家系研究協議会掲示板(別館)
菊池一族について
[237] 題名:幕末の八丈島からの移民 名前:吉三郎@上総 MAIL 投稿日:2009年04月24日 (金) 19時20分
明治維新の数十年前になりますね。
そういえば、幕末に八丈島の島年寄(地役人)に菊池作次郎という人がいたそうです。「幕末の小笠原」(田中弘之著)によると、
幕府が小笠原諸島を重視して欧米人やハワイ人などが定住していたのを回収し、開拓民を送り込むために八丈島から入植者(移民)を募集したり、入植者は夫婦者が原則のため、縁組の取り持ちまで引き受けた(島役人たち)という。
又、かい臨丸で調査のため小笠原に向かう途中、八丈島で物資の調達を目論んで(2週間以上滞在)いたが、当時の八丈島には余裕がなく、船長に八丈島への進路方向をわざと違えて教えたという。
又、「幕末の小笠原」によると、江戸時代に八丈島は人口過剰にあえいでおり、茨城県霞ケ浦周辺の干拓地や関東の新開地に「出百姓」が奨励され、入植者を送りだしていたようです。
当方の家系は、その関係かなとも思ったりします。
[236] 題名:津山藩領学校教諭所の学監・菊池士郎文理 名前:八丈島菊池氏の後裔 投稿日:2009年04月24日 (金) 07時42分
HPの紹介ありがとうございました。探せばあるものなんですね!
HPにあった文脈からははっきりとしたことは解かりませんが、文化14年(1817年)、文政5年(1822年)という年代と菊池文理の15年間の教職という時代は、天保の大飢饉(1823〜1839年)、大塩平八郎の乱、モリソン号事件というような時代に重なりそうですね。
[235] 題名:菊池文理の家系 名前:吉三郎@上総 MAIL 投稿日:2009年04月22日 (水) 21時43分
情報としては少ないですが・・・
HPの「ごさんべえのぺーじ」索引−菊池−阿哲郡上砦村にありました。
「因縁の菊池氏」(菊池秀之著)によると、肥後の名族とあります。
[234] 題名:忘れられた消えた菊池姓 名前:八丈島菊池氏の後裔 投稿日:2009年04月21日 (火) 22時11分
毎度突然流れを変えてしまって申し訳ありません(^_^;)
皆様菊池氏を良く研究されている方々なので既にご存知かも知れませんが、箕作 秋坪(みつくり しゅうへい)菊池 大麓(きくち だいろく)はご存知でしょうか。
つい最近、ちょっとしたことで森有礼のことを調べていて、関連する人物群の中に菊池姓が散見されたので驚きました。森有礼については聞いた事がありましたが、薄学ゆえ箕作秋坪、菊池大麓という人物は知りませんでした(^_^;)
箕作秋坪 は備中国阿賀郡砦部村(現真庭市北房町)にあった津山藩領学校教諭所の学監・菊池士郎(菊池文理)の次男とありました。箕作阮甫の娘婿養子になった菊池秋坪の子達の佳吉、元八が箕作姓を名乗っているため、過去に菊池姓であったことが歴史から消えてしまっていたのでしょう。
この菊池士郎(菊池文理)がどういう人物かは調べても未だに良くわかりませんが明治以降に多くの学者、政治家等を輩出した家系のルーツのようですので、少なからず関心を持ちました。ご存知のかたがあれば、どうぞお教え下さい。
[233] 題名:菊池一族 名前:吉三郎@上総 MAIL 投稿日:2009年04月20日 (月) 23時27分
木口氏も菊池同流となると、菊池(姓)からでた名字は相当な数になりそうですね。
ちなみに、「菊池氏三代」(杉本尚雄著)の略系図にあるだけでも、井芹・荘・立田・永里・岡本・石坂・福本・高橋・山崎・出田・黒木・小山・小野崎・藤田・中山・平山・城・赤星・甲斐・島崎・木野・高瀬・千田があり、他に西郷・小島・兵藤・米良もありますね。
[232] 題名:木口氏 名前:藤兵衛 MAIL 投稿日:2009年04月08日 (水) 15時59分
海外からのご投稿でしたか、視点のグローバルさはすごいですね。
来日されて、機会がありましたら是非お会いしましょう(^o^)。
米良文書に奥州菊地氏の記載があることは、かろうじて把握していましたが、このように具体的な記載は初見です。
一方、木口氏が出てくる点は興味が持たれました。
