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天国は汝の内にあり (8887)
日時:2013年06月01日 (土) 04時35分
名前:伝統


宝樹華果(ほうじゅけか)多くして衆生の遊楽する処

    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月1日)より

吾々は神から永遠の幸福を約束されているのである。
「諸々の堂閣種々の宝もて荘厳せり、宝樹華果多くして衆生の遊楽する処なり」と云う
『法華経』の文句は決して空文ではなく、既にかかる世界が今、実に此処にあるのである。

それは既に放送局の放送があるのと同じように、既に肉眼では見えないが波長を合わしさえ
したならば現実に五官に触れるような形にあらわれて来るように今此処に既にあるのである。

現実の不完全な相(すがた)に心を捉えられていては不調和なものに波長を合わすから
不調和なものばかりが現れて来るのである。

        <感謝合掌 平成25年6月1日 頓首再拝>

人間は放送局であると同時に受信セットである (8963)
日時:2013年06月03日 (月) 04時31分
名前:伝統


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月2日)より

一人一人の人間は各々放送局であると同時に受信セットであるとも言い得る。
各々の放送局である個人は、或は悲しみの念波を放送し、或は怒りの念波を、
或は憂いの念波を放送している。

二十二億の『人間放送局』から別々に放送されるこれらの想念・感情の波は、
類似の波長を起こす受信機(人間)の所に群り集まって想念の集団をなして具象化するのである。

だから自分が起こした悲しみの波のみが自分の身辺に具象化するだけではなく、
悲しみの念波を起こせば自分以外の悲しみの波も集まって来て具象化する。

        <感謝合掌 平成25年6月3日 頓首再拝>

神の国と神の国の義(ただしき)を求めよ (8997)
日時:2013年06月04日 (火) 04時31分
名前:伝統

《幸福は外の世界に求めるな》

    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月3日)より

吾々は誰も幸福を求める。
然し乍(なが)ら大抵は外の世界にそれを求め、
外の手段方法をとつおいつ心配して心を労するのである。

併しそれは拙劣(せつれつ)なる求め方である。

労して誰も幸福になれるのであったら、
「稼ぐに追いつく貧乏なし」の諺その儘に誰も彼も幸福に豊かに富める筈であるが、

事実は「はたらけどはたらけど猶(なお)わが生活(くらし)楽にならざりじっと手を見る」
という石川啄木の歌のように、いくら人間力で労して見ても幸福になり切れない場合が多い
のである。

ここに反省しなければならぬものがある。

心の方向を転換しなければならぬ。

・・・

《神の国と神の国の義(ただしき)を求めよ》

    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月4日)より

今まで現象界へ振り向いていた心を神の方へ振り向けることが大切である。
「先ず神の国と神の国の義(ただしき)を求めよ、其の余のものは汝らに加えらるべし」
とイエスは言った。

吾々は大抵、神の国を先ず求めないで、其の余のものの方へ心が向き勝ちであったのである。
神の国は現象世界が整うて来るための根である。

根を求めないで枝葉から先に求めていたから、根のない枝葉は枯れるほかはないので、
神の方へ振り向かない働きは、「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりじっと手を見る」
式に労して功なしであったのである。

        <感謝合掌 平成25年6月4日 頓首再拝>

・・・

先ず神を認めよ

    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月5日)より

神が吾々神の子に求めていられる処のものは先ず「吾を認めよ」と云うことである。
人間でも親が子に求めているところのものは、先ず「親をみとめよ」と云うことである。

親の無視が即ち親不孝であり、親を忘れて放浪(さまよ)い歩いたところに、
親の遺産をつぐことが出来ないことが生ずるのである。

だから先ず何よりも吾らは自分の生命(いのち)の親を、神を、
認めなければならないのである。

先ず神と直結し、神の持ち給えるすべての物と直結すべきである。
其処から無限の富が湧き出て来るのである。



神を愛せよ (9074)
日時:2013年06月06日 (木) 04時57分
名前:伝統

    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月6日)より

パウロは次のように言っている。
「神を愛する者、すなわち御旨(みむね)によりて召されたる者の為には、凡てのこと
相働きて益となるを我らは知る」(「ロマ書」八章二八)。

