家系研究協議会掲示板(別館)
菊池一族について
[55] 題名:石碑の件 名前:佐枝太郎 投稿日:2006年10月12日 (木) 18時57分
誠に申し訳ありませんでした。私の解読が不適切だったようで本当にすみませんでした。菊地次郎肇さんの見解を聞けばよっかたですね。本当にすみませんでした。
[54] 題名:菊池氏と阿蘇氏 名前:菊池(藤兵衛)武英 投稿日:2006年10月12日 (木) 06時05分
最近、姓氏苗字事典(丸山浩一氏)の阿蘇氏を見ていたら、「信濃・下野の阿蘇氏も肥後国造系に関係があろう」との記述が目に入りました。確かに栃木県には阿蘇郡がありますし、信濃も菊池氏が多い地域です。また、阿蘇氏は「讃岐・美濃にも移る」との記載もありました(同書)。菊池氏の全国展開と密接な関係があるのでは?との考えを新たにしました。
[53] 題名:致命的な不事を起こした? 名前:菊池次郎肇 投稿日:2006年10月11日 (水) 16時14分
菊池一族と故人の名誉のため、下記の書き込みは容認できません。
私の解釈を、書いておきます。
最初の烈士殉名とは、自分の信念を守るため一途に行動する人は、そのためには一身を犠牲にするという意味。
そのように昔から称えられている菊池武重は、一族を挙げて南朝に殉じたと言うこと、それから長い年月がたって常陸久慈郡諸沢村の菊池(定介)歩兵は、その後裔であると言うこと、菊池定助は国家のために一命を落とした言うこと、菊池定介は明治5年9月26日に生まれて、日清戦争に近衛歩兵上等兵属第二軍として出征し航海中に病気で明治28年4月18日に(22歳で)死亡したと言うこと、茨城県徴兵慰労義会から金十円、久慈郡軍人家族保護会より金五円、水戸旧徳川藩主徳川公から将士として奉られ金幣一郷を賜った、翌年陸軍省より追賞と労をねぎらい弔慰金および特命代金百五十円を頂いた。
と、言うような意味のことが書いてあります。
さらにこれ以上の詳細な解釈のできる方が、書き込んでくださるものと期待していました。
漢文の得意な方は、よろしくお願いいたします。
菊池一族は、家門正方に生きることが家訓となっております。
我が一族が、国家に不事を働くことはありえませんし、今まで犯罪にかかわったことも一度もありません。
<国家に致命的な不事をおこした>との文言を訂正し、謝罪していただくか、削除していただきたい。
そして、これからは責任を持って投稿をお願いしたい。
佐枝太郎様の書き込みが、菊池一族の血を引く、多くの皆様にも不愉快な思いをさせていることを認識していただきたい。
[52] 題名:石碑の解読 名前:佐枝太郎 投稿日:2006年10月11日 (水) 08時56分
以前、投稿されていた石碑に書いてあることですが、意味が分からず分かる所だけ解読できたけど、ちゃんと文章として繋げられませんが、一様出来た所を書いておきます。
昔いた菊地武重は常陸久慈郡旧諸澤村に菊地歩兵が列軍で旅の為国家に致命的な不事をおこした。菊池氏明治五年九月廾六日(次から繋がらないのでご注意ください)出征して同年二十八年四月十八日に(誰かが御亡くなりなったそうです)その為遺骨を八月一日茨城県徴兵労尉の保護会に金五圓贈した。旧水戸藩主徳川公も冥福を祷った。
翌年、陸軍省から賞をもらった。
誰が亡くなって何の賞を貰ったかは分かりませんが、何となくわかります。
[51] 題名:菊池氏の背景 名前:菊池(藤兵衛)武英 投稿日:2006年10月02日 (月) 18時54分
奥州藤原氏、佐竹氏、岩城氏それに石川氏が古くから縁続きであった、という視点は、はっとさせられました。
そこで思い出されたのは、宮城県亘理地方の菊地氏の家伝です。それは奥州藤原氏滅亡後、亘理(亘理経清の本拠)に亡命した、という言い伝えです。
平泉の近く、水沢・江刺は菊池氏の本場です。繁栄ぶりから、この地方は古代からの菊池氏の地盤が想像されます。そして、常陸、下野といった北関東での繁栄です。
従って、奥州藤原氏、佐竹氏、岩城氏、石川氏のつながりが東日本における広範な菊池氏の繁栄に影響していた可能性は考えていいかもしれませんね。
古代の東国における菊池氏の動向を裏付ける資料が出てくれば・・・と思います。
そして、ご指摘のように源氏との関係も気になりますね。
[50] 題名:関東武士団の九州移住 名前:HAZU 投稿日:2006年10月01日 (日) 21時09分
そういえば、千葉氏も九州に進出していますね(^^ゞ
