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このごろ、考えている事。 09.03.15
僕らの体は、単なる細胞、そしてもっと言うなら ただの原子の固まりにしかすぎない。 なのに、心や精神、思いやりや不安、夢見る気持ちや、 悩む、憤る、天性の才能や、もっといわせていただけば、 偶然や思いもよらない事故に巻き込まれたり、 感動で目頭が熱くなる瞬間や、愛する心。 自尊心や、落胆、こんな事を書き連ねたら、 人間の心は、ある物質から発せられている、 科学的に証明されているものでは到底ない。
こんなに表情豊かな心を人間の体のどこに蓄積され、 またどこにしょちくしていくのだろうか? 『脳』?体のどっか・・・、解らない。
永遠のテーマでもあるのかもしれないけど、 なんだかとっても不思議だ。
そのどれもが地球に住む一人一人にあてがわれていて、 その個人にしか解らない人生の明暗を作り出している。 とてつもない種類の人生は、これらの得体の知れない、 肉体に宿る・・・もしくは、与えられた何かから発せられ、 脳で理解し、分別され、整理されて、初めて、 その人・個人の考えとして、 行動や言動に口をついて出てくる。
その出て来た言葉や、行動は必ずしも、 元素の固まりが計算で出した結果ではない。 あくまでも、肉体に宿る何かが「精神」を 作り出しているのだろう。
同じような考えの人はいても、 まったく同じ考えをする人は 世界どこを探してもいない。
という事は僕らは実は孤独なのか?
でも友情や愛情で繋がるものも一杯ある。 それをして、一体、どこで湧き出てくる ものなのだろうか?
心臓?肝臓?膵臓?腎臓?・・・ もし脳がそのすべてを作り上げているとしたら、 どの部分で何を作り出しているのだろうか? 人間は一つの町を作ってしまったり、 とてつもない戦争を引き起こしたり、 砂漠を緑の草原にする事だって出来る。
でも神様のようには絶対に出来得ないだろう。 しかし、とにかく、感動やら情熱やら、 率直やら、行動力やらで、とんでもない大仕事も やる抜いてしまう。
こんなパワーは一体どこで作られるのか? だって、不思議じゃありませんか? 内蔵と筋肉と骨と皮で構成されているだけなのに、 こんなに多様な文化や考え方、哲学や美学、 芸術、商法、どれをとっても、簡単に できるもんじゃありません。
しかし、人間はやってのける。 確かに苦労と血の出るような努力はあったにせよ、 出来てしまうんです。
これって、何の力なのでしょう?。
時々、自分ともう一人の自分が・・・ いやいや、矢もすれば100人くらいの 自分を感じる事だってある。
考え方は日々変わっていくし、 主義主張も変わる。 大きな変化は早々ないにしろ、 生活だって、日々刻々と変わっていく。
失敗や成功は、どうみても、 最初から決まっていたのかもしれない ・・・なんてことも考える。
人間は複雑で単純だ。
しかも、強力な力には弱くなる。 100階建てのビルを建ててしまった社長でも、 何かの加減で、弱者にもなり得る。
生きているという事は、 実は生まれてから死に向かっていく事 なのかもしれないが、やっぱり、 きれいにお好みな部屋にはすみたいし、 リッチじゃんくても、幸福感の味わえる 空間や状況に最終的には引かれる。
『可能性』はあるにはあるが、 探して出てくるもんじゃない。 偶然とそれをキャッチする勘のようなものや 変化に対応・順応できる柔軟な考え方もまた必要だ。
つまり、精神的とは、考える事では どうやらないらしい。
意外にも、衝動的なのである。 しかも、自分の美学に反するものにこそ、 秘められた得意分野がある。 一瞬にして変化するときもあれば、 だんだんと歳を追うごとに変化する場合もある。 そのスピードとタイミングはそれぞれの『運』に かかっているわけだが、ある程度は、計算できても、 脳の中で構築されるものなんか、たかが知れている。
やっぱり、自分にはないどこかの感性を 頼らざるを得ないシチュエーションだってある。
結局、時間というものは、人間で言えば 存在しているときだけで、・・・ 死んでしまえば、そこで、すべてが終了する。
そこで、皆さんに質問があるのです。 今や地球温暖化の問題は冗談にも出来ない 実情があるワケじゃないですか。 ガソリンに変わる化石燃料や 新しいエネルギーの開発。 あるいは風力、海の満ち潮引き潮で 電気を起こしたり、エタノールは、 いまや、トウモロコシのような植物から 作ろうとしている。
宇宙に目を向け始めた人類は、 その宇宙の謎まで解き明かそうと 躍起になっているけど、そんなもん、 解る訳がないのは承知で、 一生懸命実験や観察を重ねる。
芸術だって、ある意味グロテスクの ようなものがもてはやされたり、 あたかも芸術ですという感じで、 公園の汚いベンチの奥におかれていたりする。
それじゃあ、一生を通じて、 何かを作り上げている人々は 何らかの事情で止められない情熱と、 そこでしか生きられないという 切羽詰まった状態で、 その押さえきれない衝動で、動いている。
これは『精神』の一部で、決して自然ではない。 神戸の大地震でも、隣に寝ていた人が死に、 たった3センチの差で生き残った人もいる。
運命と言ってしまえば、すべてが簡単 なのかもしれないですが、残念ながら 『運命』が起こした産物じゃないんですよね。
すべてはその人の習慣や、 状態で生死は分けられてしまう。
『運命』はその後、他人の口から 出される「あきらめるための強がり」であって、 あくまで自分自身は、 赴くままに動き回っていたにすぎない。
・・・とすると、一体 『精神』はどこにどうやって、 ひそんでいるのか?
ウ〜ン・・・・難解だ。
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By H美
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| (639)/2009年03月16日 (月) 00時14分 |
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