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家系研究協議会掲示板(別館)

菊池一族について

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[343] 題名:熊野と菊池一族 名前:菊池秀夫 MAIL 投稿日:2010年03月17日 (水) 22時44分

熊野には「米良文書」という評価の高い文書があります。
米良は菊池の改名した名前で、九州では菊池一族の子孫が多くいるところです。「米良文書」には菊池の名前が多く登場します。
私の直感では、この文書は修験者たちの活動記録だと思います。
県立図書館クラスの図書館においてあります。
菊池一族は修験とかなり深くかかわっていたと思われます。
さらに、修験以前の古神道とも関連しているように思われます。
つまり、天皇家と深く結びついた一族なのです。
違い鷹の羽の家紋は阿蘇神社と同じですが、アメノコヤネの家紋と同じです。阿蘇神社は神武天皇の子孫以降の存在ですが、アメノコヤネはその前の時代です。
阿蘇神宮の南にある幣立神宮にはこの家紋があります。ここの初代宮司はアメノコヤネの子孫です。
ネットで調べてみてください。
22日に幣立神宮に行ってきます。


[342] 題名:ありがとうございます。 名前:吉三郎@上総 MAIL 投稿日:2010年03月15日 (月) 19時00分

不勉強ながら知った気になって書き込みしており、いろいろご教示頂けると幸いです。

大塔宮は一時期熊野に遁れたと言われており熊野修験との関連もありそうですね。
又、鎌倉市の逗子市側には十二所なる地名、更に(熊野)十二所神社もあり元々は時宗の一遍上人開基となる光触寺にあった(「鎌倉の寺小事典」かまくら春秋社刊)そうです。
逗子の菊池一族との関係はどうなんでしょう。


[341] 題名:逗子の菊池一族 名前:菊池秀夫 MAIL 投稿日:2010年03月12日 (金) 08時14分

331で逗子の菊池一族のことが書かれていましたが、私は逗子の菊池一族です。自分のルーツを探っていますがなぜこの地に着たのか解明できません。熊本の山奥に安徳天皇を守った菊池一族がいます。あながち、平家との結びつき、というよりも天皇家との関係で全国に移動した可能性もあります。大塔宮の奥様を守った菊池一族の子孫も現在神奈川県と山梨県の境の山奥にいて、お会いしました。天皇一族や修験がキーワードだと思います。文字の情報が少ないので解明が難航しています。系図や古文書がありましたら公開お願いします。


[340] 題名:ありがとうございます 名前:吉三郎@上総 MAIL 投稿日:2010年02月24日 (水) 23時08分

西心 様
はじめまして、情報をありがとうございます。
ご先祖に当たられるとのことで失礼致しました。
家系図をお持ちになられ、元亀から明治までのお墓もあるとのことでかなりな名門とお見受け致しました。
熊本の方でしょうか。熊本は遠方ゆえなかなか訪れることが出来ず、書籍等で伺うばかりですので家紋等、他にもご教示頂けると幸いです。

千葉県に香右衛門後裔の方がいらっしゃるとは知らず、灯台下暗しでした。
ちなみに、私の本家は当時の村の状況から文禄年間(1592-1595)の太閤検地まで遡れそうな可能性?をようやく掴んだところです。


[339] 題名:菊池香右衛門武国のこと 名前:西心 投稿日:2010年02月24日 (水) 16時10分

はじめまして、
偶然、ご先祖の話が出ていたのでお邪魔させて戴きました。菊池香右衛門武国のことですが、
実在の人物です。我家の先祖の一人で系図にもあります。元亀より明治迄の菊池歴代の墓所もあります。佐々成政に敗れ天正15年9月20日千葉城にて叔父3人と一緒に討死しています。(行年29歳)娘の本覚院は加藤清正の側室となり、次男は藤崎宮宮司として鬼丸家の養子となり、加藤家の庇護を得ていたようです。(後の神風連の乱に出て来る鬼丸家に繋がると思います)武宗についての記述はないので判りません。肥後国誌、拾集昔語、菊池佐々伝記等に菊池弥衛門武宗もしくは赤星弥衛門の記述が見られますが、江戸時代中期に書かれたもので出典が不明なので真相は判りません。
千葉県に香右衛門後裔の方が居られると聞いた事があります。そちらに新しい資料があるかもしれませんね。武宗が武朝の子というのは全くのでたらめで歴史音痴としか言いようがありません。