千葉氏、宇都宮氏は北関東から九州に進出した組ですね
島津氏はもともと九州とも信濃からともいいます。
大友氏は相模出身ですね。
他にも関東の侍が九州の守護・地頭になっています。
菊池氏は平家に味方して滅ぼされたのに、どのような理由で源頼朝に再興を許されたのか知りたいですね。
また、少弐氏、菊池氏、松浦氏などが元々九州の武士団なのかも知りたいですね。
東北では奥州藤原氏と佐竹氏、岩城氏、石川氏が平安時代にさかのぼって姻戚同士だったともいいます。
筈衛
[49] 題名:大変興味深いご指摘です(白河の菊池氏)。 名前:菊池(藤兵衛)武英 投稿日:2006年10月01日 (日) 12時58分
大変興味深いご指摘でした。
菊池氏と鎌倉幕府との(密接な)関係は初めて知りました。
仰せのごとく考えると、栃木や茨城に菊池氏が多いことが説明できそうです。はっとさせられました。
岩手における菊池氏の繁栄は、もしかしたら同地の千葉氏と同様、頼朝の奥州平定による恩賞の可能性があるかもしれませんね(文献的な根拠はありませんが)。
関東に元々の地盤があったからこそ、南北朝時代の各地転戦や移住が可能だったと考えられました。
さらに鎌倉幕府の滅亡による亡命等もあったかもしれません。
鎌倉との関係は大きな知見でした。
[48] 題名:白河の菊池氏 名前:HAZU 投稿日:2006年10月01日 (日) 11時14分
「白河結城家とその家臣たち」(高村左文郎著)によると
白河市の天神町に住んだという藤田家ですが、この家の先祖は菊池肥後守隆定だといいます。隆定の祖経道が鳥羽天皇から鷹を賜り、その後家紋を鷹紋としたと書かれています。
隆定の子能隆は大友能直の婿となり、孫伊倉定道は頼朝に仕え、3代目藤田政家は実朝に仕えたそうです。
その10代の後藤田重政が北条氏綱に仕え、重政の3代後には佐竹氏に仕えています。
佐竹氏が出羽に移った後は関河内というところに土着したが、この一人は内藤紀伊守に仕えています。もう一人の子が渡辺と改姓後白河の天神町に移り住み、藤田に再度改姓したようです。
なお、ここに書かれている菊池隆定ですが、菊池家7代にいます。実際、隆定の嫡孫能隆(子の隆継の子)の奥さんは大友豊前守の娘になります。伊倉定直は隆継の弟にいました。
そこで菊池隆直、隆定あたりの分家筋を見ると佐野、小山、小野崎など関東の名族と同じ苗字が散見します。
菊池隆直が平家に与し一時滅ぼされた後、隆定が菊池氏を再興していますが、もしかしたらその背景に北関東の佐野、小山、宇都宮などの各氏の存在があったのかもしれません。
藤田氏は関東に多いです。菊池氏も平安時代に既に関東に地盤を持っていた可能性もあるかもと思いました。
筈衛
[47] 題名:ルーツ 名前:菊池 次郎肇 投稿日:2006年09月30日 (土) 11時04分
筈衛(白坂)様
「同感です!」
筈衛(白坂)様の書かれたような展開のあるのが、まさにルーツ本来の姿であろうと思います。
ルーツは広い意味で言えば、族や地域でありその人をはぐくむすべてとなりますが、その中でも一番の核となるのは、やはり遺伝子の継続性にあるのだろうと思います。
[46] 題名:ルーツとは 名前:HAZU 投稿日:2006年09月30日 (土) 07時08分
菊池 次郎肇さん
「ルーツとは?、何なのか?」
難しいですね(^^ゞ
ある人にとっては、血統であったり、家と家の関係であったりしますし・・・
本人にとってのルーツもあるし、他人から見たルーツもあります。
昔の人の家系図などを見ると、その家の構成員の意識により、先祖の実家をルーツと考えたり、養家の出自をルーツと考えたりしているように見えます。
また、その時代に生きている人が、その家をどのように見ているかによっても同族意識が異なってくるようです。
たとえば、こういうことがありました。ある地域に行ったときに同じ苗字がたくさんあったのでみな同族ですかと聞きましたところ、「となりの○○だけはちがう」と言われました。
よく聞いたところ、となりの○○さんは老夫婦の家に養子に来たそうで、元々の養家はその地域の庄屋クラスの家だったそうです。
養子に入ると本来の家の出自がわかりにくくなる一例でした。
筈衛
※ 私の苗字は白坂ですが、血統をさかのぼっていけば5代前に石川家から養子に来た人がおり石川となります。
江戸時代までさかのぼることにしたら、どの血統に成るのか全くわかりません(..;)