【広告】楽天市場からブラックフライデーセール11月21日から開催予定

 

光明掲示板・第一

 

本流宣言掲示板光明掲示板・第二」「光明掲示板・第三」「光明掲示板・伝統・第一」「光明掲示板・伝統・第二」「谷口雅春先生に帰りましょう・第一」「谷口雅春先生に帰りましょう・第二

ご投稿は「谷口雅春先生に帰りましょう・第二」へ

重要リンク集
本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。 なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。 「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、 自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、 自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付のうえ、 当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。
トップページ/Página de topo/Top page

 


浄行ととのう (9596)
日時:2013年07月01日 (月) 04時32分
名前:伝統

ただ有り難い日

      *「光明道中記」(7月1日)より

【当り前の人間を自覚し、当り前に生きるのが「生長の家」の人である。
  当り前の人間が神の子である。     (「生命の實相」第二巻)】 


梁(りょう)の武帝は仏心天子(ぶっしんてんし)と呼ばれるほどの信仰深い皇帝であって、
「放光般若経」を講じたときには、奇瑞があらわれて天から葩(はなびら)がサンサンと降り、
地が黄金に変じたといわれている位である。

その位の武帝であっても、まだ本当の真理(こと)が判っていなかったのである。

当時有名な達磨大師が梁の国へ渡来したというので武帝は早速達磨大師を迎えて
教を聴いたのであった。

「朕は仏教信仰に篤く、これまで寺や仏像や僧侶に対して供養したことは実に夥(おびただ)しい
ものがございます。斯(こ)うした供養の功徳は如何ほどでございましょう」

「無功徳」発止と達磨大師霹靂(へきれき)のような返事があった。
功徳をもとめて供養するが如きはまだ本当ではないのである。

功徳は心の眼(まなこ)が開いて見たときに到るところに満ちているのである。
天から葩(はなびら)が降り、地が黄金に変ずるが如きのみが功徳ではない。
当たり前に顔が洗える、当り前に御飯が戴ける、それが功徳である。

心の眼を開いて見れば到るところ神恩仏徳が充満している。
吾等は実に宏大無辺の天愛につつまれているのだ。

        <感謝合掌 平成25年7月1日 頓首再拝>

偽物(にせもの)を捨てる日 (9609)
日時:2013年07月02日 (火) 07時26分
名前:伝統

      *「光明道中記」(7月2日)より

【自己の仮面を剥ぐとき本物の我が顕れる。(「生命の實相」第十一巻)】 

寺院に奉仕し、仏像に供養し。僧侶に布施してその功徳いくばくなどと思うのは凡(おそ)そ
これに過ぎたる愚問はない。そういう問を発する心の中には、「供養誇り」と云うホコリで
醜く充満しているのである。

「《わし》がしてやった」と考える。
「《わし》はこれだけの供養をしたのだから、お蔭が当然あるべき筈(はず)だ」と考える。

その人は「《わし》」と云う愚かにも、本来無いところの自己をつかんで放していないのである。
天地間ただ神恩仏恩(おかげ)の表現(あらわれ)であると知るとき、
自分の功徳と云うものは本来一つもない筈(はず)である。

何か善いことをして、それを《自分の》手柄のように考えずにいられない人は、
達磨の一喝「無功徳」を受けるが好い。
《自分の》功徳がないと知るとき、天地間はただ功徳で充満しているのである。

無功徳すなわち一切功徳である。
功徳があると云う間は一切功徳をくらましているのである。

奇蹟に就(つい)ても同じことである。
ただ当り前に生きている、ただ当り前に生かされている、これが奇蹟である。

或る特定の出来事を指して「功徳」と云うとき一切功徳を蒙(くら)ましているのである。

        <感謝合掌 平成25年7月2日 頓首再拝>

無限功徳ある日 (9616)
日時:2013年07月03日 (水) 06時08分
名前:伝統


          *「光明道中記」(7月3日)より

【娑婆本来無いから、娑婆にいながら寂光土にいるのだ。(「生命の實相」第十一巻)】

梁(りょう)の武帝は達磨大師から、今まで自分の行(おこな)って来た供養が、「無功徳!! 」
だとの喝を受けて、自分の倚(よ)って立っていた真理がくだけた気がして寂しくて
耐(た)まらなかった。 

それでは何が最も功徳ある真理だろうか、それが聴きたい。
そこで、「いかなるかこれ聖諦(しょうたい)第一義? 」とたずねたのである。
それでは何が第一義の聖(とうと)き真理でございましょうかと云うほどの意味である。

達磨の答は意表に出(いで)た。
「廓然無聖(かくねんむしょう)」と彼は言ったと、「碧巌録」に書いてある。
聖(しょう)は「悟りの真理」と云うことである。

「聖(とうと)い悟りの真理なんて、そんなものはないのだ」と云う一喝なのだ。

《これが》真理だ、《これが》功徳だなどと言っているものには、功徳を先ず打消し、
真理さえも打消してしまうところに、本当の真理があらわれて来るのである。

一つのものを指(ゆびさ)して、「《これが》」と言ったとき、指(ゆびさ)すことの出来ない
大地に充(み)つる宏大な真理がくらまされてしまうのである。

達磨が「廓然無聖(かくねんむしょう)」と言って聖諦(さとりのしんり)を否定して
了(しま)ったとき、却って其処に天地に満つる宏大無辺な真理が肯定されているのである。

            <感謝合掌 平成25年7月3日 頓首再拝>

真理を知る日 (9636)
日時:2013年07月04日 (木) 04時39分
名前:伝統


          *「光明道中記」(7月4日)より

【外の権威に頼って救われると誤信した時代は過ぎ去った。(「生命の實相」第六巻)】 
 

「廓然無聖(かくねんむしょう)」と云う達磨の一喝を受けた梁(りょう)の武帝は
それが大肯定のために否定だと云うことが判らない。

悟りの真理とは「一定のこんな形だ」と考えている人には、そんな「一定のこんな形」の真理を
否定する必要があったのである。真理はそれを「形」だと思ったら躓(つまず)くのである。

功徳と言えば「形」であると思い、真理と言えば「形」であると思う。

そう思い込んでいる際(はな)に、曰く「無功徳」曰く「真理無し」と否定(うちけ)されて
了ったのだから、梁の武帝は、自分の眼の前にいる真理を悟ったと伝えて聴いている大先輩なる
達磨大師は一体何者で、何を悟ったと言うのだろう。一つそれを聴こうと思ったのだ。