[338] 題名:[337]追加して訂正です。 名前:吉三郎@上総 MAIL 投稿日:2010年02月18日 (木) 21時04分

菊池十七代武朝の子菊池武宗ですが、[337]で「同じ様に思います」と書き込んでおいて恐縮ですが追加訂正させて頂きます。
良く確認すれば良かったのですが、申し訳ありません。

武朝は「菊池市史」によれば「応永十四年(1407)卒去45歳」とあり、武宗1407年生まれだとしても、天正十五年(1587)に佐々成政軍と戦うには180歳になります。かなり無理がありますね。
更に菊池香右衛門(武宗)の出自については、天草郡史料第二輯所収「九州記(九國傳記)」には隈部親永の一族ともあって実際のところ良く分からない(実在の有無も)のではないでしょか。


[337] 題名:菊池武宗 名前:吉三郎@上総 MAIL 投稿日:2010年02月09日 (火) 20時33分

肥後における「菊池武宗」は八丈島菊地氏後裔様がおっしゃる様に菊池香右衛門武国と思われます。
ただ、武国の娘が加藤清正の正室かどうかは諸説(何かで読んだのですが・・)あるようです。

伊豆諸島が所属していた伊豆(静岡県)国に近い駿河(静岡県)、相模(神奈川県)には菊池氏がいくつかあった様で北条氏の奉行だったり、城主(網代)だったりしていたようですが系譜については分かりません。史料とかでると良いのですが。


[336] 題名:菊池武宗 名前:八丈島菊地氏後裔 投稿日:2010年02月05日 (金) 06時01分

追加です。

「加藤清正の正室本覚院の父とされる庶流菊池武宗(菊池香右衛門武国ともいう)は菊池武朝の子で、佐々成政軍と戦い討死。」という記事も見受けられました。

http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keijiban/kato-ki.htm


ということは、15代武光、16代武政、17代武朝につながる庶流の後孫のようです。

前項の335と共に、もし間違ったところや問題がありましたら、ご指摘ください。


[335] 題名:北条氏家臣七兵衛武宗 名前:八丈島菊地氏後裔 投稿日:2010年02月05日 (金) 03時40分

菊池寛の先祖と言われる菊池武方の父親、菊池七兵衛武宗をいろいろと探して居りました。

結局、インターネット上の検索結果だけではありますが、「七兵衛武宗」は北条氏の記録と菊池寛の書いた文章の一部にしか見当たらず、単に「菊池武宗」となると、その娘が加藤清正と縁を結ぶという記事だけが目立ちます。

ところが、多くの菊池氏の系図には「武宗」が見当たりません。北条氏の記録にある武宗の子と書かれてある「武茂」も、名前としては菊池氏の系図では武時の子「木野武茂」としか出てきません。

どうも北条氏の記録にある北条氏上杉家家臣の菊池氏は、菊池氏への繋がりが不明に思われてなりません。

それで、八丈島の菊池治五郎も実際どこから降って湧いてきたのかと疑問が湧きます。

もしや、1338年末頃、戦い敗れて病死したように言われている菊池武重は名門豪族菊池一族の惣領であったため、同じく追い込まれた南朝側の奥山伊賀(この人も誰をさしているのか良く判らない)と共に、八丈島へ名目上は代官或いは神主としても、実際は流刑同様に移送され、室町幕府に捕虜として利用され、彼らに続く全国の南朝側家臣たちがそれに従わされたのではなかろうか・・・と、ふと思いました。

奥山氏も菊池氏も、北条氏や上杉家も無念の思いがあるが、断腸の思いで「時来たらば、この無念を晴らす」と子孫を残したのではないだろうかと思いました。

歴史の真相は、あの世に通ずる人に聞いて見なければわかりませんが・・・


[334] 題名:書き込み頂き、ありがとうございます。 名前:吉三郎@上総 MAIL 投稿日:2010年01月15日 (金) 22時40分

調べては見ましたが、[333]八丈島菊地氏後裔様と同じ様に思います。
六つ丁子は「日足紋に似てないかなぁ」と思ったりします。
中世、出田氏は藤崎八旛宮と関わりがあった様です。
藤崎宮の神紋は「下り藤」の様です。




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