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霊峰《富士》 (9424)
日時:2013年06月22日 (土) 23時26分
名前:伝統

「世界文化遺産登録」決定

        *NHK NEWS WEB(平成25年6月22日)より)

ユネスコの世界遺産委員会は、22日、日本の富士山を、
静岡県の三保松原を含めた形で世界文化遺産として登録することを決めました。

審議は異例の50分間にわたり、三保松原を除外しないよう求める声が相次ぐなど、
富士山への各国の関心の高さをうかがわせました。


カンボジアの首都プノンペンで開かれている世界遺産委員会で、
富士山を世界文化遺産として登録するための審査は、
日本時間の22日午後4時半すぎから始まりました。

審査では最初に、ユネスコの諮問機関が「富士山は登録することがふさわしい。
ただし三保松原を除外すべきだ」などと勧告しました。

これに対し、およそ20か国の委員から、三保松原の除外に疑問を呈する意見や、
富士山を称賛する声が次々に上がり、富士山への各国の関心の高さをうかがわせました。

このうち、最初に意見を表明したドイツの委員は
「富士山の登録を支持したい。三保松原を題材にした美術品も多く、登録から除外すべきでない」
と述べ、富士山だけでなく、三保松原についても高く評価しました。

結局、当初は10分程度とみられていた審議は、50分近くにもわたる異例の展開となり、
最終的には諮問機関の勧告を覆し、富士山を三保松原を含めた形で世界遺産として登録することが
決まりました。

議長が木づちを打って富士山の世界遺産登録が決まると、会場からは大きな拍手が沸き起こり、
日本の関係者たちが立ち上がって、各国の委員らと握手を交わすなど登録決定を喜んでいました。

また、静岡県の川勝知事と、山梨県の横内知事も、満面の笑みを浮かべて、
まわりの関係者と握手を交わして喜びを分かち合っていました。


《山梨・静岡両県知事がスピーチ》

富士山の世界遺産への登録が決まったことを受けて、
山梨県と静岡県の両知事は委員会の会場で喜びのスピーチを行いました。

はじめに山梨県の横内知事があいさつし、
「委員会の皆様に心から感謝を申し上げます。富士山の登録が決まったことは
日本人にとって大きな喜びです。今後も富士山の環境保全に全力を尽くしていきたい」
と述べて、喜びをかみしめていました。

続いて静岡県の川勝知事は
「この瞬間、ここにいることができてとても光栄に思っています。
登録の決定は終わりではなく、始まりに過ぎないのです。
日本人は富士山を守りこの遺産を次の世代に引き継いでいきます」と強い決意を述べました。


《だめかと思っていた》

一時は除外が勧告されていた静岡市の三保松原も含め登録が決まったことについて、
地元、静岡市の職員からは喜びの声が聞かれました。

ユネスコの諮問機関「イコモス」は富士山の登録にあたって、
静岡市清水区の三保松原を除外するよう勧告していました。

静岡市役所の文化財課では、職員たち6人がインターネットを通じて配信される審議の行方を
固唾をのんで見守っていました。

審議では「富士山と三保松原の関わりや文化的な意味を考慮すると登録した方が妥当では」
といった意見が各国から相次ぎ、最終的に三保松原の登録を認める結果が出ると、
職員たちはほっとした様子で「もうだめかと思っていたのでよかったです」などと話していました。

静岡市文化財課の増田隆志課長は
「三保松原が含まれるのは難しいかと思っていたが、地元の人たちの努力もあって登録された
と思う。本当に感謝している」と話していました。


《集まった人から大きな拍手》

富士山の世界文化遺産登録決定の瞬間、富士山のふもとの静岡県富士宮市は
大きな歓声と拍手に包まれました。

富士宮市では市役所の1階にロビーに大型のスクリーンを用意し、
インターネットを通じて、世界遺産委員会の審議の様子を映し出し
、集まったおよそ500人の市民が登録決定の瞬間を見守りました。

