家系研究協議会掲示板(別館)
菊池一族について
[467] 題名:家系 名前:吉三郎@上総 MAIL 投稿日:2013年09月15日 (日) 13時07分
遅くなりました。
菊池武臣男爵の家系は、ウィキペディアで検索すると出てきます。
菊池市史には諸説あるとされていますが、菊池二十二代能運に子(重為)があったとされ、宇土為光謀反?の時に側近の計らいで家臣をつけて日向国米良(宮崎県西米良村)に落ち延びさせたと言われているようです。
菊池石見守重為−石見守国重と続き、米良石見守重次となり
以降米良氏を名乗り重種−重治−重鑑−重良−重隆−重直−重季−則隆−則信−則元−則純−則敦−則順−栄叙−則忠が明治元年に菊池姓への復姓を願い出て翌年に菊池次郎、菊池忠と改称し、子に武臣となるようです。
[466] 題名:菊池武臣男爵 名前:菊地武英 投稿日:2013年09月08日 (日) 18時19分
菊池武臣男爵の先祖家系を知りたいのですが、教えてください!
本家に家系図が残っているので、私の先祖と繋がりがあるか調べたいのです。
よろしくお願いします。
[465] 題名:菊池氏 名前:吉三郎@上総 MAIL 投稿日:2013年09月01日 (日) 10時15分
書き込みありがとうございます。
佐竹氏家臣の菊池氏はウィキペディアで「菊池氏」を検索すると出てくるようです。
昭和四十八年日本家系協会から発行された「菊地一族」という書籍に、菊池十六代武政の次男とされる武泰が応永年間下野国に移住されたとありました。
下野国では宇都宮氏に仕えた後、常陸国の佐竹義人(上杉より養子)に仕えたとあり、上杉氏との関係に興味を覚えました。
[464] 題名:名前 名前:菊池 武 MAIL 投稿日:2013年08月28日 (水) 13時28分
熊本に住んでいます。わたしの家には先祖の家系図や資料が少し残っています。元は常陸の国から佐竹家の秋田への移動についていったくわしいことも書いてありました。その後佐竹南家の湯沢にて仕えていたようです。清涼寺に墓がのこっているようです。何かご存じの方があればと入らせていただきました。
[463] 題名: 名前:菊池藤兵衛 投稿日:2013年08月17日 (土) 09時58分
購入したいと思います。
ご紹介ありがとうございます。
[462] 題名:ご紹介 名前:菊池吉三郎@上総 投稿日:2013年07月29日 (月) 20時47分
ご無沙汰しております。
先月、戎光祥出版より川添昭二著 「菊池武光」が発売されていました!
菊池氏のおこりから武光死去後の武朝まで、画像(初めて見る物も)、写真など沢山載っていて分かりやすい内容になっています。
菊池氏の関係する各地の合戦跡の記念碑(竹之下古戦場碑など)の存在も初めて知ったものもありました。
ひとつ気になったのが、「「鎮西菊池軍記」の中の「積雪の阿蘇鞍岳を行軍する菊池武重」」の絵があるのですが「割り敷鷹に並び鷹羽」の家紋が描かれていて興味深く感じました。
もっと、史料など沢山出て研究が進んでほしいものです。
[461] 題名:興味深く拝見 名前:菊池藤兵衛 投稿日:2013年05月11日 (土) 10時08分
大変興味深く拝見しました。
よくお調べになりましたね。
菊池氏=南朝という図式が一般的ですが、細部にわたって検討すると色々とあるものですね。
個人的には、私も今年も色々と忙しく、なかなか遠出できませんが、最近、宮城から福島にかけての阿武隈川沿いの菊池・菊地氏に関心を持っています。
[460] 題名:家系調査での南北朝について 名前:吉三郎@上総 MAIL 投稿日:2013年05月06日 (月) 14時10分
ご無沙汰しております。
菊池市史の系図で七代隆定の次男、片角三郎隆親を祖とする南北朝時代の人物で菊池(早岐、小山、窪田)武宗と呼ばれた人物が関係した古文書の年号について注目し、菊池惣領の動向もいれて年表風にまとめてみました。
(素人であり勉強しながらなので、違う点も多々あると思います)
南北朝遺文九州編、菊池市史より
1:南朝:興国二年(1341) 菊池武士、肥後守となる。菊池武重この年卒去か?
2: 北朝:康永二年(1343) 早岐武宗譲状 越前守武宗から養子:詫磨弥一丸(能勝)へ小山郷地頭職他を譲る:豊後詫摩文書
3: 北朝:康永三年(1344) 早岐武宗和与状案 早岐六郎九郎秀政との和与(和解) :豊後詫摩文書
4:南朝:興国五年(1344) 菊池武士出家。菊池武光本城を取り返す。武光惣領に?
