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《人間誕生の神秘と荘厳》 (10342)
日時:2013年08月03日 (土) 07時03分
名前:平賀玄米

有難うございます。
今日から「神誌・生長の家」の昭和六十年六月号から抜粋して、謹写させて頂きます。

                                        感謝 合掌。
                                             

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 

《人間誕生の神秘と荘厳》 谷口 雅春先生著『いのちの革命』より

人間として地上に生まれたことが、どんなに荘厳で、立派な「神の子の誕生」
であるかがわかるとき、そこに本当の生きがいがうまれる。

―――――――――――――――――――――――――――――

   『神の自己表現としての宇宙』    


<人生の目的は何であるか>

 ここでいよいよ、人間は何のためにこの世に生まれたのであるかという「人生の目的」と
いう問題に這入ってもよいと思います。
結論をいいますと、「神の自己表現」のためにこの世に生まれたのであります。

無論、宇宙の森羅万象はみな「神の自己表現」でありますけれども、人間はその
中でも最高の「神の自己表現」であるわけであります。


<自己表現の意味するもの>
 

自己表現というと、自分の内部にあるところの理想とか希望とか或いは美とかを外の見える姿に
表わすことであります。
たとえば、画家は、心の中に美しい山の景色、林の景色、海岸の景色或いは鳥の姿、獣の姿などを
沢山もっておっても、それを見える姿に、絵として表現しなかったならば、画家として喜びを
感ずることができないでしょう。
内部にある美しさを外に表現することによって画家は生き甲斐を感ずることが
できるのであります。

 それと同じように神様は自分の内に無限の知性をもっておって、そして無限の美しき
良きものを“内部”に持っておられる。
神は霊であるから、その無限の美しきもの、良きものといっても、それらは物質ではない。
神の心の中に描かれたる良き姿であります。

それは「理念」といってもよろしい。その無限の美しき理念を内部に持っておられるが、
それを表現して形にあらわさなければ、本当に神様は神様として生き甲斐が感じられない
わけであります。
それがすなわち、創造(creation)という働きとなって、あらわれているわけであります。

以下、次回に続く。

   

《人間誕生の神秘と荘厳》 ② (10368)
日時:2013年08月04日 (日) 06時40分
名前:平賀玄米


<宇宙最初の創造を考察して>

 この宇宙には、最初はなにも物質がなかった。何も物質がなくて物質以前の世界であった
わけであります。その物質以前の姿を霊といってもよろしい。

霊とは非物質のことで“たましい”という字を書くのです。最始原には物質的には何もない。
創世記には、「神の霊、水の面をおおいたりき」と書かれています。 
“水”とは透明で可塑自在な「無」の象徴であります。
神は無を征服する力として「無」にはたらきかけて一切のものをつくり出した生命であります。
すなわち宇宙大生命は何にもなかった眞空の世界から一切のものを造り出したのです。

近頃、宇宙旅行とか或いは人工衛星とかいう問題が単に理論としてではなく実際問題になって
参りまして、地球の空気圏を離れて愈々上層へあがってゆけば、そこに真空圏があるということは、もう誰もが知っている通りでありますが、その眞空の中にですね、モヤモヤと或るガス體が、少しづづではあるけれども、造られ、発生しつつある。

それは何であるかというと最も原子量の少ない単位物質であるところの水素であるということ
です。その水素は極微量づつ発生しているけれども、宇宙は広いから合計するとずい分沢山になるんだそうですが、水素が「真空」すなはち、“無”から発生する、それを発生さす不思議な力が、
宇宙にはある。

そしてその水素をかためて、色々の天体や太陽にしたところの〝不思議〟な力が宇宙にはある。
これが神様であり、仏教では親鸞聖人が「不可思議光」と称せられたところのものであり、
吾々はその「不可思議光」に生かされているのであります。

水素というものの物理的性質はガス体であって、散ってしまう性質を持っています。
ガスの拡散現象ですね。それですから、水素ガスを子供のおもちゃのゴム風船に入れておくと、
ゴム風船が軽くなって浮き上がる。しかし翌日になるとゴム風船は縮んでもう浮き上がらなく
なってしまっている。どうしたんだろうと子供は不思議がって失望している。
それは水素の分子は非常に小さいから、ゴムの分子の間隙から逃げだして、水素ガスがぬけて
行くからです。