そして午後5時半すぎに決定すると、
「おめでとう」とか「やった」などの歓声や大きな拍手がわき上がり、
富士山の世界文化遺産登録を祝っていました。

そのあとすぐに、庁舎玄関前に用意された直径1メートルほどの大きさのくす玉が割られ、
会場に集まった人たちから大きな拍手が沸き上がっていました。


《よかった、安心した》

富士吉田市役所では堀内茂市長が市の担当部長から
富士山の世界文化遺産登録の一報の連絡を受けました。

堀内市長は、
「審議が長かったので待ちくたびれましたがよかったです。安心しました」
と満面の笑顔で話していました。

また臨時の部長会議が開かれ、堀内市長が富士山の環境保全対策に力を入れていくことなどを
指示しました。

そして、防災行政無線で登録が決定したことを市民に伝えていました。


《クールジャパンの元祖だ》

安倍総理大臣は

「富士山の多彩な美しさに、古来、私たち日本人は、感動し、元気づけられてきた。
その『私たちの富士山』が、『世界の富士山』になり、心からうれしく思う。

富士山は、まさに『クールジャパン』の元祖だ。

世界遺産登録を機に、政府も海外への発信を強化し、多くの外国の方々にも
日本に足を運んでもらい、富士山を見てほしいと願う。
世代を越えて、富士山を守っていく。国民の皆さんとともに、その決意を新たにしたい」

というメッセージを発表しました。


《知事らが記者会見》

富士山の世界文化遺産への登録が決まったあと、
ユネスコの木曽功大使と文化庁の近藤誠一長官、
それに静岡県の川勝平太知事と山梨県の横内正明知事がそろって記者会見を開きました。

ユネスコの木曽大使は

「ほとんどすべての国から三保松原を含めた登録の支持をもらい、感動している。
静岡と山梨、文化庁などオールジャパンで取り組んだ結果だ」と話していました。


また文化庁の近藤長官は

「木曽大使と分担して、最後まで三保松原を含めた富士山の世界遺産登録をアピールしてきた。
各国に富士山を取り巻く日本人の精神性を理解してもらい、三保松原を含めた登録という
予想以上の成果につながり、感動した」と話していました。


静岡県の川勝知事は
「三保松原の登録はほとんど不可能だと思っていたが、審議で発言したほとんどの国が
富士見の場所として重要だと指摘してくれ、胸が熱くなる思いだった」と話していました。


山梨県の横内知事は
「審議で発言した19か国すべてが富士山の登録を支持してくれた。
今後はこれまで以上に富士山の保全が求められるので、行政だけでなく、
地域ぐるみで保全活動を進めていきたい」と話していました。

    (http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130622/t10015503381000.html

          <感謝合掌 平成25年6月22日 頓首再拝>

霊峰富士の素晴らしさ (9427)
日時:2013年06月23日 (日) 00時30分
名前:コスモス


 伝統さま 有難うございます。

 きっと明朝早くに伝統さまが、富士山の世界遺産登録を祝して書かれると思っておりましたが、このように早く書いて下さり、驚きました。本当に嬉しいことですね。

 伝統さまは夜も遅く、朝も早く、書くスピードも速く、素晴らしいですね。私などは書くスピードが遅くて申し訳ないと思っております。

 けれど、謹写している大聖師の『私の日本憲法論』は、(伝統さまはとっくにご存知だと思いますが)非常に面白く、リアルな描写にドキドキと、スリルを感じる個所も多々あります。

 戦後間もなくから、昭和40年代、50年代の、当時の日本の様子を振り返りつつ、時代の流れを痛感していますが、

 今日の衛星放送の歴史番組(BS歴史館 発見! 戊辰戦争「幻の東北列藩・プロセイン連合』)で、窮地に追い込まれていた会津藩と庄内藩が、旧ドイツ(プロセイン)と連合を組む予定であったと、報じていましたが、本当に驚きました。

 つい最近資料が判明したそうで、専門家も驚いておりましたが、「ならぬものはならぬ」会津藩が、如何に苦しいと言え、自分たちが治めるよう命じられていた蝦夷(北海道の道東)を、プロセインに売却する予定であったとは! これだけは許せませんでした。(幸い、普仏戦争が近まっていたビスマルクの反対で実現しませんでしたが)

 謹写の中で、台湾の蒋介石総統が日本のために尽してくれたという箇所がありますが、その「神話」に対する否定的な意見が、取り上げられています。

 詳しくは、http://www.ritouki.jp/uso.html をご覧下さい。(伝統さまは既に御存知でしょう)

