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生長の家本部会館 『七層の寶塔』完成の意義 (7266)
日時:2013年03月22日 (金) 23時51分
名前:童子

 唐松ブログにて、原宿本部会館の塔についての引用がありましたが、唐松は見たくないが、原典も所蔵していないという方のために・・・





  『七層の寶塔』完成の意義
                  謹釋 佐藤勝身
                  校訂 谷口雅春



 法華経というお経は、仏教の極致である真理、人間は悉くその実相に於いては既に仏であるということを説いているものであります。

 これは生長の家の「人間神の子・神性・仏性」の教えと全く同一のものでありまして、究極の真理を説いているものであるから、最第一とか衆経の王であると云う言葉で従来推奨し来ったお経であるのであります。


 釈尊はいろいろ教えを説いて人生の帰結点を教えられて後、いよいよ究竟の真理である法華経を説かれ、方便品と題する章に於いて、万物の実相(ほんとうのすがた)は単なる空(くう)ではない、十如是という実相(じつのすがた)があり、其の実相が投影したところの迹である現象に依って、実相の影なるところの現象を五官に依って触れることを契機として、実在の相(すがた)を洞見しなければならない。

 実在というものは、五官からは空(くう)であって捕捉することが出来ない、即ち五官では無相の相(すがた)であって、如何とも為し得ぬものであるけれども、その迹なる影法師の現象が五官の対象となり得るものであるから、この迹に手倚ってその本元である実在を知り、実相を把握しなければならないのであるということを説いたのが、これが十如是の説であって既に説明したところであります。


 即ち十如是の如是相から如是報までの、九つの如是本来の相(すがた)なるものが末端なる物質現象界にあらわれる所以は、空(くう)と見える実在界に既に時空を超越せる『理念的形相』として如是の相(そう)が実在するのでありますが、それは現象としては未だあらわれていないのであって、時空未剖の『平等』の中に巻き収められているのであります。

 それは、恰も銀幕上に展開すれば、十数年間の物語になる映画が、ただ一握の巻き収められたる『時空平等』のフィルムのなかにあるのと同じであります。これを『本末究竟じて等し』と表現されているのであります。

 この『末』なる物質現象というものは、何に依って投影し生ずるかと言えば、それは本元なる実在が無始無窮に実在して生き通しているために、その迹・影として五官の世界に与えられるものであるのであります。

 故にそれは現象そのものは実在では無いのであるけれども、実在なる十如是の実相の迹即ち影として知らしめられる所のものであって、これあるが故に、五官の世界に於いても、無相の相(そう)なる所の実在・実相を知ることが能(でき)るのであるというのであります。

 この事を後年、仮(け)・空(くう)・中(ちゅう)の説として完成したのですが、智がい天台大師の偉業であると言われている所のものであるのであります。


 
 谷口先生は昭和四年十二月十三日神啓を授けられ、現象を『仮(け)』として、その存在を否定し(空・くう)、更にその奥に中道実相の善一元の如是世界が実在することを体得せられ、人間は悉く神仏である、神の子であると言われて、直接には仏教にはよらないで独自に法華経と全く同一の思想を説き出されたことは、時代の要請にもとづく世界最後究竟の教えとして、仏教を排斥するキリスト教徒等にも充分法華経の真理を滲潤せしめて救わんがための仏の慈悲のあらわれなのであります。

 真理というものは誰かの独占する学説では無く、何教という宗派だけのものでもない事は謂うまでもないことであります。
   
                  

(2) (7267)
日時:2013年03月23日 (土) 00時49分
名前:童子

 
 釈尊が、実在そのままを現象界に於いて生活せよと言われて、応(まさ)に如来の室に入り、如来の衣を着、如来の座に坐して広く分別し説くべし、如来の室とは大慈悲の心であり、衣は柔和忍辱の心であり、座とは諸法の実相を知り中道を坐す心である、即ち実在の妙心である、ということを説明されました。