<天体創造の神秘現象>

ゴムの袋の中に入れておいても散ってしまう----そういう水素ガスなのに、ガスタンクも
容物(いれもの)もゴムの袋も何にもないのに、その水素ガスを太陽という巨大な球状の
塊にして、きゅうと凝縮したところの巨大な“不思議な力“が宇宙にはあるのです。
その力を神と称するのです。

水素ガスを巨大な球状に集めるのも、水蒸気を雲の形に集めるようにふうわりと集めたん
じゃなくて、ぎゅうと圧縮して、ガスは圧縮すれば熱くなるので、太陽の中心部においては
摂氏二千五百万度の高熱が起って、その圧縮熱のために、水素が核融合現象を起こし原子転換
を起こして、ヘリウムの元素に転換しつつある、その原子転換の際に生ずる余剰エネルギーが
放散されているのが地球等に達して、それが我々においては光と熱と感じているのであると
物理学者は説明しているのですが、

ともかく、水素ガスというものは散ってしまう物理的性質があるのに、それを散らせないで
ぎゅうーと圧し固めて、その物理的性質の逆をして、あの太陽をこしらえているところの
“不思議なる力”が宇宙にはあるわけです。この“不思議な力”が神であります。

以下、次回に続く。                       


《人間誕生の神秘と荘厳》 ③ (10386)
日時:2013年08月05日 (月) 06時37分
名前:平賀玄米


<物理的法則を越えた人間創造の神秘>

神は生命の本体であり、法則の本源でありますが、それ自体は法則を超越しています。
それだから物理的法則も利用しておりますけれども、それ以上の力があるのであります。

それで我々にやどる生命も神から来たもので、生命それ自體は物理的法則も利用いたし
ますけれども、それ以上の働きを加へて“生命体”を作り出したのです。
また今現に生理作用として生命体をつくり且つ保存しつつあるのです。

ここにかりに湯呑があるとしまして、その中にご飯を入れ、おかずを入れて、ここに
消化剤の適当なのを入れて、適当の体温ぐらいの温度にして、数時間置いておきます。
すると、その食物は飴のように溶けてしまって消化するのであります。
ここまでは、物理化学現象であって、物質の法則によって起っているのです。
ところがそれと同じ事を我々は胃袋の中でするのであります。

ご飯を食べておかずを入れる。すると、なかから消化液が出て来て数時間経つとそれが
飴ようにドロドロに溶けてしまうのであります。そこまでは湯呑の中も胃袋の中も同じ
なんです。ところが、この湯呑の中に起ったどろどろになった消化した液体は、それ以上
の発展がない。後は腐るだけであります。

ところが我々の胃袋の中、腸の中において變化したところの物質はそのドロドロ以上の
発展をします。吾々が牛を食っても、豚を食っても、鶏を食っても、魚を食っても、
皆人間になるのであります。これは物理化学作用だけでは、どうしても起り得ないことなのです。

「生命」の働きによって、そこに奇蹟が起るのであります。
単なる物理化学現象以上の力を「生命」というものがもっているということが、
これによってお分かりになると思うのです。

我々の生命というものは、実に素晴らしい、物理化学の法則を利用して自己の目的を
遂げながら、更にそれ以上の不思議なる力をもって欲するところのものを創造するの
です。内臓もなんにもない卵の白味と黄味との中から肺臓を造り、心臓を造り、胃腸を
造り、脳髄を造り、或いは、骨を造り、皮膚を造り、筋肉を造って、それを人体という
精巧きはまる不思議なる排列状態に組み立てるところの実に“不思議な力”が人間の中
には宿っているのであります。その“不思議な力”が神であります。

人間は単なる物質の唯物論的な塊ではないということは、これによってもお分かりに
なると思うのです。

以上、申しましたところを纏めますと、神は眞空の中から最初のもっとも原始的な元素
である水素を作り、その水素を結合して、無數の天体を作り、その中の一つが太陽で
あって、その太陽から分かれたようなものが地球だと謂われているのですけども、
その地球の表面に鉱物、植物、動物というような色々のものをお創りになったわけであります。

