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家系研究協議会掲示板(別館)

菊池一族について

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[105] 題名:菊池氏家伝のよく聞くケース 名前:菊池(藤兵衛)武英 投稿日:2007年03月01日 (木) 22時36分

菊池氏の家伝でよく聞くケースは「我が家は菊池武時の子孫」というフレーズです。
ご承知の通り菊池武時は子福者と知られ、十五男一女をもうけました。その十五人の男子の内、誰の子孫であるか?というあたりは不明確であるケースが多いようです。
そのあたりのことについて、菊池大麓家ではどのように伝えられてきたか、興味が持たれますね。
やっぱり『因縁の菊池氏』は必備の書ですね。まさに隔靴掻痒です。


[104] 題名:菊池武臣さん 名前:佐枝太郎 投稿日:2007年03月01日 (木) 08時57分

菊池武臣さんは肥後菊池氏の後裔だそうですが、菊池大麓さんの方は分かりませんでした。


[103] 題名:因縁の菊池氏 名前:菊池(藤兵衛)武英 投稿日:2007年02月28日 (水) 21時38分

話題提供ありがとうございます。
菊池大麓氏、菊池武臣氏のお二人は著名ですね。
美作の菊池氏と米良氏(交代寄合)の系譜は興味深いですね。
詳しい由緒・系図は『因縁の菊池氏』(菊池秀之氏)に出ていたと思います。
今、同書を実家に置いてきております。今度行ったら持ってきておきます。
家系研究の分野も個人情報保護法が・・・といったところでしょうか。近代に入るとハードルを感じますね。
美作の菊池氏と大麓氏との関係は興味が感じられます。
明治政府は菊池氏を宣揚していた感じがします。
米良氏の菊池復姓の背景もいささか気になるところではありますね。


[102] 題名:現当主 名前:佐枝太郎 投稿日:2007年02月28日 (水) 09時40分

聞きたいのですが、熊本県と岡山県の菊池氏の現当主は誰なんですか。華族一覧表を見ますと、両方男爵で新華族です。一人は岡山県の人で東京帝国大学長、文部大臣等を歴任した明治35年2月27日に授爵された菊池大麓と熊本県の人で先祖が南朝への忠節と維新の功により明治17年7月8日に授爵された菊池武臣です。
この二つの菊池氏は両方「池」の字です。誰か分かりませんかね。


[101] 題名:加増(かます)菊池氏 名前:菊池(藤兵衛)武英 投稿日:2007年02月25日 (日) 17時23分

過日、加増菊池系図を入手しました。33代目で明治維新だったようです。
加増菊池氏は福島の名家であり、自家系との関連が想像されたのですが、残念ながら手がかりには結びつきませんでした。
しかし、面白いことが分かったので(自分にとってですが)、書き込みます。
加増菊池氏の概要は[34]のHAZU様の書き込み通りで小手森合戦後(いわゆる伊達政宗の進攻)、津島の紺野氏を頼って落ち延び、紺野と姓を変えています。その後、領主・丹羽氏から郷士として待遇され、明治八年に菊池姓に復したようです。
明治三年に郷士の家格の者は由緒書の提出を求められたようであり、明治八年に肥後出身の県令・安場保和氏の目にとまり、安場氏が紺野家を訪れ、菊池復姓になったようです。
この菊池系図は明治九年の明治天皇東北巡幸の際、福島にて明治天皇がご覧になったそうです。
明治初期から政府の菊池氏宣揚がなされていたことが知られ、興味深く感じられました。
ちなみに家紋は日足丸鷹一枚直羽で幕紋は獅子牡丹、三つ橘とありました。


