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『生長の家信徒行持要目』 講義 (8654)
日時:2013年05月24日 (金) 08時57分
名前:童子

    生長の家信徒行持要目


 一. 天地一切のものに感謝すべし。

  皇恩に感謝せよ。汝の父母に感謝せよ。汝の夫又は妻に感謝せよ。汝の子に感謝せよ。汝の召使に感謝せよ。一切の人々に感謝せよ。天地の万物に感謝せよ。



 ニ. そのままの心を大切にすべし。

  そのままは零なり、一切なり、○(まる)なり、円満なり、無礙なり、無限供給なり、調和なり、病なきなり、一切の不幸、災厄、病難は‘そのまま’を外したるときあらわれるなり、顧みてそのままの心に復(かえ)るとき、一切の不幸は滅す。



 三. 何事にも真心を出(いだ)すべし。

  憂患は外界より来るに非ず。真心顕れざるを憂患と言う。内に真心なきに非ず。それを顕さざるに過ぎず。真心とは全心なり、全力なり、一所懸命なり。『今』を生かすなり。真心あらわすとき、直ちに此処が天国浄土と化するなり。




 四. 一切の人に物に事に行届くべし。

  真心顕るれば自然一切の人に、物に、事に行届くなり、人には必ず深切なるべし、和顔なるべし、声やさしく愛語すべし、如何なる小事にも行届くことを心掛けよ、若し行き届かざることあらば弁解すべからず、真心を顕すことを怠りたる自分の罪なりとして懺悔すべし。




 五. 常に人と事と物との光明面を見て暗黒面を見るべからず。

  暗黒面を見る心ある時、その人に暗黒あらわれるなり。光明面を見る心ある時、その人に光明面あらわるるなり。人を陰にても誹るべからず。善き面を見つけて賞讃すべし。凡て事と物とに不平言わず、感謝すべし。



 六. 常に自我を死に切るべし。

  常に肉体本来なく、物質本来なく、自我本来なく、唯神の生命、今此処にあらわれて生くると思いて感謝して作務すべし。



 七. 人生を神生となし常に必勝を信じて邁進すべし。

  自我を死に切りたるとき、既に『我』なく神の生命のみ生くるが故に、決して失敗を予想せず、明るき心にて日々の業務に獅子奮迅すべし。失敗と見ゆることも真(まこと)の失敗に非ず。樹は落ち葉したるうちに春の花の用意整いつつあるなり。



 八. 毎日一回は必ず神想観を実修して、心を光明化すべし。

『行持』とは何か (8656)
日時:2013年05月24日 (金) 12時59分
名前:童子


 『行持要目』の『行持』とはどういうことか。

 行持の『行』というのは、頭のなかで考えるだけではなく、その考えを実行することであります。 

 頭のなかで、どんなに立派なことを考えておりましても、それを実行しなかったならば、その考えは‘からまわり’になって、本当に実のあるものにはなりません。 むかしから聖人君子といわれる人々は、みな 『行』 とか 『実践』 とかを非常に力強く説いているのであります。

 
 親鸞聖人も 『教・行・信・証』 といわれて、『行』 を重大に考えられたし、道元禅師は特に 『行仏』 ということを説いて、 『行』 の大切なことを示されました。 また中国の王陽明は 『知行合一』 ということを言って、知ることと行うこととは、必ず合一し、一致しなければならないと教え、日本の山鹿素行がこの説を受け継いだのであります。



 知ることと行うことが一致せず、言うこととすることがちがうことがよくあります。 それには二種類ありまして、第一は自分でよく承知しておりながら、故意にごまかしている場合。 これは‘たち’のよくないことで、 『わかっちゃいるけど、やめられない』 というやつです。 また自分は実行できもしないことを言うてまわることがよくある。 私などにも、身に覚えがあります。

『行持』とは何か  2. (8678)
日時:2013年05月25日 (土) 20時44分
名前:童子

 
※田中忠雄著 『ここに禅の生き方が』(40年3月初版) から抜粋しております


    ~~・・~~


 人をだますために、心にもないことをいうのは、もう一つ‘たち’がよくない。 仏教ではこれを 『妄語』 といいまして、深くいましめてあります。 五戒のなかにも 『不妄語戒』 という戒がありまして、仏さんの前で二枚舌を使わぬという誓いを立てるのであります。

