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マイケルの死。 09.06.29
清志郎さんの死から、ほどなくして、 マイケル・ジャクソンが、なくなった。 80年代を力強くそして華麗に走り抜けた 凄まじいまでのエネルギーと、先鋭な表現力で みる人々を圧倒してきたこの二人の死には、 なにか、80年代のダイヤモンドが 少しずつ、くだけ始めているような、 何ともいえない悔しさと空しさ、 それと、一抹の不安を感じる。
決して悲しいだけではない、 何かの意味を考えてしまうのだ。
二人とも、ステージでのパフォーマンスには、 命をかけて望むタイプだったし、 決して地味にまとまる人たちじゃなかった。
きてくれた人々に自分のできる限りを見せつけ、 そして小気味のいい裏切り方をして、 ショーを作り出していた。
共通点はいろいろだが、たしかに、 尋常なコンサート風景を作る人たちでは なかったと思うのだ。
つまり、こういう、ある種、トリッキーな方法で 世間を圧巻させてきたふたりは、 どこか、俺とも重なり、 何とも言えない不安を感じるのだ。
ここでの皆さんもおそらく遠からず、 同じような不安を感じたのではないだろうか? だから、このところの過密スケジュールを 心配してくれたり、「石井さん、やせましたね?」とか、 相当みなさんに心配されているのが現状だ。
まあ、俺だって、そりゃあ、いつかは死ぬんだろうけど、 いまじゃない。大丈夫、ガッツリやっていくんで、 そこんとこはあまりご心配は無用。
しかし、人の人生をマイケルほど、 見せてくれたアーティストがいただろうか? 考えてみると、ほとんどが作られて、報道され、 虚飾の中で埋もれていくばかり だったのではないかとさえ思う。
あの、ビートルズでさえ、後から、 尾ひれのついたような人生観を作られてしまっていて、 今では、本当の彼らの精神的な動きが どんなものであったかでさえ、 はっきりとはわからなくなってしまった。
・・・何がいいたいのかというと、 これだけ、デジタルだ、コンピューターだ、 ブログだ、ホームページだと情報には 事欠かない現代においても、人の噂や嘘は、 本当の事実を抹消してしまうということ。
彼らの本当の姿は、もう情報という霧の中に埋没して、 伝説になるというより、いくつもの デッチあげみたいな物語が横行するのではないかと、 心配になる。
あたかも、一枚の写真に手を加えた 東スポの記事のように、ただおもしろおかしく、 人の人生を死んだあとまで狂わせていく時代・・・。
はたして、こんな時代って、こんなテクノロジーって、 人間のためになっているのだろうか?
確かに、人と人の距離は縮まったようにも思う。 だけど、すべてメールでかたづけられてしまうような コミニュケーションが本当に人と人の距離を 近づけたことになるのだろうか?
人生すべてをその世界に投入し、 それこそ家族までも犠牲にして 突き進んでいた時期だってあったと思うのです。 そこまでして、得たものがなんだったのか? 名誉?名声?尊敬?平穏?莫大な財産?
・・・しかし、どれを持ったにせよ、 『歌った今までの声』以上のものはない。
歌っているという生きているアーティストが 一瞬を大切にしていかなければならない事が、 彼らの死によって、改めて、 世界のミュージシャンの心に 響いたのではないかと思うのです。
だから、俺も、がんばろうっと!
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By H美
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(757)/2009年06月30日 (火) 00時23分 |
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