家系研究協議会掲示板(別館)
菊池一族について
[333] 題名:出田氏 名前:八丈島菊地氏後裔 投稿日:2010年01月14日 (木) 00時51分
下記は出田氏に関するものですが、家紋は隅切角に違い鷹羽となっていました。
丁子紋は平安時代から公家(明治以降は華族)に多く使われた家紋だそうです。
公家と係わりがあるのではないでしょうか。
何らかの故に先祖が家紋を替えたのであれば、同じ家紋を使われている方、是非、分かると良いですね。
(以下転載文)
出田氏
隅切角に違い鷹羽
(藤原姓菊池氏族)
熊本城は隈本城とも書かれ、海抜五十メートルほどの高さのある茶臼山と呼ばれる山全体を取り込んで造られている。隈本城の名は南北朝期の古文書に見ることが出来るが、隈本城の位置と城主が明らかになるのは十五世紀後半になってからのことである。隈本城は応仁年間(1467〜)に菊池氏一族の出田(いでだ)山城守秀信が築城、それは今のNHK熊本放送局がある一帯で千葉城と呼ばれた。
出田氏は菊池氏三代兵藤経頼の子藤田三郎経家の子経信が、菊池郡出田村を領したことにより出田を名乗ったという。隈本城を築いた山城守秀信は肥後守護である菊地重朝の代官としての地位にあり、文明十七年、菊地重朝の命により出陣し、矢部の馬門原の戦で戦死してしまった。秀信のあとは嫡男の刑部大輔重綱が継いで千葉城主となったが、秀信ほどの勢威なかった。
守護菊池氏は、当時、飽田郡の楠原城に本拠を構えていた鹿子木三河守親員に白羽の矢を立て、明応五年(1496)、親員が隈本の地にはいった。そして、親員(寂心)は茶臼山南麓に新城を築城し、隈本城と称したのが現在の熊本城の始まりである。 重綱は男子がなかったため、城氏から政冬を養子に迎えた。以後、重基のあとを城親賢の弟親基が家督を継ぎ、親基は出田一要の名で知られ城久基の後見をつとめた。また、親基も子がなかったため、城氏から久基の弟武房を養子に迎えている。城氏が断絶したのち、武房は肥後国主として封じられた加藤氏に仕え、加藤氏が改易されたのち柳川に移住した。その後、肥後に入った細川氏に召され、子孫は熊本藩士出田氏として続いた。
【参考:新熊本市史/肥後読史総覧 ほか】
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ideta_k.html
[332] 題名:菊池一族からの別れ出田の家紋について 名前:出田 園子 MAIL 投稿日:2010年01月12日 (火) 17時39分
親から熊本菊池一族の出田と聞いていましたが、家紋が六つ丁子なのですが、何時の時代からこの家紋になったのでしょうか?
六つ丁子の家紋使用の方がいらしたら教えていただきたいのです。
菊池一族から分かれた皆様の家紋で分ることがありましたらよろしくお願いいたします。
[331] 題名:こちらこ宜しくお願いします。 名前:菊池逗子 MAIL 投稿日:2010年01月06日 (水) 01時22分
実際のところかなり広範囲にわたって家系がありそうですね。
私が、今は他界した歴史好きの叔父に小学生の頃に聞いた話は
鎌倉幕府頼朝の隣で、三浦一族と共に武士をしていたと言うのは聞いた事があります。
また、逗子小学校は何代か前の菊池が寺子屋からの発祥です。
菊池丈成
http://www.city.zushi.kanagawa.jp/syokan/soumu/tokei/18-00.pdf#search='逗子小学校 菊池'
また、逗子には六代御前の墓があります。
かつて、平清盛の子孫と肥後の国から一緒に来た家臣かもしれません。
(参考)
さる程に六代御前は三位の禅師とて、高尾の奥に行ひ澄ましておはしけるを、鎌倉殿、「さる人の子なり。さる者の弟子なり。たとひ頭をば剃り給ふとも、心をばよも剃り給はじ。」とて、召し捕つて失ふべき由、鎌倉殿より、公家へ奏聞申されければ、やがて安判官資兼(あんはんがんすけかね)に仰せて召し捕つて関東へぞ下されける。駿河国の住人、岡部権守泰綱に仰せて、相模国田越河の端にて、つひに斬られにけり。十二の年より三十余るまで保ちけるは、ひとへに長谷の観音の御利生とぞ聞えし。三位の禅師斬られて後、平家の子孫は長く絶えにけり。(『平家物語』巻第十二 泊瀬六代の事 付 六代斬られの事)
(意訳)