 榎本先生が、「百年経てば、歴史の見方もまた変わる」と言われていましたが、新しい資料が出る度に、驚きの連続かもしれません。

 とにかく参院選が近いので、少しでも謹写出来ればと思っております。今後ともよろしくお願い致します。 合掌


感謝! (9429)
日時:2013年06月23日 (日) 04時53分
名前:伝統

”コスモス さま”ありがとうございます。
早々の応援に、恐縮いたしております。


> けれど、謹写している大聖師の『私の日本憲法論』は

”コスモス さま”の力強い謹写には、いつも心を動かされます。


>「幻の東北列藩・プロセイン連合』

この件については、知りませんでした。
”コスモス さま”の種々の分野への関心の深さに刺激を受けております。


>台湾の蒋介石総統(の実態)

この件につきましては、断片的に知っておりましたが、
”コスモス さま”の今回紹介の情報にて、全体として、再確認できました。
ありがとうございます。


さて、世界遺産登録の話に戻りますが、
個人的には、伊勢神宮と出雲大社のご遷宮の年に、富士山が世界遺産として登録されたことに、
世界の中で、日本という国への期待と今後の果たすべき役割の重要性を感じます。

          <感謝合掌 平成25年6月23日 頓首再拝>

世界遺産 Mt.Fuji<1> (9514)
日時:2013年06月27日 (木) 04時46分
名前:伝統

       *読売新聞(平成25年6月25日)より

《崇高な名峰 芸術の源》~時も海も越えて魅了

(1)富士山に魅了~ピーター・マックミランさん
   (アイルランド人の翻訳家・版画家で杏林大客員教授)

   日本に来るまで富士山を知らなかったというマックミランさんだが、
   来日した翌年の1988年、初めて富士山に登った。

   「季節や時間、みるたびに表情を変える美しさ」にほれ込み。東京都内に住みながら、
   山中湖のそばにも仕事場を持った。

   「これだけ文学や絵画を生み、芸術に深く関わってきた山は世界にない」とたたえる。

(2)円錐形の荘厳な姿は、いにしえより創作の源泉であり続けた。

   万葉集に歌われ、西行や松尾芭蕉も題材にした。

   北斎や歌川広重などの浮世絵は、西洋に渡ってフランス印象派の表現方法に影響を与え、
   19世紀後半のジャポニスムのきっかけとなった。

   ユネスコが高く評価したのもこのためだ。

(3)米国人東洋文化研究者のアレックス・カーさん(61)は

   「これほど完璧な山はほかにない。それだけ富士山の景観を守る責任を、
   世界から求められていることを忘れないでほしい」

   と注文を付ける。


   富士山の世界遺産登録は改めて日本人に誇りをもたらしたが、
   責任の重さも突きつけたとと言える。
   
          <感謝合掌 平成25年6月27日 頓首再拝>

世界遺産 Mt.Fuji<2> (9537)
日時:2013年06月28日 (金) 04時59分
名前:伝統


       *読売新聞(平成25年6月26日)より

《信仰・修行・娯楽の山》~形変え信仰

(1)富士山は古来、「畏れ」の対象でもあった。

   「奈良時代末から平安時代に頻発した噴火を神の怒りと感じ、祭祀を行なって鎮めようとした。
   それが富士山信仰の始まり。遥拝した場所が浅間神社になった」
                      (笹生衛・國學院大教授<日本宗教史>)

(2)人々が山に入るようになったのは、火山活動が沈静化してから。
   
  ①1149年に僧の末代上人が山頂に大日寺を建立、
   富士山は神通力を得ようとする修験者(山伏)修行の場となった。

  ②その後、信仰登山は庶民に広がり、江戸時代には、富士講が爆発的なブームを迎える。

   世界遺産に登録された構成遺産の一つである「旧外川家住宅(山梨県富士吉田市)」は
   当時の浅間神社の神職であった御師(おし)が登山口付近に経営した宿坊であり、
   一般にも公開されている。

   「信仰登山なら幕府も通行手形を出した。娯楽が少ない時代、最大の楽しみだったのだろう」
                    (旧外川家住宅協力員の神楽利行さん)

  ③明治・大正期も続いた富士講は、戦争の勃発で中断。
   富士スバルラインが1964年に完成して5合目まで車で行けるようになると、
   麓から命懸けの苦行として行なわれていた信仰登山は一気に衰退した。

  ④「現代の登山者がご来光を拝み、お鉢巡りで神が鎮座するとされる火口を回るのも、
   信仰登山の流れをくむ行為。100年たてば、これがこの時代の信仰と言われるようになる」
                 (富士山世界文化遺産山梨県学術委員長・清雲俊元さん)