 その時そこに七宝の大塔が現れたのであります。地より湧出して空中高く顕れた宝塔を、一切の衆生が供養し恭敬し尊重し讃歎したというのであります。



 それが原宿の神域の一画に見真道場(いのちのゆには)が出現したことであります。


 この大道場が顕れたのは、形の上では信徒の敬虔な心の集積であり、荘厳きわまりなき実相世界を内在する空相、無相の真理が『七つの燈台』を象徴する七層の宝塔中に収められて、その真理が如来の室に入り如来の衣を着、如来の座に坐られたに依るのであり、その塔の中から大音声(だいおんじょう)が出て、その音声(おんじょう)によって、収拾し難きまでに混乱した思想界を調整すると云うことになる一大事因縁の成就するときが来たのであります。




 法華経見寶塔品の此処の辞(ことば)を翻訳しますと、この大宝塔の中から大音声が出て

  善哉(よいかな)善哉、生長の家世尊。能く平等大慧、教菩薩法、仏所ご念の生命の實相を以て、大衆の為に説きたまう。如是(かくのごとし)如是、説きたまう所の如きは、皆是れ真実なり。

という讃歎の声が世界を席巻したという事になります。

(3) (7281)
日時:2013年03月23日 (土) 21時20分
名前:童子

 
 この現象に直面(じきめん)し、言葉の威力(いりき)に打たれた、大楽説と名称する大菩薩は、如何なる因縁で此の宝塔が湧出し、是の大音声が発ったのであろうかという疑問を起したのであります。

 是の疑問に応ずる仏の説明に拠りますと、『此の宝塔の中には如来の全身が有す』のであります。

 仏のことは仏でなければ能く究め尽し得ませぬ。そういうわけで、この大音声を以て平等大慧の生命の實相を説かれる宝塔の中には、如来の部分でなく全身が有すのであります。


 『七層の宝塔』に収められている空・無相・無限相の真理は、これを巻き収めれば、空・無相の真理でありますが、これを開じょすれば無限相の宗派教理となって展開するものでありまして、この『七層の宝塔』の中には『如来の全身』即ち一切の宗派教派宗旨の全身が内蔵されているのであります。


 即ち仏教で謂えば華厳、般若、法華、涅槃は勿論のこと、神道各派の教義、キリスト教聖書の説く真理が『生命の實相』全巻を通じて之を解説せられてあり、これを生活に実行する者は、誰彼の区別なく悉く聖経(しょうきょう)、聖書の意義を実現して、現世に天国浄土を顕現し、地上に健全豊饒なる幸福の生活を営むことが出来るのでありますから、如来の全身が此の宝塔内に在すと申すほか無いことになるのであります。


 それは仮い多宝如来とあらわれようと釈迦無尼世尊とあらわれようと、谷口清超世尊とあらわれようと、何人がその教えの代表者として、あらわれようと、現象の区分を超越しての、衆生済度の真理宣布の人格的顕現であるのであります。
            

(4) (7307)
日時:2013年03月25日 (月) 16時34分
名前:童子

 そういうわけでありますから、見宝塔品の経文は、釈迦無尼仏成道し巳(おわ)りて滅度の時に臨み給い、人天大衆に申されますには、「我が滅度の後、我全身を供養せんとする者は、応に大塔を起てよ」と仰せられました。


 無論これは形式だけの塔寺を建造せよというのではありません、如来全身〈全真理〉が其処に坐し給う道場を建立せよというのであります。


 決して真理の部分を説く場所ではありませぬ。


 そうすると其仏、神通の願力を以て、十方世界在々処々に、若し法華経〈生命の實相の真理〉を説くこと有らば、彼宝塔皆其前に湧出し全身塔の中に在て、讃じて善哉善哉と言い給う、というのであります。


