家系研究協議会掲示板(別館)
菊池一族について
[15] 題名:肥後菊池系図と東国菊池氏 名前:菊池(藤兵衛)武英 投稿日:2006年09月08日 (金) 17時41分
貴説を拝読し、納得できることがありました。
それは肥後菊池系図に東国菊池氏の記載が出てこないことです。
これには長らく違和感を感じ続けてきました。しかし、武光公以降の系図では意識的に触れなかった、と見るのが順当かもしれませんね。
武光公を境に菊池氏は(豪族としての)様相を変えたのかもしれない、と思われてきました。
大胆な言い方かもしれませんが、武光公以降、菊池氏は東国と西国に二分したと見られるかもしれない、と思われてきました。
そのような視点に立てば、違い鷹の羽→並び鷹の羽といった家紋の変化や肥後菊池系図に東国の情報が記載されなかったことが一応説明できそうな感じがしますね。
肥後菊池氏の視点に立てば、嫡流と庶流の交替ということになるのでしょうか。このことを過小に考えていたことに気が付きました。
[14] 題名:家紋についての私心 名前:菊池 次郎(肇) 投稿日:2006年09月08日 (金) 11時17分
一般的な話で恐縮ですが、古来の家紋は、家の紋であり一族共通のものではなかったように思います。
その後、武士団が形成されるようになると敵味方の区別をするために、旗印が必要となり本家の家紋を一族郎党が、戦場などで旗印にしたのだと思います。
各家に戻れば、それぞれ独自の家紋がありそれを使用していたものと思います。
それから時を経て、現在に近い形の一族の血縁証明としての家紋になっていったものと思われます。
菊池家については、家紋が3回変化していますから、これらのことと何か関連があるのかも知れません。
私の推測では、初代藤原則隆公が菊池郷に居を築いた時に、初めて日足紋を用いたと思われます。
その後、年代は特定できませんが、菊池家氏神の阿蘇神社と密接な縁を持ち阿蘇神社の神紋である「違い鷹の羽」に丸を加えて用い、一族の繁栄と戦勝を願ったのであろうと思われます。
その後、下克上の戦国時代へと向かう前、同族の武士団や他家の干渉もあり、武重公、武士公と嫡流が相次いで失脚させられ、消息不明になったとか諸国放浪をしたとか、あまり良い人物に伝えられておりません。
これらのことから、嫡流と庶流の武士団の争いがあり、庶流の武光公は家紋を変える必要があったのだと思います。
もちろん、嫡流は今まで通り「丸に違い鷹の羽」を使い続けているので、同じ家紋を用いるわけにも行かず、替えなければならない事情もあったと思います。
今でも一番多く見られる家紋が、「丸に違い鷹の羽」で一族が一番長期にわたって使用し、この家紋が一族の真の家紋であることがわかります。
西郷隆盛公も菊池一族の証として、この紋を用いております。
歴史は、すべてが事実であるような錯覚を与えてしまう帰来がありますが、後年、脚色したり想像したりして形成されているところもありますので疑って見ております。
[13] 題名:鷹の羽紋の歴史 名前:菊池(藤兵衛)武英 投稿日:2006年09月07日 (木) 21時37分
伊豆や東京の島々の菊池氏の由来にますます関心が高くなりました。いつか現地に伺いたいものです。
ところで、菊池氏の家紋が
日足→違い鷹の羽→並び鷹の羽
と変遷し、ターニングポイントが武光公だった、というご見解は貴重でした。
そのため、(武光公より前の家紋)違い鷹の羽が(菊池・菊地氏に)圧倒的に多いということが自然に思われました。
他に、鷹の羽紋で気になるのが、阿蘇氏由来という説と後醍醐天皇から賜ったという説があることです。これは阿蘇氏由来が違い鷹の羽で後醍醐天皇から賜ったのが並び鷹の羽ということになるのでしょうか?ご見解をお聞かせください。
当方の家紋は鷹の羽ではありませんが、それは何故か?という視点を大切に探求していきたいと思います。
確かに、蒙古襲来絵詞の武房公の旗が違い鷹の羽ではなく、並び鷹の羽であることが難解ですね。
[12] 題名:青ヶ島村を確認致しました 名前:菊池 次郎(肇) 投稿日:2006年09月07日 (木) 20時36分
佐枝太郎様、青ヶ島村の情報有難うございます。
村長が菊池利光さんという方で、芸能人のあおい輝彦さんの出身地であることがわかりました。
1785年の天明の大噴火で大きな被害や犠牲があったそうで、復興には半世紀もかかったそうですね。芋焼酎なども有名で西郷と言う地名も残っているところを見ると、この島は、菊池一族との関係も多いに期待できそうです。
どうも、有難うございました。
[11] 題名:伊豆諸島 名前:佐枝太郎 投稿日:2006年09月07日 (木) 17時57分
確か、青ヶ島村にも菊池の苗字が多かったように思いますが。
[10] 題名:「ルーツの旅」は、まだまだ続きますよ 名前:菊池 次郎(肇) 投稿日:2006年09月07日 (木) 12時36分
