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神にむすばる (8888)
日時:2013年06月01日 (土) 04時39分
名前:伝統


     *『光明道中記』(6月)より


【 自己は神の流出口 】

吾が力で何事でも成そうと思うものは躓く。
自分は神の流出口であると思わねばならぬ。

私は常に「谷神(こくしん)」を思い、自分は「谷神の流出口」
~谷口なることを考える。

「谷神」とは老子の中にある言葉で、谷は空しくして万物を生ずるが故に、
大生命のことを「谷神」と呼ぶのである。

どうぞ私自身が、大生命の出口であり得ますように。
神の智慧の流出口でありますように。

吾が祈りは常にこのほかには無いのである。


常に神を思うことは自分を豊富にする方法である。
神を忘れた日はどんなにか寂しいであろう。

神の無い人が厭世観に陥るのは無理もない。

神を忘れることは渾ての渾てを失うことである。

みずからを顧みよ、腹の立っているとき其の人は神を忘れている。
悲しんでいるとき其の人は神を忘れている。
呟いているとき其の人は神を忘れている。

他(ひと)を恨んでいるとき其の人は神を忘れている。
失意のいるとき其の人は神を忘れている。


愛深き神を想い出せ、
汝のすべての憤りも悲しみも、失意も、怨恨も
立所(たちどころ)に消えるであろう。

        <感謝合掌 平成25年6月1日 頓首再拝>

素直第一の日 (8889)
日時:2013年06月01日 (土) 04時41分
名前:伝統


         *『光明道中記』(6月1日)より     

 【自分の顛倒妄想でさえぎらねば無限の生命がながれ込む。(『生命の實相』第十一巻)】 
              
 
「天地の主なる父よ、われ感謝す、此等(これら)のことを智(かしこ)きもの
 慧(さと)き者に隠して嬰児(みどりご)に顕したまえり」(「ルカ伝」第十章二十一)


素直がいちばん可(よ)いのである。
まず空っぽになることが必要である。

空っぽの者はすべてを知るであろう。
空っぽの器(うつわ)の中には一切が流れ入るが如くにである。


すぐれたる人の生活は常に支配者の生活を営(いとな)むのである。
他人への支配者であるよりも寧(むし)ろ自分自身の心を支配する者が
真の勇者であり、勝利者である。

外界は内界(こころ)の投影であるから内界を支配し得ないでいながら、
外界を支配しようとするとき其処に矛盾を生じ、衝突を生じ、自壊が生ずるのである。

自分を浄(きよ)めること、真面目であること、愛深くなること、忍耐づよきこと、
「今日」を大切にし一歩をゆるがせにせず、毎日自分を堅実に築いて行くこと。

自分がからっぽになって神の聖旨(みむね)を満たし得る盃(さかずき)になること。

常に祈ること。み心が「自分」に来るように祈ること。

        <感謝合掌 平成25年6月1日 頓首再拝>

恐れずに所信を貫く日 (8926)
日時:2013年06月02日 (日) 07時51分
名前:伝統

         *『光明道中記』(6月2日)より  

【闇に対しては光をもって相対せよ。
 非実在を滅するものは実在のほかに在(あ)らざるなり。(『甘露の法雨』)】  

悪は無いと云うことと、悪を征服することとの問題が時々混同せられる。
彼らは悪が有(あ)るからこそ征服しなければならぬのではないかと言う。

併し私に言わせれば、悪は無いからこそ征服し得るのである。
暗は無いからこそ光によって征服し得るかのようにである。

光が如何にして暗を征服するかの過程をよく眺(なが)める時、
吾等は教えられるところが非常に沢山あることを発見する。

光は暗をみとめてその進軍を遠慮すると云うことはない。
光は驀(まっしぐ)らに暗に向かって進むのである。
光が暗に向かって進軍するとき暗は消える。

進軍は行(ぎょう)である。

「本来『悪』無し」とは、悪に対して卑怯にも眼を閉じて、
「悪」を見ることを避け、それに触れることを避けて、
「触らぬ神に祟りなし」式に行動することではない。

「悪」をその眼の中に直視するのである。
偽存在(にせもの)はその眼をじっと視詰(みつ)められると、裁判官の前に
引き出された罪人のように眼を外(そ)らして、其処にいたたまらなくなるであろう。