「(秋田県)天王町の北野天神は木口因幡守が開いたというが福島県で神職となった木口一族があり同地では菊池氏同流とみられている」(丸山浩一氏・あきた名字と家紋)という記事もあり、やはり奥州系のようです。
[231] 題名:菊池(省略)→ 名前:吉三郎@上総 MAIL 投稿日:2009年04月08日 (水) 00時12分
八丈島菊池氏の後裔様
スケールの大きなお話で、拝見したら元気が出て来ました。ロマンがあっていいですね。
菊池一族は、水運に長じた氏族と言われているので、おもしろいと思います。
[230] 題名: 名前:吉三郎@上総 MAIL 投稿日:2009年04月08日 (水) 00時05分
「熊野那智大社文書(米良文書)」に菊池・菊地姓、また木口姓がありました。
日本国中の名字(日本國名字之持分)に「一、清水 菊地(東国筋持分)弓削 大すミ 高野」
「一、高 淺羽 安富 木口 たくま」年号等は不明(第五72P)
下記、旦那売券
1.「きくち名字山城ち行のふん一圓〜省略。山城(佐藤)助能(花押) 文亀四年(1504年)」(第二246P)
2.「出羽国・奥州限一圓に、菊地(池)名字〜省略」文明六年(1474年)(第二111P)
3.(包紙ウワ書)「鎮西菊池一族、此名字何國に有共、奥州・出羽ノ外一圓つくし(筑紫)さふらい也、」
本文「〜鎮西菊池之一門〜」長禄(寛正二年)5年(1460年か)(第二2P)
4.「〜旦那菊池之一族、出羽・奥州両國一圓〜」長禄5年(第二3P)
5.「〜日向国木くちの一孫(族)一圓〜」寛正二年(長禄5年)(第二6P)
6.旦那譲状「一 日向国きくちの一ケ(家)一圓此外のそく」長禄6年
7.永代旦那書立、日向国 木クチ(菊池)ノ一族一圓」年号不明(第三90P)
8.旦那売券、「〜鎮西菊池一門、先年奥州・出羽之外本錢〜」享禄三年(1530年)(第三25P)
9.權少僧都導覚紛失状「一 〜菊地一門〜」永仁六年(1298年)(第一5P)
[229] 題名:菊池氏と古代史 名前:八丈島菊池氏の後裔 投稿日:2009年04月07日 (火) 23時39分
先の投稿の中で、チブチャン古墳は誤まりでした。チブサン古墳に訂正お願いいたします。
[228] 題名:菊池氏と古代史 名前:八丈島菊池氏の後裔 投稿日:2009年04月07日 (火) 23時05分
皆様、情報ありがとうございます。実は、私達夫婦は人事で海外在住なのです。先祖代々、海外の遠隔地勤務や開拓を命ぜられるような宿命を帯びている感があります(^_^;)。八丈島の菊池の先祖等を調べたいのはやまやまなのですが、今のところインターネットぐらいでしか出来ません。いつか日本に戻ったら書籍を探させていただきます。
現在はセントラルアメリカに居ります。先住民インディオがどことなく小柄で陽に焼けた東洋人とソックリです。赤ちゃんの臀部に青アザ(蒙古斑)が有るかと聞くと、一様に「有る。」と答えます! 言葉も欧米の言葉や中国語よりも日本語に近い感じがいたします。それから、こちらのインディオの中に昔「クタラ」という強い部族長がいたそうで、皮革の手作り履物(サンダル)のことを何時の頃からか「クタラ」と呼ぶそうです。ホンジュラスからコロンビアに到る地域に分布する多数の先住民部族はチブチャン語族と呼ばれています。日本でチブチャン古墳というものが発見されているので、これも関係有りか?と興味深々です。
ある部族は、部族の紋章を古来先祖から使われてきたものとして、何と部族の旗印に「卍」を用いています! 住居もアステカやインカ等の石造り建築ではなく、縄文時代か弥生時代の木や植物で作った日本の古代のものに近いのです。そして、コロンビアの伝説的神話が「八丈島伝説」に似ているので驚きました。アメリカ南北両大陸の先住民は皆アリューシャン列島等を伝って北方から渡って来たというふうに学者が言っていますが、私としては中米以南の先住民はアジアや南西の諸島から海路で太平洋を横断してきた部族が多く混じっているのではないかという感じがします。それも日本列島に大陸から渡来人が押し寄せてきた頃に九州南部に押し出され行方不明になったといわれるまぼろしの隼人族等が太平洋を渡ったのではないだろうか、菊池の先祖は大陸系渡来人なのか、渡来人と融合して生き残ったハイブリッドな列島の先住民族系なのかと、古代に思いを馳せているところです。