   富士山を畏れ敬う心から生まれた信仰は、
   形を変えつつ、脈々と続いている。

・・・

<参考Web>

(1)富士山本宮浅間大社
    http://fuji-hongu.or.jp/sengen/history/index.html

(2)富士山頂上浅間大社奥宮
    http://fuji-hongu.or.jp/sengen/okumiya/index.html

(3)コノハナノサクヤビメ
    http://nire.main.jp/sb/log/eid32.html

          <感謝合掌 平成25年6月28日 頓首再拝>

富士山の山開き (9592)
日時:2013年07月01日 (月) 04時11分
名前:伝統

今日7月1日は「富士山の山開き」。

世界文化遺産登録後の初めての「山開き」ですので、熱気でつつまれているとのことです。

・・・

世界遺産 Mt.Fuji<3>

       *読売新聞(平成25年6月27日)より

登り方多彩

(1)リレー登山

   静岡県のがん患者「一歩一歩の会」は、標高0mの海岸をスタートし、会員同志が
   手を取り合って6回に分けて山頂を目指す。

   同会の大橋勝彦代表は
   「日本一の山を踏破したことが、生きていく自信につながる」と語る。

   3月下旬にスタートしたリレーは、7月下旬に山頂に到達する予定だ。

(2)「女子会気分で楽しく頂へ」

   登山中もファッションや恋愛話など女子トークに花を咲かせ、せかせかせずに歩く。

(3)年間30万人以上が登る富士山、今年は「弾丸登山」の自粛を呼びかけている。

・・・

<関連Web:富士山、7月1日山開き 世界遺産の夏、高まる熱気
       → http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130630-00000007-at_s-l22 >

          <感謝合掌 平成25年7月1日 頓首再拝>

富士塚 (9712)
日時:2013年07月08日 (月) 07時54分
名前:伝統

信仰対象としての富士山。

江戸時代には浅間信仰の広がりで、空前の富士登山ブームが巻き起こるほど大人気だったのです。
でも実際に江戸から富士山まで行くのはかなり大変なこと。

しかも、当時の富士山は女人禁制であったり、病気など旅が困難な人が多く、
富士講社はそのような人々のために、身近な場所に模倣富士山を築造して、
誰でも富士参拝が出来るように築いたのが富士塚でした。

富士塚とは、富士山に見立てた小山。
麓や頂上には浅間神社を配して、誰にでも気軽に富士登山を可能にした、
いわば信仰アミューズメント施設。

全国に数多くの富士塚があり、
日本人の“富士山ラヴ””富士山を想う心”が半端でないことは確かです。

<参考Web:富士塚~あなたの町のミニチュア富士山
       → http://www7b.biglobe.ne.jp/~fujisan60679/fujiduka.html >

          <感謝合掌 平成25年7月8日 頓首再拝>

標高生かし研究拠点 (9798)
日時:2013年07月13日 (土) 03時59分
名前:伝統

世界遺産 Mt.Fuji<4>

       *読売新聞(平成25年6月28日)より

標高生かし研究拠点

(1)NPO法人「富士山測候所を活用する会」が、富士山測候所を借りて、
   極地高所研究の場として活用している。
   
(2)「放射線の飛跡はどんな形に見えたかな」 
   富士山頂から約90キロ離れた埼玉県新座市の立教新座高校。
   真っ暗にした実験室でライトに照らされた実験装置を前に、
   物理担当の古田豊教諭(61)が問いかけた。 

   この夏には、同じ実験を富士山頂でも行ない、データを比較する予定だ。

(3)静岡県東部農林事務所の食品熟成の研究

  ①昨年は、お茶を山頂に運び、2ヶ月間寝かせて販売したところ、大好評だった。
   山頂から持ち帰ったお茶は、まろやかで芳醇な香りに変化していた。
   苦みや渋み成分のカフェインやカテキン類が減少していた。

  ②今年は米や肉、日本酒も山頂に運び、高所熟成の研究を本格化させる。

   <参考Web:富士山測候所を活用する会
          → http://npo.fuji3776.net/publicity/publish.html >

          <感謝合掌 平成25年7月13日 頓首再拝>

『霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き』 (9935)
日時:2013年07月19日 (金) 04時36分
名前:伝統

