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『現代青年に與ふ』 ― 柔和なるもの、謙遜なるもの ―  (9813)
日時:2013年07月13日 (土) 12時33分
名前:童子

 ※『生長する青年』 25年1月号掲載の谷口雅春先生の御文章から

  或る種 60年前の大預言の書とも思えます

 ~~~




まことに汝らに告ぐ、もし汝らひるがへりて幼児の如くならずば、天国に入ることを得じ。誰にてもこの幼児の如く己を卑うするものは、これ天国にて大いなるものなり。 〈マタイ伝 第十八章3ー4〉

幸ひなるかな、柔和なるもの、その人は地を嗣がん。 〈マタイ伝 第五章5〉


           
                1.


 現代青年に欠けているものは 『この幼児の如く己を卑うする』 謙りの心である。 

 キリストが、 『柔和なる者は地を嗣がん』 といった言葉は、詩篇の第三十七篇にあるダビテの歌の第十一節、 『されど謙るものは国をつぎ、又平安の豊かなるを楽しまん』 という言葉を引用したのであるが、 『柔和なるもの』 及び 『謙り』 の原文は何れも同じ語を使ってあるのである。 ただ訳者が異るから、一方では 『柔和なる者』 と訳し、一方では 『謙るもの』 と表現されているのである。


 柔和なるもの、或は謙遜なるものは、光明思想の最初の研究者によって著しく誤解せられ、見捨てられている傾があるのである。 

 何故なら光明思想の根本となるものは、 『人間は神の子である』 ということであるから、一歩あやまるときには、夜郎自大、自画自賛、自からがすでに完璧に達せるものと誤認して、自分の意見を以て唯一の真理と考え、自己の浅薄なる経験と皮相なる観察とを以て結論した所のものを、直ちに最高の真理であるかの如く過信し、それを以て、幾多の深き体験を通して獲得したる先人の思想又は行為を批判してみづからを高しと誇り、同気相求め相寄りて、徒党をくみ、群集の力によって、先人を圧迫して、もって新時代の青年なりとするが如き傾向が往々にして見られるのである。

 しかし、かくの如きは、現代の青年に於いては寧ろ一大弊害であるのである。


 真に神の子の自覚を獲得したる所のものは、キリストの所謂る 『地を嗣ぐべき柔和なる精神』 ―― 真の謙遜をもたなければならないのである。 真の謙遜こそその人の性格の強さと勇敢さとの表現であるのである。 逸りたつ心や、向う見ずの猪突や、自分ばかりが正しいとする増上慢の心には、少しも真理を少しもすなおに受け入れる広さが存在しないのである。


 真に偉大なるものは自からの力に傲慢になるということはないのである。 徒らに自分の尊大を衒い、それを豪語して人に迫るというが如きことはしないのである。 彼が神の子であるということを自覚することは、すべての自分の善きものが、自分自身から出るのではなくして、神からの賜物であるということを自覚することにあるのであるから、自からこれに対して驕るというが如きことはなくなるのである。


 彼が如何なる功績をあげたにせよ、彼はそれが自分自身からの力に非ずして、神から与えられた力を自分の容れものを通して使ったのであるということを知るが故に、それに対して誇ることなく、たかぶることなく、恩にきせがましい心をおこすことなく、それに対して報いを求めることもないのである。


 ただ彼は神の力が、神の智慧が、神の愛が、自分を通して百パーセント完全に現われることができなかったことを恥づるのみである。 だから神の子の自覚とは、謙遜に裏づけられたる自覚でなければならないのである。




 神は 『静かなる小さき声』 にて吾らに語り給うのである。その静寂なる声は、たかぶる人の心の耳にはきかれないのである、それを知ることなくして、ただ徒らに 『吾神の子なり』 との命題を知ったからとて直ちに自分の全身全霊が神の子の波長にあるわけではないのである。 


 それにも拘らず、『吾神の子なり』 と知った以上は自分の考えることは悉く神より出でたる正しき思想である等と考え、潔き先人の言葉をきくことを敢えてせず、自からの低き思想を以てすでに足れりとする自己満足の如きは、ここから発達途上にある青年達にとってもっとも恐るべき災いなのである。


 キリストが 『汝らひるがへりて幼児の如くならねば天国に入るを得じ』 と云った如く、幼児のすなおさに復って先人の言葉を素直にとり入れてよく咀嚼しよく吸収するもののみ 『天国にて大いなるもの』 となることを得るのである。


 青年の心の固さは寧ろ美点ではなくして欠点であるのである。 固いものよりも柔かいものが強いのである。 幼児は柔かい精神をもつが故に速かに言語でも覚えるのである。 幼児は霊感にみたされており、その成長は、青年よりも尚一そう速かなのである。 


 幼児は自己をてらうことなく、自己弁解することなく、自分の尊大を維持せんがために言葉巧みに詭弁を弄することもなく、ただすなおに謙遜に一切のものを受け容れるのである。 彼は単純であり、純粋であり、柔和であり、そのままであり、謙りであり、虚飾や自己弁解や名誉欲などにしばられるということはないのである。


 かくの如き幼児の心のみ本当に平和であり、静寂であって、神の 『静かな少さき声を』 きくことができるのである。 凡そ偉大なる人格とは、極めて謙遜なる人格であるのである。 謙遜なるもののみが神の偉大なる導きを受けることができるのである。



 