そこで梁の武帝は、

「朕に対するものは誰(た)ぞ」と問うた。

如何にも一定の形をした達磨と云う人間が、
一定の形をした真理と云うものを食べて生きているではないかと云うような問である。

形を見、肉体を見ている者には真理は見えないのである。

そこで、

「識(し)らず」

と達磨は答えて、サッサとその場を引上げて行って了ったのである。

            <感謝合掌 平成25年7月4日 頓首再拝>

臭味を脱却する日 (9656)
日時:2013年07月05日 (金) 05時00分
名前:伝統


          *「光明道中記」(7月5日)より

【大乗仏教の真髄は心の自由を説いている。(「生命の實相」第一巻)】 

「識(し)らぬ」と云う言葉の中には無限の味わいがある。

「朕は寺院に仏像に僧侶にこれだけの供養をしました。功徳はどれだけありましょうか」
と云う武帝の方は「識(し)る」方の側である。

「自分は『生命の實相』を何頁(ページ)読みました。まだ病気が治りませぬ」と言うのも
「識(し)る」方の側である。

まことに鼻持(なはもち)がならぬ。「《わし》が・・・」の臭気がプンと来る。
米は知らずして吾らを養い、空気は識(し)らずして吾らを養っている。
功徳がなくとも一言(ごん)も不平を言わない、従って大功徳を行(ぎょう)ずるのである。

人を救っても無心にして救うようでなければならない。
『生命の實相』を読んで色々の病気が治ったと言って礼状を寄越される人があるが、
私はまだひとりの病人も救ったことはない。

では『生命の實相』と云う本が人を癒やし人を救うのであろうか。
『生命の實相』の本にたずねても『生命の實相』の本は「識(し)らず」と言って、
ただ真理を説いているだけである。

識(し)らずして行(ぎょう)ずるものでないと大功徳は生じないのである。

目をひらけば尽天尽地(じんてんじんち)大功徳が充満しているのである。

            <感謝合掌 平成25年7月5日 頓首再拝>

至誠身を献ぐる日 (9674)
日時:2013年07月06日 (土) 04時48分
名前:伝統


          *「光明道中記」(7月6日)より

【遊女マグダレーナは一切を真理(キリスト)の足下に漑(そそ)いだのであります。
                                   (『完成の聖書』】


達磨大師の法を嗣(つ)いだ人が第二祖の慧可禅師である。
少(わか)くして出家し洛陽竜門の香山(こうざん)にいたり永穆寺(えいぼくじ)の僧となる。

諸法を歴遊し、三十二歳再び香山に帰って参禅瞑想すること八年、あまり宇宙の真理を瞑想し
過ぎたので、「頂骨(ちょうこつ)為(ため)に変じて五峰(ごほう)の秀出(しゅうしゅつ)
せるに似たるものあるに到れり」と言うから、瞑想のために骨相が変り、五峰が突々(とつとつ)
として聳えているようにろ頂骨が盛り上って来たものらしい。

真理を求めるには八年参禅して真理を瞑想して骨相まで変る ―― この意気が欲しいと思う。

慧可四十歳の時、達磨大師が嵩山(すうざん)に巡錫(じゅんしゃく)せられたのを機会に、
嵩山(すうざん)の少林寺を訪れて入室を乞(こ)えども許されない。

終夜雪の中に過して翌暁(よくあけがた)に至るも尚(なお)許されない。
そこで慧可はみずから左の肱(ひじ)を切断して、入室を許されずんば死すとも此処を去らずの
赤誠(せきせい)を披瀝(ひれき)したので、とうとう入室を許されたのである。

今は、生長の家の道場に入ることの易きこといかばかりぞや。
それだけに真剣味ありや。
真剣味ある者は幸いなり。

道は自己の「真剣」の中にあり。
漫然と来(きた)って漫然と聴き、漫然と批評し去る者は愚かなるかな。
自分の心だけのものしか見えず聴えずである。

            <感謝合掌 平成25年7月6日 頓首再拝>

喜ぶ人に逢う日 (9691)
日時:2013年07月07日 (日) 04時23分
名前:伝統


          *「光明道中記」(7月7日)より

【これが自分であると力んでいた「自分」は本来無いものである。(「生命の實相」第七巻)】 


慧可が入室を許されて第一に達磨大師に尋ねたことは次のことであった。

「師よ、わたくしはまだ心が悩んでおりまする。心が迷って落ち着くと云うことを知りません。
此の心の迷いを去り、本当に深い魂の安心が得られるように、私に法を説いて下さい」

「よし、お前の心の悩みを解いてあげるから、その迷っている心とやらをここへお出しなさい」
電光石火、達磨は斯う言った。

慧可はその迷っている心の正体を掴もうと思って探したが、見出すことが出来なかった。

「師よ、迷いの心を持出そうと思って探しましたが、見附かりませぬ」

「そら、そのように迷っている心は何処にもないのじゃ」

慧可はハッと気が着いた。
何処にも迷いの心と云うようなものはなかったのである。

罪はない、迷いは無いと云うことは、生長の家の第一義の真理である。

迷いとは自己凝滞(ぎょうたい)の「状態」であって、「迷い」と云う《もの》ではない。
状態とは或る相対的立場からそう見えると云うことであって、《もの》そのものがあることではない。

三日月の状態十三夜の月の状態 ―― それは立場に従って変るものである。

            <感謝合掌 平成25年7月7日 頓首再拝>

心の滞(とどこお)り消える日 (9715)
日時:2013年07月08日 (月) 08時02分
名前:伝統

          *「光明道中記」(7月8日)より

【罪とは「実相を包みて顕わさざるもの」であります。(「生命の實相」第七巻)】 


心を滞らせた状態が「迷い」であるから、心を滞らせることを止(や)めたその刹那から、
もう「迷い」は存在しないのである。

自分で勝手に肩に力を入れて「肩が凝った」と呟(つぶや)くようなものである。
肩に力を入れることを止めたその日から、もう肩は凝らなくなる。
「ついに肩の凝りを探し求むれども得ず」である。

病気も心を滞らせている期間だけ《ある》かの如く現われているのであって、
若し心を滞らせなくなったら、その人にとって病気は《ない》のである。

二祖慧可は斯うして、悩む心もない、迷う心もないという第一義的真理を悟ったのであるが、
三祖僧璨(そうさん)が慧可をはじめて訪ねたとき、僧璨(そうさん)は
風疾(ふうしつ)を患っていた。風疾とはリュウマチのことである。