        *朝日新聞(平成25年7月17日)より

世界遺産に決まった富士山。
登るもよし、見るもよし。

魅せられて一人に日本文学者のドナルド・キーンさんがいる。
富士について、そして日本人の美意識について語ってもらった。

キーンさんが富士山を初めて見たのは終戦直後。

「横須賀から出る船のデッキから、朝日を浴びたピンク色の富士山を見ました。
突然、目の前に広がった。生涯で一番美しい富士山です」

両手を大きく広げ、脳裏の富士山を表現する。

「日本で一番高いだけでなく、美しく、宗教とも関係があり、日本人にとって特殊な意味を持つ。
米国で一番高い山を問われてもどこにあるのかよくわからない。
富士山のような存在はありません」

「日本人の美意識」をテーマにした最新刊『ドナルド・キーン著作集』第7巻で、
芭蕉の句を取り上げた。

『霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き』

霧がかかって富士の頂が見えない日がいい、と俳聖は言うのだ。

「月は満月だけではない、桜を見るなら満開はもちろん、しかしつぼみもいいし、散ってからも
美しい。こういった日本人の美意識を私は兼好法師から学んだ。
『徒然草』を英訳したとき、自分がまるで兼好法師のような錯覚がありました」

日本の美の原点は、室町時代、足利義政にあるという。

「義政は、戦乱で都が荒れるのを身ながら、自分には何もできないとあきらめ、美しいものに
心を注ぎます。日本では最低な将軍として嫌われていますが、日本の美学の指導者としては
重要な人物でした」

日本の美は、外から見て初めて気づくこともある。
「西洋の美学と対照してみると、日本の美は日常的です。・・・・」

・・・・・

<参考:芭蕉が見た富士

    「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」

    「山のすがた蚕が茶臼の覆いかな」

    「雲を根に富士は杉形の茂りかな」

    「ひと尾根はしぐるる雲か不二の雪」

    「富士の風や扇にのせて江戸土産」

    「富士の雪慮生が夢を築かせたり」

    「目にかかる時やことさら五月富士」

    「かたつぶりそろそろ登れ富士の山」

          <感謝合掌 平成25年7月19日 頓首再拝>

富士山頂八十二日間のドラマ~野中夫妻の挑戦 (10124)
日時:2013年07月25日 (木) 06時51分
名前:伝統

富士山頂八十二日間のドラマ
~厳冬期気象観測に挑んだ若き夫婦の勇姿

     *「美しい日本人の物語」(P110~124)より

(1)冬山の気象観測に挑んだ若き夫婦

  ①明治28(1895)年といえば、わが国が国運をかけた日清戦争に勝利し、
   欧米からも一目置かれるようになった年です。
   しかし、わが国の近代化は必ずしも順風満帆だったわけではありません。

   なかでも近代気象学の分野は多くの課題が積み残されていました。
   明治8(1875)年に気象庁の前身にあたる東京気象台が創設されてはいたものの、
   はかばかしい進展を見るまでには至らず、依然低迷を続けていました。

   何もこれはわが国に限ったことではなく、当時の先進国でさえ、
   気象観測は発展途上だったのです。

   何より最大の課題は、可能な限り高い山頂で長期にわたる観測データが収集できるか
   どうかにかかっていたのですが、世界でこれに成功していたのは、ほんのわずかの事例
   しかなく、まして冬山の観測など皆無でした。

  ②この前人未到の課題に挑んだのが、野中至(いたる)29歳とその妻千代子24歳、
   市井に生きる無名のうら若き夫婦でした。

   二人はともに博多に生まれ育ちました。
   至は慶応3(1867)年に誕生、父である野中勝良は明治になると大阪に出て裁判所に
   勤務していましたから、少年期は博多の地で祖父によって育てられています。

   かねて勝良は至を医者にしたいとの希望があり、東京赴任とともに呼び寄せます。
   上京後、父の期待をになって明治19(1886)年に大学予備門に入学するのですが、
   3年後に突如退学します。彼が尾崎紅葉と同じ下宿に住んで交流したのはこの頃のことです。


   一方、千代子は明治4(1871)年に博多で有名な喜多流能楽師梅津四圓の三女として
   生まれています。母の糸子は至の父勝良の姉にあたりますから、至と千代子はいとこの関係
   でした。

   二人が結婚したのは明治24(1891)年のこと、至はこの頃から関心を強めていた
   気象学の世界に身を投じますが、千代子もその雄図(ゆうと)に理解を示したといいます。