光に視詰められるとき暗は消えるのであって、
暗を消す方法は、暗なんてどうせ無いのだからとて
灯(あかり)を点(とも)さないことではない。

        <感謝合掌 平成25年6月2日 頓首再拝>

天の声を聴く日 (8998)
日時:2013年06月04日 (火) 04時33分
名前:伝統


     *『光明道中記(六月 神にむすばる)<6月4日>』より

【念は「無」を材料として地上に様々の相を現す働きをなす。(『生命の實相』第十一巻)】


心を澄まして天の声に耳傾けよ。
天の声は必ずあなたを導くであろう。

天の声の導きにゆだねるとき其処には嶮しきは平かとなり、不調和は調和となり、
苦しみは楽しみに変わり、煉獄の火は天国の芳葩(はなびら)に変ずるであろう。

さればこそ試練は本来存在しなかったのである。
みずから好んで天の声を聴かず、実在の調和ある相(すがた)から離れるようにしている
状態が試練であるに過ぎない。

まず眼下を浄めよ。何処(いずこ)に自分の心が立っているか。

何処(いずこ)に自分の心が立っているか。
利己心の上に立っているものは、利己心は「本来無い心」であるが故に、
崩れる基礎の上に立つものである。

自分の欲望の上に立つ者は愚かなるかな。
そう云う狭い立場の上に大きな建築物は建たないのである。
まず立場を大きくし、大きな基礎工事の上にこそ大事業を打ち建つべきである。

「私ならぬ立場」超個人的な立場、人類的な立場、全体的な立場、
国家的な立場に於て吾々は立たねばならぬ。

若し此の基礎工事を自分自身の生活に於て誤っているならば、
あなたは今日から出直さねばならぬ。

        <感謝合掌 平成25年6月4日 頓首再拝>

私は日本学生の父になりたい (9092)
日時:2013年06月07日 (金) 05時01分
名前:伝統


     *『光明道中記(六月 神にむすばる 6月7日大いなる敷地を夢見る日 )』より


【想念は運命の別名だ。心に描いて待てば運命となって現れる。(『生命の實相』第一巻)】


東京の赤坂に生長の家学生寮があった頃である。

私が講習会のために関西及び九州へと立つ日が迫って来ると、学生寮の人たちが、
「僕達の先生が、10日間も吾々のところにいなくなるなんて全くひどい!」
と言っていると云うことをHさんから聞いた。

そんなにも私を慕って下さる学生たちがいてくれると云うことは私にとって喜びであった。

「大学へは入れなくても学生寮へさえ入れて貰えば好いと思って上京したのに、もう定員で
入り切らないとは残念である。誰か近いうちに寮を去る人があったら数ヶ月でも待ちます
から私を寮へ入れて下さい」とお頼みになる学生さんもあった。

その頃、花嫁学校の定員は二百名だったが、男子の学生寮の定員は三十三名だった。

「あまり此の寮が好いから、足踏みしたくなった」と言う寮生もあった。
足踏みとは嬉しくて小躍りすることかと思っていたら、それは原級に止まることなのである。
原級に止まっていたら学生寮を去らないで済むから「足踏み」したいのだそうである。

もっとたくさんの人数を収容し得る男子の学生寮を多く建てたい。

私は日本学生の父になりたい。

そこから昭和維新の大業が生まれて来るのだと思う。

        <感謝合掌 平成25年6月7日 頓首再拝>

困難を征服し宝石を得る日 (9189)
日時:2013年06月11日 (火) 06時22分
名前:伝統


     *『光明道中記(六月 神にむすばる 6月11日)』より

【自由ばかりでは形はない。光ばかりでは映像はない。
 「実相」に虚が作用して形が生まれる。(『生命の實相』十一巻)】


逃れようと思わぬこと。

あらゆる経験は、すべて鉱石のようなものであって、それを捨てずに処理していくとき、
どんな貧鉱からでも尊き金属を採取し得るように、どんな経験からでも尊き「価値」を
採取し得るのである。

吾らの生活は、五官の快楽のための生活ではなく、
「価値生活」であると云うことを知らなければならないのである。

人間の幸福は五官の快楽と否とにあるのではない。
それは鉱石の価値は採取し易いと否とにあるのではなく、
どんなに採取に困難でも「価値」多い鉱石はそれだけ値打ちが多いのと同様である。

