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無私の人 (48)
日時:2012年08月03日 (金) 04時59分
名前:伝統


”管理人 さま”ありがとうございます。

お世話になりますが、よろしくお願いいたします。

・・・

このスレッドでは、「無私の人」に関する題材について紹介して参ります。

   *以下は、メルマガ「人の心に灯をともす(2012年07月30日)」からの紹介です。


   城山三郎氏の心に響く言葉より…


   「財界総理」と呼ばれた土光敏夫さんには、経団連会長を辞める直前に、
   神奈川県の鶴見のご自宅に伺ったことがあります。

   まず驚かされるのが、玄関の扉がたてつけが悪いのか何か物でも置いてあったのか、
   私がいくらガタガタやっても開かない。

   すると、土光さんの呼ぶ声が庭の方から聞こえてきて、縁側から上がることになりました。

   せいぜい良く言って質素な家ですが、郊外にある古い家だけあり、庭は広い。
   でも、池や石なんてないんですね。
   植木と芝生と野菜畑があるだけ。

   植木と言っても雑然たるもので、それもその筈、土光さん自身が手ずから植えて、
   手入れをしているものです。

   畑も自分で耕している。

   夫人との生活費を月10万円だけ残して、あとの収入は全て、
   自宅に隣接するお母さんが作った女子校へ寄付されている。

   だから玄関も直せないし、ガラスが割れても直せない。

   健康法はゴルフでも何でもなく、木刀を振り回しながら庭を駆けめぐるだけ。
   実際にやっているところを見せて貰いましたが、まあ異様と言えば異様な光景。
   隣の女子校に泥棒が入った時は、木刀を持って泊り込みに行ったそうです。

   これは何とも清々(すがすが)しい生活で、私は感動しました。

   芝生もご自分で刈っているというので、わが家にも芝生があるものですから、つい、
   「あれはマメにやらないといけないんで、大変ですよね。
   うちなんかもよく人を頼んで…」

   そう口を滑らせると、

   「お、城山さんちには、植木屋を頼むほどの庭があるの?」

   「いえ、広くはないんですよ。ただ私は草一本抜かないものですから」

   「あ、それなら、僕が芝刈りに行くよ。(経団連の)会長辞めたら、暇になるんだし。
   もし城山さんちが広すぎて、僕の手にあまるというなら、友達も誘って行くから。
   頂いた日当は女子校に寄付します」

   と身を乗り出して、目を光らせるんです。

   冗談なんか言う人じゃありませんからね、
   「いや、本当に狭くて、わざわざご足労願うほどの庭でも」と慌てて断ったものでした。

   経団連会長を辞めた後、国民的人気のある土光さんは臨時行政調査会の会長に
   引っ張りだされ、いわゆる土光臨調のリーダーをやらされることになったので、
   芝生を刈ったりはできなくなってしまいました。

            <『よみがえる力は、どこに』新潮社>

   ・・・・・

あの西郷隆盛翁に、これと同じような話がある。

西郷さんが、官を辞して、田舎に帰ったところ、そこへ村長が訪ねてきた。

村長は、西郷さんに、村の様々な問題や運営の難しさを切々と訴えた。

ずっと黙って聞いていた西郷さんは、やおら座りなおし、
「そいじゃ、おいどんがやろうか」
と本気で言ったという。

政府の参議や総督までやった西郷さんを、まさか村長に頼むわけにもいかず、
村長は逃げるように帰ったという。

西郷さんは、「金もいらぬ名誉もいらぬ。命もいらぬと言う人は、始末に困る人だ」と言った。

だがまさに、西郷さんや土光さんこそ、この無我無私の人だ。

無我とは、利己的な我欲のないことであり、無私とは、私心がないこと。

       <感謝合掌 平成24年8月3日 頓首再拝>

大馬鹿者になれ ~ 谷口雅春先生 (3504)
日時:2012年11月12日 (月) 06時19分
名前:伝統

     *Web:大馬鹿文庫より

「馬鹿になれ」という言葉で思い起こされるのは、
既に亡くなられた徳久克己長老(生長の家本部講師、医学博士)から直接、
お聞きしたエピソードです。

 
徳久長老が終戦後、生長の家創始者・谷口雅春先生のお伴をして汽車に乗っていた時に、
「練成会を始めまして2年半、私は“馬鹿になれ、馬鹿になれ”と言い続けてきました」と話すと、

