生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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生長の家「今昔物語」・霊界篇の再掲示<第六十一話> (925)
日時:2013年04月29日 (月) 10時44分
名前:信徒連合




生長の家「今昔物語」第五篇 霊界篇



第六十一話



 先祖供養、および個別霊の供養(その4)

先祖供養は子孫の義務(『霊供養入門』)




<< 聖経を祖先霊の悟りのために仏前で読誦するのは法施である。仏前に物をお供えするのは物施である。人間は外面から観れば肉体であるけれども、内面からその本質を観るならば霊である。肉体には寿命というのがあって百歳を超える人は少ないけれども、人間の本質たるものを観るならば久遠不滅の霊であって滅びるということはないのである。

されど、その霊がどんな心境にあるかによって、その存在状態が異なるのである。

不滅のままでも、いつまでも逆境にあって唯ふらふらと存在するだけでは意義も価値もないのである。

吾々の肉体の祖先の霊を顧みるならば、祖父母の霊あり、曾祖(そうそ)父母の霊ありと、それを数えて肉体死後の霊界の祖先霊を三十代も遡れば大変な巨大な人数に達するのである。
 
 その巨大な人数の祖先の霊魂のうちには既に悟りを開いて仏陀の境涯に達している者もあるが、未だに迷境を彷徨(ほうこう)して苦しんでいる霊もあるのである。

このような未開悟の霊に真理を供養して悟りの境涯に入らしめ神通自在の百事如意の状態に少しでも多く達するように人間の実相の真理を供養して差し上げるのは吾々子孫の義務であり役目である。

 この書物の題名の「霊供養」というのは、親族縁族の霊に“真理の自覚”を供養して、各自の親族縁族の霊には多分まだ迷っていて自在の境涯に達していない者も多くあるにちがいないから、それらの諸霊に“人間・神の子”の真理を知らしめ“本来神通自在の境”に達するように導いて差し上げる事は、吾々子孫が先祖に尽くす最高の孝養なる布施行(ふせぎょう)と云わざるを得ないのである。

その最高の布施行を実践する方法を、人類全体に伝えるために書かれたのが本書である。

三世一如(さんぜいちにょ)の真理により過去・現在・未来は「今」の中にある。今、本書の読者が真理を知り真に自在の境に達するならば「一人出家すれば九族天に生まる」の真理により、九族全体があまねく天界の天人の如き自在を得ることになり、その歓びは、再びあなたに反響して来てあなたも亦(また)無上の祝福を享受せられるに相違ないのである。>>(はしがき)




<< 皆さんは御先祖の霊をお祀(まつ)りして、その霊たちに真理のお経を読誦することによって「真理」を御先祖の霊に供養していられるだろうか。

供養というのは、お供えして養うという意味である。養うというのは栄養になるものを食べさせて成長させることである。

 第二章で述べたように、人間は肉体が死んで魂が霊界へ行くと、もう肉体をもっていないので、肉体が食べるような物質的食物は不要になるのである、しかしながら肉体を脱して霊界へ行くと、霊魂が肉体を抜ける時の断末魔(だんまつま)の苦しみで、一時、気を失って意識がなくなり、さて肉体から去った霊魂が、霊界に転生してやがて意識を恢復(かいふく)して気がついた時、無意識中のことはわからないで、しの直前の病気のことを思い出す。そしてやはり自分の病気をしている<肉体がここにある>と思う。

つまり、この霊魂はまだ肉体意識から去っていないのである。肉体が“ある”つもりなのだから食物を食べたいと思い、飲み物をほしいと思う。しかし、もう死んで焼いてしまったと思っている人にお食事を差し上げる家族はいないから、彼は“飢(う)え”や“渇(かわ)き”を感じて苦しむのである。

こういう、まだ悟りをひらかぬ霊魂はその心が、地上の物質に縛(しば)りつけられているから「地縛(じばく)の霊」と心霊学ではいう。

こんな霊魂のためには食物や茶湯(ちゃとう)亦は“水”をお供えしてあげねばならない。これも供養の一つである。だから施餓鬼(せがき)その他の法事のときは、まず食物や茶湯をお供えするのである。

 しかし、やがて肉体を脱した霊魂は、「自分は“肉体“ではない、”霊“である」と悟るときが来る。それは、その霊魂にとって悟りの第一歩である。悟りの基盤が出来たわけである。

 ずいぶんたくさんの霊魂がまだ「自分は肉体をもっている」と思ったままでいる。それだから、肉体の死の直前の病気のつづきを病んでいるつもりで苦しんでいるのもあるし、地上の物質的なものに対する欲をもっていて、地上の物に縛られ、「地縛の霊」になっているのである。

こんな霊に、「あなたはもう肉体を脱して霊界に来ているのだ」と知らしてあげることは子孫の義務である。>>(276−278)






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