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光明掲示板・第一

 

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”ひかり”のみ (5394)
日時:2013年01月09日 (水) 06時48分
名前:伝統


(生長の家“本流宣言”掲示板)「唯ひかりのみ (7196)」の続きとして
http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1698
”生長の家光明掲示板”においても「”ひかり”のみ」として紹介して参ります。

《ただ真理に従順》

     *「生命の實相」第37巻幸福篇上(P11<1月9日>)より

他(ひと)から悪く言われても論争はしないがよい。
理窟はどうにでもつけられる。
理論の上では、盗人にも三分の理がある。

それぞれにはまた別の立場があるからである。
相手の悪を認めて悪に対して論争するのは相手をいっそう興奮せしむるだけである。
相手を興奮せしむれば、いかに善なる論旨も相手の心に入るものではない。

相手の悪をわれわれの心の中で認めないことにし、
われわれはただ正しい真理を説き、所信を実行すればよい。

ただ真理に従順にして、然り然り、否々でよい。
光を輝かせば暗(やみ)は消える。
これは永遠に渝(かわ)ることなき真理である。

暗(やみ)を実在するがごとく思って、暗(やみ)と戦うから、
硝煙濛々(しょうえんもうもう)として天日(てんじつ)をくらますようになるのである。

        <感謝合掌 平成25年1月9日 頓首再拝>

常に光を見よ。倒れても光を見よ。 (6765)
日時:2013年02月28日 (木) 03時41分
名前:伝統


      *「光明道中記」(2月28日 金剛不壊の日)より

【常に光を見よ。暗を見ること勿れ。常に昇り行く姿を想像し、墜落する姿を想像するな。
                               (『向上読本』)】

倒れたその瞬間に光を見よ。

どんな人でも一度や二度は躓かない者は稀である。
併し躓いたとき、倒れ切ってしまう者と、倒れ切らない者とがある。
此の区別が人間の幸不幸を左右するのである。

不倒翁とは倒れない人のことではなく、倒れても起き上がる人のことである。
形は倒れても、倒れた前と、一度倒れてまた起き上った人とはその魂の深さに於て、
その体験の深さに於いて、相違するものである。

人は倒れることが目的ではないが、
倒れてすらも人生は常に獲得(ゲイン)のほかはないのである。

倒れてすらも吾々は其処に唯「獲得」のみを見出すのである。
斯う云う人はどんな激しい運命もその人を挫折さすことは出来ない。
こんな人を金剛身と言い不壊身と言うのである。

風邪を引くたびに身体が弱くなると思う人もある。
光明思想は風邪を引くたびに身体が強くなると思うのである。

熱が出るのは全身の細胞分子の振動数の増加であるから新陳代謝の向上である、
と思うのが光明思想である。

        <感謝合掌 平成25年2月28日 頓首再拝>

栄光を見る (6802)
日時:2013年03月01日 (金) 04時38分
名前:伝統

      *「光明道中記」(3月1日 栄光を見る日)より

【われわれを神が造った。神と呼ぶのが嫌やな者は生命と言っても好い。
                      (『生命の實相』第七巻)】

人間の受胎はすべて神性受胎であると云うことである。

「斯(か)かる人は血脈(ちすじ)によらず、肉の欲(ねがい)によらず、人の欲によらず、
ただ神により生まれしなり。言(ことば)は肉体となりて、我らの中に宿り給えり
我らその栄光を見たり」(『ヨハネ伝』第一章)

その《栄光を見る》ことが悟りである。
われを肉欲によりて生れたる者と観ず、われをただ神によりて生れたと観るのである。

単にわれのみならず、彼を、汝を、我が親を、子を、良人を、妻を、
すべての人々を神によりて生れしものなりとして観るのである。

そこに人生ならぬ「神生」が始まり、肉生(にくしょう)ならぬ霊生(れいしょう)は始まり、
自分の周囲に住む人々は悉く「神より生れし人々」となる。
かくて自分の周囲は神の国となり、天国となり浄土となる。

観の転回である。
「観ること」が転回して見られる世界と、観られる人間との貌(すがた)が変る。
「菩薩心浄ければ浄土浄し」暗黒を見る心が一転して栄光を見る心になるのが
悔(くい)改めである。
 
「光は暗黒(くらき)に照る。而して暗黒は之を悟らざりき」(『ヨハネ伝』第一章)
栄光は照り輝いているのである。栄光のほかに何もののない。
されど暗黒は之を悟らないのである。