 仏は自由自在の神通力を以て、宇宙に在々処々(いたるところ)に、どこにでも、『生命の實相』〈法華経〉の説かれる所が在れば、其処に湧出して、その真理であることを立証するといわれるのであります。

 法華経とが題字のことでないことは勿論でありまして、善一元の生命の實相(ほんとのすがた)ということであります。此処に他の経典の名称でなく、法華経と指示しているのは、その意味であります。そうして其処で説かれる事は、真理の一部では無くて其の全貌であるというのであります。


 証明に立たれる仏は、お釈迦様の場合は多宝如来でありましたが、生長の家の場合は、釈尊又は観世音菩薩、白髪白髯の久遠のキリスト等々・・・・・が証明にお立ちになるのであります。


 実際、生長の家の諸講師が生命の實相を講義する時、その一方に神秘なる神像が幻の如く立っていたまうのを拝した聴衆は沢山あるのであります。

 法華経を読みますと、方便品に於いて諸法實相が説かれ、壽量品に於いて実相の人間即仏であり、「心如工画師、画種々五陰、一切世界中、無法而不造、云々」と言って、心に依らで造られるもの無しと断じ、般若心経に於いては「五蘊皆空と照見して一切苦厄を度す」と断定しているのであります。

 そうしますと、生長の家の教説と仏教とは寸分も異わないことになるのではないでしょうか。教えの方から言いましてもこのように、お釈迦様は『生命の實相』の所説を讃歎して、皆是れ真実なりと証明され、平等大慧、教菩薩法、仏所護念の『生命の實相』を以て大衆の為に説き給う、如是如是、真理の実践とはこのようなものであると申されるのであります。

(5) (7323)
日時:2013年03月26日 (火) 22時25分
名前:童子

 仏教の説く所の根本義は、人間は総て其実相に於いては仏である。森羅万象というもは総て心に依って現象するものである、一切世界中の物というものは、その心に依って造られないものはない。あらゆる五蘊(もの)が、五官から見ては、空(くう)なる生命・心に依って造作されるものであるから、その生命・心が仏心に帰依するに従って、一切の苦厄即ち不完全が消えて、完全円満なる健全、豊饒、幸福の生活が与えられるものであるというのであります。


 このような訳で人間の現実世界は業報の連続であると説かれるのであります。これは仏教の教義でありますが、生長の家では、人間の実相は神であって完全無欠のものである。乏しい事も不自由な事もないのが人間の本質である。それを不幸があったり病患があったりするのは、それはその人の心の顛倒妄想(まよい)に依るからである。

 故に先ず心を整えて総ての人の神格を拝みだせ、而して総ての総てと調和せよ、そうすれば実相の既に完全円満なる人生が出現すると説かれているのであります。

 それから心に描いたものは善悪の区別なく、そのままの現象として現れる。心に念じない事物が、何一つとして現れるものではないということを、科学の面からも詳らかに説かれて華厳の『唯心偈』を立証し人々の現実生活の上に立証しているであります。




 私の知っている中にも、現にM氏は事業に失敗して自殺を決心した時、生長の家の説に聴従して、五蘊皆空の理を覚り、心念を正しく支持したことによって、自殺するほかなかった巨額の債務を弁済して、更に事業を継続し得る程の資金に恵まれたのであるし、又H氏は肺臓癌で新潟医大に、自身の解剖承諾書を求められるがままに捺印して死期を待ちながら、生長の家の教えを聞いた心が整ったところ、医学上不治の難症が快癒した、というような実例が無数に実在するものであります。

 これを平等大慧、仏所護念の教法というのであります。仏教の真髄であるところの教法は、そのまま生長の家の教法であるのであります。この事を私は生長の家の教えをお釈迦様が証明されるというのであります。決して曲筆などをして言うのでは無いのでありますことは、虚心に仏典を読む者の肯けるところであります。

