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大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 5 《理念篇 生命体としての日本国家》 p74~94 《完》   (8264)
日時:2013年05月08日 (水) 15時16分
名前:コスモス

      《理念篇  生命体としての日本国家》


 『理想世界』誌昭和四十四年一月号に発表、後に『占領憲法下の日本』に集録。三島由紀夫氏が「これこそは私の久く求めてゐた日本の国家像」と絶讃した。前年十月の国際反戦デーの激しいデモに擾乱罪が適用された。



           臓器移植について想う


 札幌医大の和田教授によって心臓移植手術を受けて、一時、小康を保っていた宮崎信夫君が死んだ。宮崎君は、その死の晩、テレビ放送を見て、愉快そうに笑っていたほど元気であったのに、その夜、痰が気管に引っかかって、普通人なら、咳によってその痰を排出することができるのに、

 信夫君は、その痰を排出するだけの咳を出すのには、体力が足りぬので、ついに痰を排出することができないで、痰で気管が詰まって、窒息死してしまったというのである。

 和田教授は、しきりに「あれは拒絶反応ではなかった」と弁解した談話を発表していたが、教授は"拒絶反応"にあまり注意を奪われて、心臓それ自らの搏動力と、他の筋肉の力む時に要する、エネルギーのバランスのことについては注意を怠っていたように私には見えるのである。


              (つづく)

       平成二十五年五月八日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 5 《理念篇 生命体としての日本国家》 2  (8280)
日時:2013年05月09日 (木) 07時59分
名前:コスモス


 私は小著『健全の真理――生活応用扁』という本の中で、内臓それぞれには内臓精神があり、細胞それぞれには細胞精神があり、それ自体はそれ自体で生きているのであるから、肉体のある部分が病気に罹ったとき、

 その細胞精神や内臓精神に「精神統一的念力」に呼びかけて、内臓や細胞の働きを活発にするための"思念法"がある程度効果あることを書き、その"呼びかけ"のための"思念する言葉"を書いておいた。

 これは内臓の一つ一つに精神があり、細胞一つ一つに精神があり、生きているという原理に基づく方法であり、その学説は、蛙の生きた心臓をリンゲル氏液の中に入れて、新しい栄養を補給して生かしておくと、長時間その心臓が搏動をつづけて生きていたり、

 人間の腎臓の細胞を取り出して、リンゲル氏液の中で同じように培養液を常に新たにして、新しい栄養を補給すると、その細胞は長時間生きていて、細胞分裂をつづける、などという実権者の報告と一致するのである。

 しかし、その生きている細胞や、臓器を部分品として繋ぎ合わし、縫い合わしさえしたら、一個の人格ある個性を備えた「生命体」が成り立つかというと、そこには疑問があるのである。


       平成二十五年五月9日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 5 《理念篇 生命体としての日本国家》 3   (8283)
日時:2013年05月09日 (木) 14時45分
名前:コスモス



           人間は部分品の寄せ集めではない


 一個の有機体が完全な「生命体」であるためには、その生きている細胞及びその細胞群によって形成されている系統や内臓等を「一つの命令系統の中枢」の支配力によって、統制し得る状態にあらしめねばならないのである。

 このことが忘れられていて、何でも生体の部分品をつなぎ合わせ、縫合しさえしたら、その全体の「生命体」が健康に生きて来るであろうというような、間違った唯物論的想定にもとづく手術が、心臓移植であり、

 その「他の人」から取り出した「心臓」は、それみずからの中枢で動くだけで、神経繊維がつながらないために「一つの命令系統の中枢」からの支配力が及ばないために、結局、宮崎信夫君の死は、その手術の最初から、決定的に約束づけられていたのである。

 これに気づかないで、「生きている健全な心臓」さえ縫合して血管をつなげば「全体の生命体」が健康に生きると考えて移植手術をしたのは、

 和田教授が、人間を単なる「部分品の寄せ集め」だとする唯物論的生理学に支配されていた結果で、今後このような手術をする場合には、

 「人間は部分品の寄せ集めではない」という生命論的立場に立って、考え直さねばならないことを、宮崎君の手術後の経過の失敗は示唆しているのである。

 だいたい生命体が健全であるためには「一つの命令系統の中枢」によって、全体の生理機構およびその生理作用および全系統、全細胞が秩序整然と支配されていなければならないのである。