(2)厳冬期の富士山頂へ

  ①もともと厳冬期の富士山頂での観測は、至が単独で挑む予定でした。
   世界に後れをとっている気象事業を一民間人として先駆けようとするもので、妻の千代子が
   助力のために登ってくるなど思いも寄らなかったことでしょう。

   至は明治28(1895)年9月末から登頂しますが、
   いったい、どうやって登って行ったのでしょうか。

   じつは同年1月、冬山の富士登山を試みています。そのときは、アイスバーンを登るために
   登山靴に数本のクギを打ち込んでスパイクのように加工して挑みますが、途中でクギが
   まがってしまい登山を断念しました。

   その当時、氷壁を登る際は、今のようなピッケルがなかったため鳶口を利用しましたが、
   大して役には立ちませんでした。そこで、本番の登山ではつるはしを持参しますが、
   その重さににはほとほと閉口したといいます。

  ②こうして、厳冬期の富士山頂での気象観測は氷雪に閉ざされつつある10月1日に始まり
   ます。観測のための山小屋は、すでに夏場に登って設置していました。

   この破天荒な挑戦が新聞で報道されるや、国民に多大の関心を呼び、
   山頂の至を激励しようと慰問隊まで結成されたほどです。

   観測を開始して2週間後のことでした。報道関係者を含む慰問隊が山頂を訪れます。
   このとき慰問隊は、至から両親にあてた手紙が托されます。

   早速その文面が新聞に公開されると、国民は仰天しました。
   なんと妻の千代子が強力(ごうりき)3名を率いて登ってきて、
   ともに観測を始めることになったと記されていたからです。

   彼女は至の計画を知ったときから、行動をともにしたいと洩らしたことはあるものの、
   至のみならず周囲にもきつく止められあきらめていたはずでした。

   でも、プロの山男でさえ怖じ気づく冬季富士山に登ろうと千代子を突き動かしたものは
   何だったのでしょうか。

(3)決断――御殿場からの手紙

  ①彼女が胸に秘めてきた決意を明らかにするするのは、御殿場に滞在して至の登山準備を
   手伝い、いよいよ至と別れて東京に戻るときのことです。
   東京には至の両親がいて、二人は同居していました。

   千代子は御殿場の駅で汽車を待つあいだ、東京の義母とみ子さんにあてて手紙を書きます。

   (口語訳に約した文面を紹介します)

   「至さんはいよいよ冬の富士山にお登りになり、これから8、9か月のあいだ、すべて一人
   で過ごされます。いかに御健康とはいえ、万一のことでもあれば、これまでの努力が無駄と
   なり、あまりに可哀相です。

   ですから、私はなんとしてもお供したく、一人のんびりとはしていられません。こうした
   私の行動は、関係者の皆さま、わけても至さんからどんなにお叱りを受けようとも、
   こればかりはやめるわけにはいかず、決行する所存です。
   ついては準備のため、故郷の博多に向かいます」

   以上のような決意の手紙を綴ったのです。

  ②博多では、実家の両親に事の次第を打ち明けて娘を預け、万端の準備を整え、再び御殿場に
   戻ってきました。御殿場では土地の強力を説得、かねての計画通り富士山頂を目指すのです。

   ちなみに、彼女は自身の登山に向けてもひそかな努力を続けていました。
   以前から、こういう日に備えて博多に戻るたびに地元の山々を踏破、足腰の鍛錬に打ち込んで
   いたのです。

   一人でここまでの周到な計画を進めたひたむきさに、明治女性の真骨頂を見る思いがします。

(4)「野中は殺さぬ」と叫んだ鬼熊

  ①しかしながら、山頂では早々に苛酷な観測生活を強いられます。
   恐ろしいほどの寒風にさらされ、2時間おきに気温や風速を観測して記録する作業を
   昼夜交替して続けなければなりません。

   ついには観測機器も凍りついて破損、温度計のほかは大半が使用不能に陥ります。
   そのうえ、二人はあいついで凍傷や高山病に罹ってしまうのです。

  ②危機に瀕した夫妻を発見したのは、再び山頂を訪れた有志の慰問隊でした。
   ただちに救援隊が組織され、12月22日、山頂に向かいます。

   二人は命懸けで救いにきた隊員にとりすがって、もうしばらく観測させてほしいと
   泣いて懇願したと伝えられています。

   救援隊が二人を背負って下山していく様子は12月26日付の『時事新報』で
   詳しく報じられました。そのなかから一つ紹介しておきましょう。

   救援隊チームにいた勝又熊蔵は、その豪胆ぶりから「鬼熊」と異名をもつ有名な荒ぶる
   強力でした。その熊蔵が、年若い満身創痍の二人の使命感に触れ、あたり構わず号泣した
   といいます。