人はすべて神の子である。神性受胎である。
吾れ今呱々(ここ)の声をあげてその栄光を見る。

        <感謝合掌 平成25年3月1日 頓首再拝>

神の光を受けよ (6943)
日時:2013年03月07日 (木) 06時18分
名前:伝統

        *『生命の實相』第三十五巻下化衆生篇(P70)より

神は光である。世を照らす光である。
光は暗黒に反照する。暗黒は光を照らすことができない。
暗黒が光に近づけば暗黒は光に化してしまう。

暗黒は積極的力ではない。積極的存在ではない。
光を知らないのである。暗黒は束になってきても光を消すことはできない。
光を知れば光になってしまうのが暗黒である。

光を受けよ。受けた者だけが光となるのである。
光を受けるとは、なんじの生命の実相を知ることである。
なんじらの生命の本質が、久遠の実在たる《神そのもの》であることを悟ることである。

悟ればなんじの全存在が光に照らされて光に変貌するのである。

        <感謝合掌 平成25年3月7日 頓首再拝>

神は暗黒を照す光 (7325)
日時:2013年03月27日 (水) 04時49分
名前:伝統


      *「幸福を招く365章」(P186)より

神は人間が暗黒なる状態を通過する時に、是非なくてはならない光である。

悲しみに泣き濡れた人々よ、眼を挙げて神の光を見よ。
暗黒に道を見失った人々よ、眼を挙げて神の光を見よ。

汝は必ず悦びを見出して慰められん。
汝は必ず道を見出して再び進み行く勇気を見出すであろう。

神は遠いところにましますのでなく、極めて近く自己の内にましますのである。

次の如く念ぜよ。
「我は神の子である。神の光が自分の内に宿っていて自分を導き給うのである。
神の光は智慧の光である。智慧の光の射すところ決して暗きことはないのである。
神の智慧の導きに感謝します。」   

        <感謝合掌 平成25年3月27日 頓首再拝>

《神の光を受ける祈り》 (10271)
日時:2013年07月31日 (水) 07時34分
名前:伝統


         *「聖経 真理の吟唱」(P16)より
  
私の魂の内には永遠に消えない光が宿っているのである。
それは神から来たれる光である。
如何なる暗黒なる時にも、その光に照されて進んで行けば、
私たちは決して道に迷うことはないのである。

その光は愛の光である。
智慧の光である。
生命の光である。

愛が輝き出す時すべての憎しみは消えるのである。
智慧が輝き出すとき迷いが消えるのである。
生命が輝き出すとき疲労が消え、老衰が消え、病気が消え、死が消えるのである。

神の愛の光が、私の内に輝き出すとき「自」と「他」との障壁が消える。
利益の奪い合いがなくなり、怒り憎しみは赦しと変じ、
さらに相手を祝福することが可能となるのである。

私は常に心の窓をひらいて、神の愛の光を今受けるのである。
だから私の全存在には、神の愛の光が照り渡っているのである。

神の智慧の光が 私の内に輝き出すとき、
人間が物質的存在だと見えなくなり、霊的存在だということが悟られて来、
物質的欲望が少なくなり、霊的愛他的な行いに導かれて行き生活が浄められるのである。

すでに神の生命の光が 私の内に輝き出したのである。
わが全身は生命力にみちあふれ、老いなく、病なく、疲労なく、
溌剌として人類の共通的歓喜のために尽くすことができるようになっているのである。

神の愛の光も、智慧の光も、生命の光も、無限であるから、それは輝かせば輝かすほど、
与えれば与えるほど、光輝燦然としてその光と力とを増すのであるから、
私は愛を人に与えることを惜しまないのである。

智慧を与えることを惜しまないのである。
生命を与えることを惜しまないのである。

人は神の子であり霊である。
霊であるということがわかると、自と他とが一体であり、彼と我とが一体であり、
超焉(ちょうえん)として自他を超え、彼我を超え、
私の愛憎を超えて、全体の栄えのために尽くすようになるのである。

全体の栄えのために自己を挺身するとき、一粒の麦が姿を没して大地に身をまかすとき、
多くの新しき芽を分けつして、多くの実を結ぶことができると同様になるのである。

私はもはや、肉体的存在でないことをさとったのである。
私は「個」にして「全」、「全にして個」である。

個性を完全に発揮する悦びを味わいつつ、
しかも全体の栄えのために身を挺してそこに何等の矛盾もないのである。

            <感謝合掌 平成25年7月31日 頓首再拝>



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