5:南朝:興国七年(1346) 菊池九郎武久が、養父小山越前権守武宗跡(肥後国六ヶ庄内小山郷地頭職)を恩賞として所望:肥後阿蘇家文書
6: 北朝:貞和四年(1348) 足利直義下文案 菊池越前権守武宗に肥後国六ヶ庄内小山郷地頭職をあてがわれた。:豊後託摩文書
7: 北朝:貞和四年(1348) 上杉重能施行状 6の下文案を受けて菊池越前権守武宗に発給:豊後託摩文書
8: 北朝:貞和四年(1348) 足利尊氏充行状案 菊池越前前司武宗(本名、隆元)に養父武成跡として肥後国千田庄・重富名・南加治尾等の地頭職半分を充行われた。:豊後託摩文書
9: 北朝:貞和四年(1348) 高師直施行状案 8の充行状案を受けて菊池越前前司武宗に発給:豊後託摩文書
10: 北朝:観応二年(1352) 足利尊氏、南朝と和議、弟直義を殺す。その後南北朝の和議破れる
11:南朝:正平十三年(1358) 菊池武光打渡状案 肥後守護代(菊池武貫)に宛てて、窪田越中介(早岐武宗)と共に打渡すように命じている。岡田文書
12:南朝:正平十六年(1361) 菊池武光施行状写 阿蘇大宮司のいう肥後国郡浦の下地を窪田越中孫次郎(早岐武宗)に宛てて守護代(菊池武貫)と沙汰付ける様に命じている。この武貫と武宗の逆パターンの文書もあり。また、違う土地(肥後国小河)の同じ内容も一通ずつ。:肥後阿蘇家文書
13:南朝正平十六年(1361) 菊池武光書状写 12の施行状について窪田武宗よりの請文に郡浦は宇土道光(高俊)代が城郭を構え、小河は名和顕興代が要害を構えていて云々とあり。:肥後阿蘇家文書
菊池武宗の家系について
菊池九郎隆信(上記8養父:武成とあるが同じ人物?)− 孫九郎武宗(上記8より本名隆元)− 菊池九郎武久―となります。
八木田政名による新撰事績通考によると、
小山系図では、菊池第七代隆定の次男、片角三郎隆親− 三郎次郎隆重− 弥次郎隆綱− 三郎隆氏− 九郎隆信− 孫九郎武宗− 九郎武久− 越前守朝久− 小山日向守秀信:「文明十八年十二月十二日御船陣原において戦死」とあります。
上記の事から、小山氏は菊池第七代隆定の次男を祖としており、上記から庶流としても名門である。
武宗の年号について
武重死去後の北朝参加(領地近隣の大友系託摩氏、或は相論などからの圧力を受けた為なのか)などを考えると、庶流でありながらも菊池宗家とは独立した行動をとっている。
それに危機感を抱いた?菊池一族(宗家?)が九郎武久(上記5)という人物を養子に送り込み味方への引き戻しにかかったとも考えられる。
上記10及び、第十五代武光が台頭し惣領を引き継ぎ更に近隣武士が従った事により?菊池宗家に味方し、使節として重用されている。
上記2〜9の事から、中規模、小規模の武士は家を守るのが大変な時代だったと思います。
上記の事、福井県史料にある菊池孫三郎武資の例からすべての菊池氏=南朝ではなく、状況によりどちらにでも味方していたと言えるのではないでしょうか。
家系を調べている私にとって、「北朝だろうと南朝だろうとどちらでも構わない心構えを持つことが必要なのだ」と思うこの頃です。
どちらでも、情報をお持ちの方はお知らせ下さい。
[459] 題名:意外性のある話ですね 名前:菊池藤兵衛 投稿日:2013年01月11日 (金) 20時00分
若狭というと福井県ですね。現在、菊池・菊地姓の多い地域ではないため、意外性を感じました。
今年も面白いご発見を期待しています。
[458] 題名:ご報告します 名前:吉三郎@上総 投稿日:2013年01月06日 (日) 19時06分
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
「福井県史料」に興味深い記事がありました。一昨年から見つけていたのですが…記録として残します。
文和4年(1355)、延文元年(1356)に若狭国三方郡で給主(中世給地の所有者、領主に対して年貢課役などを納入する義務を負った者:日本国語大辞典)
として菊池孫三郎武資なる人物を見つけました。
延文元年に去状(中世、土地その他の財産を他人に引き渡し自分の権利を放棄する旨を書き記して相手に引き渡した証書:日本国語大辞典)を安曇(松本)友連に発給した後、福井県史料には出てこないようです。
ここで気になるのは、菊池及び藤原姓であり孫三郎武資と「武」の字を使用していることです。さらに年号が北朝年号であることです。