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家系研究協議会掲示板(別館)

菊池一族について

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[65] 題名:家紋 名前:菊池次郎肇 投稿日:2006年10月24日 (火) 21時11分

「蒙古襲来絵詞と竹崎季長」佐藤鉄太郎著によれば、「同絵詞の成立は鎌倉時代の永仁元年(1293年)二月九日であると絵詞の終わりの詞書に記されていると言う。
しかし、永仁元年は八月九日に改元されたため、実際は改元される前の正応六年二月九日の日付でなければならないはずなのに、永仁の年号が用いられていることから、この絵詞がこの年に成立したことは疑わしく、遥か後世に成立したのではないかとする論もある。」と言う。
「さらに疑問点は、この絵の配置の順序が入れ替わっている、絵によって描き方が異なっている、描き直されている、詞に振り仮名のあるものないものが存在する、などの点から、蒙古襲来絵詞の詞書と絵とは、すべての研究者が論じていたようにかなりの欠落があるのでなく、本来の形をある程度遺した形で残っていると考えることができることを明らかにしている。
この絵詞の菊池武房公の家紋に「並び鷹の羽」が描かれていることから、この蒙古襲来絵詞は、菊池武光公の時代以降にも描きなおしや書き足しをしていたことが考えられる。
菊池家の家紋を「日足紋」から「並び鷹の羽」とする説に、疑問を持つものの独り言かもしれないが、、、、。


[64] 題名:実地調査へ 名前:菊池(藤兵衛)武英 投稿日:2006年10月23日 (月) 04時18分

ご指摘の点、確かに違和感を覚えます。
いまひとつ具体性に欠ける感じもいたします。
また、大和との関わりを伝えている点も、その背景が見えません。
菊地善蔵家のご子孫はどこに移られたのか?
また、菊池→菊地へと変えたとすれば、その理由は?
幸い地元であり、また、直接の縁者がいない分だけ、かえって動きやすいと言えます。
名取市は菊地氏が大変多く、菊池氏はあまり見られません。
また、大友氏、松浦氏等九州の名字が多いことが指摘されています(宮城県姓氏家系大辞典・角川書店)。
思わぬ再発見を期待しながら、情報を集めてみたいと思います。


[63] 題名:菊池豊後とは? 名前:菊池次郎肇 投稿日:2006年10月22日 (日) 21時21分

菊池豊後とは、いかなる人物であったのか?
私は、勉強不足で見当もつきませんが、増田神社と菊池豊後と菊池家がどのように関連し、結びつくのか、、?
などの、検証を進めれば、なにか手がかりがあるかもしれません。
菊池善蔵家の家紋や家伝など、当家や名取市増田公民館の方の協力を得て、調査ができれば良いですね。
十五代菊池武光公の一族と言っても、文安年中は十八代菊池持朝公の時代になっているので、何か不自然なようにも思えます。
その時代であれば、十八代菊池持朝公の一族と名乗るべきであると考えてしまいます。


[62] 題名:宮城県名取市の肥後菊池氏 名前:菊池(藤兵衛)武英 投稿日:2006年10月22日 (日) 15時03分

昨日(偶然)発見した菊地善蔵家は慶長年間から幕末まで検断(名主、庄屋に近い役職?)をつとめた旧家のようでした。
現在、その敷地は公民館になっています。
ところで、また、発見したのですが、その公民館(宮城県名取市増田公民館)の隣が何と菊池氏所縁の神社だったのです!!
神社の説明書きを抜粋すると以下のようです(増田公民館のHPより)。

文安年中(1444〜1448)に、南朝の忠臣菊池武光の一族菊池豊後なる者が奥州に下向し、居をこの地に定めた時、豊後は大和国の生なるを以って同国城上郡笠山の社より分霊して手倉田(名取市内)に祀った。その後、永正年中(1504〜1520)に菊池左馬介の代に現在の地に奉遷した。

