生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・霊界篇の再掲示<第三十七話> (682)
日時:2013年04月01日 (月) 09時22分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第五篇 霊界篇



第三十七話 輪廻転生について(その1)



 
<<生命は死を超えて前進する>>



輪廻転生

(『別冊・真理<正死を越える道>P56−59』


<<「生まれ更り」即ち「輪廻転生」と云うことは、人間の個性命が肉体の死後も存在して、再び新しい肉体に生まれるという意味であります。

輪廻転生を持って、魂または「固体精神」の進化の方法だと考えるのは東洋の宗教思想であって、何億という多数の人間同士の間に存在する現世の不平等の生活を解釈する最も合理的なそして最も理論的な説明の仕方だと云うことができるのであります。

この原理は、貧富の懸隔、文化の差異、能力の相異、肉体的に不利なものと完全なものとを生ずるその根元に遡って、精神的天賦(てんぶ)、徳性、及び霊的進境の相異の説明に適用されるのであります。


 この説は、次の如き概念の上に築かれているのであります。即ち一個人、一身体の生命期間では生得の可能性及び精神的可能性を充分に発揮する機会が与えられるためには不十分であるから、神聖にして公正なる神の摂理は、各人の魂に自己の現世及び前世で学んでいないことがらを他の生命から学ぶ機会を与えるために、また別の環境にその魂を生まれ更って出て来させ給うのであります。

即ち政治、社会、経済、文化等の偶然的な環境条件のために個生命は、一生涯の期間中だけでは著しい進歩を遂げるために必要な経験を通過することが出来ない場合が多いのである。

また幼少時代の師友関係、及びその環境条件に於ける経験は個々の魂に或る偏った習慣を与えるし、両親、牧師、教師等の無智のために、その人の魂は束縛されて、奴隷化され、自由な広い経験を得るたの機会ガ奪われることも多いのであります。

だから人間の魂は、如何なる人でも、一生涯だけでは完全な発達の機会を与えられないから生まれ更って出ることによって、その不足せる発達を補うという説であります。


「生まれ更り」の学説は東洋の或る種の宗派が、人間の霊魂は時には動物に、又は昆虫にさえ生まれ更わることがあるなどと説くために、迷信的なものとして本来の価値以下に評価されているのであります。

人間が動物や昆虫に生まれ更ると云うことは明らかに現代の生物学の原理に反しているのであります。


然し「生まれ更わり」の学説の勝れている点は、精神的霊的進化を論理的に説明していることであります。


 これをキリスト教の教義と対照するために、在来のキリスト教の教義と比較して見ますならば真に興味が深いのであります。

キリスト教は、人間は一生涯を通じて如何に下劣で、無価値で、残酷で、堕落していましょうとも、死の直前に牧師によって罪を「赦され」、罪の懺悔と称する告白をなし、或いはイエスを救い主として受け容れて改宗するならば、たといそれから数時間或いは数分間後に死ぬとしても、新教に改宗した者ならば直ちに天国に、カトリック教に改宗したならば潔(きよ)めのために煉獄に行き、何れにしても神の恵みによって救われ、「神を見る」ことが出来、聖なる天使や聖人たちと交わる事が出来るのであると教えられているのであります。

すなわちキリスト教では人間は懺悔と教組の贖罪によってすくわれるのであって、霊的発達または生長によって救われるのではないことになっています。

このパラダイスへの易行道は、東洋に比し物質主義や功利主義がよく普及して居る西洋に於いて広く行なわれているのであります。

この説明は極端であるかも知れないが、それは、「赦し」「神の恵み」による免罪等と一致していますし、キリストは「彼の名を信ずる」者が救われんがために、そして、この救いの体系を作るために生命を棄てたということになっているのであります。


 代理者が贖罪(しょくざい)して救われると言う教義に比し、生まれ更りによって霊が徐々に進歩して救われる教義の方が論理的に道徳的に公平だということが出来るのであります。>>






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