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俳々集の次の兼題「冬の魚全般」について。 たとえば「鯉」を冬の季語とするには「寒鯉」「凍鯉」となります。 鯉はねて池に穴あく寒の入 梶山 千鶴子 掲句は句自体が冬になっていますから、鯉そのものを冬の季語である「寒鯉」「凍鯉」としてはいません。 夏の季語なら「緋鯉」です。 とすると、「金魚」も「蟹」も扱いかたによっては冬の句に出来るわけでその許容範囲を伺ったところ、自由だということでした。 選句の際、この「自由に」という主宰の許可をすべての選者と出題者とで共有すべきと思いここに述べさせて頂きました。
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萬坊 |
2007/11/13 01:15 |
Re:今回の兼題は、「冬の季語の中から」とは、なっていません。よって冬の魚が入っていれば良いと解釈してください。当季といっても、俳句は眼前の写生を詠むことを旨としています。詠んだ以上写生の季語が秋でも冬でもあまり問題ではありません。超結社のみなさまの集合ですから創作に巾があることは気になりません。
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ぐみ |
2007/11/13 03:49 |
Re:「俳句は眼前の写生を詠むことを旨としています。」 この一行は大きな問題と思われます。 俳々倶楽部は勉強の場でもあるので、この一行をもっと掘り下げて頂きたいです。
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ぐみ |
2007/11/13 14:03 |
Re:有名な虚子の句「去年今年貫く棒の如きもの」 芭蕉の句「めでたき人の数にも入らむ老の暮」など 写生でなくても「俳句」といえると思います。
私は坪内稔典氏の「三月の甘納豆のうふふふふ」のような 句を作るのを目標としています。 眼前の写生を旨とするのが俳句の一つであるとは思うのですが俳句はそれのみではないと考えます。 創作に巾のあることは気にしないでいただけるとのことなので、以上勝手な発言でした。
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萬坊 |
2007/11/14 01:17 |
Re:ぐみさん自身すでに結論を出されていることですが、
三月の甘納豆のうふふふふ
目の前に「三月の甘納豆」が置いてありました。そんなことはありませんか。俳句結社の多くは、有季定型です。この有季は季語あれば良いということではありません。基本的には当季であることが重要です。11月の席で夏の俳句は詠みません。それが写生であると考えます。文章での写生とは「客観的描写」であり、これと対をなすのが「主観表現」です。坪内稔典氏の句も『自然へのあいさつ俳句』があっての「うふふ」であり、このことは、坪内稔典氏指導の俳句結社「船団の会」の句を読んでもわかります。中原道夫氏のように机上派を宣言して作句され、指導されている方もおられます。このお二人が俳句初心者講座でどんな話をされるかは興味があります。写生を否定されるとは思えません。お二人とも「写生の延長上」で作句されていると思っています。写生は俳句の基礎だと思っています。俳句は詩である以上どのような作句方法とられても問題ありません。
褒美の字放屁に隣るあたたかし 中原道夫 (春の句ですが、、、)
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