 「池田は‘うそ’はもうしません」などというのは、池田前首相が人に向って誓いを立てておるのですが、人に向って立てた約束は「情勢が変ったから」などといって、自分で破ることがよくあるもので、これは眉つばもんです。 本当に「うそはもうしません」と約束するんだったら、人にたいしてよりも神仏にたいして誓うがよろしいのであります。

 とにかく、人をだますところの言行不一致は、たちのよくない妄語で、譬喩的にいうと、死んでから地獄へ行って、赤鬼の大きい釘抜きで舌を抜かれることになるのであります。



 第二には、自分では気がつかないで、知っていることと行なうことが一致せず、言うこととすることとがくいちがうことがよくあります。

 皆さんに、こんな風景を見た経験はありませんか。 子供がつかみ合って兄弟喧嘩をしている。 そこに母親が現れて、 「まあ、お前たち、なんてことをするの。 あれほど調和しなさい、和解しなさい、腹を立てるなと言ってあるのに、お前たちはほんとなんてことをするの」 とかんかんに怒って、手をふりあげて、いまにも子供をなぐらんばかりの形相 ・・・・・。 おかめ八目で、そばにいるものには、よくわかって吹きだしたくなるくらいであるが、御当人は全く気がつかない。


 こういうこともあります。 奥さんたちが集って楽しいおしゃべり会議。 すると一人の奥さんが言いました。 「ねえ、あのかたは大変いいかたですわね。とても明るい人で・・・・・。だけど、ときどき人の欠点をおっしゃるのがただ一つの欠点ですわね」 ・・・・・ 人の欠点をいうのがあの人の欠点だといって、自分がその人の欠点をいうている欠点には、いっこうに気がおつきにならない。

 
 いつも自分のふみしめたところの確かなものをする。 これが 『行』 である。 最近の世相を見ますと、こうした 『行』 の重要さが次第に忘れられてゆくようであります。



 

『行持』とは何か  3. (8688)
日時:2013年05月26日 (日) 12時30分
名前:童子


 それでは、『行持』 の 『持』 とは、どういうことであろうか。


 この『持』というのは、持つとか、保つとかの意味で、 『持続』 の 『持』 です。 お寺の住職のことを『住持』とも言いますが、これは道場に住(とど)まって保ち支えるという意味から来ています。 『持』 というのは、そうした意味ですから、保持し、持続することだと考えたらよいわけであります。



 一時の気まぐれみたいに、一度か二度やってみて、それでやめにするのは、行持ではない。 私〈田中忠雄氏〉の書きました 『こころの姿勢』〈日本教文社:38年6月初版〉 の最初のところに 『実相の水を汲み出すために』 という章があり、そこでやや詳しく述べましたが、本当の幸福の水を汲み出すには、貰い水をして、それをポンプにしみこませ、そして時を移さずポンプの柄を押さなければなりません。

 一度や二度押して水が出ないと、井戸の底にはもう水がないと思って、やめてしまう。 そうすると、永久に自分のうちから幸福の水を汲み出すことは出来ない。 何度も何度もポンプの柄を押すのです。 この何度も押すことを 『行持』 という。


 何度も押していると、手ごたえがあって、水が出てくる。この水は、自分のうちから出てきた水で、借り物でないから、遠慮なくいくらでも使えるのであります。


 しかし、水が自分のうちから出るようになったのは、最初に貰い水をしたからであります。 そこでその恩にむくゆるために、自分のためでなく、水が出ないで困っている人々に、自分の汲みだした水を分けてやることが大切です。 

 自分にひつような水は十分で、もうたくさんだからといって、ポンプを押さずに、幾日もほっておきますと、またもやポンプをいくら押しても出なくなります。 だから、いつまでも水が出るようにするには、自分のためだけでなく、困っている人のために、つまり水を人に分けてあげるために、どこまでも押し続けることが大切です。

 井戸の水というものは、汲み出せば汲み出すほど、澄んだ良い水が出るのであります。 素晴らしい幸福の水を得ようと思うならば、自分だけでなく他の人に分けてあげるために、絶えずポンプの柄を押しつづけなければなりません。 それは決して、つらいことではなくて、あちらからも、こちらからも感謝され喜ばれることで、それは直ぐに自分の喜びとなるのであります。