慧可は僧璨(そうさん)を試みるために言った――

「そんな病を患う者がわしに会って何の益があるか。病気の者は医者に行くが好い」

「身は病気でございましても、病人の心もあなたの心も本来一つのものでございます」

僧璨(そうさん)はこう言ったので、天分を認められて慧可の弟子となることが
出来たのである。

併し僧璨(そうさん)は心に悩みを有(も)っていた。
それは「罪業あり」の自覚であった。

            <感謝合掌 平成25年7月8日 頓首再拝>

病人に真理を語れば病い消ゆる日 (9735)
日時:2013年07月09日 (火) 06時47分
名前:伝統

          *「光明道中記」(7月9日)より

【罪と暗とは同じもので、本来無いのを言うのであります。(『完成の聖書』)】


「病人の心も、あなたの心も本来一つのものでございます」僧璨(そうさん)が斯う言った
のは清浄心のこと、本心のこと、仏性のこと、神性のことである。

併し僧璨(そうさん)は身に病あるに就(つ)けても考えられるのは、本来の清浄心
(仏性)のほかに罪業があるという自覚であった。罪業があるので、その罪業のあらわれとしての
病気があるとしか考えられないのである。

或る日僧璨(そうさん)は、
「私は宿世(すくせ)の罪業によって此の難病に罹(かか)っております。
どうぞ、私のために滅罪の法を行(おこな)って下さいませ」 と言った。

「それでは其の罪業と云うものを茲(ここ)へお出しなさい。滅罪の法をして進ぜよう」
と慧可は言った。

僧璨(そうさん)は驚いて自分の身の周囲をあらためて見廻した。
見まわせども罪業を見出すことが出来ぬ。
「罪業は求むれども見当りませぬ」

「罪はそのように無いものじゃ」

ついに慧可に衣鉢を伝えられて三祖となる。

僧璨(そうさん)の風疾は罪業無の自覚で癒えたものらしい。

キリストの「汝の罪赦されたり、起(た)ちて歩め」の一喝によって
躄(いざり)が立ったのと同巧異曲である。

それ以来僧璨(そうさん)は身に自在を得た。

            <感謝合掌 平成25年7月9日 頓首再拝>

「迷い」無し「罪」無し「病い」無し~達磨から四祖まで伝わった真理 (9752)
日時:2013年07月10日 (水) 08時07分
名前:伝統

          *「光明道中記」(7月10日 迷い本来無しと知る日)より

【「本当の自分」の金剛不壊の実相が解って来たら、人間は本当の自由を得る。(『完成の聖書』)】

四祖道信は、仏道の天才であった。
まだ幼い十三歳にして、解脱を求めて三祖僧璨(そうさん)に見(まみ)えて教えを
教えを乞うたとある。

僧璨(そうさん)は、「まだ幼い身で、お前は私に何を求めようと言うのじゃ」
とたずねた。

「師よ、わたしは解脱を求めているのでございます。どうぞ魂の自由になるように法を説いて下さい」
と道信は熱心である。

「お前解脱を求めるのか。解脱させてあげるから、その縛っているものを教えなさい」

「誰も縛っている者はありませぬ」

「縛られていなければ、解脱すべき何ものもないではないか」

「はい、わかりました。自分の空想で自分を縛っておりました」

十三歳の道信はこれでハッと悟ったのである。
その後、僧璨(そうさん)に師持すること九年、
ついに衣鉢を伝えられて四祖となったのである。

自分の空想で、自分を縛っているものが『迷い』であり、『罪』であり、『病』である。
これを知れば身に患(わずら)いはなくなるのである。

(以上、「光明道中記」より)

     ・・・・・・・・・・

・・・以下は、別の資料より、三祖僧璨(そうさん)について、
   もう少し詳しく紹介しておきます。


二祖慧可禅師から、法を嗣いで三祖となった後、安徽(あんき)省懐寧県にある
皖公山(かんこうざん。別名、三祖山)に身を隠し、頭陀(ずだ)と禅定を常としていた。

やがて後周(こうしゅう)武帝の廃仏に遭遇し、皖公山と安徽省太湖県の司空山(しくうざん)
との間を往来して過ごした。

常の住居がなかったため三祖となって十数年たっても知る人は少なかった。

隋の西暦五九二年、道信という沙弥(しゃみ。小僧さん)がやって来て、三祖を礼拝して言った。

「願わくば和尚、慈悲をもって解脱(げだつ)の法門を授けたまえ」

「誰が汝を縛っているのか」

「人の縛(ばく)するなし」

「さらに何ぞ解脱を求めん」

道信は言下に大悟した。
それから身を慎んで師事すること九年、吉州(きっしゅう)において受戒した。

三祖は何度か道信を試み、縁が熟したことを知ると衣法を付して言った。

「昔、二祖慧可大師、我れに法を付してのち、遊行教化すること三十年にして終わる。
われは今汝を得たり。何ぞここに止まらん」

こうして三祖は羅浮山へ行った。

隋の煬帝の西暦六〇六年、法会(ほうえ)において四衆(ししゅ。出家と在家の男女)のために
広く心要を説き、説きおわると大樹の下で合掌し立ったまま生涯を終えた。(立亡)

唐の玄宗(げんそう)皇帝が、鑑智(かんち)禅師、覚寂之塔と諡(おくりな)した。

      (http://www3.ocn.ne.jp/~zuiun/143sanso-daisi.html

三祖僧璨(そうさん)があらわした「信心銘」は全篇146句、584字から成り、
「禅宗四部録(信心銘、証道歌、十牛図、坐禅儀 )」の一つとなっている。

信心銘について、鈴木大拙博士は「堂々たる哲学詩であり、禅旨の大要はこれで尽きている」
とし、古来類がない傑出したものだと評価しております。

            <感謝合掌 平成25年7月10日 頓首再拝>

心爽やかなる日 (9771)
日時:2013年07月11日 (木) 04時18分
名前:伝統


          *「光明道中記」(7月11日)より

【実相と云うものは「其儘(そのまま)美しい」のであります。(『生命の實相』第十五巻)】


四祖の道信は「祖風を継いでより心を摂(せつ)して寝(い)ぬることなし」とあるから、
衣鉢(いはつ)を伝えられて以来眠ることがなかったらしい。それでも別に神経衰弱で
夭死(わかじに)したのではない。彼は七十二歳で示寂(しじゃく)したのである。


私が不眠症の人に示して必ず治る秘訣がある。
それは不眠の人に、ロンドンで四十数年間1時間の睡眠もとらないで健康状態で続いて来、
最近七十四歳の長命で亡くなったと云う実話である。

この話が或る新聞に報ぜられると、ウィーンでは「私は二十何年間一睡もしないで活動を続ている。
眠る必要がなくなったので、仕事をしないと退屈で仕方がないので1日24時間としての時間割を
作って仕事をしている」と言って発表した人があったと云うことである。

それから文士の倉田百三氏が約1年間不眠が継続していて、その揚句の果に廓然(からり)と
悟ると十数年間の全身結核がケロリと治って、夏は水泳までも自由に出来るようになったと云う
実話である。