   鬼熊は至を背負って下山しますが、
   背中の至に向かって「熊が付き居れば野中は殺さぬ」とごっつい声で呼びかけながら
   急坂を下って行ったと、伝えられています。

  ③中途で断念したとはいえ、じつに八十二日間にも及ぶ観測生活でした。
   標高3776mの冬山での気象観測は世界でも初の快挙であり、
   諸外国の新聞にも報道されました。

   わが国の気象観測の歴史は、この壮挙を始まりとしています。

   夫婦は以降も本格的な観測所の設立を求めて再度の登頂を期しましたが、
   大正12(1923)年、家族全員が流感に罹ったとき、千代子は病をおして家族の看病に
   あたり、皆が快方に向かったのを見届けて力は尽きます。享年52歳でした。

(5)千代子がいたからこそ

  ①かつて野中至の偉業は、落合直文や橋本英吉などによって小説の形で取り上げられ、
   その作品は一世を風靡しました。
   ところが至本人は大して喜ばず、なにゆえか不満気の様子だったといいます。

   その理由は、後年、夫妻の長男野中厚が明かしてします。

   「父に褒章の話がありました。・・・父はもしくださるならば、千代子とともに戴きたい。
   あの仕事は、私一人でやったのではなく千代子と二人でやったものですと云って、結局、
   その栄誉は受けずに終わったことがありました」

  ②これは小説についても同様だったと思われます。
   落合や橋本の作品は、千代子は登場するものの、至の偉業に花を添える程度にしか
   位置づけられていません。

   いやいや違うのだ、山頂で観測し始めてからは、むしろ千代子に鼓舞されてあの難事業は
   進められたのだ。至はそう思っていたはずです。

   富士山気象観測は千代子を得て実現したのだ。
   なぜ分らないのかというもどかしい思いがあったに違いありません。

   筆者は平成12(2000)年の晩夏、東京都文京区にある護国寺を訪ねたことがあります。
   長い石段を登ると、境内の夫妻のお墓があり、傍らには富士山頂で寄り添う二人のレリーフ
   が建っていました。

   お墓を清め白菊を奉げて拝礼していると、名残を惜しむかのように鳴きしきっていた
   蝉の声が今も耳に残っています。   

・・・・・・

以下は、「生長の家“本流宣言”掲示板」等より

(1)富士山頂の連続滞在日数の記録は現在でもなお明治28年に記録された
   野中至の滞在日数83日。そして第 2位の記録はその妻、野中千代子の71日です。

(2)救助隊の救援によって一命は取り留めた野中でしたが、
   健康が回復するとまた何度も富士山に登って観測を継続しました。

   こうした彼の活動が徐々に認められるようになって、彼の提唱した富士山での
   高層気象観測の重要性も認識され、中央気象台によって富士山測候所(中央気象台
   臨時富士山頂観測所)が建設されたのは昭和7年(1932)、
   野中夫妻が冬季観測を行なった年から37年後のことでした。

(3)昭和7年に開所した富士山測候所の開所の日付は 7/1ですが、富士山測候所記念日は
   この日ではなく、野中夫妻観測所が開所した8月30日とされています。

   この記念日は、富士山測候所の記念日であるとともに気骨ある一人の挑戦者と
   その妻の記念日でもあるのです。

(4)1964年(昭和39年)9月には、気象観測や台風予報のための富士山レーダーが
   完成します。その設置工事は困難を極め、あの『プロジェクトX』の第1回放送で
   「巨大台風から日本を守れ~富士山頂・男たちは命をかけた~」として取り上げられました。

   富士山レーダーは平成11(1999)年11月にその役割を終えて撤去され、
   現在は富士吉田市の体験学習施設「富士山レーダードーム館」に展示されています。

   有人の気象観測は、平成16(2004)年10月1日に幕を閉じました。

(5)現在、NPO法人「富士山測候所を活用する会」が、富士山測候所を借りて、
   極地高所研究の場として活用している。
   (当スレッド内「標高生かし研究拠点 (9798) 2013年07月13日 (土)  参照)

             <感謝合掌 平成25年7月25日 頓首再拝>   



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