家系研究協議会掲示板(別館)
菊池一族について
[95] 題名:菊池 武英様 名前:村井克好 MAIL URL 投稿日:2007年02月23日 (金) 11時20分
あくまでも推論ですが、多々良浜の戦いの後、一族は肥後・信濃・志摩・磐城・津軽へ散ったとのこと。菊池風土記にあるという21分家も一族全員が同じ地方に向かったのではなく、家系を残すため分散して落ち延びたのではないでしようか?当家の家紋につきましては、詳細は不明ですが、(S20年3月の東京大空襲で家財焼失のため)柏は神饌に由来して神事に関係する家系であったそうです。現在は札幌に住んでいま
すが、平岸霊園でもご指摘どうり菊池/菊地家の家紋は8割がた違い鷹の羽でした。
[94] 題名:有難う 名前:佐枝太郎 投稿日:2007年02月22日 (木) 21時26分
虎猫舘主さんの掲示板の所で返答頂き有難う御座います。其の事をここでも遣わして頂きます。本当に有難う御座いました。
[93] 題名:菊池氏族村井氏 名前:菊池(藤兵衛)武英 投稿日:2007年02月22日 (木) 18時45分
『姓氏苗字事典』『家系のしらべ方』(丸山浩一氏)を見てみました。菊池氏族の村井氏が載っておりました。
すると肥後の地名に由来する村井氏が南部氏に仕えた、ということになるのでしょうか?
村井様の書き込みから興味深い視点に、はっといたしました。
[92] 題名:奇遇ですな 名前:虎猫舘主 URL 投稿日:2007年02月22日 (木) 15時27分
武英さん
こちらこそ、ありがとうございます。
当方もまだまだ浅学であり、妄想から脱却しきれておりません。
しかし、遠野菊池党の入内島氏の考察は、なかなか私的には胸躍るものがあり、秀説だと思っております。
いずれ遠野関連の菊池氏について、ここまで考察を加えた内容はないので、かなり刺激的だと思っております。
村井様
はじめまして。
実は題名の奇遇ですな・・・は村井様に宛てたものです。
実は私の本名、下の名は「克好」です。
今まで岩手県内で同じ職種の克好さんと知り合ったことはございますが、今回2人目ということになります。
これも何かのご縁かもしれません・・・笑
今後共よろしくお願いします。
[91] 題名:書き込みありがとうございます。 名前:菊池(藤兵衛)武英 投稿日:2007年02月22日 (木) 14時57分
虎猫舘主様
過分なお言葉を賜り恐れ入ります。日々、奥州菊池氏の奥深さに魅せられておりますが、まだまだ学びの浅さ、危うさを強く感じる次第です。従って、間違った思いこみも多々あろうかと思われます。今後とも宜しくお願い申し上げます。
さて、『家系』(豊田武氏)は菊池氏の記載に関しても含蓄があり、青森県の項目に「北畠や菊池の一族も亡命し、子孫が土着した。」とあります。また、ご指摘の赤星姓にも興味が持たれます。菊池武敏、武士の母系は赤星氏であり、彼らの子孫が土着した有力な証拠と思われます。
奥州への菊池氏の移住について、南北朝時代の各地転戦が大きな契機であったことは、定説と考えてよいように思われますが、その背景には肥後国内に所領を求めるよりも、奥州に新天地を求めようという(武敏兄弟の)方針の転換があったように思われてきました(入内島氏のご見解に影響された点です。)。
東北各地の菊池・菊地氏が具体的に誰の子孫か、ということはなかなかの難問かもしれません。先日、ある方と家系の話をしましたが、既に曾祖父のお名前は?でした。
奥州各地に土着した菊池氏諸系についても、曾孫以降の代になれば、お祖父さんのお祖父さんは肥後から来た菊池武何とかだと聞いているけど・・・(はっきり分からない)といった感じになっていたのかもしれません(変な表現で失礼します)。しかし、知りたいものです。
当方は武士流とされているようですが、根拠不明で実はあやふやです。家紋の三つ扇が唯一の手がかりといったところでしょうか。
村井克好様
はじめまして。書き込みありがとうございます。
鷹羽以外の菊池氏の家紋はかえって特徴的ですね。
当方も家伝の家紋は鷹羽ではありません。
ところで、抱き柏は並び鷹羽と少々似ていますが、家紋のいわれについて何か分かりましたならばお教えください。
以前、仙台市内の墓地、霊園をさすらった?ことがありますが、菊池・菊地氏の家紋は違い鷹羽が圧倒的だった印象があります。
