【広告】楽天市場からポイント最大12倍お買い物マラソン4月24日より開催

家系研究協議会掲示板(別館)

菊池一族について

ホームページへ戻る

名前
Eメール
題名
内容
URL
削除キー 項目の保存

[547] 題名:菊池豊後について 名前:菊池政友 (仮) 改め菊池寛朝 URL 投稿日:2017年12月05日 (火) 17時03分

2006年頃の書き込みにあった、宮城県名取市の増田神社の説明にある「菊池豊後」について。

「豊後」は、官位としての豊後守のことでしょうか?
菊池氏の人物で豊後守を名乗ったのは、兄・菊池武勝の前田家への恭順に反対し、越中から陸奥に移って南部氏に仕えた菊池正義がいます。

増田神社の説明では文安年中 (1444〜1448年) とあるので、正義 (1627年没) とは時代に食い違いがありますが、同じ奥州ということもあって、関連があるのではと探究心をくすぐられます。

正義の子には菊池正興がおり、現在の青森・岩手に広く分布する菊池家の一部がその子孫なのではないでしょうか。
また正義の兄・武勝とその子孫から成る越中菊池氏は、大友氏の圧政のため肥前国から逃れた菊池義政を祖とする。という情報 (『戦国大名家辞典』東京堂出版) もあります。

肥前国における菊池といえば、後醍醐天皇より肥前守に任じられた菊池武澄を祖としており、菊池武光とは兄弟であることから、増田神社の説明にある「菊池武光の一族菊池豊後」という一文も成り立つのではないでしょうか。

唯一、肥後菊池氏と越中菊池氏の繋がりに疑問を感じるのは、武勝と子孫が用いたとされる家紋が鷹羽紋ではなく石畳紋であるということです。
江戸期の大名・藩主が用いる紋を除けば、どの紋を用いるかは過去・現在においても本人の自由です。が、肥後菊池氏の後裔であるなら、誇りを持って鷹羽紋を用いるのではないでしょうか…


まとめ

菊池武澄 (武光の兄弟、肥前守に任じられる)

菊池義政 (肥前の人物、大友氏の圧政により越中に逃れる)

菊池武勝 (子孫は後に加賀藩に仕える)

菊池正義 (豊後守を自称、武勝と別れ陸奥南部氏に仕える)


[546] 題名:[544][545]様ありがとうございます。 名前:菊池吉三郎@上総 投稿日:2017年04月20日 (木) 18時50分

遅くなりました。
情報ありがとうございます。

菊池氏は家系についての情報が少なくて困りますが、それだけやりがいがあるのかなと思います。

またなにかあればよろしくお願いします。


[545] 題名:家伝と系図 名前:菊池政友 (仮) 投稿日:2017年04月05日 (水) 15時32分

初めて投稿させていただきます。
以前よりこちらの掲示板を拝見しており、私の持っている情報が何かにお役に立てばと思い書き込ませていただこうと決意しました。

私は宮城県仙台市出身、東京育ちの菊池です。
私の家系は戦前まで、嫡流・庶流に関係なく多くが岩手県北上市に住んでおりました。
私は庶流の。それも分家の分家のさらまた分家という家柄で、もしかしたら菊池としての血は薄いかもしれません…

私の一族にまつわる史料には大きく二つあり、一つは祖父母・両親から言葉伝いに聞いた家伝。もう一つは先祖代々の土地に建つ蔵から、半世紀ほど前に見つかったとされる家系図です。
家系図に関しては発見当時からだいぶ傷んでおり、明確に読み取れる部分だけを書き写したとされるものが現在も残っております。

家伝によると私の一族はその昔、九州の地から陸奥国に流れ土着したとされています。ただし時代・道程・理由、また九州は肥後なのか肥前なのか。具体的なことは分かりません。

家系図には、一番上に「長兵衛尉」なる人物。その下に12人の男性名が続きます。その八男に当たるのが私の高祖父です。
役所に問い合わせたところ、幸いにも高祖父の記録がまだ破棄されず残っておりました。残念ながら戸籍法の改定もあって士族・平民かはわかりませんが、生まれは安政6年。西暦では1859年になります。
逆算すると、「長兵衛尉」なる人物は文政年間の生まれでしょうか…
祖母が高祖父から聞いた話ですが、高祖父は子どもの頃、友人には名字がある者とない者がおり不思議に感じていたそうです。高祖父自身は名字があったそうで、江戸期すでに菊池を名乗っていたということになるかもしれません。

