生長の家会員の個人サークル

谷口雅春先生倶楽部

谷口雅宣総裁になってからの生長の家は、創始者谷口雅春先生の本来のみ教え

とは違うものを説くようになりました。そして、本来のみ教えを求める多くの人は教

団を去りました。昭和15年に生長の家が宗教結社になった時の教義の大要は次

のとおりです。

『国体を明徴にして皇室の尊厳を明かにし、各宗の神髄を天皇信仰に帰一せしめ

尽忠報国、忠孝一本の国民精神を高揚し、悪平等を排して一切のものに人、時、

処、相応の大調和を得せしめ、兼ねて天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心

帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す』

生長の家教団は、本来の生長の家の教えを説かなくなり、創始者である

谷口雅春先生の説かれた生長の家の教えが正しく継承されていくのか

危機感を抱いています。生長の家会員自らがその危機感を訴えていくと同時に

教団内において正しいみ教えを学んで行きます。

 

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「初心者」はかくのごとく生長の家の『御教え』を否定する! <その3> (124)
日時:2013年02月22日 (金) 12時01分
名前:四万十分析官




「初心者」という人物は、「トキ掲示板」において下記の如く生長の家の『御教え』を否定しているのである。「トキ掲示版」規約には「基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教えを支持、共鳴する人のためのサイトです。生長の家と谷口雅春先生へのご批判をされる内容の投稿はご遠慮下さい。」と書いてあるが、一連の「初心者」と名乗る人物は、この投稿規約に反する投稿を続け、管理人氏も未だに一回も注意を与えていない。「初心者」と「トキ掲示板」との関係は主従の関係にあり、この様なところから「初心者=雅宣総裁」と言われているのである。そして、雅宣総裁としては、決して公の“総裁”としての立場では言いたくても言えない開祖・谷口雅春先生への反逆の「本音の思想」を「初心者」なる名前を使い、思う存分吐露し続けているとも考えられるのである。この意味からでも、彼のやり口は宗教家として非常に卑怯そのものであり、“総裁更迭”に十分に値するのであり、信徒はもっと声を大きくしなければならないのである。

以下、生長の家の『御教え』を否定する「初心者」なる人物の投稿を転載させていただき読者のみなさんの判断に供するものである。



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「トキ掲示版」より・・・


58 :初心者:2012/07/08(日) 12:25:19 ID:TfQ0e6RA

倉田百三氏が語っておられたのが本物の宇宙であれば、雅春先生はそれを論破なされたのであるから、本物の宇宙の問題は解決済み、との論法になるのでしょうけれども、雅春先生が論破なされたというのはほんとうなのでしょうか。「超越項」や「霊的直観」を持ち出さずに、論理だけで論破なされたのでしょうか。雅春先生がもしも反証不可能な「超越項」や「霊的直観」を持ち出しておられたのであれば、論破は無効と考える次第です。


58 :初心者:2012/07/28(土) 20:58:08 >>56

日頃わたくしどもの発想を「人間知」とさげすんでおられる方々の発想の限界なのでしょうか。ああいう人たちは、日頃は具体的なことは何も発言なさらずに、「実相覚」の持ち主であることをそれとなくにおわせておられますが、いざ何かを発言したり発想したりすれば、あの程度のものしか出てこないというのがかなしい現実のようです。昔から「言わぬが花」ともうしますが、「実相覚」の持ち主とは、何かを語ればかならず馬脚をあらわす人々でもあるようです。


114 :初心者:2012/08/01(水) 10:57:16

絶対的信を確立するとは、世界にたいする見方や解釈の仕方を、ただひとつの見方や解釈に固定するってことのようですね。固定された見方や解釈だけで世界を理解しようとするってことのようです。はたしてこれで、ほんとうにうまく行くのでしょうか。世界は流動的であるようにおもえます。真理の相も、けっしてひとつの相に固定されるのではなく、千変万化して流動しているかのように、わたしには感じられます。流動する世界、流動する真理を、絶対的信によって固定された・・・信を確立した人の言動に、新味性や意外性はまったく感じられません。絶対的信を確立した人が理解できる範囲は格段にせばまるはずです。・・・信を確立した人は、自分が理解できる範囲を「実相覚」と呼び、それ以外の理解できない部分を「人間知」と呼んでカテゴリー化することで、理解できる範囲のせまさを正当化しているようにもおもえます。絶対的信を確立した人は、理解できない範囲を拡大させてしまったことで、世界を語る言葉を持てなくなってます。世界を語ろうとしても、具体的なことは何も語れないので、大言壮語することで、自分は何もかも知っているのだとするポーズをとるようになります。こうしたことも、すべてが予想の範囲内に収まってますね。世界や真理がもしも流動的であれば、なおさら手の打ちようがなくなります。大言壮語することで、自分は何もかもわかっているのだと、自分にも他者にも思わせるよりほかはなくなります。