こんな話をしているうちに「人間必ずしも眠る必要はない」と云う観念を得、不眠に対する恐怖が
消える、するとその晩から大抵その人はグウグウ眠るようになるのである。

不眠症 ―― 実は不眠恐怖症に過ぎなかったからである。

            <感謝合掌 平成25年7月11日 頓首再拝>

『生命の實相』を必ず読む日 (9784)
日時:2013年07月12日 (金) 04時01分
名前:伝統


          *「光明道中記」(7月12日)より

【生長の家では外界をただ「自心の展開」として自由自在に駆使し得るようになるのであります。
                              (『生命の實相』第七巻)】

四祖の道信は好んで「大般若経」を読誦した。
今でも禅宗では「大般若経」の繙読(はんどく)は非常な功徳があるとせられている。

「大般若経」の理趣分には『生命の實相』に説く真理と同じことが書いてあると云うことを
私は『生命の實相』で指摘して置いた。

四祖は或るとき馬賊のような群盗に自分の寺を囲まれたが、「大般若経」を一心不乱に
誦していると、その寺を無数の軍隊が取巻いているような幻像が群盗の眼に映じたので、
群盗は一物も掠(かす)め得ないで逃げ出したと云うことが伝記にある。

こんなことは『生命の實相』を私自身が書いて私自身がその色々の奇瑞を見るまでは、
作り話だと思っていたが、今なら、それが作り話ではない、本当の話だと云う気がする。

道信は或る日黄梅山(おうばいざん)で一人の異相ある少年に出逢った。
道信から声を掛けて姓名を訊いた。

「姓名なんか訊いて何にするのです。姓名は本来空です。本性は変るものではありません」
「本性は、何と申すか」「本性は仏性(ぶっしょう)です」

少年の此の答に道信は感心して、其の場で彼を弟子にした。
少年は後の五祖弘忍である。

            <感謝合掌 平成25年7月12日 頓首再拝>

日常生活に道を現す日 (9800)
日時:2013年07月13日 (土) 04時09分
名前:伝統

          *「光明道中記」(7月13日)より

【本当の美しさと云うものは深切な愛の行(おこな)いの内にこそ輝くものであります。
                              (『生命の實相』第十五巻)】

五祖弘忍の弟子に慧能と云う米搗男(こめつきおとこ)があった。
日常生活、事々物々禅であることを気着かぬ人は慧能を学ぶが好いのである。

禅とは変な、日常生活に適用せぬような奇警(きけい)な警句を吐いて問答し、
奇行怪言(きこうかいげん)相手を翻弄するの妙(みょう)を得ることだと思っていれば、
それは大変な間違である。

米を搗(つ)くのが禅であり、掃除をするのが禅であり、飯を炊(た)くのが禅であり、
茶を淹(い)れるのが禅である。

禅と茶との一致の妙用に達したのが茶道である。
茶道を手先の袱紗(ふくさ)《さばき》や、足の踏出し方の足先の技巧だと思っている人は
いつまで経っても「茶の淹れ方」に過ぎぬのであって「茶道」には達せぬのである。

「茶の淹れ方」は茶道の師匠の免許までも得るほどに稽古出来ていてさえも、
日常の坐作進退方(ほう)にかなわず、御飯を焚(た)いても硬軟その所を得なかったり
するのでは何にもならぬ。

御飯たくことが茶道なのである。
御菜(おさい)を煮ることが茶道なのである。
一芸に名人と謳(うた)われるような人は何をやらせても直ぐ、骨(こつ)を体得する。

「道」は万(すべ)てに通ずるが、「手先の技巧」ではすべてに通ずることは出来ぬのである。
心得べきことである。

            <感謝合掌 平成25年7月13日 頓首再拝>

平凡淡々有り難き日 (9822)
日時:2013年07月14日 (日) 04時40分
名前:伝統


          *「光明道中記」(7月14日)より

【一つに成ったところに「道」がある。(『生命の實相』第十一巻)】


或る時、趙州(じょうしゅう)和尚は弟子たちに示して、
「至道無難(しいどうぶなん)唯揀択(ただけんじゃく)を嫌う」と教えた。

至道は大道(たいどう)である。天地の道である。
無難(ぶなん)は、難しいことは何もないと云うことである。

天地の大道は何もむつかしいことはない。
平々凡々のところに天地の道があるのである。

或る小学生は、眼鏡(めがね)を割ったら前方が見えないで家へ帰れないから、
親に学校へ迎えに来て貰ったと云う程に強度の近眼であったが、

或る生長の家誌友に、朝起きたら自分の寝床を畳むこと、机の上を綺麗に始末すること、
父母に毎朝、洗顔の水を金盥(かなだらい)に汲(く)むことの3つを実行するように教えて
それを実行せしめたら、その近眼が癒えてしまったのである。

まことに平々凡々が道なのである。

ただ「揀択(けんじゃく)」
―― あれが好き、これが嫌いと、揀(え)り択(この)みをすることが可(い)かぬのである。
そのまま素直になったとき、万事が道にかなうのである。

道は病気になるものではないから、
吾々の生活が平々凡々何の変哲もないところに無限無尽の有難さが感じられるようになれば、
その生活は道に乗ったのであるから、病気は自(おのずか)ら癒えるのである。

            <感謝合掌 平成25年7月14日 頓首再拝>

道が生活に生きる日 (9842)
日時:2013年07月15日 (月) 06時19分
名前:伝統


          *「光明道中記」(7月15日)より

【世話をする人も世話される人も皆一つの神から出ている。(『生命の實相』第八巻)】


手近なことが当り前に順序整うて出来るようでないとその人に道が生きていないのである。

人間が飯を食う、至極当り前なことである。
当り前が道なのである。

飯を食うことを物質を食うかの如く思っている人があるかも知れぬが、
道がそこに行じられているのである。
行住坐臥そこに道が行じられていなければならぬ。

「道を歩いているときにも神の子が歩いていると思え」と「智慧の言葉」に書いてあるのは、
歩いていても、坐っていても臥(ね)ていても道になり切れと云うことである。
行住坐臥、道になり切るのが生長の家の生活である。

それは茶道に一致する。

吾等の生活は行住坐臥「道」であり、「禅」であり、茶道でなければならぬのである。
先ず下駄を揃えることから茶道は始まる。
茶道の極意はすべてに亘(わた)って所を得させることである。

大調和である。
清和である。清(せい)は整(せい)であり、整えるである。

無駄を省いて、而(しか)もそれ以上に整理の道がないほどに一切の行持(ぎょうじ)が、
茶碗一つ、袱紗(ふくさ)一つ、に到るまで、
簡単にして、あれほど整理された取扱方(とりあつかいかた)はないのである。

            <感謝合掌 平成25年7月15日 頓首再拝>

道を歩む日 (9868)
日時:2013年07月16日 (火) 07時12分
名前:伝統

          *「光明道中記」(7月16日)より

【世界は公平で自分の心だけのものを投げ返す。
 之(これ)を生長の家では「心の法則」と言う。(『生命の實相』第八巻)】


趙州(じょうしゅう)和尚の「飯を食ったら茶碗を洗え」の公案は
『生命の實相』に書いてあるから茲(ここ)には再び書かないが、
趙州和尚は常にこう云う導き方をした人である。

