家系研究協議会掲示板(別館)
菊池一族について
[405] 題名:RE:菊池一族・重富祖 名前:馬原 浩一@管理人 投稿日:2011年02月06日 (日) 22時30分
重富さん、こんにちは。
吉三郎@上総さんが書かれていた由比重冨氏につきましては、東大史料編纂所のデータベースに
「由比重富系図」というものがあり、ネットで画像も見られます。
まずは、データベース検索の入り口
http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/db.html
から、中ほどの「データベース検索画面」をクリックしてもらい、データベース検索画面が出たら、
左上の「史料の所在」の中の「所蔵史料目録データベース」をクリックしてもらうと、キーワードを
聞いてきますので、ここに「由比重富系図」と入力して検索キーをクリックすると見ることができます。
また、重富姓の現在の分布を電子電話帳の「写録宝夢巣」で見てみますと、
全国に778軒登録があり、そのうち福岡県が210軒で1位、山口県が125軒で2位、佐賀県が76軒で3位と
福岡県を中心に集中していますし、熊本県は12軒あるのですが、菊池市一帯には存在しませんし、
大都会の熊本市の4軒を除くと、県南部の人吉市に3軒、相良村に2軒、県西部の天草市に2軒、
県北部の荒尾市に1軒となっていて、重富与一武村の子孫というのは確率は低そうです。
恐らく、肥前国早良郡、志摩郡を中心に発展した由比重富氏一族の子孫ではないでしょうか?
[404] 題名:菊池一族と地中海文明 名前:八丈島菊地氏後裔 投稿日:2011年02月06日 (日) 06時25分
お久しぶりです。最近検索で調べて発見した事柄を、いくつか御紹介いたします。
イタリアには古くから Cucchi という名前が有り、その為、イタリアからの移民先のフランスやスペイン、北米や南米にも Cucchi 姓の方々が結構いらっしゃるそうです。綴りはCucuchiに似ていますが、発音はクッキに近いようです。
バルト三国の一つラトビアやアフリカのアンゴラにも Kukuchi という地名があります。
インカ帝国を築いた南米ケチュア族(ペルー・ボリビア・パラグアイ地域)のケチュア語にも Kukuchi という言葉があり、意味は霊または肘、なのだそうです。
シシリー島では Cucchiara という姓があるそうですが、元の意味はスプーンだそうで、スプーン職人からきた姓らしいです。
また、イタリアやシシリー島では、Cucuzzi は瓢箪、Cucuzzi Centinari は、少し種類が違いますが、日本でいう隼人瓜のことだそうです。隼人瓜は千成瓜(センナリウリ)ともいわれるので、歴史的に九州と地中海のローマの間に於いて何か関係ありそうな呼称ですね。
瓢箪は、「ひさご」と「ふくべ」の意味で、古代から杓子・柄杓(ヒシャク)や飲み物と食べ物を入れたりする生活必需品で、瓢箪を専門に生産し加工する職業も日本にあったのではないでしょうか。
西洋で、「菊池」というと、どうしても「Kukuchi?」と間違われるらしいのは、その為かと思われます。
ちなみに、シシリー島で生産がなかなか大変なケッパーの実は何とイタリア南部の方言でCucunchi(ククンチ)と呼ぶそうです。
これらに関する歴史・文化に詳しい方、又、間違い等がありましたら、ご指摘宜しくお願いいたします。
(上記、文章を一部訂正いたしました。投稿者2月15日)
[403] 題名:補(蛇)足です。 名前:吉三郎@上総 MAIL 投稿日:2011年02月01日 (火) 20時31分
「菊池秀之著「因縁の菊池氏」によると同姓異氏として重富氏がありました」と書きましたが、
下記の様にありました。
「菊池男爵家の系譜及び中武・田爪・上米良等の系図に表れている同姓異氏」とあります。
[402] 題名:重富氏について 名前:吉三郎@上総 MAIL 投稿日:2011年01月31日 (月) 23時43分
菊池秀之著「因縁の菊池氏」によると同姓異氏として重富氏がありました。
重富与一武村については、残念ながら大渡橋での戦死以外分かりません。
他に、重富氏は九州各地に散見され他にも違う系統があるようです。
大隅の重富氏は税所氏ではないでしょうか。
税所祐満に「号重富」とあるようです。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/saisyo_k.html
ただ、現在鹿児島県には重富・重冨氏は少ないようですね。
他に、
「新熊本市史通史編第二巻中世」に松浦文書などから観応元年(1350年)に肥前国人に重富氏がいた事を載せ、