 『行持』 ということを一番力強く説かれた最初の人は、日本では道元禅師でありまして、禅師の書かれた 『正法眼蔵』 百巻のなかに、『行持』の巻というのがありまして、古来の偉大な哲人たちがいかに努めて行持したかを、格調高い文章で書いてあります。 それを読みますと、魂がゆさぶられ、志を立てずにはおれなくなるのであります。



 そこで、 『行持要目』 というのは、我々万人が毎日の心得として、実践しなくてはならないことを要約して示した眼目ということです。

 『要』というのは『かなめ』のこと、扇などでもここのところが『かんじんかなめ』で、これがないと扇の全体がばらばらになり、全体がこわれて役に立たなくなる。 そういう大事な要目を、八項目にわたって示されたのが、この 『行持要目』 であります。

第二章 感謝とは何か (9907)
日時:2013年07月17日 (水) 12時53分
名前:童子

 行持要目八ヶ条は、さきに言いました通り、我々の日常生活における心得、つまり常に心がけて実行すべきことを簡単明瞭にずばりと言ったものであります。

 しかしながら、いくら簡単明瞭でありましても、その一条一条にこもる意味は深遠でありまして、その受取り方は、自分の現在の心境によって浅くも深くもなるわけであります。 ですから我々はできるだけ自己を空しくし、先入見に捉われず、すなおに受けとらねばなりません。



 ところが、こういう要目の表現を頭から否定してかかる人々がいるのです。

 一つ、天地一切のものに感謝すべし。 二つ、そのままの心を大切にすべし。 三つ、何事にも真心を出すべし。 ・・・・・  こういう表現は、上から天降り式に押しつけた命令のようなもので、あまり好きではないと言う人もあります。 そういう押しつけは、民主主義的ではないと言う人もあります。 人間の自由を認めないようなところがあると言って抗議する人もあります。



 すこし以前ですが、かなり有名なある評論家が、道元禅師の 『永平清規』 をさんざんこきおろしていました。 『永平清規』 というのは、道元禅師が道場における心得を示されたもので、目上の人にたいする心得、洗面のときの心得、食事のときの心得などをくわしく書いたものです。

 この評論家は、それを読んで昔の軍隊を思い出すと言ったのです。 「一つ軍人は信義を重んずべし」 などという 「軍人勅諭」 を思い出し、その先入見に捉われたのでしょう。 彼はそれを軍国主義だのファシズムだのと結びつけてさんざん悪口を言っておりました。


 けれども、こういうのは浅はかな考えであって、昔の軍隊でやっておったことを何でもかんでもみな軍国主義だとかファシズムとか言うのが、そもそものまちがいであります。


 軍隊には秩序が大切ですし、特に規律が大切である。 世界中の軍隊に規律のない軍隊というものはありません。 だからそれを要約した形で、日々の心得を表したものがどの国にもあるわけです。 それを全て軍国主義的だとかファシズム的だとか言うなら、地球上の軍隊で、軍国主義的・ファシズム的でない国はどこにもないことになってしまうでしょう。



 そいう浅はかな自由思想で規律や心得というものに反対するならば、あらゆる共同生活、あらゆる集団生活、あらゆる職場生活は、ばらばらになって解体することになるでしょう。 国や民族も統一を失ってばらばらになって、やがて衰頽してしまうでしょう。


 信仰上の集団ならば、教えのうえから当然でてくるところの心得があり、それによって日常生活の基準にすることがあります。 これが確立されていれば、勝手気侭なことはできないわけで、その力で秩序が保たれるのです。

 秩序が保たれるだけでなく、教えそのものが永く受け継がれることになるのであります。 もし 『永平清規』 というものがなかったならば、道元禅師の宗風はとっくに失われ、七百年以上もつづいて今日にまで伝わることは決してできなかったでしょう。 


 ですから私は、こういう心得や規律の意味を吟味して 「歴史継承の型」 と呼んでいます。 この 「型」 によって、教えが後世に受継がれる、つまり継承されるのであります。


 むろん 「型」 というものは、「型にはまる」 と言われるように、精神を失ってただ形だけのものになる恐れがあります。 それを形式主義というのです。 ですから、常に根本の精神に立ち返って、絶えずその 「型」 に魂を入れてゆかねばなりません。


