生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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開祖・谷口雅春先生の直接指導録 <その3> =われ動けば宇宙動く、宇宙全体は一つの連動装置= (74)
日時:2013年02月20日 (水) 07時53分
名前:信徒連合




開祖・谷口雅春先生の直接指導録 <その3>



=われ動けば宇宙動く、宇宙全体は一つの連動装置=


『生命の實相』第15巻・人生問答篇(P.64〜68)




村田:

そういう場合、その人が失業したとする。たとい失業したとしてもうろたえない、困らない、平然として自由な境地にいなければならぬとおっしゃるのがあなたの御主張でしょうか。そんな場合平気でおれないのが人情ではないでしょうか。



谷口:

もし失業したら平気でおれないのが一応普通の人間の人情ではありましょう。しかしわたしは、そういうように失業したと仮定して問題を取扱っているのではありません。まだ、その人は失業していないのです。だからその人が今後深切と感謝とで動き出したならば上役だってその人を馘首(かくしゅ)しないように自然になると思います。馘首せられる者は、その事務所に何か反撥する雰囲気をもっているので、その人がその事務所にいるためにその事務所が明るくなり、その事務所に調和の気が流れるようであったらその人は決して首切られるものではありますまい。



村田:

この不景気では必ずしも深切と感謝で仕事をするものが失業しないとも限りませんな。会社の経済的
破綻からぜひとも何人かを淘汰せねばならぬという場合や、会社が全然つぶれてしまったというような場合には、どんな深切な誠(まこと)のある人でも失業しないとは限りません。



谷口:

たといその会社とか官庁とかで失業したからとて、深切と感謝とで尽くしているような人は、必ず誰かがいっそうよき所へ拾い上げてくれると思います。それは天がきっと見のがさないのです。



村田:

いくらも深切なこんな善い人が失業しているという例があると思います。



谷口:

善人がかえって失業して、悪人がかえって栄えている。一見そう見える例もあるでしょう。この世界は心の法則で支配されている。栄える人には栄えるような心的雰囲気をもっていて財を諸方から引き寄せる。「悪運盛んなれば天に勝つ」という諺もあるとおり、その人がたといいわゆる道徳の眼から見て悪であっても、諸方の財を引き寄せる磁石となるような人には多くの資産が集ってきます。これは自分の心の徳――強さ、豊富さ、寛(おお)いさや、自由自在の心境などの徳のためにそうなるのです。“心の徳”――人間の栄える要素となるべき“心の徳にはいわゆる狭い意味の窮屈な善ばかりではありません。正しさも一つの心の徳ではありますが、強さや、明るさや、豊富さや、偉大さや、自由自在な心境などもまた人間になくてはならぬ“心の徳”です。よく肺病になる人などを見ると、たいてい気の“小さい”善人が多いのであります。そんな善人は善であることにおいて天地の道にかなっているけれども、“気の小さい”こと、一つの小事に引っかかっていて、凝りすぎていて心の自由を失っていることなどにおいて天地の道に背いているのです。何よりも“気の小さい”ということは悪い。気が小さいということは、言い換えれば神を本当に信じないということです。自分の力一つで生きねばならぬと、小さく力んでいる人で、“天地を貫いて生き通す力に押し流されて生きるような人でない”。それゆえに気の小さい善人は肺病に罹ったり、失業したりすることがあるのです。



村田:
 
そういうむずかしい心の法則の理論よりもわたしが訊きたいのは、なんらの貯えもない人が今現に失業して、誰も雇ってくれ手のない時にはその人はどうしたらいいか、わたしは先生の意見が承りたいのです。首を切られても心を乱すな、飢え死にしても平気でおれ、平気でおれないのは人間の修養が足りないのだ、人間の本体は肉体ではなく霊であるから肉体が飢え死するなどのことぐらいに恐怖を感じず、平然としているだけの修行を積まねばならぬというような御意見がありましょうか。昔ある禅僧は「心頭を滅却すれば火もまた涼し」といって火炎の中で静座していたら焼け死んでしまったではありませんか。この実例でもわかるとおり「心頭を滅却すれば空腹もまた満腹のごとし」といってジッと坐っていれば餓死してしまうほかはないと思います。平然とする修行もことによりけりだと思います。



谷口:

心頭を滅却したら火もまた涼しといって火炎の中に静坐していたのにその禅僧が焼け死んでしまったのはなぜかといいますと、その坊さんは、「火の中に坐っていなければならぬ」という“一つの考え”ばかりに凝りすぎていたからです。人間は「生命」であるから本来自由自在なものであって、何も火がその側まで燃えてきているのにジッと坐っていなければならぬということはない。火が燃えて来ればその燃えて来ように従ってわれわれの行動は自由自在に千変万化しなければならないものであるのに、多分その坊さんは「坐っていなければならぬ」という考えに凝りすぎたために生命の自由さを失って焼け死んだのでしょう。もしわれわれが失業して貯金もない、だれも雇ってくれ手もない、生活の資料がない、このままで行けば餓死が目の前に見えているということになったからとて、我々は何も空腹を怺(こら)えて静坐していなければならぬことはない。もう食べるものが無くなって、もう自分は死ぬと決ったら、今まで天地一切のものにお世話になって生かしていただいたのであるから、せめて半日でも一日でもこの身体が生きていられる間だけ、今までお世話になった方々にたいしてお礼をしよう、御恩返しをしようと思って身にかなう働きを始めるとよい。道端の掃除をするとか、溝の掃除をするとかでもよろしい。そうすると決して周囲の人が飢え死にさしてほっては置かない。必ずその人の生きられるように周囲の人々が動き出すに違いない。この自分の動き方一つで周囲全体が自分を生かすように動き出す――われ動けば天地動く、宇宙全体は一つの連動装置であって、人間は自由意志をもった宇宙の中心でありますから、自分の動き方一つで宇宙全体の事物の位置が変わるのです。御恩返しと思ってする行ないがなぜ周囲を動かす力があるかといいますと、「我のため」ということがない、我執がない、我執がなくなれば  < 自分の神性が発揮される。自分の神性が発揮されれば、「類は類を呼ぶ」という心の法則で、周囲の人々の神性を喚び覚まします。 > 周囲の人々の神性が呼び覚まされれば、神性において人間は相手と一体であるから、今度は相手が自分を生かすために働き出すのは当然のことだと思います。



河野:

そう云う感謝の心で動く人なら失業してもまた誰かが救ってくれると思いますね。





 




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