275 :初心者:2012/08/16(木) 11:11:17 ID:TfQ0e6RA

それでも雅春先生はみずからの教えを完全に理解しておられたと考えてよい、ということになるので
ありましょうか。教えの問題点と限界ということでいえば、雅春先生が言及しておられない、本物の
宇宙の実在問題はどのように考えればよろしいのでしょう。日本国実相顕現や人類光明化の具体的なヴィジョンがいまだ示されていないということを、どのように考えればよろしいのでしょう。雅春先生は、生長の家の教えをほんとうの意味で理解しておられたということが、はたしていえるのでありましょうか。みなさまはどのようにお考えになられるでありましょう。

117 :初心者:2012/07/29(日) 16:19:16


「人間知」と人をさげすまれるのであれば、人間知よりもすぐれたものを何かひとつでも見せてごらん、といっておるのでありますよ。ツベコベいっとらんと、「実相覚」とやらを見せてごらん。得意になって、無意味なほどに低レベルな文言を連発しておられる「あなた様」にいっております。


129 :初心者:2012/07/10(火) 13:01:45 ID:TfQ0e6RA

二元論を採用すれば、スムーズな説明が可能となります。ただ、「超越項」をもちいるということと、想像的な部分がどうしても出てまいりますので、いまのところこれについて説明する予定はありません。


1853 :初心者:2012/07/02(月) 16:38:48 ID:TfQ0e6RA

わたしは、『生命の実相』では真理を知ることはできないと考え、教えを手放したのであります。・・・「現象は本当にないのか」ということです。雅春先生はいったいなにをご覧になられて「現象はない」と言われたのでしょうか。問題となるのは、雅春先生はどの範囲までをご覧になられて「現象なし」と言われたのかということです。この宇宙だけなのか、それともほかも見ておられたのかということです。雅春先生は、いったいどこまでの範囲を考察の対象としておられたのでしょう。
雅春先生が言われる「現象」とは、どこまでの範囲をさした言葉なのでしょう。


1862 :初心者:2012/07/02(月) 17:53:14 ID:TfQ0e6RA

生長の家でいう「現象世界」とは、どの次元までをいうのでしょう。仮に宇宙が11次元であるとしたときに、この11次元すべてが「現象世界」ということになるのでしょうか。それとも、「生長の家の文脈」では、無根拠に、11次元は浅はかな人間どもが考え出した幻想だ、ということになるのでしょうか。なんにしても、生長家でいう現象世界の範囲とはどこまでをいうのか、これはどうしても確認しておきたいところであります。


284 :初心者:2012/07/19(木) 08:06:44 ID:TfQ0e6RA

「実相は神様がおつくりになられた完全なる実体である」と説明したとします。この場合、一見すると、実相を、現象との差異としてではなく、実相を実相として語っているようにみえますが、「完全」という言葉じたいが「不完全ではないもの」との意味しか持たず、「実体」にしても、「虚ではないもの」の意味しか持たないということからもわかるように、実相をどのように説明したとしても、その
説明のなかには現象の影がかならず入り込んでいるということがわかります。「実相直視だ」といってみたところで、こうした表現のなかにも現象の影が入り込んでいます。



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<問題点>


@「初心者」は 雅宣総裁は、開祖・谷口雅春先生の“お悟り”の境涯が全然理解出来ていないのである。「無の関門」の透過と云う事も、「絶対実在の絶対把握」と云う事も、「實相覚」による“實相世界の直接認識”と云う事も、「百尺竿頭」からの“實相世界への飛躍”といった史上最高峰に位置する「谷口哲学」の神髄を雅宣総裁は全然わからないのである。


A 「無の関門」を超えられた開祖・谷口雅春先生の霊的御境涯から見れば、「初心者」の霊的レベルと霊的理解度のレベルの境涯が真面目に信仰している一般信徒の境涯よりも低い事が明確に判るわけであるが、「初心者」は自己の霊的境涯などは全然思い致す事なき現象の知識中心の傲慢な世界に居座って中身なき評論文を書いているだけである。


B 細かい事を<講評>すると限がないので省略せざるを得ない。 傲慢で自己の位置する霊的境涯に関して全く無知な「初心者」は、難しい言葉の羅列はするが、その中に於いての論理の矛盾点には全く気が付いてはいない。「初心者」の書く文章内容は『生命の實相』を熟読した者の書く文章ではないのである。


C 上記の「初心者」の文章は、明らかに開祖・谷口雅春先生のお悟りに対する挑戦である。最も注目しなければならない処は、< 1853 :初心者:2012/07/02(月) 16:38:48 ID:TfQ0e6RA  わたしは、『生命の実相』では真理を知ることはできないと考え、教えを手放したのであります。・・・>の所。実際に雅宣総裁も根本聖典の『生命の實相』を生長の家教団から無くし、信徒に対しても読もうとしても買えない状態とし、『生命の實相』を読まなくても“講師試験”に合格するレベルの低い講師が続々と誕生して、まさに<非・生長の家>となり、<環境の家・雅宣教>となっているわけである。


D 以上のごとき理由を以て「初心者」=「雅宣総裁」である事は当然と考えるのである。その最大共通点は、どちらも『生命の實相』を手放したと断言したからである。



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