生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・理性篇の再掲示<第一話> (62)
日時:2013年02月19日 (火) 10時25分
名前:信徒連合



生長の家「今昔物語」第六篇 理性篇



第一話(通算第327) はじめに(なぜ理性篇なのか?)


『生長の家・今昔物語』の本編もいよいよ最後の<理性篇>に入ります。最初に“なぜ理性篇とタイトルをつけたのか?”について、少し説明をして置きたいと思うのであります。

 それは、第三代目・谷口雅宣・純子氏がことさらこの言葉がお好きなようでありましていろいろな所で使われているのであります。一番大きく目立つのは、お二人がこれまたお好きな「原理主義批判」にこの「理性」という言葉を最大の武器として使われているのであります。宗教の聖典・教典に書かれている事や内容をそのまま、その通りに信じて受け取るのは危険を伴う。「理性」というフィルターを通してその奥にある普遍的真理を理解しなければ教組・開祖を絶対的誤謬なき人物として狂信してしまうということなのであります。しかし、ここで明らかにしておかなければならない重要なことが二つあるのであります。

(1)第三代目・谷口雅宣・純子氏お二人とも、「理性」という言葉の定義(正確な意味)を説明されずに「理性」と言う言葉を使われているということ。

(2)我々一般信徒の絶対的大多数は第三代目・谷口雅宣・純子氏の言われるような“狂信的信仰者ではない”ということであります。信徒のみなさんはそれぞれが“いわゆる理性”をもって開祖・谷口雅春先生のお話をお聴きし『生命の實相』その他の御著書を読み、お説きになっている真理に<音叉の原理にしたがって>共感・共鳴したのであります。元来、生長の家の御教えには、そもそも“原理主義”なんて言葉は無かったのであり、静かな湖面に敢えて“原理主義”なる石を投じて波紋を人為的に起して信徒を惑わしていかれたのであります。



「理性」とは何か?

 先ず、第三代目・谷口雅宣氏がお好きな接近方法である「辞書」の解説をみますと

<「理性」とは、>

* 人間にそなわる、筋道を立てて考え、正しく判断する能力をいう。「すぐれた理性の持ち主」といった使いかたをする。

* 「理性的」とは、理性にしたがって判断・行動するようすを云う。

* 「理性」、「理性的」の対称語は「感情・感性」、「感情的」である。

このように「辞書」には解説されているのであります。しかし、<人間にそなわる、筋道を立てて考え、正しく判断する能力>とはどのような能力をいうのでしょうか? 次にこの事を考えて見ましょう。私たちが「理性」と言う言葉をどのような時に使っているかといいますと次のような意味の内容で使っていると思われます。

(イ)現代の科学的分析基準、すなわち科学的合理性
(ロ)論理的に矛盾の生じない考え方
(ハ)激しい感情に捉われない冷静な感性
(ニ)一切の利己的立場を超越した真実の自己が納得するもの
(ホ)思索に思索をかさねて、その末に辿りついた第一原理
(へ)本当の人間の意識の深層に宿っている神の叡智

 開祖・谷口雅春先生の言葉に「思索に思索を重ねていけば“正思惟(せいしゆい)”に達する。」があります。開祖・谷口雅春先生は、思索に思索を重ねられ、もうこれ以上は思索が不可能なる極点に於いて「百尺竿頭進一歩」、「『無』の関門」を超えられ實相世界に飛び込まれ、絶対実在なるものを絶対認識(理屈の世界を超えての生命的直接認識)されたのであります。

この御境地から膨大な量の『生命の實相』その他の御著書に於いて真理を縦横無尽に説かれているのであります。その内容たるや科学的合理性にも叶い、論理的な矛盾もなく、正思惟という神の深き叡智の泉から滾々と湧き出るがごとき清冽・新鮮なヒビキを持つものであります。ゆえに生長の家は“科学的宗教”・“論理的宗教”と世の識者達から評価され、知識階級(インテリ)層へと大きく広がって行ったと言えると思うのであります。


 そこで、第三代目・谷口雅宣・純子氏が「開祖・谷口雅春先生の『生命の實相』その他の御著書、すなわち聖典類は“理性”を以って読まなければ“原理主義”(開祖・谷口雅春先生への盲目的・狂信的信仰)となる」と言われていることが如何に的外れなことであるかを、開祖・谷口雅春先生の御著書の中から証したいと思うわけであります。開祖・谷口雅春先生の思索が如何に科学的であるか、如何に論理的であるか、如何に正思惟(深き叡智)に基ずいて書かれているものであるかが判るのであります。このような意味と目的を以って<理性篇>と名付けたのであります。引用させて戴きましたテキストは次のようなものであります。

「解放への二つの道」・「生命の謎」・「神癒への道」










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