家系研究協議会掲示板(別館)
菊池一族について
[320] 題名:赤星氏 名前:八丈島菊地氏後裔 投稿日:2009年12月17日 (木) 06時32分
お久しぶりです。知らない間に八丈島の菊池氏の話題になっていて驚きました。八丈実記が、どこまで信頼できるのか判りませんが、参考にさせて頂いています。
ちょっと投稿名を簡略に換えてみました。
ところで、
赤星 慶治(あかほし けいじ、1950年9月 - )は、日本の熊本県出身の海上自衛官、第29代海上幕僚長。
まだまだ赤星氏には以上のような現役の大物がいらっしゃいますね。この方も、もしかしたら遠い親戚だと思うと背筋が真っ直ぐに伸びるような力を与えられます!!。
[319] 題名:赤星選手 名前:吉三郎@上総 投稿日:2009年12月12日 (土) 22時07分
阪神タイガースの赤星選手が引退されたそうで非常に残念です。
個人的に応援していただけに・・・。お疲れさまです。
第二の人生に期待したいです。
[318] 題名:面白いご見解です 名前:菊池藤兵衛 MAIL 投稿日:2009年11月29日 (日) 15時51分
八丈島・菊池治五郎の出自については、大変興味を持っていたところですが、謎に包まれておりました。
甲斐氏との関連は、なるほどと思われました。
面白い着眼ですね。
会誌へのご投稿が楽しみです(^◇^)
[317] 題名:甲斐氏の分かれ?八丈島菊池氏 名前:吉三郎@上総 投稿日:2009年11月29日 (日) 00時20分
甲斐氏と八丈島菊池治五郎の系譜についての考察
(注)あくまで素人の史料による書籍からの大胆な想像です。強引であり、間違い等多々あると思います。
八丈実記より
「菊池氏系 家紋丸ノ内ニ鷹羽ノ打違、仁治元年(1240)北条泰時□□(最初の□は不明次の□は手偏+丙)ノ代ニ
八丈ニテ記シタル家譜伝リシヲ紛失ス(文化年間に)可惜」とあります。
中興初代 二代 三代 四代
菊池治五郎朝重―――――――朝義――――――――朝雅―――――――朝定―――――――――以下略
康応元年(1389)死 奥(奥山?)太郎 名主佐右門五郎 名主興次郎
享徳二年(1453)死 文亀二年(1502)死 天文十九年(1550)死
八丈実記によると、菊池治五郎との関係は分かりませんが、天正年間に小田原北条代官菊池馬之介武信があり、
著者の近藤富蔵は、この家系について
1、八丈島在住の菊池氏は伊豆国三嶋在に本家
2、源為朝に随従して伊豆国大島に来た人ならば、肥後菊池四代経宗の五男経雄の一子五郎隆澄の末裔
等とあり、八丈島の菊池氏の他の系図をみても、○五郎とか五郎が多いような気がします。
そこから考えるならば
1、初代と思われる仁治元年頃は、菊池八代能隆の頃で承久の乱(1221年)の後になります。
菊池市史によると、「「菊池武朝申状」には、能隆大番役として叔父両人を進め置くに依り、
院宣に随って進み戦い畢んぬ〜略」とあり、更に「多分、五郎家隆と十郎隆元だろうといわれています」
もし、上記の文字が不明ながら、記事通りに解釈?すると、乱後、降参して北条泰時に従ったのでしょうか。
それならば、治五郎とあるので五郎家隆の子孫になるかと思われます。
※杉本尚雄著「菊池氏三代」には、菊池隆定とあります。
2、奥山伊賀と菊池治五郎を代官として延元三年(1338)に派遣したのが統治機関の最初とみられるとの事から
この頃の肥後菊池氏の出来事として、十代武房の後継争いがあり、武房の子息で六郎武本と
武本の甥で十二代武時の兄、十一代時隆(十七歳)が鎌倉に訴え出て諏訪左衛門尉宅で刺し違えて死ぬ
という事件があり、武本の子息はその時、一緒に鎌倉にいた模様で、事件後甲斐国都留郡に逃げたとあり。
新撰事蹟通考巻十九甲斐系図をみると、六郎武本の子息は五郎武村、さらに子の六郎民部大輔重村は
足利氏より肥後守護に任ぜられ九州に下り、家号を改め甲斐とし、大友氏協力のもと
延元三年(1338)菊池惣領武重と戦った。
一説によれば菊池武房は弘安八年(1286)卒(疑わしいとの記事があり)ですので、仮に1290年として、
その後の後継者争いを1290〜1293頃と考え、一緒にいた武村は時隆と同年代位で二十歳前後だったとし、
重村誕生は武村二十五歳(1295)〜三十歳(1300)の時とすれば、年代は腑に落ちる。
そこで、武村は菊池五郎(この記事に誤りがなければ)とあることから、庶子で重村の弟とすれば、
治五郎朝重として年代も若干の無理もあるが(1389死)延元三年(1338)に二十五歳であればあう。
二代、朝義が1453年死で考えると無理が出てくる。朝重で断絶し、奥山家からの養子が継いだのかも。