掲示板(本館)(4ページ)の水戸の菊池様の家紋は、同じ姓でも家紋が異なることの一例であります。
姓や家紋は、時を経て少しずつ変化してゆきます。
肥後菊池家でも、分家は宗家に遠慮をして姓を変えたり、家紋を替えたりしていたのです。
また、米良家のように「並び鷹の羽」紋の菊池一族であっても身を隠すために姓や家紋を変えた例もあります。
ゆえに、同族とされていても、いろいろな家紋が、存在し、用いられていても不思議ではありません。
家紋や姓は、古くは他家を区別し自家を識別するための手立てでもありました。
ですから、時を経れば経るほど分家も増え、家紋も増えていくのは当然であると思います。
しかし、明治以降は、誰でも姓や家紋を持つようになりましたので、爆発的に同じ家紋や姓が増えました。
現在、姓や家紋だけでルーツの推理することはできても、特定することはさらに困難になったと思います。
肥後菊池家の定紋は「日足紋」、「丸に違い鷹の羽」、「並び鷹の羽」へと変化しておりますが、私は、菊池(豊田)武光公から「並び鷹の羽」に変わったのではないかと思います。
文献等には、武光公以前にも「並び鷹の羽」の旗印が見られますが、これはどう解釈すればよいのか説明がつきません。(私なりの推測や理由はありますが、あえて書きません、、、)
祖先の伝承を信じて、「ルーツの旅」を、もう少しがんばりましょう。
[9] 題名:菊地氏の家紋 名前:菊池(藤兵衛)武英 投稿日:2006年09月07日 (木) 05時07分
最近、掲示板(本館)(4ページあたり)に旧下館市出身の菊池様が自家の家紋が「立ちおもだか」であると書き込みされていました。
おもだかはその姿が矢尻に見え武家に好まれた、ということと水に関わる名字(水野氏等)の家で用いられた、ということは一般的に言われているようですが、何か菊池氏独自の理由があったのではないだろうか、と気になっています。
また、菊池氏の代表家紋は「並び鷹の羽」ですが、実際には「違い鷹の羽」の菊池氏が多いと思われます。「並び」から「違い」に変えた伝説などはあるのでしょうか。細かいことのようですが、以前から気になっていることのひとつです。
[8] 題名:ルーツ 名前:菊池 次郎(肇) 投稿日:2006年09月06日 (水) 21時03分
自分のルーツを探ることは、とても困難なことかもしれません。
しかし、誰にもルーツはあるんです。
肥後の菊池一族が、ご自分のルーツであると伝承されている方、このページを見ていたら、どちらにお住まいなのか?どのような伝承があるのか?書き込みを、ぜひともお願いいたします。
一族が、どのように分布を広げていったのか、大まかな年代やルートを見つけることによって、一族の真の姿を知ることができると思います。
どうぞ、ご協力を宜しくお願い申し上げます。
私の祖先は、江戸後期に火災ですべてを失いましたが、肥後の菊池一族と伝承されて、私に継続することができました。
菊池(籐兵衛)武英様のお示しのように、菊池一族の家紋は菊池家の氏神様である阿蘇神社の神紋に丸をつけて用いたものと伝わっております。
しかし、時と共に、同族であっても家紋の変化はありますので、家紋は特定しなくても、伝承で肥後の菊池一族であるとされているかたは書き込みをどんどんお願いいたします。
必死になって、全国に活路を求めた祖先の生き様に、少しだけ思いを寄せて見ませんか?
[7] 題名:島々の菊池氏 名前:菊池(藤兵衛)武英 投稿日:2006年09月05日 (火) 20時33分
ごく最近まで茨城、福島、岩手と三県にだけ目を奪われ、近視眼的であったことを痛感しています。
八丈島、伊豆七島、そして佐渡と太平洋側だけではなく、日本海側においても菊池氏の繁栄がみられ、確かに何か示唆的であると感じずにはいられません。通商、鉱山が見え隠れするようです。
ひとつの理由として、関東、東北の鉱山を目指していたようにも感じられます。
その菊池氏の広い範囲に及ぶ行動を支えたのは、進んだ航海技術だったと思われます。
これは余談ですが、菊池藤兵衛家は火災後、鉱山技師に転じました。曾祖父、祖父と鉱山技師でした。海から山への転身が可能だったのは何故か、それも気になっているところです。
話は変わりますが、阿蘇氏、菊池氏の紋であった鷹の羽が全国区の家紋になった背景には菊池氏の全国展開と密接なのではないか、と気になりだしてきたところです。
[6] 題名:伊豆七島の菊池姓 名前:菊池 次郎(肇) 投稿日:2006年09月05日 (火) 15時38分
新島にも菊池姓は多くありますので、肥後から大海原を航海し東国を目指していて、何らかの理由(台風や水、食糧補給のためなど)で、伊豆の島に着き、そのまま定住したのかも知れません。
その子孫が、伊豆の島々に移りながら、繁栄していったと考えられます。
今、伊豆の島々に菊池姓が見られることは、一族が東国に新天地を求め、必死になって海路を移動をしていた証のような気がします。
それでは、なぜ東国を目指したのか、、、、?