川添昭二編「九州中世史研究第2輯」佐伯弘次著「大内氏の筑前国守護代」に天文十八年(1549年)大内氏家臣杉氏の側近に重富日向守がいて早良郡に重富の地名があり志摩郡の在地領主に重富氏があったとしています。
ワ冠の重冨氏について
川添昭二編「九州中世史研究第3輯」吉良国光著「史料紹介「由比文書」に由比(ゆび)重冨氏がありました。
先に挙げた志摩郡の重富氏と同じかも知れませんが。
鎌倉時代には筑前怡土庄の名主であり、地侍層であったとされ、少弐、大友、大内氏と関係があり、
史料にはほとんどワ冠で記されています。
ただ、重冨氏が送った書状などを見なければ正式な字は分からないと思います。
ちなみに、講談社発行 上田万年、岡田正之、飯島忠夫、栄田猛猪、飯田伝一共編「大字典」によると、
冨という字はウ冠の「富」の略字とありますが
藤兵衛さんの示された例もありますので単純には言いきれないと思います。
[401] 題名:関連HP 名前:菊池藤兵衛武秀 投稿日:2011年01月30日 (日) 16時48分
既にご存じかもしれませんが、下記HPの家系図http://nagata.kanagata.net/keizu/keizu_jyo_akahoshi.htm
下記HPの2997位に記載があります。
http://www.myj7000.jp-biz.net/search/fsearch.htm
それによれば、1)肥後国詫間郡重富邑発祥、2)藤原氏隆家流等とあります。
藤原氏隆家流ということは、菊池氏族ということだと思います。
始祖の名字(苗字)を何代か後の子孫が称する、ということはしばしばあるようです。
また、地名では「重富」でも苗字では「重冨」と変える、ということもあり得ます。
加賀の富樫氏は正確には「冨樫」だとされているようです。
たいした内容でなく、申し訳ありません。(^_^;)
[400] 題名:菊池一族・重富祖 名前:重冨 投稿日:2011年01月30日 (日) 00時53分
『忠誠の菊池一族掲示板』にてご紹介を受けまして書き込みをさせていただいております。
重冨のルーツを探っており、阿蘇品保夫『菊池一族』(新人物往来社)17ページの家系図左下に、武村(重富興一)という記載があり、10代武房の子、武村が重富祖ではないかと思っており、菊池一族について調べているうちに、『忠誠の菊池一族掲示板』のwebサイトにたどり着き、本webサイトをご紹介を受けた次第です。
菊池系図には、『次郎武房の子、武村(重富与一)建武二年、武重、武士の上洛に従い、京都淀渡の合戦にて討死、正月、京大渡橋上に於いて戦士』と、あるそうです。
もし、武村が重富祖であったかどうかなど、背景等について何らかの示唆を得られるような情報をお持ちでしたら情報をご提供いただけないでしょうか。
特に、私のシゲトミは、ワ冠の冨なのですが、重富姓の富の字はワ冠とウ冠の場合の2種類があり、地名も以下の3つがある点に注目しています。
・福岡県みやま市山川町重冨
・熊本県熊本市画図町大字重富
・鹿児島県姶良郡姶良町重富
各種文献によると、菊池一族の重富祖はおそらくウ冠なのだろうと思っておりますが、どのようにして2種類が発生するに至ったのかについて疑問を持っています。なお、上記Webサイト管理人の菊池様によりますと、太田亮氏の姓氏家系大辞典には、筑前や石見、大隅などに重富の地名や子孫があったと書かれているそうです。
重富の子孫の展開をたどる方法などないものでしょうか。
[399] 題名:訂正と、府老について 名前:吉三郎@上総 MAIL 投稿日:2011年01月24日 (月) 22時46分
訂正があります。
刀伊の入寇について蔵規が戦った様な書き方をしましたが、志方氏の論文には、蔵規は現役府官とされているものの、
刀伊撃退者のなかにはないとあります。(地理的な内容については除いて)
「府老」とは下記の事でしょうか
川添昭二編「九州中世史研究」第1輯、田中健二著「鎌倉幕府の社寺造営−宇佐八幡宮を中心として−」に
「平安時代中期、長徳4年(998年)に初めて宇佐宮式年造営が遂行され、平安時代を通して
厳重に三十三年式年造営が行われた」とあり、「大宰府に造宇佐宮役の催促を行う「行事官」「府行事官」と呼ばれる
ものがあり、大宰府の行事所の官人である。」
この行事所は、「大行事、主典、貫首、府老、検非違使、文殿」という職名を持つ六名の府官によって
構成されていて、「宇佐宮造営奉行人事蹟」という史料に最初の式年遷宮が行われた長保3年(1001年)の
条に「大行事・主典・貫主(?)・府老・検非違使・文殿、六人府行事、此時被始置訖」と記されており
行事所設置の初めとする。
又、小山田義男氏「伊勢神宮役夫工米制度について−院政期を中心として−」によれば、二十年に一度の伊勢神宮の式年遷宮においては、朝廷に「遷宮行事所」という機関が設置されており、「上卿・弁・史」によって構成される