盤根錯節(ばんこんさくせつ:面倒な事柄)を厭うのが生長の家の生活ではない。
盤根錯節そのものは善でも悪でもないのである。
盤根錯節が吾々に不幸をもたらすのは、盤根錯節を恐れ又は敵対するからである。

盤根錯節と協力して、わが生活を練るのだと思えば、
盤根錯節はかえって吾々に幸福を齎(もたら)すのである。

と云うのは不幸に甘んぜよと言うのではない。
不幸を幸福ならしむる不思議の力は、
逃げだそうとしないで眼の前の困難に平気で進んで行くことから得られるのである。

        <感謝合掌 平成25年6月11日 頓首再拝>

絶えず明るく微笑する日  (9222)
日時:2013年06月13日 (木) 04時49分
名前:伝統


     *『光明道中記(六月 神にむすばる 6月13日)』より
    

【言葉の力によって認めるものだけが存在に入る。(『生命の實相』第ニ巻)】

恐怖の正体は「悪」の存在を予想する念である。

念は吾々の「生命」より発する波動であって「生命」そのものと融合して、
体内と、外界とに、自分の「生命」に一連関せる環境を作り上げる。

体内の環境を内的環境と呼び、外界の環境を外的環境と言う。
血流、消化状態、内分泌の状態などは内的環境であり、外界境遇貧富等は外的環境である。

内的環境も外的環境も共に自己生命の「念」の延長であり、客観化したのであるから、
自分の「念」によって支配されるのである。

「念」に悪を予想するところの恐怖心が、肉体に悪影響を与え、
外界に悪環境をつくるのは当然である。

されば、決して心に「悪」を予想することなかれ。

「悪」は存在しないのである。

ただ予想したときそれが形にあらわれて、あるかの如く見えるに過ぎない。

静かに、「自分に近づきつつある物」を幸福の使者として微笑をもって迎えよ。
自分に近づきつつある物は、結局「幸福の使者」と変ずるであろう。
立対(たちむか)う者は自分の心の反影(かげ)である。

        <感謝合掌 平成25年6月13日 頓首再拝>

知ったら直(す)ぐ行う日 (9282)
日時:2013年06月16日 (日) 07時44分
名前:伝統

     *『光明道中記(六月 神にむすばる)6月16日』より

【真理を生活上にそのまま生きると云うことが、道を知って道を行なうことである。
                            (『生命の實相』第十一巻)】

思念の力は如何に強くあろうとも「我(が)」の思念の力では駄目である。
強く欲する事物を心に描いてそれが実現せることを心に念ずるならば、
それは「実相永遠の秩序」に調和しない事でも実現するであろう。

併しその実現は永遠性のないものである。

痩せる方が健康である体質の人が、栄養剤や或る肥満法で肥えて見たのと同じである。
やがてその肥満状態が急激に消滅する時が来り、
その過渡期に著しき衝動(ショック)を受けるであろう。

初めから無理に肥えもせず、当り前で続いている方が、その人にとって幸福であったであろう。

人類が今悩んでいるのは、人類全体の念が悩んでいるのである。
世界的惨害は人類大多数の誤れる念の具象化である。

吾々は炬火(たいまつ)を携えて歩む人のように、
暗黒の中にいても光明思想を携えて歩むならば自分の周囲は明るいであろう。

併し、自分の周囲のみが明るくとも、それで満足するならば要するに吾々は利己主義である。

吾々は自分の携えている炬火(たいまつ)の火で、
人の尚(なお)燃えていない炬火(たいまつ)に火を点(つ)けねばならぬ。
人類の一人ひとりに光明思想の火を点けねばならぬ。

        <感謝合掌 平成25年6月16日 頓首再拝>

正しく祈る日 (9305)
日時:2013年06月17日 (月) 04時56分
名前:伝統


     *『光明道中記(六月 神にむすばる 6月17日)』より

【利己的行動によって快楽を?(つか)もうとすれば、却って魂の平和を失う。
                        (『生命の實相』第四巻)】

神の心に従って物を考え、神の心に順(したが)って生活を行ずることが
吾等のこの世に生まれた使命である。
人類の考え方や、或るグループの考え方に従うのではないのである。

