気候が療養に適しないので、内地療養を許されて日本へ帰っているうちに『生命の実相』に触れ、“人間神の子・本来無病”の真理をさとると同時に病気が癒えたのであった。病気が恢復すると、恰度、大東亜戦争に差し掛かっていた時期であったので、召集されて軍隊勤務に入ることになった。

 甲斐君は先ず長崎師団の輜重兵(しちょうへい)として入隊し将兵の被服をしつらえる係になった。彼は何月何日に入隊するということが決まると、“自分は生長の家の説く真理によって救われたのであるから入隊前に、一度生長の家の講習会を受けて「神の子」の自覚を深めてから戦場に臨みたい”と考えて、どこに此の月は生長の家の講習会があるかと調べてみたら、佐賀県の武雄市にあるということが判ったのである。そして武雄氏の講習会に来てみると、わたしの講話の中にこんな話が出て来た。「海征かば水漬く屍、山征かば草むす屍、大君のへにこそ死なめ顧みはせじ」などというような、海で戦争すれば味方の軍勢が“水漬く屍”になり、山で戦争するならば“草むす屍”になる言葉ばかり唱えて、一語も「勝つ」の“カ”の字もないような歌を唱って戦っていては負けてしまうぞ。そんな不景気な言葉を唱える者は「言葉の力」を知らぬ者だ。 “死ぬ”ことを、言葉で唱えれば、言葉の力で“戦死”を多く出す事になるから、“死ぬ”などということを唱えず、ただ「皇軍必勝、必勝生還」とのみ唱え、それを信じて戦うべきである。こういうような事を色々の実例を引いて私はその時、講演していたのであった。

この午前の講義が終わって、控え室で昼食をしたためていると、甲斐君が日章旗を持って来て、そして硯に墨と筆とを用意して、自分が召集されて、一両日中に入隊することになっている事を話して、「今日の御講義まことに私のために話して頂いたような話で大変感銘いたしました。ついては先生のお言葉通り、この日章旗に“皇軍必勝・必勝生還”と書いて頂きたいのです」というのであった。

 私は講習先で時々揮毫を求められることがあるのだが、単なる揮毫であるならばお断りするのであるけれども、午前中に自分が講義した文句でもあるし、もう直ぐ応召して戦場に臨む人の願いであるので、もだし難く、日章旗の両縁の白いところに“皇軍必勝・必勝生還”と墨、黒々と祈りを凝めて書いて差し上げたのであった。甲斐君は、その日章旗を常に腹巻とし、その腹巻の間に『甘露の法雨』を捧持して軍隊生活に入ったのである。


 彼は輜重兵(しちょうへい)として軍服や下着の調達の仕事を受け持っていたが、それが出発ぎりぎりの時間に間に合って、長崎港から出発する船に飛び乗った。それは軍が徴用した屋形船であって、船の中には既に兵隊がぎっしり乗っていて、足の踏み場もないような状態であったので、彼はその屋形船の屋根の上に乗ったのであった。屋形船の日覆いになっている屋根は日本建築の屋根のように傾斜していた。

 その上に乗っている彼は、船が波のうねりで、もう一層傾斜すると、屋根が一層急勾配になるので、彼は屋根からすべり落ちて、肩を並べて坐っている兵隊の膝と膝の間へ割り込むように横倒しになったのであった。その瞬間、船の真上で敵の爆弾(砲弾かも知れない)が炸裂したのであった。頭をならべて乗り込んで坐っていた兵隊たちは、その敵弾の炸裂をまともに受けて全員戦士したのであったが、甲斐延佳君だけは兵隊の膝の間に横に倒れて兵隊の腹や背が防御の楯のようになって自分を護っていてくれるので身に微傷をも帯びないでいた。それは「皇軍必勝・必勝生還」と私が書いた日章旗を腹巻として、その中に『甘露の法雨』を捧持していたお蔭だと私は考えたいのであるが、そのように考えたくない人は偶然の僥倖であると考えても良いであろう。

 それから後、甲斐延佳君の所属の部隊は変更になって、長崎に原爆が投下せられた時には、彼は高射砲部隊に属していた。原爆が投下された日は、よく晴れた日だったらしい、非常に暑い日で高射砲部隊の人々は、上半身は上着もシャツも脱いで裸で、ズボンだけの軽装になっていた。原爆を投下したB29の逃げ去る跡を追って彼は、その高さを追跡するための測高機を見詰めながら伏向いて裸の背を空に向けた姿勢でいたのだった。

 突然、甲斐君は、爆弾の爆音と共に何千噸ともいうような重量の圧力を裸の背に感じて、体を上から下へと押しつぶされた。彼は踏み潰された蛙のように其処へヘタバッテしまったのであった。極近い距離からプルトニュームの原子爆弾の爆風と照射を、彼は何も覆うものなき裸の背中から浴びたのであった。

 しかし彼は「皇軍必勝・必勝生還」と私が書いた、腹巻の中に『甘露の法雨』を捧持していた。彼は「真理」と一体になっていたのだ。彼の背中は、数日間、海水浴に往ってきた後の日焼けのように少し赤くなってただけで、その後爛れることもなく、ケロイドになることもなく、間もなく普通の皮膚に返ったのであった。彼はその後、原子病に罹る事もなく、戦争が終わると、この神秘の体験をひっさげて宮崎県の生長の家青年会の支部執行委員長として青年たちの訓育に尽くして来た。

 青年会員の資格は三十五歳までであるというので、私が海外布教旅行に出かける少し前の年に、彼は青年会支部執行委員長の重責を満了して、ある生命保険会社の外務員として就職したが、私の海外旅行の前年、宮崎市で講習があった時に、あの長崎で原爆を受けた時の体験を多くの受講者の前で話したのだった。甲斐君はその時、生命保険の外交でも、生長の家の真理を生活に応用してやっているので、第一位の成績を挙げて表彰されたと言っていた。まことに「真理は汝を自由ならしめん」である。

 原爆の被害からの自由、貧乏からの自由、病気からの自由、一切の災害からの自由、一切の不幸からの自由・・・これらは皆“内”から得られる自由であるのである。>>






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