遷宮事業遂行の最高の行政機関であった。大宰府の行事所はこれにならったものと推測される。
とあります。
[398] 題名:素晴らしいです 名前:最勝寺 菊池 投稿日:2011年01月24日 (月) 01時32分
吉三郎さまの見解はお見事でございます。
なるほどと納得できることが多々あり素晴らしいと思いました
私は述べてまいりました中で藤原蔵規と「春記」に記される
則高 正高父子は関係がないとしてきました
その理由を手短に述べます
定任殺害の1040年四月の時点で 藤原蔵規は存命しています
資料の上からも確認ができます
定任殺害の実行犯のひとりが正高でした
嫌疑は即座に父 則高にもおよびました 首謀者として
しかし藤原蔵規の名は上がっておりません
後家が則高 正高父子には遺恨があるとして述べています
定任が手にかけた 府老とその兄弟の法師が近親者であったと
当然ですが藤原蔵規にとっても近親のものであるはずです
春記の作者は 蔵規が勤めた高田牧の藤原実資の孫でもあります
帝自らも則高 正高の名を口にし追捕の官府に言及しております
存命中の藤原蔵規は全く意識 判断の対象外なのです
合掌
[397] 題名:菊池氏のルーツ? 名前:吉三郎@上総 MAIL 投稿日:2011年01月23日 (日) 15時16分
志方正和氏の論文「菊池氏の起源について」「刀伊の入寇と九州武士団」を読んでいたら
状況からもしやと思う事(素人の想像ですが)がありました。
刀伊の入寇があったとされる17日間の間に蔵規は肥後菊池まで戻り、玉名から水軍を率いて
長崎、佐賀廻りで陸伝いに博多まで行くのは日数的にも無理があると思います。
しかも、現役府官(少弐)が数日(早くて5日間位?)太宰府を離れるのはどうかと・・・。
せめて2〜3日で戻ってこられる所でないと・・
論文によれば、高田牧司であったとあり、この高田牧を調べると
下記、服部英雄氏の論文を見つけました。
http://www.scs.kyushu-u.ac.jp/~hatt/sig.html
つまり、高田牧の枢要拠点と考えられる津屋崎(福岡県福津市)付近であれば直ぐに戻ってこられる位置である。
高田牧は飯塚市高田付近(遠賀川上流付近)であり、
時代は下るが、菊池一族とされる山鹿秀遠の拠点福岡県遠賀川河口の芦屋町山鹿、
秀遠の父、粥田四郎(琢磨四郎)経遠の粥田荘(若宮市付近)、など
遠賀川流域、高田牧、津屋崎には古くからの縁があるといえます。
一方で、長元2年(1029年)には宗像妙忠が高田牧司として宋からの輸入品を京に運んだとあり、
宗像社は古代から遠賀郡の郡司を務めたとされる。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/south/s_muna.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%83%8F%E6%B0%8F
他に、宗像社は古代からいた人たちと、後から宗像社に入った人達がいる様?です。
藤原蔵規は、九州の武士でありながら最初に中央の官に任ぜられた左兵衛尉であり、
左右兵衛尉の中から特に武芸に長じたものを選んで帯刀とされた(兼帯)人物であって、
高田牧司である長和2〜4年(1013〜1015年)に間に中央権門に唐物、ガチョウ、孔雀などを献じ隼船を調え得て
対馬にも詳しく水上勢力を持っていたと考えられる有力府官であった為、対馬守に任ぜられたのであって
藤原蔵規は、宗像社となんらかの関係があるのではと思いました。
熊本県山鹿市の朝鮮式山城「鞠智城」が菊池本拠地の近隣にある事から
菊池氏との関連が思われますので百済の王族で「鞠智城」を本来の拠点としながらも
朝鮮半島を伺うための前線基地として津屋崎付近にも海洋豪族としての拠点があったのではないでしょうか。
そして、政則死去の後、則隆が藤原定任暗殺事件をおこし、本来の本拠地に戻り
菊池と号したのではないでしょうか。
[396] 題名:恩愛の情 名前:菊池藤兵衛 投稿日:2011年01月22日 (土) 00時03分
家系に関する仮冒については、人間の上昇志向からくる僭称という部分がクローズアップされる傾向がありますが、必ずしもそうとばかりは言えないのではないか、という感じもしております。
恩愛の情からくる親近感の表れ、というケースも多々あったのかもしれませんね。
そのような場合、母系の本姓を称したり、主の一族とみなされたり、ということがあったのかもしれません。
武蔵七党等でも異流の氏がメンバーになっているケースがあるや、に聞いています。
菊池氏においても一族一門という広い裾野では、そのようなつながりもあったのかなあ、と思います。
菊池氏という氏族には心が惹きつけられます。