ある時一人の修行僧が趙州和尚を訪ねて道をたずねた。

「道は牆(かき)の外にあり」(《そら》其処に道があるじゃないか)と趙州は答えた。

「そんな詰(つま)らない道のことじゃありません。人間の歩む大道(たいどう)のことです」
と修行僧は言った。

「そうか、そんな大道か。大道なら都(みやこ)の長安に通じているよ」と趙州は答えた。

道とか大道とか言っても、そんな抽象的なものが道ではないのである。
道は具体的なものである。
生活に如実に実現しなければならないのである。

人類愛だなどと言いながら、
手近にいる家族と仲好く出来ないようなことでは道が大地についていない。
それは空中楼閣に過ぎないのである。

手近なところに道がある。
1枚の紙、鉛筆の削り方、筆箱の整理、茶碗を洗う、廊下を拭く、便所を掃除する、
すべて道ならざるはないのである。

至道無難(しいどうぶなん)唯揀択(ただけんじゃく)を嫌うとはよく言ったものである。

            <感謝合掌 平成25年7月16日 頓首再拝>

本来清浄 (9900)
日時:2013年07月17日 (水) 04時03分
名前:伝統

        *『光明道中記(7月17日 本来清浄を悟る日)』より

【吾等は本来「無罪」なればこそ罪の感じが起るのであります。(『生命の實相』第七巻)】


五祖弘忍の許(もと)には、竜象(りゅうぞう)雲の如く集り、
禅風大(おおい)に挙(あが)り、弟子千人に及んだ。

或る時その弟子達を集めて、
「自己各々悟れるところを吐露(とろ)して一句を示せ。
吾が意を得たる者に衣鉢(いはつ)を伝えて、六代の祖師としよう」 と言った。

千人の弟子のなかでは神秀上座(じんしゅうじょうざ)が押しも押されぬ学者であった。
神秀は一句を示した。


   身は是れ菩提(さとり)の樹(じゅ) 心は明鏡(めいきょう)の台の如し。
      時に払拭(ふっしょく)して塵埃(じんあい)を惹(ひ)かしむること莫(なか)れ。


「さすがは神秀上座である」と弘忍は衆の前で讃めたが、神秀上座をひそかに招(よ)んで、
尚その本来塵埃なく、本来罪なき人間の本性を徹見すべきことを諭したと云うことである。


米搗き男の慧能は、それを伝え聞くと神秀上座の句をもじって、次の如く落首した。――


   菩提(さとり)は本樹(もとじゅ)無し 明鏡亦た台にあらず。
       本来無一物、何(いず)れの処にか塵埃を惹(ひ)かん。


その落首が評判になった。
師匠の弘忍はその夜ひそかに米搗き男の部屋をおとづれ、汝こそ第六代の祖師となる資格が
あると、法衣を譲って、夜のうちに姿を隠すようにと、実(まこと)に深切な心遣いであった。

            <感謝合掌 平成25年7月17日 頓首再拝>

迷い心なし! 実相心あるのみ! (9921)
日時:2013年07月18日 (木) 04時25分
名前:伝統


        *『光明道中記(7月18日 行届いた生活の出来る日)』より


【衆生固(もと)より仏。仏のみありて凡夫無きなり。
  光のみありて暗なきなり(『生命の實相』第十二巻)】

「さすがは神秀上座である」と衆人の前では讃(ほ)めてやりながら、ひとり自室に
招(よ)んで、衆人の前で恥辱を与えないで訓戒するその深く切なる心遣いが禅なのである。

慧能の悟りを認めてながらも、衆人と葛藤を起さしめないように、夜に慧能を訪れて法衣を
譲ると、夜のうちに姿を隠して落ちのびるように注意した其の深くこまやかな心遣いが
禅なのである。

茶道と言えば、茶を淹(い)れることの手先の技だと思い、割烹と言えば、料理をする
手先の技巧だとのみ思い、禅と言えば禅問答をして他(ひと)をやり込める詭弁術だと
考えている者は、この五祖弘忍の深い行き届いた愛を見るが好い。

行き届くのが禅なのである。
そして禅の生活こそ生長の家の生活であり、禅の悟りこそ生長の家の悟りである。

神秀上座の一句
「身は是菩提(さとり)の樹(じゅ) 心は明鏡の台の如し」にはまだ「肉体の存在」を
みとめ、「迷う心の存在」を認めている。

五祖弘忍が法衣を譲らなかった理由である
「菩提(さとり)には樹(じゅ)無し 明鏡は台に非ず」と明耿々(めいこうこう)たる
実相心のみを悟った慧能はまさしく生長の家の悟(さとり)に到達していた。

         <感謝合掌 平成25年7月18日 頓首再拝>

久遠人間を自覚する (9937)
日時:2013年07月19日 (金) 04時42分
名前:伝統

        *『光明道中記(7月19日 久遠人間を自覚する日)』より

【「久遠の実在」としての実相人間を信ずる者には永遠の生命が与えられる。
                               (『生命の實相』第七巻)】


六祖慧能禅師の道場にも俊秀(しゅんしゅう)雲の如く集った。
なかにも最もすぐれて、後世に永く法孫(ほうそん)を連綿として断たなかったのは
南獄(なんがく)の懐譲(えじょう)禅師と青原の行思(ぎょうし)禅師とである。

南獄は黄檗宗、臨済宗の祖であり、青原は曹洞宗の開山である。

南獄が六祖慧能禅師を訪れたとき、慧能は、

「汝(なんじ)は何処から来たのじゃ」とたずねた。

「嵩山(すうざん)から参りました」と答えると、
「その参りましたというのは、一体何物が来たのじゃ」と重ねて問われた。

「説似一物即不中(せつじいちもつそくふちゅう)」と南獄は答えた。

印加された。

説似(せつじ)と云うのは説示(せつじ)と同じことである。
禅宗には「挙示(こじ)」「挙似(こじ)」など同一に取扱ってある。
「《これ》だとハッキリ言って了ったら《それ》に的中しない」という意味である。

「維摩経」には維摩詰が病気の相(すがた)をしていると文殊菩薩が見舞に来て
「不来(ふらい)の相(そう)で来(きた)る」と言っている。
不来にして来るのが如来である。

超時空的存在が人間である。
「来たと云うのは此の人間だ」と顔を指(さ)そうが、胸を指そうが、
指(ゆびさ)したが最後、それは「物質」の一片「肉」の一片であって人間ではない。