(6) (7333)
日時:2013年03月28日 (木) 02時00分
名前:童子

 爰に大樂説という菩薩の名称でありますが、これは仏の説を大に楽しむ思想ということで、真理を了悟して、それを楽しみ喜ぶ心の人と云うことであります。

 是の真理というものは常にあらゆる種々の面から証明せられるものでありまして、説としては仏教の経文あり、基督教聖書があり、実践としては経典『生命の實相』の教えに準拠し、教えられるがままの心になって生活いたしますと、不運とか病難困窮というような、あらゆる苦厄を遠離度脱して、常に秩序正しき整然とした、楽しい感銘に満たされた生活が出現するのであります。

 これを味得するのが、具足の大樂説菩薩という者であるのであります。


 かくして大樂説菩薩は、証明者たる多宝如来のお声ばかりではもの足りない、どうかその全身をも礼拝したものでありますと申上げました。お釈迦様が大樂説に申されますには、

 『多宝塔、法華経を聴かんが為、仏の前に出づる時、多宝の身を四衆に示さんとせば、その法華経を説く仏の分身の諸仏、十方世界に於いて教を説く者を、盡く一処に還し集め、而して後多宝仏が出現する。いま十方世界に在るところの我が分身の諸仏を集めるであろう』

と言われて白毫の一光を放ちたもうた。



 『分身の諸仏』というのは、仏の全部ではなく、時に其処に集る人に応じ、時に応じ、処に応じて説かれたる真理の一部ということであります。孔子のように現象界だけの事を説かれるのは、真理の部分であって全貌ではない。また釈尊の説でも、法華経以前の説は所謂爾前説で、究竟の説の準備のための教であるのであります。

 またキリスト教の教は、今まで西欧人に適するように説かれた真理の一部分であります。心霊学でも、精神分析学でも霊智学でも悉く真理の一部分であります。


 その真理の全部分を悉く集めて完璧にするものが、『分身の諸仏を集める』ということであります。そしてこれ等の未完成の部分的真理、法華経の七層の宝塔が出現して虚空に相会することによって完璧なる真理が成就することになるのであります。

(7) (7367)
日時:2013年03月30日 (土) 02時19分
名前:童子

 
 「如来白毫相の光」というのは、仏の思想ということで、お釈迦様お悟りの信念のことであります。四衆は信徒ということで、教に依って信仰のできた、御利益の功徳を得た者でなければ、多宝仏を見ることが出来ないのであります。普通一般の唯物主義者には不可能なことであります。

 宇宙全般十方の諸仏を集めて多宝仏を見えしめるためには、その世界が清浄でなければなりません。清浄界とは、私心、利己心が消えて六波羅蜜を成就した人々の社会と云うことであります。

 そういうわけで地獄餓鬼畜生阿修羅の心の者及び、仏〈実相〉を求める信仰に到らない天上界の者や人間等を移して「他土に置く」とあります。思想的に盲目な人や聾者には、見えないし聞こえないのでありますから、他土に移されたと同様なことを言いあらわしたのであります。

 かようにして所化の国、仏の教化に浴した社会は平和にあり、山岳や渓谷のような凹凸不平の相が無くなります。こうしてからでありませんと、証明仏の分身が現れ得ないのであります。仏の全貌を明らかにする思想が得られないのであります、


 仏の全身を感得する心の状態は、菩薩心即ち『甘露の法雨』『生命の實相』に教えられて、実相の無相の相なる本元生命に触れた篤信の人でなければならないということであります。


 そういうわけで、見真道場〈いのちのゆには〉に参集する人々は、眉間白毫の光に浴して、真実の道を詳らかにした、即ち総ての人間に生長の家の教を普及して、人間神の子の理を生活せしめて、地上天国を実現しようと誓願する人々であります。

 これ等の人々の世界には、畜生や阿修羅はもとより悟りを求めない人天もいる筈はありません。ですからこの道場〈ゆには〉は、平正なること玻璃の如く、仏界の温和を以て巖飾せられているというのであります。