話を家系図に戻しまして、高祖父の下には4人の名前があります。その中の四男が私の曽祖父です。
さらに高祖父の11人の兄弟の下にもかなりの数の名前があり、数年前に数えましたところ、曽祖父と3人の兄弟を含め全部で33人。つまり曽祖父には29人もの従兄弟がいたことになります。
遠野には菊池が多いと聞きますが、この家系図を見ておりますと「もし菊池を名乗る家がどこもこんな状態だったら、あっという間に近所中が菊池になるだろうな…」と考えておりました。
曽祖父は明治29年の生まれです。つまり高祖父が37歳の時の子どもということになります。

さて家系図に戻りますが、残念ながらここからは高祖父から家督を継いだ三男の家のみが続いていきます。
幸い我が家はその家との交流を現在も続けており、家系図を見る機会がありました。


長々と書きましたが、話をまとめますと…

・九州から陸奥国に土着と伝わる
・江戸期に菊池を名乗っていた可能性あり
・子どもの数が多い (遠野で菊池姓増殖の要因の一つ?)


以上が私の持つ情報の一部です。皆さまの研究のお役に立てましたら幸いです。
また何か思い出すことがあれば書き込ませていただこうと思います。


[544] 題名:亘理郡山元町 名前:名前:菊地 投稿日:2017年01月09日 (月) 17時38分

数年前に曾祖母の葬儀のさいに大叔父から[20]のかたが言っていた菊地国安が自分達の先祖だと言っていたのですがどのような人物だったかわかる方いらっしゃらないでしょうか?
大叔父が言っていたのは菊地もくのしんくにやす(漢字がわかりません)でした。


[543] 題名:江戸幕府と明治政府 名前:菊地英雄 投稿日:2016年06月30日 (木) 09時17分

本家の系図の添え書きに、江戸時代に村役の監視下にあったと記されています。
また、明治政府に提出した身分回復願いの書類には戻らない物があったと古文書にあります。
先祖は長い間、差別されたようです。
何か関連する情報はありませんか?


[542] 題名:家系の秘匿 名前:菊池吉三郎@上総 投稿日:2016年06月19日 (日) 09時08分

ご無沙汰をしております。

先日(先々週?その前の週?失礼!)の
NHK Eテレの「知恵泉」で石田光成が取り上げられていました。

関ケ原の合戦の後、石田光成の子息達は許されたそうで
次男は百姓になり江戸時代は代々庄屋をして家紋、旗など
表に出さないようにし、光成の子孫という事も隠してきたそうです。

徳川家康は、
私の何かで読んだ記憶では、本願寺を東西に分けて
徳川に害?(失礼ですが)が及ばない様にしたり、
修験道も二派に分けたり、一致団結しそうな集団には

「細心の注意を払っていた」事が分かります。


何が起こるかわからない戦国時代ですからねぇ

故に、菊池氏も

一勢力と(南朝の)なりうる存在として認識されてしまうのを恐れ、
家系(古文書も含めて)を秘匿したのだと思います。

これにより、菊池氏は歴史から消え
南朝の武士として活躍した事だけがクローズアップされてしまったのだと思うのですが…


どう思われますか…


[541] 題名: 名前:菊池です 投稿日:2016年02月19日 (金) 11時08分

但し、大和政権が蝦夷征討で先に従えた熊襲系の部族を戦闘員に使っていた可能性もあります。
移動してきた戦闘員がそのまま何年も陸奥に居ついたとしたら。
平安時代から菊池一族が陸奥に根ついていたとしたら、菊池姓が岩手県に多い理由もわかります。
そうすると九州の菊池市との関係の可能性が出て来ます。


[540] 題名: 名前:菊池です 投稿日:2016年02月08日 (月) 12時59分

現岩手県北上市になる前の地名の黒沢尻(くろさわじり)口内(くちない)ここよりも北は、古くはアイヌの統治があって多くのアイヌ民族が住み着いていたと思われます。後に東北に勢力拡張して来た大和系部族に従ったのでしょう。
その地に根ついている圧倒的に多い苗字は、アイヌ系だったのかと思われる。
後から来た一族ではないでしょうね。


[539] 題名: 名前:菊池です 投稿日:2016年02月07日 (日) 12時27分

「くち」の付く古地名は岩手県ではよく聞く事があります。
「ない」とか「べつ」とかと同様に中央から来た語ではないような気がします。
アイヌの語の名残では・・・


[538] 題名: 名前:菊池です 投稿日:2016年02月05日 (金) 21時13分

先ずは、岩手の遠野には菊池が多すぎる。
殆どが菊池姓です。
遠野に住み着いたのが、誰よりも古い部族なような気がします。




Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】楽天市場からポイント最大12倍お買い物マラソン4月24日より開催
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板