  以下、次回に続く

《人間誕生の神秘と荘厳》 ④ (10409)
日時:2013年08月06日 (火) 07時56分
名前:平賀玄米


<鉱物も神の生命の顕現として生きている>

鉱物は普通死んでいると思はれているのですけれども、それも神の生命の顕現であるから
死んではいないのです。それは神の生命が自己表現をしている姿である。
だから皆いきいきと生きているのです。

そういう話を唯今はあまり詳しくしている暇がないのでありますが、たとえば、空気中の
水蒸気が冷たい温度にふれて、急に結晶すると、あの六角の美しいあの雪印乳業の登録
商標みたいな形になって降ってくるのですね。

雪の結晶は六稜形の根本構図は同じですが、雪片の一つ一つを詳しく見ると、みな細部の
図形が悉く異なりながら美しい図案をなしてゐるのです。お空を見ても、どこにもそんな
智慧も何もないやうに見えているけてども、この宇宙には、虚空にすら驚くべき智慧が
充満しているので、短時間のうちに数え切れない数の雪片の図形をつくり上げるその構造
力は、とても人間の頭脳の智慧の及ぶところではないのであります。

目に見えない真空の中に、このような驚くべき智慧が充満していて、それが宇宙の一切の
ものを生かしているのです。その不思議な智慧を吾々は「神」というのです。

鉱物もその神の生命が内部にあって生きているんです。水も生きている。水はじっと見ると
動かないようだけれども、その分子はブラウン運動というというのをして始終跳ねまわって
いる。分子が生きていて始終間断なく動いているからコップの中に清水を入れて静止させ、
少しも動揺させずにおいてもそこへ一滴の赤インクを落とすとしばらくのうちに水全部が
赤くなる。冷たい水だと思っていても一滴のお湯を落とすと全体がなまぬるくなる。

それは水の分子は生きておって常に間断なく振動しているからすぐ全体が入り混じって
しまうからであります。分子が小さいので、肉眼には見えないだけのことであります。


<植物の発生>

鉱物もみな生きていて、このような分子が常に動いているのでありますが、それはまだ
単純な形で生きている。それは、神様の初歩の自己表現として、その表現様式が単純であり、
まだ完全に神様の全智が表現されていないので、神様はだんだん高等なる表現をなさるべく、
次には、鉱物なる地面の上に植物をおこしらえになって、色々の色彩ある美しい葉や花を
お造りになった。

植物には生殖作用もあって種子を生じて繁殖します。植物が生きているということは、私が
説明しなくても誰でも知っている所です。
植物の花にはめしべおしべがあり男女性がある。また何となく可憐な愛情というようなもの
も感じられるのであります。

以下、次回に続く。


《人間誕生の神秘と荘厳》 ⑤ (10430)
日時:2013年08月07日 (水) 07時23分
名前:平賀玄米


<動物の発生>

しかし、神様の自己表現としては、植物はまだ足りないところがある。それは〝根っ子〟が
地面に縛りつけられておって、自由自在性がないことであります。

神様は神通自在であって、自由自在に、どこにでもその表現体を顕わすことができなければ
ならない。それなのに、植物はまだ自由に自分の位置を自分で移動することができなくて、
自由を失っているから、神様は〝植物〟の上に、もっとすぐれたる自己表現として、〝動物〟
をお造りになった。動物はすべて自由に動く。鳥は空を飛ぶし、獣は地上を走るし、或いは
魚とか鯨とか、オットセイというようなものは海の中を自由に泳ぎまわるのであります。

ここに於いて、神様の神通自在さが、大分自由に表われて来たのであります。
しかしながら、動物までは、まだ本当の神の自由が表われていないのであります。動物には
自己創造(self-creation)の働きがないのです。与えられたものをそのまま受けとっている
より仕方がないところの〝受身的な存在〟であります。つまり、神そのままの如き自主的存在
でないのです。

私の言おうとするところの意味をハッキリさすために実例をもっていいますと、たとえば、
ここに猛獣の虎が赤ちゃんを生むとします。人間も赤ちゃんを生む。その両者をくらべると、
人間の赤ちゃんは裸で生まれる。ところが虎の赤ちゃんは生まれた時から虎の毛皮の外套を
着ているのです。

