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西田幾太郎博士との対話  『新生の書』より    全文 (1916)
日時:2012年09月27日 (木) 13時46分
名前:童子

 西田哲学は私の日本哲学と非常に似ていると云われている。
 似ている点もあるが、非常に異る点もある。
 本論文はその異同を明らかにし、更に純粋日本的哲学を開明せんとするものである。





           一. 生命は『一』であると云うこと



【西田幾多郎】 『生命と云うものは内的統一と考えられるものでなければ、外的統一と考えられるものでもない。生命には死と云うものがなければならない。』 〈『哲学の根本問題』続篇 序文九頁〉



【谷口雅春】 『僕は、そう考えない。生命は生きているものである。生きているものに死はない。死するものは始めから死んでいたもの、或は始めから唯「反映(かげ)」に過ぎなかったものだけだ。』



【西田】 『多くの人々は、生命と云うものを潜在的力と考える。併し合目的なる生命の発展には、いつも物質的環境と云うものがなければならない。』 〈同書 序文九頁〉



【谷口】 『生命を潜在的力と考えるのは、五官的面から生命を覗いて見ようとするからである。そう云う観方をするならば、成る程、生命は物質的環境に包まれて、その中に潜在しているように見える。

 併し、物質的環境なるものは、実は外にある環境ではなく、生命みづからの波動であり、その波動を生命みづからが「空間」と云う認識の形式に映出して固定化して「物質」として観るに過ぎない。

 「物質的環境」と「生命」とは、そんなに対立して存在するものではない。』



【西田】 『併し合目的なる生命の発展には、いつも物質的環境と云うものがなければならない。而して、物質的環境と云うものは、生命を否定する意味を有ったものでなければならない。』 〈同書 序文九頁〉



【谷口】 『そう考えるのは「物質」と「生命」とを二元的に観るのだ。二元的に観る限り、その人には宇宙に真の統一は発見出来ない。

 「物質」と云う「生命」を限定する何ものかが存在するのではなく、「生命」が自己の表現の方法として、生命の波動によって「物質」を創造する。たとえば映画技師が、自己の表現方法として銀幕上に影を投ずるようなものだ。生命は如何なる他者によって限定されたり、束縛されたりするものではない。生命は「久遠即今」の純粋連続である。』



【西田】 『生命の連続と考えられるものは、Mの自己限定として非連続の連続と考えられるものでなければならない。現在が現在自身を限定すると云うことから生命の連続と云うものが考えられるのである。』 〈同書 序文九頁〉



【谷口】 『現在が現在を否定して次の現在があらわれると云うような考え方は、精神分裂症的な考え方である。考える場合には、そうも考えられるけれども、現在は否定せられずに、そのまま「今」即「久遠なるもの」と繋がっている。

 それが「久遠即今」の純粋連続である。「一」の純粋連続であって、不連続なる「多」の「現在」が連続しているのではない。線は「点」が無数に集って線になっているのではない。線は「一」の純粋連続である。

 それを物質的な分析的な考え方によって、線は点の不連続の連続だと考えるのだ。日本的な考え方は、何処までも一切を「本来一」の発展と観るのである。』




【西田】 『個物的なる個人の立場から見れば、非連続の連続として個物と個物との媒介者Mと云うものは、先ず私と汝との関係によって考えることが出来る。

 而して歴史的世界と云うものは、一面に私と汝とが相逢うと云う意義を有っていなければならない。そこに自然の世界と歴史の世界との区別がある。併し単に斯かる立場じゃら歴史の世界を考えるのは、一面的たるを逸れない。』 〈同書 序文十頁〉




【谷口】 『そうです。それは全く一面的であって、自他を分裂症的に見ている。「私と汝が相逢う」と云うのは、「私」と「汝」とを対立的な一面からのみ観ている。

 「私」と「汝」とは本来無い。無くして‘ある’。その「無」を通して「私」と「汝」とを滅し去り、「私」と「汝」とが否定せられることによって「私」と「汝」とが一体に繋がっている。それが歴史だ。』




【西田】 『歴史の底には、個人をも否定するものがなければならない。加之、私と汝との関係から考えても、単に私と汝との関係だけでは、真に非連続の連続と云うものは考えられない。真に非連続の連続と云うものが考えられるには、彼と云うものが入って来なければならない。』 〈同書 十頁〉




【谷口】 『現実的五官的な面からの思考としては、「私」と「汝」と「彼」との三つの対立を考える。併し、それは結局一面からの観方であって、「私」と「汝」と「彼」とは無いのであって、本来ただ「一」のみがある。