 凡そこの世の中の不幸と葛藤とは謙遜ならざる人々の、即ちキリストの所謂る 『柔和なる者』 なざらざる精神の摩擦より生ずるのである。 『“おれ”がこれをした』 『吾これをなせり』 かく信じてしかしてその報酬に自分を主張せんとする。 かくて権利と権利との主張は互に衝突し、摩擦して争いを生ずる因となるのである。 世界の平和を来たすにはかくの如き傲慢と尊大と自我拡張の心とを除かなければならないのである。 


 真に 『柔和なる者』 は決して目から高き地位や重大なる役目につこうとしないのである。 真に偉大なる人は、自分について又自分自身の働きについて吹聴したり、恩に着せたりすることはないのである。 凡ゆる場面に於いて彼は自分よりも他の人をば高き位地に押し出そうとする。 そして自からは低きについて、下からそれらの人を却って押し上げてやることに喜びを感ずるのである。




 諸君は、本誌に連載した 『スターデーリー研究』 を多分読まれたであろうが、 〈この原稿は『愛は刑よりも強し』と云う題で一冊にまとめられて今度教文社から出た。読まれんことを望む〉  あの中に出て来るライファーの如き生活が本当の柔和なる生活であるのである。


 彼は人を助けても“自分が手柄をした”とは思わないのである。 それは“神の愛を現わすため”にしたのであり、その行為によって“自分自身が救われるがため”に 『させて頂くのである』 というような謙遜の心持を常に失わないのである。


 彼は病人を治すにしても、自分が病人を治す力があるなどとは認めないのである。 相手が病人であるのは、自分の心の中に尚 『病気』 があるのであるから、相手の 『完全な姿』 を完全にみる力がないから相手が病気に現われているのであると自から謙りて相手の完全な姿を拝ませて頂くのである。


 このライファーの生活態度に著しく心が打たれたのである。 自分はすべての青年がこのようになってくれることを望み、このようになってくれることによってのみ世界の平和が確立すると思うのである。 自分は 『愛は刑よりも強し』 を本を校正しながら幾度も、同じ文章を繰返し読んで、自分も斯くなりたいと大息しつつ感じたのである。




 真に偉大なる人は、ライファーの云うが如く謙遜であって何ら自分の功績に対して特種の権利を主張しようとはしないのである。 彼は謙遜であるが故に、自分が認められないことが何ら不平ではないのである。 彼はほめられようとは思わない。  彼は神に対して常に謙っているのであって、“神の栄光を現わすことが尚足りないことをひたすらに神の前におそれているのである”。


 自分の功績を誰かが讃めてくれなくとも、誰かがあやまって彼を却って悪しざまに批評しようとも、それは彼にとって何ら彼の心を傷つけることにはならないのである。 彼は尚自己が神の栄光を完全に現わし得ないことを恥じる、そして実相に於ては如何なる批評も如何なる誹謗も自己を傷つけるものではないということを知っているから動じないのである。 人のまちがった考えは自分の真の値打ちを何ら傷つけることはできないことを知って心は常に平和であるのである。





 かくの如き真に偉大なる柔和が現代の青年には欠けているのではないかと思う。 この柔和なる精神なくして世界の平和は到底招来することはできないのである。

                     ~ つづく

大言壮語するもの (9902)
日時:2013年07月17日 (水) 08時23分
名前:童子


           3.


 青年は大言壮語し易いものであるが、真の神の子の自覚ある者は大言壮語するということはないのである。


 真に偉大なる者は、『夜露の如く、夜静かに降って万物をうるほし、明け方には姿を没してしまう謙遜さをもっているのである』 と私はいつか云ったことがあるのである。


 大言壮語するものはキテイ台風の如く猛烈ではあるけれども、それはただ破壊をたくましゅうするだけである。 


 真に愛深きものは大言壮語をすることはないのである。 旋風が捲き起るのはどこかに真空の所があるからそれを埋めるために捲起るのであると同じく、大言壮語する者も、どこかに自分の心の中に空虚な所があるから、それをごまかそうとして大言壮語するのである。


 色々の娯楽物が歓迎されるのは、心理学的にいうならば 『自己』 から逃避したい欲望の現われである。 それは自分自身の現状に不満足であるから、自然と自分を逃れてどこかに気を転じていなければならなくなっているのである。


 多くの人達は 『自分』 を忘れたいのである。 大言壮語する青年も 『自分自身』 を忘れたいのである。 『自分自身』 を自己の前に隠してくらましているわけには行かないのである。 大言壮語したあとのさびしさは芝居が果てた後のさびしさや、映画がゼ・エンドに近づいた時のさびしさに似ていて、どんなにしても自分をくらまし終ることは何時までも続かないのである。


 青年の過激にわたる集団行動も概ねこの自分をくらましたい欲望に基いて行なわれているのである。 集団して、群集の勢いで気勢をあげていなければさびしいのである。 そこには喇叭のように周辺が高らかに鳴り渡るだけであって中は全然カラッポであって、本物の喜びは到底味わえないのである。 