 細胞がこの「中枢」の統制命令に服さずして、むやみ勝手に増殖した場合が「癌」であったり、「絨毛上皮腫」であったり、「葡萄状鬼胎」であったりするのである。

 癌細胞も生きているし、上皮腫の増殖する細胞も生きているし、葡萄状鬼胎も生きているのであり、そしてそれらは全体の生命体に繋がっているのである。

 しかしその生きている部分品(細胞等)が全体の生命体につなぎ合わされていても、これらの部品細胞は、全体の統制命令に服さないから、それが全体の生命体につながっているそのことが、却って生理作用の"内部騒擾(そうじょう)"を来たして、死の原因となるから、

 癌腫や絨毛上皮腫や葡萄状鬼胎は切除するのが医者の常道となっているのである。だから大いに元気で増殖する、細胞や臓器を手術で縫合すれば、それで全体の「人間」が健康になって救われるというわけではないのである。

 切断した腕の筋肉などを早期に縫合すると、一緒に切断されていたその微細な神経を縫合しないでも、やがて自然癒能によって、神経もつながり、あるいは新しく切断部をつなぐ神経がつくられて、

 腕全体が健全に動くようになる実例はたくさんあると思うが、それは拒否反応が起らない場合であって、拒絶反応がある場合には、その人の神経は移植した他の臓器の神経とつながることを拒絶するが故に、

 たとえ血管は手術用の動物性縫糸によって(縫合されていても)機械的につなぎ合わされている結果、機械的に血液を循環せしめてくれていても、結局は「一つの命令系統の中枢」につながらないために、

 強大な心臓の搏力を必要とする場合にも、心臓は自分勝手のテンポで搏動しているだけだから、生理作用のバランスを失って、結局は死を招くことになるのである。


         平成二十五年五月九日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 5 《理念篇 生命体としての日本国家》 4  (8429)
日時:2013年05月16日 (木) 00時00分
名前:コスモス


人体は個性生命の創作

 さて、他の人の臓器を移植した場合、拒絶反応をなぜ人は起すのであろうか。それは人体というものは、単なる部分品の縫合ではなくて、その人の個性ある生命(「魂」といってもいい)の創作であるからである。

 それは唯物論者に理解できぬかも知れぬが、「生命」が他の体に宿るとき、その細胞にも、臓器の形成にも自分の個性ある「生命」の創作力が加わって、自分独特の個性ある烙印を細胞にも臓器にも押捺(おうなつ)するのである。

 それゆえに、血液型研究の世界的権威である古畑教授の説く如く、すべての人間の血液型は、詳しく言えば、独特の個性ある血液型を持っているのである。

 人体は決して"部分"の寄せ集めではなく、その人の「生命」が創作した個性的作品であり、芸術品である。

 このことがわかれば、他人の臓器を持って来て、つなぎ合わすが如きことは、レンブラントの絵の一部がこわれたから、ミレーの絵の一部を持って来て、つなぎ合わすにも似たところの愚挙であり、暴挙であるといわなければならないのである。

 そんな暴挙をされたとき、その絵の作者は、それに素直に甘んじているわけには行かなくて、拒絶するより仕方がないはずである。

 これが拒絶反応の正体なのである。人体を、「個性生命」によって創作されたる個性的作品と見るとき、臓器の移植が不合理であることは、火をみるよりも明らかであるのである。


        平成二十五年五月十五日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 5 《理念篇 生命体としての日本国家》 5  (8444)
日時:2013年05月16日 (木) 18時13分
名前:コスモス

では、眼の角膜の移植手術などに成功する例があるのはなぜであろうか。それは生命体の主体を形成する部分品ではないからである。

 最も生命体の主体を形成する部分品たる大脳は、どんなに外科手術が進歩しようとも、自分の大脳が駄目になったからとて、自動車事故で心臓を打撲して、死亡した人の健全なる大脳を移植することはできない。