吾々が神想観によって事物の成就を願うときには
「金」を与え給えと云うように願ってはならないのである。

「金」は使い方によっては善ともなるが、使い方によっては又悪ともなるのである。
「金」の来ることのみを願って、正しい使い方を願わない場合には、「金」は集って来たけれども、
それが何らの利益に使用することも出来ず、却って悩みの種になるであろう。

世間の金持の中には随分そんな不要な「金」を集めて、子孫親戚たちを争いの渦中に投じたり、
自分を不要に堕落せしむるためにその「金」を使っている人もある。それを考えて見るならば、
「金」のみを神想観で求めることが如何に下らないことであるかが判るであろう。

「金」がそんなにも欲しいならば、それは人類の心に従うて物を考えているからである。
吾々は神の心に従うて考えねばならぬのである。

「人を救い得るように吾が生命(いのち)をお使い下さい。
そしてそれに必要な一切の設備と費用とをお恵み下さい」と。

        <感謝合掌 平成25年6月17日 頓首再拝>

病者へは、思念より真理を理解せしめよ (9347)
日時:2013年06月19日 (水) 04時53分
名前:伝統


     *『光明道中記(6月19日 愛行完(まった)き日)』より

【心が完全に人間の実相を映す時、肉体人間は本来の完全さを顕現する。(『生命の實相』第四巻)】


凡そ利己のために思念すべきものではないし、
また他の利己心を満足せしむるために思念すべきではない。

病者に癒しの思念をするのも同じである。
自分の栄誉や利益のために人に思念して癒してもならないし、
病者が利己のためにその寿命の存続をねがっている場合にも思念してはならないのである。

病者を癒さんとするならば、
先ず今後利己のためにはその「生命」を使用しないことを誓わしめるべきである。
病者の魂の転向が完全であるならば神の生命流れ入りて、其の時よりその病いは癒え始めるであろう。

此方(こちら)の「我(が)」の思念の力で、病者に健康の念を送ってもその病は癒える事はある。

けれども若し、それが動機となって相手の魂が救われることがなく、
病気を馬鹿にする気になって、生きている間じゅう相手が一層利己的な生活をつづけるならば、
癒したことは善事か悪事か疑問である。

重荷は理由なくして人の魂の上から卸(おろ)してやるべきではない。
重荷はみずから運んで行き、彼の魂が重荷を軽く扱うことが出来るようにこそ誘導すべきである。

思念よりも真理を理解せしむるようつとめよ。

思念するならば「あなたの心には神の愛が満ちている」と思念せよ。

        <感謝合掌 平成25年6月19日 頓首再拝>

自分の心を調べて見る日 (9359)
日時:2013年06月20日 (木) 05時01分
名前:伝統


     *『光明道中記(6月20日)』より


【心の世界にて形成された運命が物質世界に映って初めて地上の事件となる
                        (『生命の實相』第一巻)】

自分が利己的な心を持っていて、寛大な愛他的な相手が出て来て
自分を助けてくれそうなものだと思うことは愚かなことである。

利己心は利己心を招(よ)びむかえるだけである。
類は類を招(よ)び、朋(とも)は友を招ぶ。

憎む心を捨てないでいて本当に健康になろうと望んでも、
本当の健康になることは出来る筈がない。
どこかに頭につかえるものが残っているし、腹につかえるものが残っているからである。

多くの病人は自分が利己的であるがために病気に罹っている者である。
或るニュー・ソートの治療家(ヒーラー)の所へ通って来る患者があった。
彼女は規定の料金の数倍も支払って長時間思念をして貰っても病気が治らないのであった。