先ず神を愛しなければならないのである。
愛するとは自他一体になると云う事である。
一つになることである。

それが同時に「御旨(みむね)によって召されたる者」である。
「御旨(みむね)によりて召されたる者」とは
決して特定の選ばれたる宗教的貴族階級のことではない。

「神のみ旨われに宿る」と自覚することである。

        <感謝合掌 平成25年6月6日 頓首再拝>

・・・

神は不幸を与え給わない

    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月7日)より

神は吾々の親様である。
神が吾々に不幸を強要したまうことはあり得ないのである。

神は吾々神の子に幸福を与えたくて仕方がないのである。
幸福が来ないのは親が与えたまわないのではなく、『法華経』の長者窮子の譬えにあるように
神の子みずから親のみ許(もと)をはなれて神の賜(たまもの)から逃げ出しているのである。

先ず自身が神の子であると知ることが
貧窮の子が長者の父のみ許(もと)に到ることにあたるのである。

そして自分の本来の位置を自覚して人間を、
不幸になるよう定められているような下らないものだと思わぬことである。


神は人格であると同時に法則である (9111)
日時:2013年06月08日 (土) 04時46分
名前:伝統


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月8日)より

親がその子に対して、善きものをあたえたくない場合を考えて見れば、
その子が親不孝の場合である。

間断なく親の言い付けに叛(そむ)き、親の意志に反して、与えたる富はただ他を害する為
のみに使う様な場合には親はその善きものを与える事をさし控えるであろう。

それは神を擬人的に人格的に考えたのであるが、神は人格であると同時に法則なのである。
その両面を見落としては真に神を理解したことにはならない。
神は超個性的法則であると同時に人間的な人格を備えてい給う。

それ故に神の子なる人間も人格を備えているのである。

        <感謝合掌 平成25年6月8日 頓首再拝>

神の全能を信じて常に神に振り向けよ (9148)
日時:2013年06月09日 (日) 04時56分
名前:伝統

    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月9日)より

汝が困難に直面するとき常に神に振り向けよ。
汝が人間力を絶したる複雑困難なる問題に面した時、常に神に振り向くべし。
神はすべての解決である。

「神様」と呼びかけよ、全身全霊をもって神に呼びかけよ。
その間神の全能を信ずべし。
少々の疑いも、恐怖も持つべからず。疑いと恐怖とは神の救いの波に対する絶縁体である。

完全なる信のあるところ恐怖はないのである。
恐怖なくして神に振り向き、「神はすべての方法と手段とを有(も)ち給う。
如何なる複雑な問題も、すべて調和した姿に解決する方法を知り給う」と念ぜよ。

        <感謝合掌 平成25年6月9日 頓首再拝>

・・・

神は全能の智慧、調和の智慧

    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月10日)より

「神の力、神の智慧、神の愛、今われに流れ入りてわれを救けたまい、導きたまい、
われを祝福したまう。神に於いて解決困難な問題など一つだとてあり得ないのである。

神は全能の智慧であり、調和の智慧である。

神は自分に宿りたまう智慧であるばかりでなく、すべての人々に宿りたまう智慧であるから、
すべての人々が調和して動き出して問題は完全に調和した形に解決するのである。

神は今自分を神御自身の創造の尖端として新しき調和ある解決の道を見出し給う。
神よ、神の完全なる智慧によって調和ある解決の導きを示し給え」


神は常に吾がうちにありて働き給う (9188)
日時:2013年06月11日 (火) 06時20分
名前:伝統


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月11日)より

今此処に、神の力が、君の内に、そら其処にあるではないか。
遠いところに求める必要はない。君が生きているのが其の証拠である。
神の力が君の内に今働いているのである。