 また、それができたにしても、それを強行した場合には、もうすでに大脳を移植されたる「後の人」は「前の人」でなくなるから、そんなことを本人が許すはずがはないのである。

 さらに整形手術が上手になって、顔の皮膚や筋肉をスッカリそのまま移植して、それを生かしておくことがたとえできるようになっても、誰もそんなことは拒絶して、やりたがらないであろう。

 なぜなら、顔はその人の"個性生命"が最も完全に個性的表現をなす場であるから、それを他の人の顔ととりかえたら、自分が自分でなくなるからである。

 しかし、眼の角膜をとりかえても、自分の個性的表現を完全に行うための邪魔にはならないし、盲目でいるよりも、角膜をとりかえて、眼が見えるようになった方が、その人の魂は、一層自己の個性的表現活動を自由に行うことができるようになるから、あえて、その人の「生命」は、角膜移植には拒絶反応を起さないのである。


         平成二十五年五月十六日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 5 《理念篇 生命体としての日本国家》 6  (8445)
日時:2013年05月16日 (木) 18時34分
名前:コスモス



             国家も一個の生命体である


 以上、臓器移植についてやや詳しく述べて来たのは、実は、私は、国家を一個の生命体として観る場合に、日本国家の「生きたる命令系統の中枢」にあたれられるところの、"統治の大権"を祖宗に継承せられて、国家の元首にましますところの天皇は、取りかえることができない、ということが言いたかったのである。

 そして日本国家の「顔」に当たるところの国家の本来のあり方、すなわち「日本国独得の国体」は、これを取り換えたり、アメリカ国家の「顔」であるところの「民主主義」や、ソ連国家や中共国家の「顔」であるところの「共産主義」とは、取り換えることができないのであり、

 もしこれを取り換えたら、その人の脳髄や顔に、他の人の脳髄や顔をもって来て移植するようなものであって、本人がもう本人でなくなる如く、日本国が日本国でなくなるという、否定し難き事実を、皆さんに訴えたかったのである。

 日本国の天皇主権のあり方と、その独得の個性ある国体とは、日本民族が三千年を通して、創作した個性ある生命体であり、個性ある芸術品であり、

 マルクスやソ連や中共のつくった作品を継ぎ合わしたりして移植しても、健全に生きていることができないものだということを、宮崎信夫君の死を見て切に感ずるのである。


        平成二十五年五月十六日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 5 《理念篇 生命体としての日本国家》 7  (8450)
日時:2013年05月16日 (木) 22時15分
名前:コスモス



            日本国家の基本構図


 日本の国は海外の諸国とは、国の成り立ちが異なるのである。天照大御神の大御心の中に、「豊葦原の瑞穂の国は、世々わが子孫の王たるべき地なり」という国家設計の基本構図を示し給うたその理念に従って顕現したところの理想的国家が日本国なのである。

 その理想は、人間が創作したところの理想ではなく、宇宙神なる天照大御神の創作せられた国家の基本構図に基づく理想であるのである。

 この理想は宇宙神の御発想にもとづくものであるから、単に日本国家形態の理想であるばかりでなく、あらゆる宇宙の存在の基本形態となっているところのものである。

 すなわちすべての宇宙に存する存在には、それが一定の個性をもって存在するかぎり、永久変らざる中心があるということである。

 われらの知れる極微の存在である原子には、その原子が持続するかぎり、原子核という永久変らざる中心があるということである。その原子核が変化すれば、その元素はもとの同じ元素ではなくなり、他の元素になってしまうのである。

 水素の原子核が、核融合によって、ヘリウムの原子核に転換するならば、もうそれは水素の原子でなくなり、ヘリウムの原子になってしまう。ともかく、その元素が存在を保つかぎり、永遠に変らざる中心をもつのである。

 その存在者が本来の個性をもって存続するかぎり、永遠に変らざる中心を持続するということは、現象的存在の最小単位である"原子"だけではなく、現象的存在の最大の有機的系統たる太陽系に於いても、やはりその通りであるのである。