治療家(ヒーラー)はその理由を考えた。
その患者には出来るだけ自分”だけ”長時間思念をして貰いたいと云う
利己心があることが判った。

治療家はそのことを患者に指摘した。
その利己心に気が着いたときに、その患者の病気は治ったのである。

『生命の實相』は全部読むのは中々大変であるから、
先生に直接返事を頂きたいと云う患者も此の種類に属している。

        <感謝合掌 平成25年6月20日 頓首再拝>

常に貸し越しになる生活をせよ (9434)
日時:2013年06月23日 (日) 05時05分
名前:伝統

          *『光明道中記(6月23日 食堂楽しき日)』より

【形あるものは此処の世界に形を持続する力がなくなった時
  速やかに崩壊し始める。   (『生命の實相』第四巻)】

病気を癒そうと思って神想観をしながら、癒えないと云う人には6種類ある。

(1)「病気を癒そう」と思って神想観をするために、常に、
   「病気、病気」と心に念じて絶えることがないのである。

(2)家族のうちに反対観念があって、そんなことで治るものかと強く念じている場合。

(3)憎んでいる人を赦していない場合。

(4)何か未来のことに取越苦労のある場合。

(5)心が焦っている場合。

(6)死に切っていない場合
    ―― 換言すれば利己心を殺し切っていない場合。

   利己心を殺し切った者には恐怖心はないのである。
   恐怖心は利己心から来るのである。

みずから栄える道は他を栄えしむるにある。その店は繁昌する他はないのである。
他を栄えしめんとの自分の愛念は必ず自分に反射して来て、
自分を栄えしむるほかはない。

与えたよりも多く受けようと思うな。
それは卑怯な狡(ずる)い考である。
卑怯は卑怯を呼び、狡さは狡さを呼ぶであろう。

ケチな主人に仕えるならば、尚一層深切に仕えよ。
常に貸し越しになる生活をせよ。

        <感謝合掌 平成25年6月23日 頓首再拝>

寛容の心を起す日 (9493)
日時:2013年06月26日 (水) 06時38分
名前:伝統


     *『光明道中記(6月26日)』より

【批評は斬る念である。(『生命の實相』第六巻)】

或る学生が某大学への入学に、もう三度も辷(すべ)っているのである。
「どうして私はこんなに辷るのでしょうか」とその大学生は私に質問した。

「それは、君はあまり人を批判し過ぎて、人を容れてやる寛容の精神がないから、
学校当局でも君を批判し過ぎて君を寛容に学校へ入れて呉れないんだよ」
と私は答えた。

その答があまり的中したので、学生たちはどっと一時笑ったものだ。
学生の集まりが散会してからお山に帰って行くときにも「先生に見事にやられた。
全くやられた」と言って、学生たちは噪(はしゃ)ぎながら帰って行った。

それが当の学生の心の中に寛容の心を起させる動機となったらしいのである。
その学生は非常に素直になって人を審判(さば)かなくなった。
すると、不思議なことに――不思議でもないが、その学生は今年の入学試験にパスしたのである。

私は言った。
「君が寛容の心になって、人を容れる心になったから、学校も君を入れてくれたんだよ」
「そうでもないんですけど」
とその学生は謙遜していたが流石に嬉しいらしいのである。

私も嬉しい。

        <感謝合掌 平成25年6月26日 頓首再拝>

美しき夢見る日 (9515)
日時:2013年06月27日 (木) 04時51分
名前:伝統


         *『光明道中記(6月27日)』より

【高き理想、気高き感情、明るき心を持続するものには老衰は近づいて来ないのである。
                          (『生命の實相』第十二巻)】

私たちの家は海岸にあった。
私は一人暁方(あけがた)、和んでいる春の海の夜明を見るために渚の方へ歩いていった
のである。少しも風のない海の水は鏡のように静かであり透きとおっているのであった。

その海浜の透きとおった水の中から何とも言えない紅(くらな)いの花が、
ポッカリと咲き出でているのである。それはほんとうに現実の世界では全く見ること
出来ない清まった花の姿であった。

わたしはあまりに美しいので声をあげた。
その声でわたしは眼が覚めて了ったのである。
眼が覚めてからもその夢の美しい印象は消えなかった。

わたしはこれ迄色々のところへ招かれて色々の景色を見たけれども、
こんなに清まった美しい景色と、清まった花とを見たことがないのであった。

私に歌が久し振りで出来た。
丁度その日が光明寮の卒業式であったので道場に列(なら)んでいる寮生たちを見ると
その夢の中の花の一つ一つが寮生の魂のように清く美しく感じられた。