人間とは形なき霊なる、「説似一物即不中(これだとものをさしたらあたらず)」なのである。

         <感謝合掌 平成25年7月19日 頓首再拝>

「肉体無し」、日面仏、月面仏、光り輝く存在じゃ! (9985)
日時:2013年07月21日 (日) 04時56分
名前:伝統

        *『光明道中記(7月20日 証上の修を行ずる日)』より

【修行しなくても、始めから仏であるというのは事実です。(『生命の實相』第十五巻)】


南獄禅師が嵩山(すうざん)の般若寺にいたときのことである。
同じ山の伝法院に一人の若僧が熱心に座禅していた。

その様子が如何にも熱心で、この者なら立派なものになれると云う気持ちで
南獄禅師はその若者のところへ近寄って往って試みに尋ねてみた。

 「お前は、毎日茲(ここ)で坐っているが、何をしているのじゃね」

 「老師よ、坐禅をしているのです」

 「坐禅して何になるんじゃな」

 「老師よ、坐禅をして自分の中にいる仏を磨き出すのです」

そのとき南獄禅師は何を思ったのか傍らにあった瓦の一片を手にとると、
それを庭石の上で、ゴシゴシ磨きはじめた。

若僧は言った ――

 「老師よ、瓦を磨いて何を作るのですか」

 「わしはこの瓦を磨いて鏡を作ろうと思うのじゃ」

 「老師よ、瓦を磨いても鏡にはなりませぬ」と若僧は言った。

   ・・・・・

        *『光明道中記(7月21日 そのまま救われ日)』より

【凡夫が成仏するのではなく、仏が成就するのである。(『生命の實相』第十二巻)】


南獄禅師は若僧の「瓦を磨いても鏡にはなりませぬ」と云う言葉を待っていたかのように、

 「では凡夫が坐禅しても仏にはなりませぬぞ」と言った。

若僧は驚いた。凡夫が座禅しても仏にはならないこと、瓦を研いても鏡にならないとしたならば
一体どうすべきなのだろうか。

 「それでは、どうすれば人間は仏になれるのですか」

 「牛車を進ませるには、車に鞭撻っても駄目だろう。
  牛に鞭撻ったとき牛車は進むのだ。肉体に鞭撻つのは車に鞭撻つのと同じことだ」

若僧は悟るところがあって南獄禅師の弟子になった。
彼は姓を馬氏(ばし)、名を道一(どういち)と言う。

江西(こうさい)の馬祖山(ばそざん)に住して禅風を盛んならしめたので
江西の馬祖又は馬大師(ばだいし)と呼ばれている。

この馬大師は興元(こうげん)四年正月、自己が翌月になれば示寂(じじゃく)することを
預言されたが、間もなくその通り病気の姿を現して臥(ね)ていた。

そのとき僧侶の総代が病気見舞に来て、

 「和尚さま、御病気は如何(いかが)ですか」とたずねに来た。

「碧巌録」第三則によれば、馬大師は、

 「わしが何の病気か。日面仏、月面仏じゃ、光顔巍々(こうがんぎぎ)じゃ」と答えたとある。

         <感謝合掌 平成25年7月21日 頓首再拝>

病気本来無し (10031)
日時:2013年07月22日 (月) 06時42分
名前:伝統

        *『光明道中記(7月22日 病気本来無しと知る日)』より

【病気は本来存在しないと云う真理を悟って■ねばその病気は治っている。
                               (『生命の實相』第八巻)】

牛車を馳(はし)らせるには牛を馳らせなければならない。
瓦を研(みが)いても金にはならぬ。
金のみが金になる。

牛車が馳るのかと思ったら実は牛が馳るのであったのである。
車は牛について行くのに過ぎない。
車が牛に繋(つな)がっている限りは、牛の馳る通りに車が馳るのである。

併し車が止まっても、牛は必ずしも静止しない。
牛と車との繋がりが離れてしまう時が来れば、
牛は幾ら速やかに 馳(はし)っても、車は静止して動かないであろう。

人間も、「本当の自分」と「肉体」と云う車とが互いに結び合わされている限りは、
心の波の通りに肉体も走り且つ動作するであろう。

併し吾々の生命はやがて「肉体」という荷車から引離される。
もうその時には、「本当の自分」がどんなに自由自在に動作しても
「肉体」なる車は動きはしないのである。

併し、「肉体」が動かないとて吾々の生命が■んだのではない。

「肉体」と「本当の自分」との完全なる截断(せつだん)、
これが馬大師病臥中の問答に見られるのである。

「わしが何の病気か。日面仏、月面仏じゃ、光顔巍々じゃ」
彼の生命日天月天(にってんがってん)と等しく巍々として照り輝く。

         <感謝合掌 平成25年7月22日 頓首再拝>

「肉体」無し、「本当の自分」のみあり (10073)
日時:2013年07月23日 (火) 04時40分
名前:伝統

        *『光明道中記(7月23日 立場を超える日)』より

【ついに生命は肉体の繭を必要とせざる時到らん。かくの如きとき、
 生命は肉体の繭を食い破って一層自在の境地に天翔らん。(『甘露の法雨』)】


馬大師の示寂は立派なことであったが「肉体」と「本来仏なる本当の自分」との
截然(せつぜん)たる分離は、南獄禅師に「肉体」なる瓦を磨いても「仏」にはならないと
教えられた時に既に悟られているのである。

馬大師は一カ月前に自分の■期を予言したが、

釈迦は「観普賢菩薩行法経」のなかで、
「却(さ)りて三月(みつき)我涅槃せん」
とその入滅を予言していられる。

■期が近づくと釈迦の肉体にも衰えが見えて来、病気とも見えるような兆候が現れてきたことは
「涅槃経」に書かれている弟子の嘆きの中に見られるのである。

特に迦葉尊者などは「世尊あなたのように色いろの善根功徳を積んで来た程の人でも
やはり■んで四大に復帰するのですか」などと言って嘆いている。

その時釈迦は

「お前は月が地平線上から出たときに月が生まれたと思うか、
また月が西山(せいざん)に隠れたときに月が■んだと思うか、
そう云うように見えるのはただ相対的立場から見るからだ。

月の性質は本来没することもない、■ぬこともない。
没したと見える時他の国の人には生まれたと見えているであろう」

と云う意味のことを説いた。

「肉体」と「本当の人間」とを切離(きりはな)し、車と牛とを切離したのである。

         <感謝合掌 平成25年7月23日 頓首再拝>

徳山和尚、若き日の逸話① (10165)
日時:2013年07月27日 (土) 04時56分
名前:伝統


万事謙遜に出来る日

        *『光明道中記(7月24日)』より

 【驕慢とは「実相我」を隠蔽し「肉体我」を強調する誤れる自尊である。
                                (『生命の實相』第七巻)】


徳山和尚が円熟してそのまま素直に有難い境地になっていた頃の逸話は
『無門関解釈』に書いて置いた。

「碧巌録」の第四則に出て来る徳山和尚はその若い頃のことである。
徳山、姓は周氏、支那の蜀の人、大変な学者で、殊(こと)に「金剛経」に精通していたので
周金剛又は金剛王と云う別称(べつのな)を以て人から称(よ)ばれていたほどの人である。