神の力が今其処に君の内に一切を新たならしめるべく、あらゆる君の求めに応ずべく、
働いていたまうのである。

今それを悦べ、今それに感謝せよ。
治して貰えるから感謝するのでもなければ、治ったから感謝するのでもない。
そんな現象の問題ではない。現象は唯の随伴物に過ぎない。

何よりも君が既に神である実相を見て悦ぶのだ。感謝するのだ。

        <感謝合掌 平成25年6月11日 頓首再拝>

認めたものだけが現れる (9199)
日時:2013年06月12日 (水) 04時08分
名前:伝統


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月12日)より

神に波長を合わすには、ラジオと同じく先ず放送局がある事を認めなければならない。
神を先ず認め、神は無限に寛大に吾らの願いをきいて下さるものである事を、
認めなければならぬ。

神が神罰を与えるような苛酷な存在であると吾々が認めるならば
「苛酷」な波長に波長を合わす事になり、苛酷なものが現象界に実現することになるのである。

それよりも吾々は神は愛深き存在であり、無限の癒やしであり、
無限によきものを吾らに与え給うべく待ちかまえていられるのであることを信ずれば、
それに波長を合わすことになるのである。

        <感謝合掌 平成25年6月12日 頓首再拝>

神は常に今此処に吾と共に在(い)ます (9223)
日時:2013年06月13日 (木) 04時52分
名前:伝統

    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月13日)より

悦びの神が、無限健康の神が、無限供給の神が、幸福のほか与えることを知らぬ神が
自分と共にある事を自覚せよ。

今既に無限の幸福があるのである。
此処に今神がいまして吾等を護りていたまうのである。

現象が今如何にともあれ、現在の現象は過去の念の影に過ぎないのである。
吾々は今善以外を知らざる神に、幸福以外を知らざる神に、取囲まれているのである。
それを断々乎として自己の心の中(うち)に主張せよ。

然らば必ず幸福のみが出て来るし、善のみが出て来るし無限のよき物のみが出て来るのである。

        <感謝合掌 平成25年6月13日 頓首再拝>

・・・

一切を神に托し切れ

       *「光明法語」<6月14日>より

自己を空しくすること。
自己のみならず、時代の迷信、先入観念、心配、恐怖、
取越苦労、持越苦労などを捨てることである。

それらがあることそのことが神への無条件降伏が
完成していない証拠であるとも云える。

取越苦労し、持越苦労する権利を抛棄せよ。
恐怖する権利を抛棄せよ。
神の造りたまえる此の世界に悪が存在すると予想する権利を抛棄せよ。

神の造り給える此の世界に病気や不幸があると思う権利を抛棄せよ。

ただ神の全能力を信ぜよ。
神の善なる意図を信ぜよ。

これこそが真の自己抛棄であり、神への全托である。



天の父われに在(い)まして成さしめ給う (9254)
日時:2013年06月15日 (土) 04時03分
名前:伝統


       *「光明法語」<6月15日>より

自分の力では何物も出来る事ではないと知った時、神の力が動きは始めるのである。
神と対立して自分の力を主張している間はまだ駄目である。

「われみずからにては何事もなし得ず」の自覚の次に、
イエスは「天の父われに在まして成さしめ給うのである」と云う自覚が生まれた。

「小慈小慈もなき身にて、心は蛇蝎の如くなり」との罪悪深重感の次に
「超世の悲願ききしより、吾らは生死(しょうじ)の凡夫かは」の仏と一体の自覚が
親鸞に出来たのである。

自己折伏の完了していない信仰は我慢心に陥りやすい。

        <感謝合掌 平成25年6月15日 頓首再拝>

よき「思い」を種蒔くこと (9281)
日時:2013年06月16日 (日) 07時41分
名前:伝統

       *「光明法語」<6月16日>より

神をあざむくことは出来ない。
神は秤(はかり)の如く、自分の目方どおりの目盛りをあらわしたまうのである。

蒔かぬ種は生えぬし、蒔いた種は穫(か)りとらなければならないのである。
一つの「思い」を種蒔けば、それは多くの「行為(おこない)」となって実を結ぶ。
よき「思い」は多くよき「行為(おこない)」となってあらわれる。