“朝重”の名は、源氏の足利尊氏から源頼朝の一字を貰い、“朝重”としたかと思いましたが、上杉氏の一族に朝定(扇谷祖)がおり、上杉氏代官としての関係から朝重としたと考えた方が良さそうです。
新撰事蹟通考巻十九甲斐系図による
菊池武房−+隆盛−+−時隆
| |
| +−武時−−――−武重
|
| 甲斐へ逃 九州へ ※重村、重並の間に七代有りとする系図あり。
| 六郎 五郎 六郎 伊豆守
+−武本――武村―――――重村―――-+―重並
民部大輔 |
| 出羽守
+−重安
応永三十四年(1427)生
表示がうまくいきませんが、重並と重安が兄弟です。
上記から系図を作ると下記になります。
甲斐へ逃 九州へ
六郎 五郎 六郎 伊豆守
+−武本――武村―――+―重村――+―重並
| |
| | 出羽守
| +−重安――― 〜 以下略
| 治五郎八丈島へ
-+−朝重―― 〜 以下略
重村と朝重が兄弟です。
新撰事蹟通考と、八丈実記の記事を前提に作ったもので、武房の後継争いがなかったとしたら無関係です。
他に、八丈島や、特に関東?の菊池氏の移住由来となった可能性のある出来事について、
心当たり?があるので、後ほどご報告したい(会誌への投稿だと思いますが)と思います。
[316] 題名:近況報告 名前:吉三郎@上総 投稿日:2009年11月23日 (月) 23時21分
藤兵衛様 ありがとうございます。更に調べて投稿させて頂きたいと思います。
私も、ルーツ調査の近況を報告したいと思います。
早いもので、家研協入会後1年経過致します。皆様1年間お世話になりました。
今後もよろしくお願い申し上げます。
実は、今年の春頃に思い出した事があります。
私が小学5年又は、6年生の頃、私の兄弟を含む従兄弟たちが何か賞状より大きめな紙を
次兄の伯父に見せられていた事。
(私は小学生だったので見せて貰えず)
もう一点は、昨年春に亡くなった次兄の伯父が、数年前に家系図の記事と思われる
「○○氏に養子に出してるんだよな」とか、「こちらに来てから3代目になんかあったみたいだぞ」
とか話していたのを思い出しました。
ですので、家系図とそれにまつわる由緒書の様な物があると思われます。
以前の書き込みで、本家の近くに総本家があるような事を述べましたが、総本家ではないかもしれません。
上記の事は、本家の従兄弟も知らないようですので、蔵?を探して欲しい旨、頼んであるのですが・・・。
連絡待ちです。
私の家系は水運と関係がありそうなので、今のところはまだまだ水運関係の書籍と“にらめっこ”状態が
続きそうです。
PTA役員ですか・・・本当にお疲れ様です。
[315] 題名:是非、会誌へ投稿を 名前:菊池藤兵衛 MAIL 投稿日:2009年11月23日 (月) 12時50分
素晴らしいまとめだと思います。
是非、会誌に投稿してください。
熊野社との関連については、種々指摘されていますが、本格的な論考は見当たらないように感じていました。
大きな一報になると思います。
今年も残すところ、あと僅かになってしまいましたが、伊達市梁川町の菊池氏(三つ扇紋)と当方との接点?については、手つかずです。
まったく動かなかったわけではありませんが、難航しています。こうなったら、旧家を任意的にあたってみるほかないかな、と思います。
町内会はほぼ主要行事が終わりましたが、今度は断りきれない筋からPTA(役員)が襲ってきました(T_T)
来年も近くて遠い福島県になりそうです。
[314] 題名:「水運に長じた氏族」熊野社との関連として 名前:吉三郎@上総 投稿日:2009年11月23日 (月) 00時37分
熊野社との関連を調べていました。今回、整理?いたします。
注:専門家ではないので、違っているところも多々あると思います。
上米良純臣著「菊池氏史要略」S63版によると、肥後菊池氏創建の熊野社があることが分かりました。
1、熊野三社権現宮、菊池武政(武朝か)建立(菊池市流川)
2、熊野三社、菊池隆直、紀州より勧請して社を建てる。
(山本郡那智村)
3、熊野三社宮、菊池氏建立と伝(山本郡永田原村)
4、玉名郡に合わせて4社あり、菊池則隆勧請:3社、
菊池武光勧請:1社。
熊野、水軍と関係すると思われる事項をあげると
1、「日本の海賊」長沼賢海著には、興国3年(1342)、
熊野水軍及び、瀬戸内海の水軍が薩摩島津氏を攻める。
これにより、懐良親王(征西将軍宮)は熊野水軍によって
九州に下る。
正平2年(1347)にも怱那氏、熊野水軍が大隅半島〜鹿児島
湾内に襲来とあり。