最初からの禅僧ではなく、当時支那の南方に禅学が盛んに行われていたので、
自分の「金剛経」の知識で悉く禅の道場破りをしてやろうと云う意気込みで、笈(おい)にうんと
「金剛経」の註釈書(ちゅうしゃくしょ)を入れて旅立った。

ほう洲(ほうしゅう)と云う州まで行き、その山の下で餅売(もちうり)の婆さんに
「おい、今その餅を食うからくれ」と言った。
その語調が如何にも高慢らしいので、餅売の婆さん、徳山和尚に言った。

「餅はあげないこともありませんが、私の問に対する答が出来なかったら、あげることは出来ません。
『金剛経』の中(うち)に『過去は過ぎ去ったから無い。”今”と言って一定の時を捉えたら、
それはもう過去になっているから無い。未来はまだ来ないから無い』とあります。

あなたは『今』その餅を喫(た)べられませぬよ。あなたは其の餅を何時(いつ)食べるのです」
と訊いた。

徳山和尚、若き日の逸話② (10166)
日時:2013年07月27日 (土) 04時58分
名前:伝統

深切丁寧の日

        *『光明道中記(7月25日)』より

【大我は無数の個我を包容し生かしつつそれ自身は絶対的存在なのである。
 大我を「神」と称し、個我を「神の子」と称する。 (『生命の實相』第九巻)】


物凄い勢いで、南支那一円の禅道場をかい撫(な)でに論破して歩こうと思っていた青年気鋭の
徳山も、山の掛茶屋(かけちゃや)の餅売の婆さんに問答をし掛けられて、眼を白黒させて、
餅を食わないで逃げ出してしまった。

餅売の婆さんは彼を看送って、
「まだそんな事では修行は足らぬ。竜潭と云う偉い先生がいるから其処で修行せよ」と言った。

徳山は青年気鋭のその心の角がとれていない。
竜潭和尚のところへ行くと、早速例の癖が出た。

『竜潭竜潭と云うが、来て見れば何のことじゃ、竜も見えず、潭も見えず』と大声に呼ばわった。

『汝親しく竜潭に到るや』実にやわらかい親しみのある声が屏風(びょうぶ)の陰からした。

竜潭と徳山では段がちがう。
(心の眼を開けば此処が此の儘竜潭であり、竜宮城である。)
気鋭の徳山もまいってしまって礼拝せずにはいられなかった。

生(なま)さとりの者ほど偉そうに悟りを振り回すが、悟ってしまった者は誰にでも
慇懃丁寧(いんぎんていねい)に挨拶することが出来るのである。

その慇懃丁寧の中に神が現れ、仏が現れているのである。
徳山も思わず竜潭を礼拝したのだ。『夜に入って来られよ』と竜潭の優しい声がする。

徳山和尚、若き日の逸話③ (10167)
日時:2013年07月27日 (土) 04時59分
名前:伝統

光を内に見出す日

        *『光明道中記(7月26日)』より

【全体として調和した生活を営むのが「生長の家」の生活である。(『生命の實相』第八巻)】


徳山は、約束した通り夜になって竜潭(りゅうたん)をたずねて教えを受けた。
教えを受けて帰ろうとすると、竜潭は親切に弟子を見送って出た。
手には手燭(てしょく)を持って足許(あしもと)を照らしながらである。

「外は暗いから気をお着けなさいよ」と云って、竜潭は手燭を徳山に渡そうとした。

徳山はその手燭を受け取ろうとするとき、竜潭はフッとその手燭の火を吹き消した。

そこは黒暗々であった。
一切無であった。
差別界のものは、ただ相対的に斯く見えるだけであった。徳山は悟ったと思った。

その徳山の悟りが、どの程度のものであったかはその悟ったと称する直後、
為山(いさん)老師の法堂へ跳び込んで行って
『東より西に過ぎ、西より東に過ぎ、顧視(こし)して無無と云って出ず』
と碧巌録第四則にある記事で、略々(ほぼ)勘破(かんぱ)することが出来る。

碧巌録の編集者、雪竇(せっちょう)はこれを批評して
『勘破了也(かんぱしおわれりや)』と言っている。

悟ったほどのものがこんな乱暴な無作法なことをする筈はないのである。

徳山自身も『これは可(い)かぬわい』と気がついた。
そこで『威儀を具(そな)えて再び入(い)って相見(あいまみ)ゆ』とある。

挨拶を終わると、徳山は坐具(しきもの)を手にして、先ず『和尚』と言った。
問答の気合(きあい)である。――

徳山和尚、若き日の逸話④ (10168)
日時:2013年07月27日 (土) 05時00分
名前:伝統

心の角(かど)を除去(とりさ)る日

        *『光明道中記(7月27日)』より

【観世音菩薩でも夜叉に対しては夜叉の形相を以て現れる。(『生命の實相』第十五巻)】


為山老師は、問答の気合いを感じて、払子(ほっす)を取って泰然と構えようとするとき、
徳山は、『カーッ』と一喝すると、そのまま袖(そで)を払って法堂を出て往(い)った。

こんな事を禅の修行だとか、道場破りだとか思っている者があったりするから、
禅などと云うものは、吾々日常生活には何の関係もないことだと思いまちがえられ、
十年禅林にいて修行しても、実生活を生かす道を知らない。

禅臭い禅は何にもならない。禅が実生活に生きるのが真禅だ。

為山老師はその晩、弟子たちが集ったとき『あの新参の若僧は何処へ行ったのかな?』と訊いた。

「風呂敷を背負ってどんどん向こうへ行きました」弟子の首座(かしら)が答えた。
これは甚だ善い回答である。

当たり前のことが当たり前に答えられるのが悟りである。為山老師は、

「徳山は頭が良いが気の毒なものだ。調和の中に真理があると云うことを知らないのだ。
あれは独り偉がりであって、弧峰頂上に向かって草庵を盤結(はんけつ)して仏を呵(か)し、
祖を罵(ののし)り去ることを始めるだろう』と嘆かれた。

呵(せめ)るのが禅ではない。丁寧深切 ―― 礼拝が禅である。

         <感謝合掌 平成25年7月27日 頓首再拝>

神想観は、宇宙全体が既に今此処にあることを知る行法 (10194)
日時:2013年07月28日 (日) 04時48分
名前:伝統


        *『光明道中記(7月28日 人生の目的を知る日)』より

【人生の目的とは要するに此の世に神の生命を顕現することであります。(『生命の實相』第七巻)】


雪峰義存(せっぽうぎぞん)禅師は前述した徳山和尚の法嗣(あとつぎ)である。
徳山があゝ云う激しい性格の人で、幾度も徳山の棒で叩かれて悟った人であったから、
雪峰もなかなか激しい公案を出す。