 太陽系にはそれが存続するかぎり"太陽"という永久変らざる中心天体が持続するのであって、もし現在の中心天体が、他のものと入れ換ったりするならば、現在の太陽系はなくなる。

 温度も異り、光度も異り、引力も異り、現在の太陽の周囲をめぐる全ての遊星は、現在の個性を失い、地上の生物は悉く歿死去って、死の世界に化するのである。

 存在の"中心"が変化すれば、今ある太陽系世界秩序は破滅し去って、人類は絶滅するのである。"存在の中心"の必要なることかくの如くである。

 "中心存在"が変化すれば、"生命の世界"が"死の世界"に一変するのである。

 見よ、植物にも中心がある。その幹は中心であり、幹を切り去れば、その植物は死んでしまう。幹を取り換えたら、もう原本の植物ではなくなるのである。

 接ぎ木をして幹を変化して、一層美しき花を咲かせ、一層美味なる果実を得ることは出来るけれども、接ぎ木の"もと"になっている台樹の根本の幹は生きており、そこから生命の樹液を送ればこそ、接ぎ木された幹または枝は生きていて花を開き、果を結ぶことができるのである。

 根本的に、台樹の根本の幹を切り棄てたら接ぎ木のしようもなく、その樹は根本的に枯れてしまうのである。植物が生きるためにも、必ず永遠変らざる中心がなければならないのである。


        平成二十五年五月十六日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 5 《理念篇 生命体としての日本国家》 8  (8464)
日時:2013年05月17日 (金) 14時25分
名前:コスモス


"一生命体としての国家"と"組合国家"との相異


 自然の花の美しさは、その花弁が中心に於いてバランスを得ているところにあるのである。マメ科の植物や、すみれ科の植物のように、全体の花弁の構成が、円周的に輪状になっていない花にしても、必ず、左右シンメトリーになっているバランスの支点に中心があるのである。

 人間の芸術になっている活け花の美は、必ずしも円周的な輪状につくられないで、むしろ不当辺三角形をいろいろに組み合わせた形になっているけれども、活け花を構成する花や枝は、いろいろの方向に向いていながら"中心"にまとまる部分があって、そこが重心となって、倒れそうで倒れないところに生命的な美が表現されているのである。

 "中心"がなく、重心となるところを支点として、各方面に射出した枝葉や花がバランスを得ていないならば、それは活け花としては拙劣で死んでいるのである。すべてのものは"中心"を失ったとき、そこに死があり、生命を失うのである。

 生け花の美は、いろいろの形の葉や枝や花のバランスを得た集合によって、成り立つのである。ところで、その活け花の美を構成する部分であるところの葉や枝や花は、それらの部分が自由意思で勝手に集合して、"活け花"の美を構成したのであろうか。決してそうではないのである。

 それは花を活けた人が、適当に枝や花や葉を配置して、おのおのの美を総合的に結集して、"活け花"の美ができあがったのである。

 その活け花を創作したのは、花を活けた人の"心"によるのである。"心"がその創作の主人公であり、すべての創造には、"心"に描かれた"理念"(または設計、または構図)が先行するのであって、"心"こそ唯一の"美の創造主"であるのである。

 さて、現行の日本国憲法に「主権は国民にありと宣言し」という宣言は、部分に主権があるという宣言であって、活け花の喩(たと)えをもっていえば、その活け花が美を構成するのに、その部分に過ぎないところの枝や葉や花にそれぞれ主権があって、彼らがおのおの合議して"活け花"という芸術品ができたというような考え方が、いわゆる民主主義国家理論であるのである。

 それはおよそ"生命あるもの""有機的存在者"の構成秩序に反するところの考え方であるのである。無論、外国の国家形成の順序には、人民の福祉と民族集団の防衛のため、人民同士の協議により、集団組織を「組合」の如くつくりあげた種類のものがあるけれども、