自分の行為がよくなるばかりでなく、自分の「思い」の一つで
相手の「行為(おこない)」までがよくなるのである。

まことにも「立ち対(むか)う人の心は鏡なり」と黒住宗忠の歌った通りである。
立ち対(むか)う環境さえも自分の心の鏡である。

        <感謝合掌 平成25年6月16日 頓首再拝>

よき「行為(おこない)」の種を蒔け (9323)
日時:2013年06月18日 (火) 04時59分
名前:伝統


       *「光明法語」<6月17日>より

   「思い」の種子は「行為(おこない)」の実を結ぶが、
   一つの「行為」はまた多くの「思い」の果(み)を結ぶ。
   それは互いに映し合って「合わせ鏡」の如くである。

   また「思い」の方ではそんなに深切な気持ちが起こっていないにしても、
   そこに思い切って深切な行為(おこない)を実行して見た時に、
   不思議に「嬉しい思い」が湧いてくることを発見するであろう。

   そこに常に深切な行為(おこない)をする人は、
   常に幸福な思いを味わう人だと云う事が出来るのである。

   又、相手の感謝の表情を見る事は人生無上の楽しみである。
   感謝は感謝の共鳴を喚(よ)び起こすのである。

        <感謝合掌 平成25年6月18日 頓首再拝>

人格の陶冶 (9345)
日時:2013年06月19日 (水) 04時44分
名前:伝統


       *「光明法語」<6月18日、6月19日>より

六月十八日 「人格」の力を作れ

「人格」と云う目に見えない、しかし人おのおのに附いた不思議な力がある。
その「人格」の力がすべての物事を成功させたり、不成功に終らせたりするのである。

ある人は「人格」の力で、人々を神の如く尊敬せしめ、慈父の如く人々が慕い寄る。
ある人は「人格」が醜いゆえに、才能があれども人々が気嫌いして、その人に功を成さしめない。

では「人格」の目に見えない雰囲気をどうしたら発達せしめることが出来るか。
それは《ふだん》の「思い」をよくすることである。
《ふだん》の愛念は其の人の柔かな雰囲気をつくるのである。


六月十九日 「人格」の《ふんいき》

日常断えず思っている「思い」の集積が、人格の雰囲気となって現れる。
たえず善き「思い」を起こしている者はよき人格の雰囲気をもち、
断えず卑しい「思い」を起こしている者は何となく卑しい人格の雰囲気を持つ。

威厳の雰囲気を放つ者あり、慈悲の雰囲気を放つ者あり、柔和の雰囲気を放つ者あり、
剣気の雰囲気を放つ者あり、邪気を放つ者あり、徳気を放つ者あり、人さまざまであるが、
之等は全て常にその人が心に思う「思い」の集積であって、一時人前を繕っても駄目である。

第一印象の良い人は雰囲気のよい人である。

        <感謝合掌 平成25年6月19日 頓首再拝>

最初の魂の非難にきけ (9358)
日時:2013年06月20日 (木) 04時59分
名前:伝統


       *「光明法語」<6月20日>より

最初は自分の罪におののくが、それに慣れてくると何ともなくなる。
次には罪の行為(おこない)が楽しくなり、
しまいにはそれが度(たび)かさねぬとおれぬようになる。

習慣と云うものは、恐ろしいものである。

先ず最初に罪に近づかぬことである。
罪とは実相の円満完全さをツツミ隠した思いであり行為(おこない)である。
それが実相そのものでないと云うことは、魂の最初の戦(おのの)きでわかるのである。

最初に、第一印象で、魂が非難するところのものは行なわぬがよいのである。

第一念で良いと思うことは善いことが多い。

        <感謝合掌 平成25年6月20日 頓首再拝>

善き友と交わること (9381)
日時:2013年06月21日 (金) 07時25分
名前:伝統


       *「光明法語」<6月21日>より

見る姿・形は一種の暗示となって吾々の魂の中に投げ込まれるのである。

友だち又は知人の悪しき範例(おてほん)を見ていると、その悪しき姿が自分の潜在意識内の
レコードとなり、縁を得ればその通りの悪しき姿が自分の行為(おこない)に現れてくる。