[100] 題名:阿倍氏族 名前:菊池(藤兵衛)武英 投稿日:2007年02月24日 (土) 05時34分

興味深く拝読いたしました。
丹羽氏の説・ククリ地という意味は、今までぴんときませんでしたが、流刑地と解釈すると確かにわかりやすいですね。
太田亮氏は菊池氏について阿倍氏族筑紫国造の末と見ているようです。やはり阿倍氏との関係はキーポイントになるのでしょう。
菊池氏も当時の地方豪族のご多分に漏れず、紀氏→藤原氏と大姓に同化していったのかもしれません。
現在、菊池・菊地氏は東北の苗字といってよいような様相を呈しておりますが、その大きな理由として安倍氏など奥州の豪族と深い関わりにあった可能性があるのかもしれません(これが私の妄想のひとつでありますが・・・)。
菊池氏の系図は諸本により異同が激しいですが、藤原隆家を祖とし、則隆が肥後に下向としている点は共通です。この二人がキーマンであることだけは確実でしょう。
一説には、藤原純友はもと高橋氏であったが、藤原氏の養子になったと言われているようです。
菊池氏についても藤原隆家と養子・猶子の関係があったのかもしれない、とも思われますが、もちろん確証はありません。
菊池氏の南北朝時代の奥州下向は定説と考えますが、それ以前にも菊池氏が奥州に受け入れられる素地があったのでは?ということに固執していますが、真相はいかに?ですね。


[99] 題名:菊池姓についての空想的私見 名前:村井克好 MAIL URL 投稿日:2007年02月24日 (土) 03時03分

和名抄によると菊池とは当て字で、古くはククチと読んでいた。ククチとはククリ地すなわちくくられた土地という意味である、安倍氏族の久久智氏と関係があるに違いないと日本家系図会会長の丹羽基二先生が書かれています。では括られた土地とは何をさしているのでしょうか?私は流刑地と解釈してみました。源頼朝に破れて筑紫へ流された者が安倍一族の中にいたそうです。筑紫とは九州の古称で古くは大宰府のある筑紫郡を指していたそうです。ここに流された者、それが久久智正則の一族ではなでしょうか?安倍氏といえば第八代孝元天皇の皇子大彦命の子孫と言われ朝廷とは深いつながりがあり、やがて復権した久久智正則は、大宰府の官人として働き始めるのですが、この時に平安期によくあった藤原姓を名乗ったのではないでしょうか?そこで菊池氏・藤原の正則の子孫説が登場したのでしょう。そして1019年に刀伊の入冠を撃退した功により朝廷より菊の字を賜り晴れて菊池氏誕生となり、以来九州宮方の中心勢力となっていったのでしょう。・・・御笑読ありがとうございました。


[98] 題名:菊池風土記 名前:菊池(藤兵衛)武英 投稿日:2007年02月23日 (金) 20時01分

菊池風土記はよく耳にする文献ですが、孫引きで接するのみで、実際に開いたことはありません。誠にお恥ずかしい限りです。
確か江戸時代の写本?だったか、と思いますが、40万円くらいの値がついていたのを見て驚いた記憶があります。
菊池一族は全国的に移住しましたが、どこへ行ってもひとかどの武将になっていることが印象的ですね。
菊池氏の全国的な展開を支えた背景は何か?大変興味が持たれます。
私は戦後20年を経て生まれましたが、東京大空襲の悲惨さは様々な方々からお聞きしてきました。決して風化させてはいけない出来事だと思います。
私は福島市にルーツがある菊池氏子孫ですが、明治14年の福島大火で家系図等が灰燼に帰した、と言われています。そのようなわけで家紋の三つ扇と肥後菊池氏の末裔という家伝のみが拠り所といった状況です。
8割方が違い鷹の羽というご感触は大変参考になりました。
仙台にても同様の感触でした。
今後とも宜しくお願いいたします。


[97] 題名:お詫び 名前:村井克好 MAIL URL 投稿日:2007年02月23日 (金) 11時48分

P・Cが不調で95と96が重複いたし失礼いたしました。


[96] 題名:菊池 武英様 名前:村井克好 MAIL URL 投稿日:2007年02月23日 (金) 11時38分

あくまでも推論ですが、多々良浜の戦いの後一族は、肥後・信濃・志摩・磐城・津軽へ散ったとの事。菊池風土記にあるという21分家も一家がおなじ地方に向かったのではなく、家系を残すため分散して違う土地へ落ち延びたのではないでしょうか?




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