 そのような国家に於いては、統治権者が常に不安定であって、陰謀と軍事力によって、王朝が代るか、国家主席が常に代るかして、安定することはないのである。

 そうなるのは、国家形成の秩序が、"生命体"の発生構成の順序に則っていないので、"生命体"としての一貫性を欠いているので、崩壊しやすいことになっているのである。


         平成二十五年五月十七日 謹写 感謝合掌



大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 5 《理念篇 生命体としての日本国家》 9  (8470)
日時:2013年05月17日 (金) 18時26分
名前:コスモス


    党派の利益のための民主政治


 民主主義は、特権階級の一般国民に対する強制を最小限にとどめ、国民の自発的協力を最大級に喚起する政治理念であるけれども、それが"自発的協力"を喚起するのであるから、

 利己的精神や党派根性の存在するところに於いては、自分自身または自分の属する党派の利益のために政治が行われる危険があるのである。

 たとえば自民党の選挙地盤は農村である。だから次に選挙に勝つためには、農業経営者を味方につけておかなければならないから、農業経営者に媚びるために、食管会計がいくら赤字になっても、

 農家からの政府の買い上げ米価は、毎年引き上げる政策がとられ、米を主食とする国民への売渡し値段は、一般国民の反対にもかかわらず、引き上げざるを得ないようになっている。

 民主主義政治は、一個人では力がないから徒党を組み、徒党(政党)の政治になっているから、その党の利害に従って、政治の動向が歪められるのが常である。

 これが民主主義政治の欠陥であるのである。この欠陥が埋められるためには、国民のひとりひとりの道徳的精神が向上し、利己心が最小限になる必要があるのである。


        平成二十五年五月十七日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 5 《理念篇 生命体としての日本国家》 10  (8477)
日時:2013年05月17日 (金) 22時50分
名前:コスモス


大東亜戦争と天皇の御意志


 いままで天皇政治については、民主主義や共産主義者側からもいろいろ批判されて来たけれども、日本の天皇は、どんな徒党にも、どんな政党にも、どんな派閥にも、どんな階級にも属していられないで、

 国民ぜんたいの幸福を念願して色々の政策に対して、御裁可を与えられるのであるから、天皇政治ほど派閥に偏らず、公平無私な政治が行われる政治はないのである。

 大東亜戦争の発端に於いても、多数決で「アメリカを叩くほかに支那事変を早期解決にもって行くことができないので、アメリカに宣戦する」と議決せられたときにも、

 今上天皇のみがその戦争に反対して、わざわざ明治天皇の御歌を筆写したものをポケットに携行しておられて、それをひらいて、

 四方の海みな同胞(はらから)とおもふ世に など波風のたち騒ぐらん

 と朗々と読み上げられて、戦争反対の意志を表明されたけれども、すでにその頃、民主主義の多数決制度が日本に行われていて、天皇政治ではなく、天皇機関説が実際に行われ、天皇は多数決せられた条件に、ただ御爾を押す一つの制度上の機関になっていたのである。

 大東亜戦争を「軍閥が天皇を利用して」始めたというふうに解釈する左翼の人もあるけれども、本当は軍閥が民主主義の多数決制度を利用して、軍の圧力で、軍の考えを多数決させるように強圧して始められたものなのである。

 そして戦争を開始してからは、戦時非常事態というわけで、今度こそ本当に天皇を利用して、国民の総力を出させるために、議会の審議も翼賛政治で、「皇運を扶翼し」の一本にもっていったのであった。

 戦争が始まった以上、闘いに勝つためには、国民の精神を最高尊貴の目標に集中せしめて、全精力を結集する必要があるので、最も尊貴なものを目標に掲げたのであって、このことは「天皇があるので戦争が始まった」ということとは異なるのである。

 大東亜戦争開始の当時は天皇は機関であって、自由意思が行われなかった。天皇は「四方の海みな同胞」の普遍愛の精神に立っていられて、明治天皇の御歌をお読みになられたが、天皇の平和意志は、無視せられたのである。

 天皇はどんな派閥にも、党派にも、階級にも属されない。だから昭和二十年八月九日、皇居の地下壕で「ポツダム宣言」受諾か否かの御前会議が行われた時にも、

 「無駄な戦争をつづけることは、日本国民のためのみならず、世界人類にとっても不幸なことである。‐‐自分の体はどうなってもよいから戦争をやめる」と仰せられているのである。