谷口先生は次のように仰ったというのです。

「馬鹿の上にもう一つ“大”の字をつけるといいね。大馬鹿になればよいのだよ。
大馬鹿になるということは、現在意識も潜在意識も捨ててしまうということだ。
つまり人間智を捨てることが、神の無限智を汲むことなのだね」

これは換言すれば「無私の精神」(小林秀雄氏=批評家)とも呼んでいいもので、
小賢しい人間の知恵で対処するのではなく、我を捨てて何もつかまない、
青空のように広い神の智慧と一つになって生きなさい、という意味でしょうか。

「大馬鹿になれ」――この言葉は自分を空っぽにしたときに、
青空のように広く、明るい“神の世界”にまで飛翔できることを教えてくれています。

       <感謝合掌 平成24年11月12日 頓首再拝>

無我直心を行ずる (3681)
日時:2012年11月17日 (土) 06時29分
名前:伝統


     *『生命の實相』第三十八巻幸福篇下(11月17日~P130)より

仏と一体になる道はただ一つ、南無(Namah)帰命である。
帰命とは、命を仏の本体に没入して自分が無くなることである。

キリストが「天国とはこの幼児(おさなご)のごときものである」と言い給いし
その「幼児(おさなご)の心」である。無我である。直心(じきしん)である。
端的である。小知才覚の紆余(まわりみち)なき直截(ちょくせつ)である。

天理教祖の所謂「この道はハイハイと掻き上がる道や」である。

生長の家の「そのまま素直にありがたい心」である。
文句なき心、否応なき心、帰投の心、敬順の心である。

無我直心を行ずるを徳という。

       <感謝合掌 平成24年11月17日 頓首再拝>

去私すなわち神 (4153)
日時:2012年12月01日 (土) 04時55分
名前:伝統


      *「光明法語(道の巻)」より 

十二月の法語    神とともに祈る

十二月一日の法語  去私すなわち神

「わが魂の底なる神よ。あなたのみ声を限りなく聴くことができますように。
あなたのみ心が私の心となって顕れてまいりますように。我をなくならしめ給え。
わたしの行いがあなたの行いでありますように」。

これが私の祈りである。

我がなくなったとき、其処に神が顕れる。
神が顕れたとき、其処には完全円満のみが存在するのである。

悪しきものは存在しない。それは我の顕れに過ぎないのである。
私心を去ったとき唯円満完全のみがあらわれる。

あまり自分でたくまぬが好い。         

            <感謝合掌 平成24年12月1日 頓首再拝>

捨我精進 (9149)
日時:2013年06月09日 (日) 04時58分
名前:伝統


     *『光明道中記(六月 神にむすばる 6月9日 捨我精進の日)』より
    
【神はただ信じても何にもならぬ。間違った信じ方は却って禍を招く。(『生命の實相』第十一巻)】


我より来るものにひとつの善きものも無いのである。
我は空(むな)しきものであるからである。
かく言う我とは此の肉我のことである。

われはひねもす我を打ちく摧(くだ)き、神へと捨我精進しなければならない。
もろもろの善きものは悉く神より来りて、我よりは来らぬものである。
神こそすべてのすべてであるからである。

神の流入を堰(せ)き止めるものは「我」と云う驕(たかぶ)りである。
「わしが・・・わしが」と云う誇りである。

如何に驕るとも、神の前に我は空しきものである。
神の力もあるけれども、私の努力にも因(よ)るなどと考えてはならないのである。

すべては神の力に帰せなければならないのである。
ただ”それ”を頭で知るだけでは足りないのである。
感情(ハート)でそれを感じなければならないのである。

感情(ハート)でそれを感ずるだけでは足りない。
全生命をもってそれを如実に体感しなければならないのである。

如実にそれを体感し、心にも一言(ごん)一行(こう)にもそれを表わし、
それを行じなければならないのである。

行の上では体験が必要である。
―― 神が私の上に生きているということ、すべてが神であること。

        <感謝合掌 平成25年6月9日 頓首再拝>

無我の教え (9224)
日時:2013年06月13日 (木) 04時54分
名前:伝統

     *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月13日~P159~160)より

われわれが他(ひと)に何事かを尽して喜びを感ずるのは自他一体の実相から来るのである。
「わたしがこれほどあなたに尽してあげました」という程度の尽し方では、まだほんとうに
自他一体がわかっていない。したがって本当の意味でその人は尽し方が足らないのである。

