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空回り! 09.07.07
カラ周りって言う言葉が、ピッタリくる 今日この頃の僕ちんは、今日も『タツヤ』に よく似た名前のショップに、 実はアート関係の本を買いにいってくる。
カラ周りは、時にいい事でもあるのだ。 つまりは、時代に逆行していたり、 浮いていたりするってことでしょ? 流れに乗っていない。もしくは乗り遅れている、 もしくは先に行き過ぎているかのどれかだって事だよね。
まあ、答えは出ない、深くて浅い話なんだけどさ。 いい気になって、勉強をおろそかにすると、 とんでもない間違いを言いふらしたり、 (つまり俺の場合メディア関係で間違ったら大変って意味) ヤッチャったりするでしょ?だから、もう一回 アートについて、何らかの知識を 入れておこうと思っての買い出し。
でも、何買っていいのやらさっぱり解らないのよね〜。 アートって言ったって、いろいろだし、 一律にアートの本って一体どれをさして 言う言葉なのだろうか?
やっぱり、芸術新潮やモロモロの アート関係の雑誌かな?
俺は俺の見地から芸術論を言うのだけれど、 芸術論って、言ってしまったら、 ひょっとして、芸術家じゃなくなるんじゃないかって 恐ろしい結論じみた答えも俺の中で出始めてるんだな。
アーティストは何を言われようが何がおころうが、 ただ黙々と作品に熱中していればそれでいい。 その他の理由なんて、結局、他人様の引き出しで 勝手に感想をたたきだしてるにすぎないもんね。
それにいちいち踊らされるのは、 アーティストとしては、固い決意表明が 揺らいでるってことになるでしょ・ヤッパ。
だから、自分の作品の説明なんぞ愚の骨頂、 ましてや、評論じみた言葉は、芸術から ほど遠い世界に足を踏み入れた事になる。
そこで『ART or NOT?』の出番だ。 これはいかなる事か?
自分のこれまでの芸術活動の否定に ならないのか?
それとも、そこまで突き詰めて考えなくても いいものなのか? こっちの方がアート・オア・ノットかも? 意外にも軽い気持ちで始めたこの番組は、 ひょっとすると石井竜也の芸術家としての 危うい地平線かもね? やっぱり、腑に落ちない部分が沢山ある芸術の世界。 言わずにはいられない事も山ほどあるワケ。 だったら、どうせ、純粋なる芸術家になんか 見てもらえない、この俺の立場上、言うべきことは、 言っておいた方が、あとの芸術家に何らかの指針、 あるいは、危険を知らせる、いい機会かもしれないな。 だったら、これもいかもね?
このさい、芸術運動的な所までイッちまうとか? まあ、変な話、自分で自分の作品に 価値なんかつけられないもんね。
誰かが価値をつけるんだよなあ・・・きっと。 誰なんだろ?どこでそんな価値観を 植え付けられるんだろ?いつ?・・・ まったくこれ話してると、終わんないんだよね。 だから、なんとなくアート本!買ってくるの。 そして、最近の近況芸術事情でも熟読してみたりして。 だけど、やっぱり、解らないんだろな?
人間は解らない事こそに興味を持つ動物だからね。 結局理解できない方が幸せなんだよ。 裏の裏まで知ってしまって、誰かが誰かを 操っている構造なんぞ暴いたにせよ、 芸術そのものの価値を下げるだけで、 なにもいいことなんか、ないんじゃないかな? つまりは、芸術自体一定の理念とか、 規律とかに縛られない自由奔放な世界なんだし、 これはこの系統とか、ジャンル別にのりしろを つけるなんてのは、粋な事じゃないかもね?
じゃあ、俺のやってるサイファイ・チャンネルの 『ART or NOT?』は、どういう位置になるか。
かの有名なアーティストの岡本太郎氏も 『今日の芸術』とあまりにも直球的な本をお出しに なっちゃったしね。
あれって、自由って言っておきながら 不自由にしてる自分がいたんじゃないかな?って思う。 本来、アートは、説明文なんか必要のないもの。 人生観や、作品本来の美しさ、斬新さが 人を喜ばせたり、感動させたりするもんでしょ? 「よく描けてる」とかは、あくまでも、 一人一人の直感やその人それぞれの主観でしかないしね。 だとすると、俺の立ち位置は? ・・・美術館の監視委員?かな。 評論家でもなく、黙々と制作を続ける 俗にいう芸術家の先生でもない。 だとすると、ウ〜〜〜〜ン、これは複雑怪奇な 存在位置だな。
とにかくアート本を買って、 自分のいるべき隙間を探そう。 おいおい、ここでも隙間産業かよ!
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By H美
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(763)/2009年07月08日 (水) 10時17分 |
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