 「自分の体はどうなってもよい」と仰せられるのは「無私」であり「無我」であり、どんな利己心をも超えられているのであり、

 「国民のためのみならず世界人類の不幸である」と仰せられたのは、その御自愛が単に日本国民のみならず、普遍的に全人類に及んだ愛で、偏った執着の愛でないことを示しているのである。

 このように公平無私、不偏不党、普遍的な精神で行われる政治が天皇政治であるのである。民主主義の政党政治で、党利党略、自党の利益のためには、どんな権謀術数でも憚(はばか)らずに用いる政治の如きは、天皇政治の足もとにも及ばないものであるのだ。


          平成二十五年五月十七日 謹写 感謝合掌



大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 5 《理念篇 生命体としての日本国家》 11  (8501)
日時:2013年05月18日 (土) 15時15分
名前:コスモス



国が栄えるためには国民の努力を集中する目標が必要


 一国が栄えるためには、その国の国民が、共通の目的のために、国民の努力を自発的に集中できるような国家理想をもたなければならないのである。

 昔の日本国は「天皇」が国家理想の表現体であった。天皇の大御心の中に「神意」を日本民族は見たのであった。天皇は神聖であり、武家政治の時代に於いてすらも、その政権は天皇から授かる神聖なるものと感じとっていたので、

 征夷大将軍になるのも、関白太政大臣になるのも、天皇によって任ぜられたのである。その頃は、内部に政権争いや戦争があっても、究極のところでは、国民が一つの国家理想によって統一せられていたのである。

 しかし現在の日本国民は、国民ぜんたいが心を一つにして、努力を集中するような国家理想を見失ったのである。占領軍の強圧によって書かしめられた、天皇の"人間宣言の詔勅"と占領憲法とによって、天皇は"神"でなくなり、天皇を国家理想の表現体と見る人は、暁天の星のように少なくなったのである。

 そして日本国の国家目的が民主主義社会の建設であったり、共産主義社会の建設であったりして、支離滅裂の各人てんでんバラバラな目的をもって、国民の精神が分裂してしまっているのである。

 国民全体が共通の国家理想実現のために、協同して努力できない日本国の現状ほど、われわれ愛国者にとって悲しむべきことはないのである。

 私は「日本国民よ、もう一度、神武天皇建国の日本精神に立ち帰れ」と叫びたいのである。

 日本の天皇政治を民主政治と対立し、互いに相反するものだと考えるのは間違いであるのである。天皇政治の中に於いてのみ、本当の「派閥のない民主政治」が育ち得て、私利私欲の追及で互いに憎しみ合うような民主主義が姿を消す可能性があるのである。

 天皇のみが私利のない、私欲のない、世界万民の幸福を希(こいねが)い給う偏(かたよ)りのない「神聖権威」であるからである。

 この偏りのない「神聖権威」を上に奉戴して、民主主義の政治が行われるときに、私利私欲による派閥闘争の汚れたる精神が浄められることになり、本当にルールを守った民主政治が行われることになるのである。

 神聖権威を上に奉戴しないで、利己主義精神の顕現である個人が、利益追及の組合組織を国家と考えて、そこで、利益の相似た者同志が徒党を結んで政党を結成して、

 国会及び院外に於いて闘争するようなのは、「下の下」の民主主義政治なのである。現今の日本の民主政治は、この「下の下」の民主政治に過ぎないのである。


       平成二十五年五月十八日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 5 《理念篇 生命体としての日本国家》 12  (8531)
日時:2013年05月19日 (日) 13時44分
名前:コスモス


           天皇政治こそ民利にかなう


 日本天皇の天皇政治がもし完全に行われるならば、国民を"大御宝"としての政治が行われるのである。すなわち神武天皇建国御即位の詔には、次の如く君民一致の国是が示されているのである。