善き友と交わり、善き友の行為(おこない)を見、善き友の言葉をきく事は、
目に見えぬ無限の宝を内に積むことになるのである。

潜在意識の中にあるよき想念は、無限のよき宝であると云うのは、
其処から無限の善きものが湧き出るからである。

すべて心に入りたる物はやがて形となって顕れて来る。

        <感謝合掌 平成25年6月21日 頓首再拝>

決意をもって断じて行え (9405)
日時:2013年06月22日 (土) 04時23分
名前:伝統


       *「光明法語」<6月22日>より

「断じて行えば鬼神も避く」と諺(ことわざ)は言う。
道は、決然たる意志の前にはその扉を開く。
道がなければ自分が道を造れば好い。

キリストは「我は道なり」と言った。
八方が塞がっても上方はあいているのだ。
上方は神に通ずる道である。道なき時には神に頼れである。

不可能を可能にかえ得るものは決意である。
「意志の教育こそは吾人存在の目的である。
断乎たる決意ある者の前には常に時と機会とが待っている」とエマーソンは言っている。

世界を動かす梃子(てこ)は意志の力である。

        <感謝合掌 平成25年6月22日 頓首再拝>

金は浄(きよ)きに非ず穢れに非ず (9432)
日時:2013年06月23日 (日) 05時00分
名前:伝統

       *「光明法語」<6月23日>より

弱き善人は、強き悪人に及ばない。
善人は強くならなければならない。

悪人は金を集めてその勢力を次第に増大して行くが、
善人は金を集める事を穢(きたな)いとみずからの手に手錠をかけるが故に
悪人の力に滅ぼされてしまうのである。

善人はもっと勇敢に金を集めなければならないし、
よき事の為に金を集める事を穢いと思ってはならないのである。

金は穢いも綺麗もない。
それは如何に何に使うかによって綺麗と穢いとの区別が出来る。

釈迦曰く「飢饉の時には一層托鉢せよ」と。
釈迦は自分が貧乏だから行乞(ぎょうこつ)したのではない。

        <感謝合掌 平成25年6月23日 頓首再拝>

今此処が天国 (9448)
日時:2013年06月24日 (月) 04時23分
名前:伝統

       *「光明法語」<6月24日>より

誰にでも自己の天国があるのである。
自分の脚下を見、真に自分に与えられたものを享受しこれを生かし働かすとき
其処に天国は現れるのである。

必ずしも富めるのが天国ではない。
富めるが為に財産税にて首をくくれる人がある。
富めるがために強盗を怖れて不眠症になる人もある。

貧しき者偶々(たまたま)富みて脚下を忘れ、
婦人に弄(もてあそば)れて不治の病いを得るものあり、
人格をそこなう者あり、富は必ずしも天国の条件ではないのである。

諸君が今此処に於いて与えられたる恩恵に目覚めるとき天国は今此処にあるのである。

        <感謝合掌 平成25年6月24日 頓首再拝>

天国は満ちたる杯(さかずき)の如し (9473)
日時:2013年06月25日 (火) 07時50分
名前:伝統


       *「光明法語」<6月25日>より

天国は手をつっこんで奪うことは出来ない。
天国は縁(ふち)まで満ちた杯の如きものである。

手を突込んではその悦びはこぼれてしまう。
天国は覆(くつがえ)してはならない。
天国は床に流れて姿を没するであろう。

天国はただ素直にそれに口をつけて静かに飲むべきものである。
静かにのめば、全身に平和と柔らぎとは来り、心は悦びに満たされ、
恍惚として酔い、美しき光景を見、七宝集まり来り、全てのよき友集い来るを見るであろう。

「今」を有難く受け生かす者に非ずば天国に入ることは出来ない。

        <感謝合掌 平成25年6月25日 頓首再拝>

天国は「今」を生かすにある (9494)
日時:2013年06月26日 (水) 06時41分
名前:伝統


       *「光明法語」<6月26日>より

「日々是好日」と云うのは趙州和尚の垂示である。
”Every day is best day in the year ”(毎日毎日が1年中で最も良き日である)
とエマースンは言っている。