六代御前は三位の禅師という名で、高尾(高雄)の奥で勤行なさっていらっしゃいましたが、鎌倉殿は「あの者はさる者(維盛)の子である。またさる者(文覚)の弟子である。たとえ頭を剃りなさったとしても、よもや心まで剃ったりはなさるまい。」といって召し捕るよう公家へ奏聞申されました。まもなく安判官資兼に申し付けて、六代御前を捕らえて関東へ下向させました。駿河国の住人、岡部権守泰綱に申し付けて相模国田越川のほとりでついに刑に処せられたのでありました。六代御前が12の歳から30あまりになるまで命を保つことができましたのは、ひとえに長谷の観音のご利生によるものと承っております。三位の禅師が斬られて後、平家の子孫は永く途絶えたのでありました。
http://blog.goo.ne.jp/tivgdtd/e/24a01fdaf5dd7aa5c88e263be8bff4ad
私自身は現在、逗子在住ではありませんが父親の本家が
運輸会社を経営しています。何かの機会に家系図が存在するか否か、確認したいと思います。
[330] 題名:初めまして 名前:吉三郎@上総 MAIL 投稿日:2010年01月04日 (月) 08時29分
逗子と聞いて「お待ちしてました」という気持であり、
いつか、逗子の菊池さん方にお邪魔して家系の調査させて頂きたいとも思っておりました。もちろん可能なかぎりの部分でですが。
この数年、関東の菊池氏をネット検索すると、上杉氏家臣とみられる菊池氏がいくつかありそうな感を持っておりました。
実際、
1.佐藤博信著「江戸湾をめぐる中世」に伊豆三嶋から葛西青戸に移った上杉家臣菊池(地)氏
2.千葉県の歴史資料編などの「鎌倉大草紙」の結城合戦に出てくる結城城に立て籠もった武士達の中に「菊地五郎」があり、田辺久子著「関東公方足利氏四代」には立て籠もった武士達は北関東との関連があるとされる。
3.埼玉県深谷市の増田氏館に居住した菊池氏
4.八丈島の菊池治五郎家
など、上杉氏と関係すると思われる菊池氏は、逗子の菊池氏と合わせると五家になります。
ハードルは高いですが、この五家の系譜関係をいつか調べられたらと思っております。
今後とも、よろしくお願いします。
[329] 題名:お初です。 名前:菊池逗子 MAIL 投稿日:2010年01月02日 (土) 01時28分
本家が逗子の菊池です。因みに家紋は、丸に違い鷹の羽です。
尚、明治36年生まれの父親は重光です。三浦一族に関する名前が宛がわれている様な気が・・
なので、逗子の菊池親戚は皆、延命寺の檀家ですよ。
<三浦道香>
三浦一族の戦国時代の武将。三浦義同の弟。
逗子の住吉城城主として1513(永正10)年、義同らとここで北条早雲と戦い敗れ、逗子に逃れて自害します。家臣の、菊池幸右衛門が道香の冥福を祈るため建立した延命寺に、道香とその家臣たちの墓という宝篋印塔が残っています。
[328] 題名:情報ありがとうございます。 名前:吉三郎@上総 MAIL 投稿日:2009年12月31日 (木) 20時29分
菊池治五郎が上杉氏家臣とあるのは八丈町のHP以外見た事はなくて初めて拝見しました。
又、「武宗七兵衛掃部?」とありますが、昨年11月小田原市立図書館にて「小田原近代百年史」中野敬次郎著の菊池寛についての項をコピーしており、それによると、
明治時代の菊池寛の先祖に、北条氏家臣七兵衛武宗がいて、子の武茂は北条氏直の近臣で豊臣秀吉の小田原攻めの後、氏直に従い高野山に蟄居したが、氏直が病死したため、剃髪して安枕と称し京都に閉居したが、伊勢にて死去。
子の武方は近江国膳所城主本多縫之助康俊に儒臣として召抱えられ、三君に仕えた。
武方の子は、重均とありますが東匂(とうかい)で菊池耕斎と号し、薩摩藩の儒臣を経て高松藩に招かれたとされます。
一方、武方の子で東匂の弟、武徳ですが、石川主殿頭臣となったが故あって辞し讃岐国山田郡に住み、その武徳の孫が高松藩儒臣となって数代続き菊池寛につながるそうです。
現在、菊池寛の本家筋にあたる家系の方が千葉県内にお住まいの様(因縁の菊池氏)ですが、私の家系と直接は繋がらないと思います。
椙谷憲顕が上杉憲顕の別名とは知りませんでした。勉強になります。
今年一年、お世話になりました。管理人馬原様、皆様ありがとうございます。
どうぞ、良いお年を!!