一見すると、人間の赤ちゃんよりも虎の赤ちゃんの方が虎の毛皮の外套を着ておって、一層
金持みたいだけれども、その虎がだんだん年取って、そして結婚適齢期に入って、明日は
結婚式を挙げるという時に「あの赤ん坊の時に着ておった荒い縞柄の着物じゃいやだから、
たまにはこの結婚式だけにはもっと裾模様の虎の毛皮を着たい」と思っても、虎はそれを
着がえるわけにはゆかないのです。

つまり自主的な選択の自由を失っていて、与えられたものを「唯受ける」より仕方がない
ところの受身的存在なのであります。
彼らは自ら好みに従って自己創造する働きがないのであります。ここが自己創造の力を
あたえられた人間と異なるのであります。

以下、次回に続く。

《人間誕生の神秘と荘厳》 ⑥ (10447)
日時:2013年08月08日 (木) 08時21分
名前:平賀玄米


<人間誕生は神の自己完成である>

人間は、生まれた時は「裸」である。つまり「無」である。どんな一定の衣装の相ももって
いないのでありますけれども、どんな姿にでも表われるのであります。

神は相形(すがたかたち)なくして、宇宙に充ち満ちていられる。「無」であり、無相であり
ます。けれども神は、どんな姿にでも表われるんです。或いは海岸の美しき景色にでも、
或いは林の静寂幽邃なる景色にでも、或いは逞しき獣の姿にでも、或いは愛らしき禽(とり)
の姿にでも、或いは可憐な花の姿にでもどんな姿にでも表われるのであります。

このように「無」にして「一切の相(すがた)」に表われる。「無相」して「無限相」である
というのが神であります。その神の自己表現として、完全に「無」にして同時に「無限相」
なる姿を実現したのが、この人間であるというわけであります。

御覧なさい。人間はどんな姿にでも表われる。背広の洋服が好きなら背広姿もできるし、
或いは紋付羽織がよければ紋付羽織姿にでも着られる。或いはドテラがよければドテラでも、
浴衣がよければ浴衣が着られる。女の人ならワンピースでもツーピースでも、サックドレス
でも、或いはファッション・ショーに出てくる毎日新しいニュー・ルックの新しいスタイル
の洋服でも、なんでも着ようと思ったら、着られぬことはないのであります。

人間は“無一物”で生まれながら、どんな姿にでも千変万化して無数の姿を表わすことが
できるのであります。
すなわち無相にして無限相なる神そのままの姿をあらわしているのであります。

以上は体の姿だけのことですけれども、人間は陸地に生まれたから陸地の生物かと思って
おったら、潜水艦に乗ってどんな魚よりも速く走ることができるのであります。
また単に陸地の生物かと思っておったら、飛行機に乗って、鳥よりも速く空中を走ること
が出来るのです。

まったく神通自在の神性を表現しています。また幾百万キロ隔れている空間の彼方を
テレビに写して今直ぐ目前に見ることができるのです。

以下、次回に続く。

《人間誕生の神秘と荘厳》 ⑦ (10462)
日時:2013年08月09日 (金) 05時31分
名前:平賀玄米


<神の創造を完成する者としての人間>

神様は大自然力をもって、無数のものをお拵えになった。無数の天体から天体の上に生ずる
一切万象をお造りになりましたけれども大自然力のままでは、どうしても出来ないものが
残っているのであります。大自然力のままで出来ないものというのは、例えばこの書物で
あります。

「神様あなたは全知全能であるのなら一つあの地震を起し、津波を起すところのあの力で
この書物を一冊こしらえてごらんなさい」といっても、大自然力としての神様にはそれは
できないのであります。「神様、全知全能なら一つ“湯呑”を、あなたの火山を爆発さす力
でこしらえて下さい」といっても、大自然力だけではできないでしょう。

そのように、できないものが沢山残っているようなことでは、「神様は全知全能」だという
ことはできないということになるのです。そこで神様はご自分の生命を人間として顕現して
大自然力の生の力のままでは、できなかったところの創造の御業を、人間の姿に神があらわ
れて、それを完成し給うということになったのです。これが地上に人間が誕生したところの
目的であるということができるのであります。