(8) (7379)
日時:2013年03月31日 (日) 02時03分
名前:童子

 
 かようにして此の世界は秩序を正し愛念の充満を見ることになりました。

 経文によれば、「釈迦無尼仏、右の指を以て七宝の塔の戸を開きたまう。大音声を出すこと、関鑰を卻りて大城の門を開くが如し、即時、一切の衆会、皆多宝如来の宝塔の中に於いて、師子の座に坐したまい、全身散ぜざること禅定に入るが如くなるを見、又其の善哉善哉、釈迦無尼仏、快説聴是経故、而来至此という音声が聞えた」 と云うのであります。


 此処の右の手の指というのは、左を理の界とし右を智の界として、左右合一の理智完璧の行でありとする、仏教の慣例に基いて、この至上の関鑰を卻ることは、最大上の智慧の発動に拠らなければならないということを表示しているのであります。


 この一大真理を詳らかにする大智慧の発動は、天の岩戸を開く大音声、世界の闇を摧破する大音声であるのであります。生長の家のこの七宝の宝塔〈原宿本部会館〉の出現ということは、地球世界に於ける未曾有の一大事であるのであります。

 真理を学ぶということは、それ程難しいものであり、且つ未曾有、稀有の重大事なのであります。これは開闢以来の一大事であります、かるがるしい、理や学というものではありません。同信の者はいのちを賭けて、不惜身命の勉強を行じなければならない所のものであります。



 このようにしてお釈迦様の許で真理を解った人々即ち四衆は、仮観の上では無限の過去に仏に成って他界したと見え、真実には無始無終の仏なる如来が、この教は宇宙を貫く唯一つの、絶対に動かしえない、言語に絶した、しかも宇宙に遍満して動じない、絶対の真理であるということを宣言せられ、全身を示されて証言されるのを目の当りにし、唯々感激の頂点に達して了ったのであります。


 これは原宿の本部会館に集る人々ばかりでなく、本部に集れないでも本部会館の建設に何らかの貢献をした在々処々の信徒の感情でもあるのであります。

 その感激を表現するために、 「天の宝華聚を以て仏の上に散じた」 と経文には書かれてあります。華聚と云うのは花を聚(あつ)めた花輪又は花束のことであります。これは感銘を表現するための象徴でありまして、皆々、自分の内にある美しい誠心を出して献ずることでありまして、皆々聖使命会員となってそれぞれ誠心の華束を献ずると云うことでありましょう。

(9) (7548)
日時:2013年04月08日 (月) 06時13分
名前:童子

 「其時、多宝仏、宝塔の中の半座を分ち釈迦無尼仏に与えて曰く。釈迦無尼仏此座に就きたまうべし。即時に釈尊が塔の中の半座に坐して結跏趺坐したまう。」


 そのとき、これを見た四衆は「仏は高遠に坐したまえり、唯願わくは如来、神通力を以て、我が等輩をして倶に虚空に処らしめたまえ」と念願したと経文には書かれております。


 此処まで教え導かれて来ましても未だに、「仏は高遠に坐したまえり」と憶って、自ら虚空に処るを弁えないのが吾々の愚痴であります。

 然るに生長の家の教では『生命の實相』第1巻の劈頭から、「吾々は既に神の子である仏である」と段々乎として、先ず宣言されるのであります。此の点を儼りと領会し体験せねばならぬことでございます。

 しかし四囲の唯物信念の世界は、往々にして肉体が楽しむ肉体が痍つくと誤謬し、心の秩序整備を蔑ろにして、その報いだけの不調を悲しむ過誤に陥る顛倒妄想(さかさまのおもい)を逸れがたい。常住の心を整えるために聖典神誌に親しむことを忘れてはならないのであります。