「わたしは神様にこれほど尽してあげましたのに、お蔭がない」と不平に思う人は、
そのこれほど尽しましたと力む「自分」という存在はどこから来たのか考えてみるがよい。

「自分」というものは本来どこにもないのである。
みんな神から来たものばかりである。
それをわたしがした自分がしたと力むその根性がまちがっているのである。

そんなまちがいの信仰からお蔭が来るものならば、神様の方がまちがっている。

二人の信者が神社へお詣(まい)りして、
甲は「わたしはこれこれの善事をつくしましたから神様どうぞ祝福して下さい」といって祈った。
乙は「わたしはなんの力もないものです。すべて善きものは神様から来るのです。
どうぞ御心の栄えますように」と祈った。

どちらが神様からお蔭を戴くものであるかとイエスは弟子たちにたずねた。
弟子たちは正しく答えることができなかった。

イエスは「本当にお蔭を戴くものは乙である」と言った。
「甲はまだ無我になっていない。善き事が神以外の《自分》から来るようにまだ思っている。
《自分の力》に誇っている者は神から卑(ひく)くせられるものだ。」

イエスの教えも無我の教えであり、釈尊の教えも無我の教えである。
「天(あめ)の御蔭、日の御蔭と隠りまして」と祝詞(のりと)にとなえる日本神ながらの道も
無我の教えである。

「自分は本来ない」これが生長の家の教えである。

「自分」を握っていながら、お蔭を戴こうなどというのは大それた考えである。
握っている手掌(てのひら)の中には日光は射し込まない。
拳を開くことをしないで「お蔭がない」と不足を言っても神様のご存じないことである。

指導者の役目は「握っている心の拳」をひらかせることである。
相手の心に「我(が)」を握らせておいて、神想観とかいうX光線みたいな光で
握ったままの掌(てのひら)を明るくすることはできない。

神様は開きうる拳を与えていられるのである。

        <感謝合掌 平成25年6月13日 頓首再拝>

我滅(な)し、神のみ、愛行は神の愛の顕われ (9255)
日時:2013年06月15日 (土) 04時07分
名前:伝統


       *『光明道中記(6月15日 一人必ず救う日』より

【至上の愛は神と偕(とも)なる時、おのづから出来る愛である。(『生命の實相』第十一巻)】


「われ」と云うものは今日こそもう滅(な)くなったのである。
我(が)は無い、我見も無い、我に属する一切のものもない。
「われ」が滅くなったとき其処にあらわれるものはただ神である。

神ばかりである。
われは無い、神ばかりである。
吾が面する世界は神の世界である。

わが坐する位置は神が我を抜きたまうた位置である。
わが擁する財は神が我にあずけたまいし財である。

わが位置をわが事のために使ってはならない。
わが財をわが事のために使ってはならない。
光明思想を弘(ひろ)めること。

人を救(たす)けるために、神の愛を顕すためには、
光明思想を弘めるにも優(まさ)りて良き方法は無いが故に、
私は光明思想を弘めるための私の能力と位置と財とを全部ささげているのである。

形ある財は費やされて消えて行くものである。
百円硬貨一枚は一人にそれを与えて一日の食料に足りないのである。

併し、一枚の百円硬貨に当たる一冊の『生長の家』誌によって起上(たちあが)った人が
どんなに数多きことであろう。

職業を与え、財を与え、医療費を与えるのも慈善であるが、
職業の源泉、財福の源泉、自然良能の源泉である光明思想を与えることは一種の善事である。

        <感謝合掌 平成25年6月15日 頓首再拝>



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