 既成宗教という言葉がありますが、それは長い年月のあいだに偉大な宗祖の精神を失い、ただ形式だけまねているということです。 そういう場合にも、その形式がまだ残っているなら、その形式に含まれた精神をよび戻すことができます。 古来、そういう仕事をした立派な人のことを 「中興の祖」 と呼ぶのであります。 

一. 天地一切のものに感謝すべし (9955)
日時:2013年07月20日 (土) 00時14分
名前:童子

 『天地一切のもの』 というのは、 『有りとしあらゆるもの』 ということで、天地間の有りとしあらゆるものに感謝すべし。 ・・・・・ 

 『謝』は、ことわる、いなむ、じたいする、の意味から、お礼をいう、わびる、あやまる、しぼむ、というような意味になります。 ことわったり、拒んだりすることから、どうしてお礼をいう意味になるのか、ちょっと不思議ですけれども、

 早い話が例えばお客さんにお茶をすすめると、お客さんが 『もう結構です』 という。 これはお茶をことわり拒んでいるわけだけれども、その辞退または拒否が同時に相手の好意にたいしてお礼を言っておるわけである。


 日本語はどうもイエスとノーがはっきりしないといって自己卑下をする日本人がありますけれども、それは一面だけを見た話で、こういう拒否とお礼とを一緒にした微妙な心の動きを表す言葉があるということは、むしろ日本語として誇ってよいことであろうと思うのであります。



 『ありがたい』 という言葉ですが、これは 『有り難し』 の意味で、存在することがむつかしいという意味からきています。 『ありがたし』 とは、もともと類い少なくして希であることです。 めったにこのようなことは有るものではないのに、というので、話し言葉で 『ありがとう』 と言うのであります。

 これは根っからの日本語でありまして、日本人は 『汝に謝す』 という言葉のほかに 『ありがとう』 という感じを持っているわけです。 人の深切にたいして 『有り難い』 と感ずるわけです。 

 我れ汝に謝するというだけではなく、そこには大へん謙虚な気持が心の中に働いている。 人が何かをしてくれたときに、そんなことはしごくありふれたことだ、誰でも当然してくれることだと思うのでは、類い希で有りにくいことだということにはなりません。 


 さて、この “ありがとう” という感謝の心は、謙虚で “すなお” な人間の感じ方ですが、理屈で考えると大へんむつかしくて、だんだんわからなくなるものです。

 なんで父や母に感謝しなければならないのか、考えるとだんだんわからなくなる。 だいいち 『感謝すべし』 というふうになぜ言うのか。 自然に感謝するというのならほっておいたらよさそうなものだのに、感謝せねばならんというのはなぜか。 その 『なぜか』 を考えると、なかなかむつかしくなるのであります。



 父や母は、頼みもしないのに私を生んだのである。 頼みもしないのに、父と母は妙なことをして私を生んだのである。 少し色気づく頃ともなれば、ふとしたときに、こんな考えが浮んでくるものです。 そうすると感謝の念はすっかりかすんでしまう。 それから父と母は本能的に私を可愛がって育てたけれども、それは動物でも同じことで、ありふれたことであり、何も特に 『有り難い』 ことではないように思われる。


 私が希望して母の胎内に宿ったわけではないが、いったん宿ったら、そのままじっとしていてもよかったし、じっとしていた方がどんなによかったかもしれない、とも思える。

 おかあさんの “おなか” の中では、第一に温度が一定していて、やれ冷房だ、やれ暖房だなどと面倒なことをするには及ばないし、 第二にそこは非常に静かで嵐のざわめきもなければ、いろいろの騒音も雑音もない。 古代インド人の憧れた 『涅槃寂静』 の世界は、まさにここであったように思える。 第三に、もっといいことには、おかあさんの ‘おなか’ の中では、働かんでも飯が食えるのである。

 それだのに、頼みもしないのに、私はその極楽の世界から、むりやり押し出されたのである。 とたんに、暑さまたは寒さが押しよせ、騒音がうずまき、声をかぎりに泣いて ‘おっぱい’ を求めなけれならなくなった。  それだのに、どういうわけで父や母に感謝せねばならないのだろう。

 



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