このように、人間誕生ということは素晴らしいことである。神様も大自然のままの姿では
どうしても出来ないところのものを、人間の姿に神様が顕われてそして、その創造の御業
を完成し給うということになっているのである。

「神が人間を造った」といいますと、何か外から粘土みたいなものを固めて、〝此処は人間
の手にして〟〝ここは、もう一本の手にして〟〝ここは頭にして〟という具合に、外から
人間を神様が造ったかのように考える人があるけれども、そういう造り方ではないのであります。

神様が人間をお造りになるというのは、神様の生命が人間として顕われるのである。
ちょうど、植物の生命が花となって咲き出でるように、神様の生命が人間として咲きいでたのが
人間の「地上誕生」であるのであります。

私たちはこのことを称して、「人間は神の自己実現である」「しかも最高の自己実現である」
というのであります。

以下、次回に続く。

《人間誕生の神秘と荘厳》 ⑧ (10481)
日時:2013年08月10日 (土) 06時57分
名前:平賀玄米


<性的行為と「人間神の子」との関係は> ①

もっとも、その人体の形に成るところの素材は、父母の交合によるところから得られ、母親の
胎内において、母親の血液を媒介として得られるのであります。

神様の生命が自己実現して、花の咲くように、“人間の姿”となって咲きいでようと思っても、
その素材がなかったら、咲きいでるわけにはゆかないのであります。
それは恰も地面がなかったら、いくら種を植えても発芽せず花も咲かないというようなもの
であります。  

だから神様がその最高の自己実現を完成して人間の姿をとって地上に誕生するために、適当な
条件を与え、色々の要素が人間として姿を顕わすための素材を供給して下さったのが父母で
あるというわけであります。

だから神の最高の自己顕現たる「人間誕生」の荘厳なる出来事には是非とも人間の父母が要る
のであります。これが本当にわかるとき、子供は父母に自然に感謝できるようになります。
「孝は百行の基」といわれますが、このことが根本になって子供は生き甲斐の感じを得、幸福
になり、一切の善きことができるようになるのであります。

このように、「人間誕生」は神の自己完成であり、神の目的の成就であり、神の希望の実現で
あり、神様の創造の御業のを完成するという荘厳な役目をもっているのでありますが、これを
聖書にはどう書いてあるかというと、創世記には、〝神は六日にしてこの世界をお造りになって
七日目を人間におまかせになった〟という風にかかれているのであります。

つまり七日目の神様のお働きは、神が人間と顕れて行われるということになっているのであり
ます。もし人間が地上に誕生することができなかったならば、神様の創造の御業は中途半端で
終ってしまって、もうそれを完成することができなかった筈です。

だから繰返して申しますが、人間が地上に誕生したということは神様の希望の実現であり、
目的の達成であり、神様の創造の御業の完成であるというわけで、まことに荘厳極まりなき
ところの事実であるのです。

〝人間の子〟は〝神の子〟であり、決して男と女のセックス遊びの犠牲になって生まれて来た
というような、くだらない存在ではない。“人間は天降りのの存在”である。
このことを知るとき人間は、はじめて自己の生命の尊さを知り、生き甲斐を見出し、おのずから
神らしき善事が行われるようになるのであります。

以下、次回に続く。

《人間誕生の神秘と荘厳》 ⑨ (10502)
日時:2013年08月11日 (日) 06時39分
名前:平賀玄米


<性的行為と「人間神の子」との関係は> ②

日本の神話には、天孫降臨というのがありまして、人間が天から天降ってきたかの如く
書かれていますが、あれは神話ででたらめであるというように考える人もある。
或いは近頃問題になっている「空飛ぶ円盤」というのがあって、或いは地球上の人間も
ロケットに乗って他の天体である金星とか水星とかから物質的に降りて来たんだと解釈
する人もあるかもしれないけれども、しかし物質がいくら天降って来ても霊的価値はない
のであります。

本当は、人間は“”神の霊” が天降って来たのであります。“神の霊”が人間の生命(いのち)と
なって地上に降誕したのです。人間は天降り的な存在なのであります。
それが解るときに、本当に人間の生命の尊厳ということがわかるのであります。
これを解らせるのが、教育の根本であります。