その雪峰和尚、或る日弟子たちに『尽大地(じんだいち)撮(さつ)し来(きた)るに、
粟米粒(ぞくべいりゅう)の大いさの如し。汝らの面前になげ向(だ)す。灯台下暗しで判るまい。
判らなければ、太鼓を打って皆を集めて大掃除をして捜して見よ』と云う公案を出された。

この公案が判ったら尽大地悉く諸君の掌上(しょうじょう)にあるのだ。

現在の天文学で宇宙の大いさを知るならば、地球の如きは、その大宇宙に浮んだ粟米粒に等しい
こと位は誰にも判るが、「尽大地撮し来るに粟米粒の大いさの如し」と云うのは、
そんな比較上の大いさのことではない。

比較を絶した、絶対零(ゼロ)の一点 ―― 「今」と「此処」とが自己掌上にあることを
知らなければならない。

「我れ今五感の世界を去って実相の世界に入る。自分の坐っている一点上の《此処》が即ち
実相の世界であって、その一点の中に無限の智慧、愛、生命、供給がある」と念ずるのがそれだ。

神想観は尽大地どころか、宇宙全体が既に今此処にあることを知る行法である。

         <感謝合掌 平成25年7月28日 頓首再拝>

「今」「此処」既に円満完全の実相に感謝する (10215)
日時:2013年07月29日 (月) 04時33分
名前:伝統


        *『光明道中記(7月29日 日々是れ好日と知る日)』より

【漂える雲の彼方にまんまるに澄み切る月ぞわが姿なり。(『生命の實相』第十一巻)】


雪峰(せっぽう)の法嗣(あとつぎ)に雲門和尚と云う人がある。
その雲門がある日公案を出して
「十五日已前(いぜん)は汝に問わず、十五日已後一句を道(い)い将(も)ち来れ」
と言った。

その問は十五日に提出されたものであるから、
「十五日已前」と云うのは過去を指し、
「十五日已後」と云うのは、これからの現在どう生きて行くかと云うことである。

師の意を揣(はか)りかねて誰もこれに門下の者は答えることが出来なかったので、
雲門和尚は「日々是れ好日(こうにち)」と自分の問に自分で答えた。


生長の家で言うならば、「そのまま素直に難有(ありがた)い」であり、
「今を生かせ」であり、「今の中に久遠があり」である。
日々を難有いとしてその日の行事に励むのが「日々是れ好日」である。

烈日燬(や)きつくすようでも、
それは好いお旱(ひでり)を頂いたのであって、ただ難有いのである。

風が吹いたからとて、風があるので害虫が育たず、
雨が降るので植物が育つ。

若し雨が降り過ぎて家が流れ、田畑に損害があるならば、
それは業(ごう)の自浄作用としてただ難有いのである。

 
動き流れる雲の彼方に「今」実相の円満そのままの姿を見る者は幸いなるかな。

         <感謝合掌 平成25年7月29日 頓首再拝>

啐啄同時 (10236)
日時:2013年07月30日 (火) 04時35分
名前:伝統


        *『光明道中記(7月30日 随所に主(ぬし)となる日)』より

【これは絶対真理、これは対気説法であると云う区別を知って
 絶対真理を摑(つか)むようにしなければなりません(『生命の實相』第十五巻)】


雲門と同時代の禅僧で、法眼宗の開祖である法眼和尚と云う人がある。
なかなか対機説法の上手な人である。

対機説法と云うものは中々難しい。
小学生に大学の講義をしても分らぬ。
猫に小判、豚に真珠である。

大学生に小学の講義をしたのでは判るには違いないが、面白くないから逃げ出してしまう。
それは啐啄同時(すいたくどうじ)でなければならぬ。

啐(すい)は雛鳥が内からつつくことである。
啄(たく)は親鳥が外から啄(つつ)くことである。

中から出ようとしている悟りのちょうどそこを説いて
引っ張り出してやるようにしなければならない。

児童の教育でも才能が出ようとしている、
その点をその時期を失せずほめて引き出すのが骨(こつ)である。

これが出来なければ教師となり導師となることは出来ない。
禅の真理と同一の真理を説いても、生長の家では病気が治ったり、
他の宗教では病気が治らなかったりするのは、真理が異なるからではない。

雛鳥が内部から啐(つつ)こうとしている其の場所をちょうどこちらから啄くからである。

さて或る僧が法眼和尚に問うた。

『如何なるか是れ仏』

法眼はその刹那に答えた『汝は是れ慧超(えちょう)』と。

それによって慧超は悟ったのである。

         <感謝合掌 平成25年7月30日 頓首再拝>

打てば響くが仏道なり (10270)
日時:2013年07月31日 (水) 07時30分
名前:伝統


        *『光明道中記(7月31日 打てば響く生き方の日)』より

【所を得ていない状態は、まだ実相が現れていないのであります。
                             (『生命の實相』第十五巻)】

「打てば響く」と云う語(ことば)があるが、
何でも打てば響くような応答が出来なければならない。

剣道の極意も、猶予なく瞬間を捉えて、その刹那に打ち込むところにある。
同じ動作をやっても、機会を失ったら何にもならないのである。

「汝は是れ慧超」と云う語(ことば)も別の機会に言ったら
別の意味を有(も)ったことになるであろう。

「如何なるか是れ仏」の問いに対して『お前は慧超だ』と発止と応えたところに、
仏が仏であり、お前は始めから慧超であるように、仏が仏であり、始めから成仏しているのが
仏であり、衆生本来仏であると云う意味なども、この端的の語(ことば)の中に一切が
引くるめられているのである。

楠木正成公がまだ若かった頃、奈良の春日山に参詣した途上で一人の雲水に遇った。
その雲水に正成公が「仏教の妙密(みょうみつ)の極意を教えて下さい」と頼んだ。

すると、その老僧はそれに応えないで、「正成! 」とあらためて楠公の名を呼んだのである。
「ハイ」と楠公は覚えず応えた。

「そこだ、仏教の極意は、そこに何の妙密がある? 」と老僧は言った。

『爾来(じらい)兵を用いること自在無礙、恰(あたか)も自己の手足をつかうが如し」
とは楠公自身の述懐である。

打てば響くが仏道である。

         <感謝合掌 平成25年7月31日 頓首再拝>



名前
メールアドレス
スレッド名
本文
ファイル
URL
削除キー 項目の保存


Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】楽天市場からブラックフライデーセール11月21日から開催予定
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板