 「‐‐夫れ大人(ひじり)の制(のり)を立て、義(ことわり)必ず時に随(したが)う。苟(いやしく)も民に利(くぼさ)有らば、何(いか)にぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)わん。且(ま)た当(まさ)に山林を披(ひら)き払い大宮を経営(おさめつく)りて、恭(つつし)みて宝位(たかみくら)に臨み、元元(おおみたから)を鎮むべし。上(かみ)は即ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまう徳(うつくしび)に答え、下(しも)は皇孫(すめみま)、正しきを養いたまう心(みこころ)を弘めん。然(しか)して後に六合を兼ねて以て都を開き、八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)と為(せ)んこと、亦可(またよ)からずや。」

 国民のことを漢字にては"元元"の字をもって当てられていることに注意しなければならない。元はハジメであり、本であり、国家成立の本元をなすものは国民であるとの神武天皇建都即位の御理想は、天皇政治そのままに、民主政治であることが表現されているのである。

 右の詔勅を更によくよく拝読すれば、天皇はその国を私有のものと観られないで、「上は即ち天津神の国に授けたまう徳に答え」(漢字を解読しやすい字におきかえた)と仰せられた。

 すなわち天の大神より国を授けられ。それを治めるように預けられたものであるという敬虔なお気持ちがあらわれているのであって、武力で先住民族を征服して国土を奪取したというような考えが微塵(みじん)もないことに注目しなければならないのである。

 そして、「それ大人の制を立つ」と仰せられたのを解釈すると、漢字の「大」は"天徳"をあらわすのである。すなわち「大人」とは"天徳を受けた人"という意味であって、現代語で言えば「神の子」ということである。

 神武天皇はみずから「神の子」の自覚をもって、神からこの国を治めるようにと委託せられて、この国を神からお預かりして申しているというような、尊貴の自覚と同時に謙遜の徳をもって、この国を統治せられた。これが天皇政治の特色であるのである。

 「大人」と書いて、日本語読みで"ひじり"と読むのは、"ひ"は"光"であり、"じり"は著しいという意味で、"神の子"すなわち"光の子"であり、"光著し"との御自覚のあらわれであり、世を照らす真の光として自分は此の世に生まれたのであるという尊き自覚である。

 しかも、この"聖"の自覚は、自分がひとり尊くして専制君主として立つのではなく、「制を立て」法制を定めるのに、窮屈に杓子定規の制度を設けず、必ず「時に随う」すなわち時代に応じて最も民意を反映した政治を行うと仰せられているのであって、

 「苛しくも民に利有らば、何ぞ聖の造に妨わん」というのは、民利にかなう政治を行うことは、聖徳をもってする天皇政治の妨げには決してならぬ。民利を行うことこそ天皇政治である、と仰せられているのである。君民の利益が一致しているのが、天皇政治下の民主主義なのである。

 そこで思い出されるのは、仁徳天皇が当時の日本国民が貧しくなっているのをみそなわせられて、三年間租税を免除し、皇居が朽ちて所々がぼろぼろになって雨漏りしても、それを補修し給うことさえ遠慮せられて、

 三年目に高殿に登り給うて、眼下に街を見渡されると、国民の経済状態は復興して、水煙濛々とたち騰って殷富(いんふう)の有様を示しているので、皇后様を顧みて、「朕は富めり」と仰せられた。そして、
  高き屋にのぼりて見れば煙立つ 民の窯(かまど)は賑ひにけり
 という御歌をお詠みになったというのである。

 天皇は、自己が貧しくとも、国民が裕かであれば、「朕は富めり」であらせられる。これが天皇政治の中に生きている民主主義なのである。

 これを民主政治下の代議士が、汚職をもって自分を富ませながら、そして自己の貰う歳費の値上げを全員一致で議決しながら、国民の食べる米の価格や、国民の足である交通料金その他の公共料金の値上げに賛成するのと比較して見るならば、

 いわゆる現代の民主政治は、一種の特権階級政治であり、天皇政治こそかえって民主政治であることがわかるのである。


        平成二十五年五月十九日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 5 《理念篇 生命体としての日本国家》 13  (8534)
日時:2013年05月19日 (日) 18時51分
名前:コスモス