又、「この鹿児島付近の戦況を、征西将軍の執事中院定義が
阿蘇一族恵良小次郎に陸上の戦いに呼応して「海賊ともに」
敵の通路を打ち塞いで大勝を博した云々」と報じたとして
おり、宮方との関係が窺われます。
2、阿蘇品保夫著「菊池一族」に、「正平5年(1350)菊池武光と、
阿蘇(恵良)惟澄が率いる日向高千穂(尾)の軍勢の協力を
得て合志幸隆に奪われていた菊池本城を攻め落とした」とあり。
※日向国高千穂(肥後阿蘇郡と隣接する高知尾庄)は熊野社領であり、五ヶ瀬川による水運→熊野水軍→熊野社に貢納物を輸送。
※「日本の海賊」長沼賢海著
3、瀬戸内には、最重要海上にある播磨浦上荘、備前の児島に熊野 の神領があり、
新熊野といわれた。
又、「多くの修験の行者がここに集まり、公卿山伏といわれ、
承久、元弘、建武とひきつづく争乱に介在して一大勢力をなし
ていた。」※「日本の海賊」長沼賢海著
4、熊野歴史研究第5号、前 千雄氏「熊野別当系図の分析」か
ら、肥後に建武3年(1336)に旦那がいることが分かり、
肥後国とのつながりが見られます。
5、南朝の関連として
延元3年(1338)、北畠親房他(菊池氏も一緒?)、
伊勢大湊より東国目指し遭難。※「日本の海賊」長沼賢海著
6、菊池武光などによる九州制覇後の正平23年(1368)船にて
東上するも豊後姫島沖及び、長門沖の海戦に大敗を喫したと
伝えられる。杉本尚雄著「菊池氏三代」
7、その他水運として
菊池第20代為邦の時代ごろに大内持盛方に加勢する恩賞として
幕府より筑後守護職を貰い、1417〜1463ごろまで博多を
拠点として朝鮮と交易をしていた。
「戦国史研究、第26号青木勝士氏「肥後国菊池氏の対朝交易」
先日、ご紹介した福井県小浜市の十二所神社に関連して
小浜は、日本海側からの京への年貢船、商船が着岸品物を陸揚げしていたといい、水運によって南北朝、室町期に「和泉の堺か、若狭の小浜か」といわれるくらい繁栄した(新城常三著、中世水運史の研究)とあり、実際に菊池秀之著「菊池氏内伝」によると、福井県に菊池武弘の末裔の方がいらっしゃる様です。
氏神
金谷匡人著「海賊たちの中世」に、「熊野社は、船の守護神=船霊(ふなたま)を祀られていて、熊野本宮が「船玉山熊野本宮大社」と称するのもうなずける」としていて
「熊野の神木の「梛(なぎ)」も、風が「凪ぐ」として漁民たちの強い信仰を受けている」とあり、熊野社=船の神様と考えられ、熊野十二所権現を氏神に祀っている家系は、特に水運との関連が考えられるのではないでしょうか。
今回、整理してみましたが、まとまらず、箇条書きにしか過ぎませんが、熊野社との関係から「水運に長じた氏族」という側面が確かめられたような気がします。
[313] 題名:お久しぶりです。復活させて頂きます。 名前:吉三郎@上総 投稿日:2009年11月08日 (日) 16時44分
自分なりに調べた結果を書き込みます。
和歌山県では、下記3名を見つけました。それぞれが同族なのかは不明です。
菊池衡岳(1747〜1805)紀州藩士菊池武数の養子
菊池海荘(1798〜1881)菊池十二代武時裔
菊池三渓(1819〜1891)漢学者、初め和歌山藩儒、後将軍家茂の侍講
直接、菊池源吾という方は見つけられませんでした。
「菊池氏内伝」菊池秀之著では、S58〜60の全国五十音別電話帳からのデータによると、
和歌山県の菊池姓で一番多いのは、和歌山市11軒、橋本市3軒です。
又、和歌山県全体の割合でいくと、西日本の中では珍しく菊地72%、菊池28%でした。
[312] 題名:和歌山県で30件 名前:菊池藤兵衛 MAIL 投稿日:2009年11月07日 (土) 20時38分
和歌山県の菊池さんは『因縁に菊池氏』や『姓氏家系大事典』等を見ても見あたらず、難易度は高そうですね。
試しにHP『苗字舘』http://park14.wakwak.com/~myj/で検索してみましたが、和歌山県全体で30件足らずで少なく、驚きました。
ちなみに家紋はお分かりでしょうか?
菊池氏は熊野水軍との関わりが深いことは確かなので、近畿圏に旧家があっても不思議ではない、と思います。
どなたか詳しい方からの書き込みがあると思いますが、私も調べてみようと思います。
期待しないでお待ちいただければ幸いです(^_^;)
[311] 題名:和歌山県 かつらぎ町 菊池源吾 について 名前:山田道生 MAIL 投稿日:2009年11月03日 (火) 08時45分
私の先祖に和歌山県かつらぎ町出の菊池源吾という人がいます。彼について調べていますが、「菊池家」の一族だと思われます。情報を入手できれば幸いです。