家系研究協議会掲示板(別館)
菊池一族について
[25] 題名:歴史は複雑怪奇 名前:菊池 次郎(肇) 投稿日:2006年09月13日 (水) 21時04分
いろいろな歴史文献には、矛盾するような記述も多く存在しています。
それでも、我が菊池家に結びつくような記述はぜんぜんありません。
祖先が、伝承を捏造したかのように思えてしまいますが、それでも位牌の家紋や言い伝えは、歴史書などが普及していない昔にできるはずもありません。
いろいろな物的証拠などを考えても、そのために用意したとは言えず、本当に不思議です。
これからは、出羽の国との交流がなぜあったのかを、調べて見たいと思っています。
[24] 題名:菊池氏とその周辺(青ヶ島) 名前:菊池(藤兵衛)武英 投稿日:2006年09月13日 (水) 18時15分
菊池氏と密接な関係があった家々かもしれませんね。
菊池氏との関係などご存知のことがあったらお教えください。
[23] 題名:青ヶ島村 名前:佐枝太郎 投稿日:2006年09月12日 (火) 21時31分
青ヶ島村には菊池の他に佐々木・廣江・奥山の苗字が多いそうです。
[22] 題名:わが家の姿 名前:菊池 次郎(肇) 投稿日:2006年09月11日 (月) 17時04分
わが菊池家は、明治時代に曽祖父の彦之介が久慈郡の郡会議員を務めましたが、彦之介は家を省みず遊興三昧、最後は競り払いで家財のほとんどを失いました。
家の屋敷や田畑、井戸も門道もほとんど失い、家と物置がかろうじて残っただけでした。
祖父は、軍隊から戻ってなすすべもなく、残ったわずかな農地を耕し、ただ細々と暮らしました。
その後、父が自営業を始め現在は私が継いでおります。
祖父の時代には、林銑十郎元内閣総理大臣や公爵一条実孝公が、我が家を訪れ、公爵は「忠誠」と揮毫しております。
「忠誠」に込められた意味は、落ちぶれたとは言え菊池家当主に対する応援でもあり、菊池一族に対する尊敬でもあったのかと思っています。
肥後菊池家は、菊池嫡流から庶流、阿蘇氏、大友氏へと受け継がれて滅亡しましたが、それぞれの血を引く一族が、すべて絶えたと言うわけではないのです。
約660年前の菊池嫡流家も、今は代を重ね、ここ常陸の国に現存しております。
私は、菊池武重公の後裔として、祖先の歴史を解明する義務を強く感じています。
多くの菊池一族の皆様のご協力、伏してお願い申し上げます。
[21] 題名:菊池氏と海 名前:菊池(藤兵衛)武英 投稿日:2006年09月11日 (月) 06時21分
よい休日を過ごされたようですね。
祖先の地を訪ねることは家系研究の原点(エネルギー源)かもしれませんね。
海に関する生業を長く伝えてきた菊池氏子孫の一人として感慨深く読ませていただきました。
改めて菊池氏の分布を調べてみると、菊池氏は太平洋の島々や佐渡に多く、菊地氏は関東、東北の海沿いの地域に多いことを感じました。調査・検討の要がはっきりしてきた感じがします。
[20] 題名:子孫の使命 名前:菊池 次郎(肇) 投稿日:2006年09月10日 (日) 20時12分
菊池(藤兵衛)武英様のおっしゃる通りです。
私も、使命感をもって菊池嫡流の、のろしを上げております。
ささやかですが、多くの菊池を冠する皆様にも各地からのろしを上げていただくことができれば、有難いですね。
我々子孫により、東国菊池一族の歴史が解明できれば、祖先もきっと慶んでくれると思います。
さて、奥州藤原家と菊池家は、同じ藤原系であり、菊池一族が藤原氏を頼って奥州落ち延びていたのは事実であろうと思います。
そのころの菊池一族は、まだ、それほど大族でもなく、有名な一族でもなく、肥後の菊池一族と残らなかったものと思われます。
奥州藤原氏は、約100年ほど栄えましたが泰衡公で絶えました。
そのころから、すでに817年の歳月が流れておりますので、伝承されたとしても、肥後菊池とは残らなかったのかもしれません。
しかし、私は、多くの客観的事実から見て、彼らが肥後の菊池一族であることに、間違いはないと思っております。
蛇足ですが、今日は家族3人(私、妻、母)で、祖先の到着したであろう久慈の浜に行ってまいりました。
車で一時間でしたが、祖先の苦労が脳裏を覆い尽くし、感無量でした。
最後に、目的地である関東最大と言われるショッピングモールで、ショッピングや食事をして帰路につきました。
[19] 題名:奥州藤原氏と菊地氏 名前:菊池(藤兵衛)武英 投稿日:2006年09月09日 (土) 21時55分