  覚めてなお心に深くのこれるは海より咲ける紅いの花

        <感謝合掌 平成25年6月27日 頓首再拝>

審判(さば)き心を捨つる日  (9538)
日時:2013年06月28日 (金) 05時02分
名前:伝統


        *『光明道中記(6月28日)』より

【わが教は審判く道ではないのだ。礼拝の道だ。(『生命の實相』第十一巻)】

自己を高く見せる為に他を鋭くさばくものは禍なるかな。
高く上らんとする者は低くせられ、
謙りて栄えを神に帰する者は高くあげられん。

世の禍の因(もと)の80%は嫉妬心なり。
嫉妬心は比較の心なり、相対的価値は、見る立場によって変化す。
相対的価値によって高く挙げられたるものは、相対的事情の変化によって低く貶(おと)されん。

されば人を相対的価値によって論議する勿れ。

人を観るには常に絶対的価値を以てせよ。
人の絶対価値は彼が「神の子」なることなり。
彼が生きてあること、そこに絶対価値が既にあるなり。

彼が愛の心を起すとき既に其処に彼の絶対価値の顕れを見る。
彼は愛なればなり。

彼の成績の如何を問う勿れ。
ソロモンの栄華いずこにありや。
イエス生きてありしときイエスの教を真に知りたる者幾人ありや。

その生涯中の伝道の相対的成績は実に微々たるものなりき。
十二人の弟子のうち一人は耶蘇を売りき。
残れる弟子共もイエス死する迄、その復活の意義を知らざりき。

されど、イエスが絶対価値なり。

        <感謝合掌 平成25年6月28日 頓首再拝>

天国成就の日 (9553)
日時:2013年06月29日 (土) 07時28分
名前:伝統


     *『光明道中記(6月29日)』より

【われ既に天地を新たならしめたのである。(新天新地の神示 講義)】

「われ既に天地を新たならしめたのである」
此の言葉を其の儘受け容れるとき、此の言葉の真実をその儘知るとき、
吾等の住む此の世界がそのまま新天新地に変貌するのである。

”それ”は”今”あるのである。
これから新天新地が開けるのではない。
”今”既に新天新地があるのである。

おお ! その荘厳なる相(すがた)よ。
開けるのは天地が開けるのではなく、こちらの心が開けるのである。
眼を蔽(おお)える鱗(うろこ)が落ちるのである。

そのとき吾等は別の風光が眼の前に開けるのを見る。
天地が開けるとは吾が心の岩戸開きが出来ることである。

既に成就せる世界を知って、それを現象世界に実現するのが、吾々の正しい生活である。
証上(しょうじょう)の修(しゅう)である。

既に成就せる世界を知るが故に退転することがないのである。
既に健康なる自分を知って、その如く行ずるのである。

多くの病者は”これから”健康になろうとして、健康法を励行するが、
思うように効果が挙がらないのは、”これから”と思っているからである。

既に”今”健康なのである。
肉体は自分ではない。自分の殻(から)である。

如何なるものぞ。
捨て切れ、捨て切れ、捨て切ったとき永遠の生命と、
今(いま)茲(ここ)にある天国を知ることが出来るのである。

        <感謝合掌 平成25年6月29日 頓首再拝>

問題解決・感謝の日 (9570)
日時:2013年06月30日 (日) 05時06分
名前:伝統


        *『光明道中記(6月30日)』より

【天に地に感謝せよ。万物がありがたい。おのずから合掌される。
          始終この心持でおれ。(『生命の實相』第十一巻)】

若しあなたが自分を空しくするならば、もうあなたは自分ではないのである。
そのとき世界はあなたのものである。
世界は神のものであるからであり、あなたは神のものであるからである。

そのときあなたは行くところ可ならざるはないと云う状態に到達するであろう。

自分自身を「自分のもの」であると観たのが最初の無明(まよい)であり、
アダムの食った智慧の樹(こ)の実であったのである。それは形に於ける自分を見て、
自分を全体のものと引離されたるものと見た「観」の錯誤である。

全体を離れた自分と云うものもなければ、神から離れた自分と云うものもない。
すべて神のものである。神以外に何ものもないのだと知るとき世界が一変する。

神がすべての渾(すべ)てであるが故に、今、あなたは自分を空しくして神に一致するが故に、
神の叡智に導かれて失敗すると云うことはあり得ないのである。

あなたは、此の世界を「我が家(や)」と呼び、すべての人間を慈愛深き父母兄弟と
拝まなければならない。衝突は自分を空しくしない処より起こり、
他を父母兄弟として拝まない処より起る。

        <感謝合掌 平成25年6月30日 頓首再拝>



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