元は笠山大荒神と称し、後に近隣の神社を合祀し、増田神社に改めたようです。

増田神社の前の道路は何十回も通っていましたが、菊池氏所縁とは全然気が付きませんでした。

同じ名取市内には熊野神社があります。また、熊野水軍の祖とされる藤原実方の墓と伝えるものもあります。

ここでも熊野水軍と菊池氏が重なりました(断定は早いかもしれませんが)。

菊池氏との関わりが深い土地に居りながらまったくうかつでした。恥じ入るばかり・・・


[61] 題名:名取市HPより 名前:菊池(藤兵衛)武英 投稿日:2006年10月21日 (土) 20時51分

宮城県名取市のHP(名取市の歴史)で興味深い記事を発見しました。

明治9年 明治天皇東北地方御巡幸の際、増田村 菊地善蔵宅に御休憩される

市役所のHPなので、間違いはないでしょう。

とりあえず書き込みます。


[60] 題名:菊池か菊地か 名前:菊池(藤兵衛)武英 投稿日:2006年10月20日 (金) 20時17分

このところ、菊池氏所縁の方々からご教示いただいて感じたこととして、東国の場合、

菊池・・・南北朝時代に肥後から来住と伝える系統が多い
菊地・・・南北朝時代より前に(既に)土着していた可能性が高い

独断と偏見ですが、何となく上記のような傾向が感じられました。ご批判を請う次第です。


[59] 題名:扇紋 名前:菊池(藤兵衛)武英 投稿日:2006年10月17日 (火) 03時04分

開扇が見られたことが興味深く感じられました。ありがとうございます。当方の三つ扇とも関連性があるかもしれませんね。
また、以前ご指摘いただきました三亀甲との関連も気にかかります。
管見の限り、三つ扇の菊池(菊地)氏は当方くらいなので、福島市内で直接の一族を探すことも可能なのではないか、と考え始めている昨今です。


[58] 題名:家紋について 名前:菊池次郎肇 投稿日:2006年10月16日 (月) 20時12分

寛政六年、渋江公正著、菊池風土記(今坂正哉著)によると、鎌倉伝来の菊池一族の幕本紋は、三亀甲、左三つ巴、雪折篠、開扇、鷹の羽紋、鶴の紋などとなっていたようで、鎌倉時代頃に菊池氏から分かれた家系が、これらを家紋としていたことも考えられます。
時と共に一族が増えてくれば、姓や家紋の数を増やして互いを同族でありながらも区別し合ったのでしょう。
同族が敵と味方に別れ戦うことも珍しくはなく、同じ姓や同じ家紋では敵、味方の区別も容易でなく、これを変える必然性があつものと考えます。
そう考えると、家紋は、ずっと固定化していたものではないのかもしれません。
家紋は、時と栄枯盛衰の中で多様に変化していたと考えられます。


[57] 題名:甲斐氏の家紋 名前:菊池(藤兵衛)武英 投稿日:2006年10月15日 (日) 17時16分

言うまでも無く、甲斐氏は鎌倉時代の菊池氏のお家騒動で起こった氏であり、有力な一族です。
JA高千穂広報誌「かるごめ」に甲斐氏の家紋が掲載されていました。それによると

・違い鷹の羽(共通の紋)
・並び鷹の羽(古い時代に用いたようである)
・オモダカ(替え紋)
・三つ巴(三田井氏ゆかり)
・日足

等でした。

以前、茨城県の菊池氏でオモダカ紋の方が本館の掲示板に投稿されていたことが思い出されました。
また、三つ巴も菊池氏の家紋として見られるようです(『因縁の菊池氏』菊池秀之氏)。
思わぬところで思わぬ情報に接するものですね。
「かるめご」からは目が離せないかも・・・


[56] 題名:JA高千穂の広報誌「かるめご」恐るべし 名前:菊池(藤兵衛)武英 投稿日:2006年10月15日 (日) 16時13分

本館の掲示板で馬原姓の情報がJA高千穂の広報誌「かるめご」に掲載されている情報がありました。
もしかしたら、と思ってアクセスしてみたら驚きました。
こんなに詳しい甲斐氏の情報を見たことがありません。
地元JAの広報誌恐るべしです。アクセス法は本館の馬原姓に関する質疑応答の最後にありますが、念のため書きますと

URLは、http://www.takachiho-mz-ja.or.jp/karumego.htmlです。

2001年の1月号から10月号までの大作です。

とりあえず書き込みます。




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