達人の言うところ古今東西を通じて同じである。
天国は「今」を生かすとき其処に現前する。

真の幸福は高価な貨幣を支払わずとも得られる。
鳥にとっては樹の枝と空中とが天国であり、魚にとっては海中と藻の間が天国である。
生物それぞれに天国が異なる。

海魚おどって鳥の天国に到らんとして木に昇れば即ち死す。
他(ひと)の華(はな)を美しいと羨んではならぬ。

        <感謝合掌 平成25年6月26日 頓首再拝>

天国は汝の内にあり (9516)
日時:2013年06月27日 (木) 04時55分
名前:伝統

       *「光明法語」<6月27日>より

自己即今、天国なり。
自己のうちに天国を見出し得ない者は何処にも天国は見出す事は出来ないであろう。

金殿玉楼に錦繍をまとって暮らすとも嘆きの園に生活する者もある。
小人たまたま富を得て家庭乱れ、地獄忽ち現前して火の輪(くるま)舞う。

されど貧しきが必ずしも幸福に非ず、貧しきが故に家庭争議絶えざるものあり、
心の源泉を清めずんば、貧富共に禍(わざわい)となる。

されば貧富ともに禍でもなければ、又貧富共に幸福でもないのである。

心の中にこそ天国はあり。その天国より富を得る者これ最大の富者である。

        <感謝合掌 平成25年6月27日 頓首再拝>

・・・

荘厳なる生活をせよ

          *「光明法語」<6月28日P135>より

吾等は吾が生活を荘厳なるものたらしめるべからず。
何となれば人間は神の子であるからです。

魂を高揚せしめる大思想家の文章は汝の魂をして荘厳ならしむべし。

低卑なる市井(しせい)の俗語に耳傾くべからず。
闇の話、脱税の話、野卑の話、猥褻なる話きくべからず。

仏典を読むべし。聖書を読むべし。
『甘露の法雨』を読むべし、
『生命の實相』を読むべし。

すべて天啓、神示に基づく荘厳なる文章を読むべし。

猥雑極まる近代のエロ文学読むべからず。

言葉の力は恐ろしき迄強き也。


        <感謝合掌 平成26年6月28日 頓首再拝>


時間を大切にせよ

       *「光明法語」<6月29日>より

「小人閑居して不善をなす」と云う諺あり。
徳足らざる者仕事なく閑(ひま)でいる事は誘惑に対して隙を与えることになる。

「何事をも為さず」と云うのも又「行為(おこない)」の一種であって、
「悪をなす行為(おこない)」よりも一層悪である。

忘れられたる知識は復習によって回復されるが、
働かずに忘れられたる時間は如何なる方法によっても回復の道がないのである。

時間は生命であり、生命は何ものよりも高価なるものである。
無駄に時間を捨てる者は金貨を捨てて歩くよりも尚悪いのである。

生命(いのち)は向上するか、然(しか)らざれば向下するかである。

        <感謝合掌 平成26年6月29日 頓首再拝>

自分と云う手垢をつけるな (9569)
日時:2013年06月30日 (日) 05時04分
名前:伝統

       *「光明法語」<6月30日>より

情欲の奴隷とならない人こそ、真に崇高なる人間だと云うことが出来る。
情欲を「愛」だと考えてはいけない。
情欲は利己主義なるものである。

親の愛と云うものと雖(いえど)も、尚「自分の子」に対する愛として、
「自分の」が附いている限りは真の愛ではない。

「自分の子」と雖も、一たびは神に返して、神の子として愛しなければならぬ。
すべての人類の子と等しく執着なしに愛しなければならない。
如何なる愛も「自分の」と云う形容詞がつくかぎりは手垢のついた愛である。

愛して愛していることすら自覚しない愛が尊いのである。

        <感謝合掌 平成25年6月30日 頓首再拝>



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