[324] 題名:残念ですが・・・菊池重朝かも 名前:八丈島菊地氏後裔 投稿日:2009年12月28日 (月) 23時53分
ありがとうございます。
朝重ではなく、確かに菊池重朝のようですね。
そうなると、この中国語文献も確実性があまり高くないかもしれません。手間をお掛けして申し訳ありませんでした。
ところで、北条家の名簿に
菊池治五郎仕椙谷憲顕. (菊池)武歳. 武信右馬仕北條長氏. 武宗七兵衛掃部?河越衆80貫. 武茂武宗子. 武方武茂子. 重均武方子. 武徳武方子. 郷左衛門御馬廻衆43貫. 右近御馬廻衆40貫.
(www.geocities.jp/kawabemasatake/houjyou.html)
とありました。皆様の家系研究に何か参考になるでしょうか?
上記の椙谷憲顕というのは上杉憲顕の別名だといわれています。
[323] 題名:残念ですが・・・菊池重朝かも 名前:吉三郎@上総 投稿日:2009年12月26日 (土) 21時23分
中国語は分かりませんが、自分なりになんとか読むと菊池二十二代重朝の事と思われ、菊池市史、「菊池一族」阿蘇品保夫著から
一行目は、西暦1484(文明十六)年、名和氏と関係のある豪族宇土(為邦弟)と相良為続が肥後守菊池重朝と戦い、為光は八代郡に逃れた事をいってるのでは?
二行目は、肥後阿蘇家では、南北朝時代に続いて南北両朝系の二つの大宮司の対立があって、文明十七年(1485)庶家の惟家と惣領家の惟憲が争いを起こし、重朝は惟家を助け、相良為続は惟憲に加担して合戦に及んだ事を書いているのでは?
三行目も一、二行目とほぼ同じ出来事かも。
現在、八丈島菊池氏について会誌に投稿するべく作文(笑)しているところです。会誌に載せて頂いたらお送りします。
[322] 題名:菊池朝重 名前:八丈島菊地氏後裔 投稿日:2009年12月26日 (土) 14時13分
菊池治五郎だと日本語検索しか出来ませんでしたが、菊池朝重で検索してみると、中国語の日本の戦国時代歴史に関して資料が2つ出てきました。残念ながら読めません。治五郎とは年代が違いますが、兎に角、菊池朝重は中国語文献には実在しているようです。
中国語理解出来るかたがおられましたら、助けてください。
以下検索資料より・・・
1484.04.16 肥后守护菊池朝重与相良为续联军大破与名和氏联盟之豪族宇土为光,相良家控制八代郡地区。
1484.05. ... 肥后阿苏家因争大宫司职内战,惟村系之惟宪与相良为续联合,惟武系之惟家、惟岁父子得菊池朝重支持,结果惟宪破惟家于幕之平。
并开始介入肥后北部的守护大名菊池氏的家族内乱,趁机向肥后中部最肥沃的八代、益城地方扩张,文明十六年(1484年)和八代地方的领主名和氏*交战,攻落八代古麓城,同年四月十六日相良为续与肥后守护菊池朝重的联军大破名和氏的盟友豪族宇土为光,相良家 ...
http://www.shimazu.cn/ren/xiangliang3.htm
[321] 題名:お久しぶりです。 名前:吉三郎@上総 投稿日:2009年12月17日 (木) 18時47分
八丈島菊地氏後裔 様
[317]については、非常に大雑把で双方の系図を繋いだだけですので、あくまで仮説としてご報告した次第です。
八丈実記自体の信頼性は分かりませんが、治五郎朝重、二代目の朝義の信頼性が疑われる気がしていますが、実在した人物と思いたいです。