 現代の青年の多くはそのような淋しさに駆りたてられているのである。 彼らは脚下照顧するに自分が耐えられないことを暗黙に知っているのである。

                つづく

与える愛 (9932)
日時:2013年07月19日 (金) 02時12分
名前:童子


 然し真に強者である青年は自分自身を脚下照顧することができるであろう。 附和雷同して威丈高に雷霆のようにはためきわたっていた自分が本物でないということを知る時が来るのである。 何故そんなに騒々しくしていたのか、その原因を探りあてる。 そして何故自分がさびしかったのかというその原因を知るのである。 


 それは “自分の愛がたりなかったからである。” 愛が自分の生活に生きていなかったというのを知るのである。 愛しないものは常にさびしいのである。 青年がさびしいのは、愛を求めているからである。 然し愛は求めては得られないのである。 愛は与えなければならないものなのである。 これに彼らは気がつかなかったのである。


 ある人は今まで淋しかったが、毎日必ず五つのことを何か “人のために” なるように実行するということを試みるようにしてから、人生にさみしさがなくなったといっているのである。


 人のためになることが愛でなのである。 求めることが愛なのではない。 “愛することが愛なのである。” 愛は暴風の吹きまくるように大きな仕事をしなければならないということはないのである。 目立つ仕事をしなければならないということではないのである。 


 大きな仕事や、目立つ仕事は、それを行う時に自分が偉大であるというような傲慢な考えが伴い勝ちであり、 『これだけ私がするのに』 というような恩にきせがましい報いを求める心がおこったり、名前や人の “きこえ” を求める野心がともないがちであるけれども、夜露のような静かなる愛の奉仕は、そのような不純な野心を伴わないのである。


 だから人のまえに出て大いなる “きこえ” のあるものは却って神の前に出て小さいことがあるのである。 神の前には暴風よりも夜静かにおりて消えてしまう露の方が大いなる愛であるのである。


 ある人は毎日必ず五人以上の隣人を祝福してあげることにしたと云う。 その祝福は心の中で  『神よ彼に本当の幸福を与え給え。 彼は神の愛に守られて本当に幸福になります』  と静かに合掌するような気持で一二分間祈ってやるだけのことであるが、それは誰も知らない所の本当にかくれたる愛の奉仕であるのである。


 けれどもこのような祝福が目に見えないだけに却って尊いのである。 もし全世界の人間が、このような気持で隣人を、そしてどこの国の国民をも祝福してやる気持になれば全世界に戦争というようなものは再び起らないのである。 こういう小さい行いの中に本当の報いを求めぬ与えるばかりの愛があるのである。 そしてそれは神の前に大いなるものとせられるのである。


 病人の家をたずねて、だまって一冊の光明思想のパンフレットを与えて帰る。 彼が必ず神の愛に守られて健康になるということを念じて帰る。 そのやさしい行い、愛にみちた微笑、相手の心配を軟げる真理の言葉。 それは相手のほか誰も知らない。 それは誰からも名誉を表彰されない。 けれどもこういう行いの中にこそ本当に 『神の子』 なる自分の人格が完成され、はっきりと実現するのである。


 諸君は外的な成功や名誉に目をくらませられてはならない。 何よりも自己の中に宿る 『人格』 の完成こそもっとも重大なる価値あるものとしらなければならないのである。 


 諸君は自己の 『内部理想』 を人格に出す時始めて価値ある人となるのである。 このことは私が 『青年の書』 の第一章に力を篭めて書いて置いた通りである。 自己の内部理想を失うものは、如何に太鼓や喇叭を以てその栄誉を喧伝せられようとも、それは自分の本質にとって何ら意義もないことなのである。

                     つづく

愛行を実践せよ (10171)
日時:2013年07月27日 (土) 06時53分
名前:童子


 愛は小さきことの実践から始まるのである。 

 諸君は自分にとって必要なるものを神に対して求めたことがあるであろうか。 然し自分にとって何の利益にもならない、ただ他の人のためにのみなる幸福を祈ったことがあるであろうか。 若しそれがないとしたら今すぐからそれを実行することをお勧めする。 本当の魂の喜びはそういう所から湧いて来るのである。



 魂が真にその奥底から喜べるようになった時、自分自身が決して報いをもとめるものではないが、そこに必ず目に見えて物質的にも報いが現われて来るのである。 

 諸君の仕事が今まで都合がよく行かなかったことを悲しむな。 諸君の作物が今まで大いに収穫がなかったことを憂えるな。 法則が神である。 諸君がすべての周囲の人々を祝福し始めた時、諸君自身は神から祝福され得る人となるのである。

 神は 『静かなひくい声』 で諸君にささやき給う。 そして諸君を導き給うのである。 諸君の生活がしんに神の生活となり、愛を実現する生活となる時、神の祝福と愛とが諸君の仕事に現われて来るのである。

 まず小さき愛行を実践せよ、そこから諸君の周囲に天国が実現して来るのである。


                    (この項 終り) 



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