しかし反論をする人があるかもしれない。人間は天降りの存在ではない。
夫婦の性的結合がなかったら生まれないではないかと。
そうです。夫婦の交わりというものがなかったら、人間は地上に誕生しない。
しかしながら、それはテレビのブラウン管に顕われるところの人間の姿が、一見
陰と陽との電気のスイッチを入れたために生まれて来たように見えるのと同じで
あります。まことにその通りで、陰陽の電気を結び合わさなかったら、あのテレビ
に表われるところの人間の姿は生まれてこない。

しかしながら、ブラウン管に表われる人間は、テレビにスイッチを入れて陰陽の電気
の結合によってつくられた人間であるかというと、そうではない。あれは、放送が無
かったらいくら陰陽のスイッチを入れても姿はあらわれない。あれはテレビ・セット
が物質的にこしらえた姿ではないのであってあれは確かに放送局にあるものが「天降っ
て来た姿」であります。人間もそうなのであります。

神様の「理念」が、夫婦関係と称するところの 陰陽の結びによって起るところのこの
“生命の波長” によって、神様の世界から天降って来たのであります。
我々の生命の本地(テレビ放送局のスタジオに当たるもの)は神の世界にあり、吾々の
生命の本質は本当に神様の生命(いのち)そのものだということなんです。

これを称して我々は神の子であるといっているので、これは決して単なる一宗一派の
宗教上の教義ではない。科学的にかくのごとくあるべくしてあるわけなんであります。
そしてこれが本当にわかった時に、子供は親に対して親孝行の心が起る。
そして、“孝は百行の基”という諺の通りに、親に対して本当に、感謝の心が起り、
「お父さん、お母さんよく私を生んで下さいました。ありがとうございます」という
感謝の心が起る時に、本当にその子供はあらゆる方面において良き行いができるように
なるのであります。

以下、次回に続く。

《人間誕生の神秘と荘厳》 ⑩ (10523)
日時:2013年08月12日 (月) 10時52分
名前:平賀玄米


<性的行為と「人間神の子」との関係は> ③

しかし「人間の生命は神様の生命がこの世の中に生まれたのかどうか知らんけれども、親が
ああいう行為をしなかったならば、私は地上に生まれなくて済んだのだ。そして私が生まれ
なくていたら、こんなめんどうな人生に住まなくてもよかったのに」と思うような子供も
あるかもしれませんが、人間の生命は神様の生命が宿っているのですから、その生命は
どこかに必ず自己顕現しなければならない。

もし、人間の親という媒介がこの地上になかったら、「神の生命」すなわち、あなたの生命は
何かに自己表現するより仕方がない。だから、まだ地球が未発達であって、その時代の一番
高等生物が みみず か なめくじ くらいのものにすぎなかったら、みなさんの生命がいくら
貴い神様の生命でも、今時分 みみず か なめくじ に生まれているということになるので
あります。

もしこの地球が稍(やや)それより発達して、その一番高等生物が豚くらいであったら、
皆さんの生命は今時分豚に生まれて、ブウブウ鼻をならしながら、うんこでも舐めている
かもしれないけれども、みみずにも生まれず、なめくじにも生まれず、豚にも生まれず、
最高の神様の自己表現であるところの人間として、地上に生まれることができたのは、
これは人間のお父さんお母さんの愛情を媒介として皆様が生まれることができたからだと
いうことを知らねばなりません。

この事を子供にわからせますと、「今まで嫌らしい親の快楽の犠牲になって生まれたんだ」
と思っておったその同じ事実が別の光に照らされて、まことに神聖極まりなきところの
神聖行事によってそこに起った愛情の波動が神様の生命(いのち)の波長と合って、ここに
テレビに姿が現れるように、地上に姿をあらわして生まれて来たのが人間だという事を悟れ
る事になるのです。

それが悟れますと、人間として地上に生まれたことが、どんなに荘厳で、立派な「神の子の
誕生」であるかがわかり、本当に人間としての生き甲斐を感じて、その人は明るい光明主義
の人間になって、あらゆる方面に良きことを自然としたくなるというような素晴らしい人間
になるのでありす。

----------------------------------------------------------------------------------------

ありがとうございます。
今回をもちまして<人間誕生の神秘と荘厳>の謹写は完了致しました。

                 平成25年8月12日   合掌再拝。



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