九州から奥州へのダイナミックな移住の成功ということも、私にとって菊池氏の大きな魅力です。
[90] 題名:私の遠祖も菊池一族と聞いていました。 名前:村井克好 MAIL URL 投稿日:2007年02月22日 (木) 10時58分
タタラ浜の戦いの後、陸奥へ落ちの延びて、同じ南朝方であった南部師行に馬周役として仕えたと聞いておりました。家紋は抱き柏です。
[89] 題名:津軽の菊池一族 名前:虎猫舘主 投稿日:2007年02月22日 (木) 10時55分
はじめまして。
こちらの掲示板でご紹介をいただきました遠野の菊池姓関連のサイト及び菊池武義関連記事を掲載いたしましたブログを主宰する遠野在の菊池と申します。
武英さんには既に拙掲示板等ではお世話になり東北の菊池姓関連ではご教授をいただいております。
さて、八戸櫛引八幡宮にての甲冑の櫃に書かれていた菊地武義なる人物、実は櫛引八幡に当初奉納したものではなく、弘前の寺院に当初奉納されていたものだったようです。
すなわち津軽地方に居た菊池氏ということがいえるものと思いますが、津軽や糠部には菊池一党がかつて散在していた形跡があり、菊池一族たる赤星姓等もみられます。
私は南朝方の貴種あるいは北畠氏と共に津軽入りした菊池一族があり、今回ご指摘の菊地武義の末裔は江刺郡へ移動したものと考えて私論を若干ブログに掲載いたしましたが、まだまだ闇の部分も多く、今後の探求でのひとつの課題でもあります。
国宝級とされる甲冑、かなり上位の武家でないと持つことはできない代物と思いますし、高貴な人物から何かの功で拝領したものか、或いは他家から奪い取ったか、当時の皇室等に何かしら関わりがありそうでもあり、このことからも菊池一族の奥州下向が南北朝期にあった史実を匂わせることでもあると考えております。
ということで時折、お邪魔したいと思いますので、よろしくお願いします。
[88] 題名:菊池武義=菊地武義 名前:菊池(藤兵衛)武英 投稿日:2007年02月21日 (水) 02時58分
八戸王朝と菊池氏の話は大変興味深いですね。
また、菊地武義=菊池武義という見解も年代的に符合するので、あり得る内容です。
問題の一つは、菊池が菊地とされた理由ですね。
宮城県名取市でも肥後菊池氏の来住伝説がありますが(菊池武光の一族とされる)、地元の有力者は菊地姓です。
「菊地」武義も誤記とは思えず、「池」と「地」の使い分けに興味が持たれます。
[87] 題名:菊地武義についての興味深いブログ 名前:masakazu MAIL 投稿日:2007年02月20日 (火) 12時09分
江刺の菊池氏といえば角懸(つのかけ)菊池氏、江刺の玉里地区をはじめ、結構江刺氏臣の舘主に菊池氏が居たことが語られている。
その角懸菊池氏関連の系図「和賀立花系・菊池氏系譜」 の存在があるという。
その系図に「武義」なる人物が記されている、没年は応永34年(1427)とされる。
「近世古文書館」八戸の櫛引八幡宮に奉納されている重文「唐櫃入白糸威肩赤同丸(からびついりしろいとおどしかたあかどうまる)兜、大袖付」の唐櫃に「菊地武義」の名が.
唐櫃にある菊地武義・・・池が地との違いはあるが、応永24年7月1日の日付が書き込まれているという・・・。
もし八戸での菊地武義なる人物が江刺角懸菊池氏の祖、菊池武義なら・・・・甲冑を奉納した応永24年、没年の応永34年、どこか点で結ばれそうな、そんな考えも成り立つかもしれません。
http://blog.goo.ne.jp/jengo2/e/aa79394130a0d2a780fc2541ea113fe5
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私はこの説が一番説得力があると思います.
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/kiyosige.html
上記URLに江刺・菊池党とあります.私の親戚もそのあたりにすんでおり、苗字に菊池を名乗っております.
[86] 題名:納得です 名前:菊池(藤兵衛)武英 投稿日:2007年02月08日 (木) 19時34分
納得です。ありがとうございました。
以前、(県立)図書館で見たことがあります。
ぱらぱらとめくった程度でしたが、今度はしっかりと見てみます。