神武天皇の世界連邦構想


 聖武天皇建都即位の御詔勅に話を戻すが、その御詔勅の中に「下は即ち皇孫"正しきを養い"たまう心を弘めん」とあるのは、日本書紀巻第三(聖武天皇の巻)の冒頭にちかき所に、瓊々杵尊(ににぎのみこと)が「正しきを養い、慶"よろこび"を積み、暉(ひかり)を重ね‐‐」とあるのに相対するお言葉である。

 このお言葉はキリストの「先ず神の国と神の義(ただしき)を求めよ。その余のものは汝らに加えらるべし」という教訓と全く同じ精神なのである。

 神の国の正義を自己の中に養い、修養して、よろこべば喜び来るの原理にしたがって、慶びを積み、心を明るくして、神の暉を自己に受信し得る波長を心に起すのである。

 そうすると、自然に「その余のことは汝らに加えらるべし」である。だから「"然して後に"六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為ん」であって、この「然して後に」の語には千鈞の重みがあるのである。

 暴力や詭計(きけい)や武力を背景としての強制力によって、かくならしめるというのではなく、神の国の秩序であるところの「正しきを養い、慶びを積み、暉を重ねて」来たならば、自然に実相が顕現して、そのようになるというのが「然して後に」であるのである。

 従って「然して後に」来るところの「六合を兼ねて都を開き、八紘を掩いて宇と為ん」ということは決して侵略精神ではないのである。内在の神の国の実相があらわれて、自然にそのように顕現するというのである。

 これはキリストのいわゆる「その余のものは汝らに加えらるべし」に当るのである。六合とは天地四方であり、あらゆる方角の国々にもそれぞれ独立国としての都は現存するけれども、

 更にそれを総合する世界連邦政府の都を"兼ねて"開くというのであって、神武天皇時代に、このような世界連邦の構想を建国の理想に掲げられたことは、神武天皇の霊感の素晴らしさを物語るものである。

 そしてそれが世界連邦の構想であるということが解れば、「八紘為宇(はっこういう)」ということも決して侵略精神でないことが理解出来るのである。

 元来、紘とは冠の紐のことである。「紐」は「緒」ともいうのであるが、「緒」は「玉の緒」すなわち「魂」をあらわすのであり、お公卿さんがかむる冠の緒を顎の下で一つに結び合わすように、世界各国各民族の魂を仲良く結び合わせて、それを一家庭の如くするというのである。

 こういう八紘為宇の本当の神武精神がわかっていたならば、戦争も起らなかったにちがいないのであるが、それを軍閥が曲解したために、あの戦争は起ったと言い得るのである。


         平成二十五年五月十九日 謹写 感謝合掌


大聖師 谷口雅春先生御著『私の日本憲法論』 謹写 5 《理念篇 生命体としての日本国家》 14  (8535)
日時:2013年05月19日 (日) 19時13分
名前:コスモス



         十六菊御紋章の象徴するもの


  天皇政治こそかえって本当の民主政治であるということは、天皇家の御紋章であるところの十六菊にもあらわれているのである。

 十六とは、天地の八方を意味して十六方向――あらゆる方角の「民」または「国民」をあらわす。そして「菊」は「聴く」の象徴であって、あらゆる処に住む国民の声を「聴く政治」が天皇政治なのである。けっして専制政治ではないのである。

 天皇が国を治め給うのを「シロシメス」というのも「知り給う」ということを意味する。十六方向の国民の声を聴き給うて、それを知り給い、その民意に適うように政治をなさるのが、天皇政治なのである。

 党をつくって反対党の反対意見を力をもって押し切って、自党の利益ばかりを目標に政治を行う多数決式民主政治とは、おおよそかけはなれた公平無私なる民利政治が天皇政治なのである。天皇政治であってこそ、本当の民主政治が行われるのだということを知らねばならない。

 「天皇国日本」は、日本民族が創作した世界最大の文化的創作であって、これより大なる大芸術は、他のどこにもないことを知って、この国体を尊重してもらいたいものである。


                         (この項完了)


        平成二十五年五月十九日 謹写 感謝合掌




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