西郷隆盛公の生涯はまさに菊池氏の家風を具現されたものであったことを改めて考えさせられました。
貴家においても石碑を賜るほどなので、その精神に貫かれていることは想像に難くないと感じられました。
菊池氏の歴史を正確に解き明かしていくことは子孫に与えられた使命といえるかもしれません。
本日、宮城県姓氏家系大辞典(角川)の菊地項を見ていたところ、思いがけない発見をしました。灯台下暗しだったな、と感じました。
それは奥州藤原氏の家臣だった、と伝える菊地氏の存在です。
亘理郡山元町の菊地氏は、藤原泰衡の家臣(菊地国安)であったが、源頼朝の奥州攻めの際、当地に落ち延びたとされる、という伝説があるようです。
宮城県南部には菊地氏は大変多く見られ、鎌倉時代以来の由緒を有するとされる旧家の発見はインパクトを感じました。
ただ肥後との関連には触れていなかったので課題は残ります。
東北各地の菊地氏と奥州藤原氏との関連を少し調べてみようと思いました。
[18] 題名:西郷氏 名前:菊池 次郎(肇) 投稿日:2006年09月09日 (土) 09時52分
西郷隆盛公が菊池一族であることは、誰もが認めていますが、詳しい由緒には諸説があり、今の私には見当がつきません。
それと、西郷隆盛公が菊池一族を誇りにしていたことを忘れるわけにはいきません。
しかし、すべての西郷氏が菊池一族への思い入れを、これほどに強く持っていたかと言うと、そうでもなく、菊池姓に改めるまでの思い入れはなかったのだと思います。
また、菊池姓の由緒を隠すと言うのは、南朝と共に戦い南朝と共に表舞台から姿を消した嫡流系にとっては、当然のことであったと思います。
庶流系は、南朝に組した嫡流家を菊池家から追い出したのですから、南朝が敗北して北朝になってからも、表舞台で何のわだかまりも持たずに、堂々と菊池武光公の子孫として活躍を続ける事ができたのだと思います。
[17] 題名:三河の西郷氏 名前:菊池(藤兵衛)武英 投稿日:2006年09月08日 (金) 21時24分
菊池源吾とも称されていた、ということからもご心中は推し量られると思います。
三河の西郷氏も菊池氏という伝えがあるのが気になります。
西郷氏は菊池氏の中でも有力だった、ということが思い出されます。従って、三河でも菊池にせず、西郷を名乗ったのでしょうか。
菊池氏一門は遠国においても高い評価を得ていたのかもしれません。
島津家家中にも多くの菊池氏が仕官しているはずですが、その由緒を隠して現在に至っているケースが多いと読んだことがあります。できれば西郷氏の由緒についても是非知りたいものです。
[16] 題名:西郷隆盛公の祖も嫡流菊池家の出身 名前:菊池 次郎(肇) 投稿日:2006年09月08日 (金) 19時44分
我が一族の超有名人は、なんと言っても明治の大御所、西郷隆盛公ではないかと思います。
その西郷さんも菊池一族を誇りにして、我が子に菊次郎様(初代の京都市長)と菊子様と命名しております。
もちろん家紋も我らと同じ「違い鷹の羽」を用いております。
西郷さんが、間違えて用いていたわけではなく、祖先が嫡流菊池一族から出た西郷家であると認識していたからで、それが真実であろうと思います。
東国には、古くから嫡流の流れを汲む菊池家が移住したため、菊池姓が多く多様な家紋も生まれ、繁栄しているのではないかと思われます。
菊池一族は東国においては、一族として活躍の場もなく四散して埋もれた存在になってしまったのかもしれません。
また、西国の庶流菊池家が本家菊池家になりかわるためには、菊池嫡流が邪魔な存在であるために、武重公は消息不明で子孫はいなかったとしたり、武士公は諸国を放浪して病弱で子孫も持たなかったと残したのではないかと推察しております。
我が菊池家も佐竹公に取り立てられ、地名に間坂(馬坂、真坂)をいただいておりますが、佐竹氏が秋田に移ってからは帰農したものと思われます。
我が家の裏山は陣所と呼ばれ、氏神様の十二所大明神をお奉りしておりましたが、後に十二所神社となり鎮守様として名前は今も残っております。
以前に披露いたしました「朱塗りの佐竹紋入りの杯」が、その証拠でもあります。
また、国家が贈った「我が祖父の弟の碑文」にも、菊池武重公の後裔であると書かれております。
菊池一族の嫡流は、今、東国で大きな龍華の如き一族になっていると感じております。
菊池を冠する多くの方に、これを知って頂き、菊池一族に誇りを持っていただけたら嬉しく思います。