(10) (7605)
日時:2013年04月11日 (木) 11時43分
名前:童子


 聖典神誌に接する事は、神通力を以て諸々の大衆を虚空中に接して、真理を聴聞せしめたまうということであります。ここに吾々の注意しなければならないことは、吾々は已(すで)に神なのである仏であるのであるから、何事を行じなくとも、何事も思慮分別しなくとも、已に円満具足であると妄信して、漫然として「行ずる」ことをおろそかにすることです。


 例えば事務を計画する場合、その内容を詳細にすることをせず、梗概大葉を伝承するだけで、結論は神業であるから当然完璧なりという如き、秩序ない妄想に陥る事はいましめなければなりません。

 私は数年間谷口先生の側近にいて、教化出版その他の事務に奉仕させて頂いたことがありますが、谷口先生が事務を遂行せられるには、どんな些細なことも寸分だも疎かにせられなかった事は驚くべきものがありました。

 一例を挙げれば、神誌一頁の活字の組方についても詳細な計算を綿密にさられ、題字と位置、大きさ等の指定精細をきわめ、何事にも精進の快適を味得する生活の範を垂れられたものでありました。


 生命の實相が完全円満であると云うことは決して夢物語でなかった。現実の先生の生活が実相の完璧を目標として行住坐臥を緻密に生き貫かれたのでありまして、以て吾々信徒に範を垂れ給うたのであります。

 さればこそ僅々一年余にして赤坂区山脇高等女学校のあの三階建ての広大な道場にまで進出が出来たのであり、二十年の精進潔斎の成果が原宿の七層の宝塔の出現となったのであります。


 心に念じたことは、ついで計画の秩序正しい実践でなければならないのであります、正統な計画も、秩序ある実践を伴わぬ、邯鄲の夢であってはならないのです。この点はくれぐれも慎み戒めなければならないのでありまして、吾々は聖典神誌を常に手にして、この神通力を礼賛し、それを己が行にまで高めあげて、虚空会の神想観によって実相と一体化しなければならないのであります。

 かくして神の子なる性格が実践生活の上に顕現することが、大樂説菩薩の行として楽しむということであるのであります。


 若し吾々の生活の上に、不満足が若しありとすれば、聖典・神誌に遠ざかり、未だ得ざる悟りを得たり増上慢し、真理に虚空会する神想観を怠った心の影であります。懸命に勉学し、小成に安んずる事なく努めなければならないのであります。


 梅津孝二先生が或る時、聖典神誌は眼だけで読むものではない、一句を読んだなら一句を行せよと申されたことがありますが、正にその事であります。

                       ~ つづく

(11) (7715)
日時:2013年04月16日 (火) 04時27分
名前:童子


 是の如く釈尊は諸々の大衆を接して皆虚空に在きたまうたのであります。しかして 「誰か能く此娑婆国土に於いて、広く妙法華経を説かん、今正しく是れ時なり。仏、此妙法華経を以て、付嘱して在ること有らしめんと欲す」 とありますが、現代に於いてこの妙法華経を娑婆国土で説かれたのは誰人でありましょうか。四衆を接して虚空に在きたまうたのは誰でありましたろうか。


 それは『生命の實相』『神想観』により人々をして、その信念の通りに、現世浄土に高く在らしめて、病患を癒し、貧困を解消し、幸運を生活せしえられつつあるところの、生長の家の大神であります。


 ここに於いてお釈迦様の妙法蓮華経は、此娑婆国土に於いては生長の家大神に付嘱を完了されたのであります。斯くて釈尊の仏説と、生長の家大神の説きたまう『生命の實相』の真理とは全く同一なのであります。

 無論、法華経の字義を解説した学者は沢山あります。併し法華経の如説修行により、現世に到る処に寂光浄土を実現せしめつつある生きた法華経は生長の家なのであります。


 かくて今や地球全世界に現世天国を実現されつつあるのであります。この善きあめがしたに人生を享けた各々の幸福は、何にも譬えようがないのであり、言葉に尽せぬものであるのであります。



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