 「一」の生命が「私」となり、「汝」となり、「彼」となり、一方に於てそう云う人格的な世界をあらわし、その同じ「一」の生命が、その人格的な世界を容れるところの環境的世界、非人称的命題の世界をあらわす。そうして、個々の人格がその環境〈非人格的世界〉と関係し得るのは、人格的世界と非人格的世界とが、本来「一」であるからである。その本来「一」こそ神なる大生命である。』



【西田】 『私は ・・・・・ 普通に考えられるが如き意味に於て神を偉大なる人格と考えるのではない。我々の人格と神の人格はスピノーザの云った如く、犬と狼星との如く異るものでなければならない。』 〈同書 十一頁〉




【谷口】 『その本質に於ては神の生命と人の生命とは「一」である。「一」でなければ、結局吾等は神を知ることが出来ない。これが“生命の平等面”であり、情意的面である。

 しかし‘差別面に於ては’、神と人とは階段の高下的相異がある。これが秩序の面であり、義の面である。天皇と国民とは情に於ては親子、義に於ては君臣とは秩序に於ける差別であると思う。』

西田幾太郎博士との対話  (2) (1947)
日時:2012年09月28日 (金) 07時25分
名前:童子

             二. 現実の世界とは如何なるものか



【西田】 『現実の世界とは如何なるものであるか。現実の世界とは、単に我々に対して立つのみならず、我々が之に於て生れ、之に於て働き、之に於て死にゆく世界でなければならない。

 従来主知主義の立場を脱することの出来なかった哲学は、所謂対象界と云う如きものを実在界と考えた。それは我々の外に見る世界に過ぎなかった。之に対して我々は単に見るものに過ぎなかった。併し、真の現実の世界は我々を包む世界でなければならない。我々が‘之に於て’働く世界でなければならない。行動の世界でなければならない。斯かる世界の論理的構造は如何なるものであろうか。』 〈同書 本文一頁〉




【谷口】 『現実の世界とは、単に見られるだけのものとしての対象の世界ではない。吾々が創造しつつある世界である。

 それは吾々を引き包んでいるように見えているけれども、吾々の生命がプロジェクト(project)し、顕現しつつある世界である。五官的に観れば吾々は‘之に於て’働くように見えるが、真実は、吾々はそう云う「現実世界」と云う容器の中で働いているのではない。

 現実世界とは「実」即ち「実在の生命」が「現」ずなわち顕現しつつある‘そのもの’である。世界と云う容器があるのではない。生命が世界を顕現しつつあるのである。

 生命と世界とは「一」なのである。だから「生命」は「世界」をつくる。「世界」は生命を縛る客観的存在ではない。生命は世界を自由にねじ曲げることが出来る。それが谷口哲学の立場であり、西田哲学と相異する根本的なところだと思う。』




【西田】 『此の世界は之を客観主義の立場から見ることもできる。単なる科学の立場からこの世界を考える人や又多くの形而上学者もそれであった。

 之に反し、この世界は之を主観主義の立場から見ることもできる。所謂理想主義の人々がそれである。特に近代に於てカント哲学は斯かる立場に立つものと云うことができる。併し単なる客観主義の立場から主観界を包むことはできない。又単なる主観主義の立場からは真の客観界を包むことは出来ない。』 〈同書 本文二頁〉




【谷口】 『生長の家は単なる主観主義の立場ではない。主観客観全一の實相を直観的に把握して、これが真に実在であると云う。

 吾々が実在と云うのは、真に客観的なるものであり、同時に「大主観」とも云うべき「神」の主観の顕現でもある。吾々が肉眼で見ている所謂る現実界なるものは、‘純粋主観’世界でもなければ、純粋客観世界でもない。それは純粋客観世界を‘仮妄主観’で模糊たらしめて、歪み又はぼかしてそれを不完全にあらわしているものに過ぎない。

 だからそれは現実世界と云うと雖も「実」を現したものではなく、仮妄主観で純粋客観世界を汚して見ているのである。真に純粋主観、又は大主観に立って観たる世界は純粋客観世界に一致する。それは神の覚位に立って、又は仏の覚位に立って見たる世界である。

 法華経にある「衆生が劫尽きて此の世が焼くると見る」世界とは、仮妄主観で汚して見たる世界である。併しその時さえも「わが浄土は安穏にして天人常に充満す」と観る主観が純粋主観であり、汚れざる主観であり、又かく見られたる天人の浄土が純粋客観の世界である。爰に純粋主観の世界と純粋客観と世界とは一致する。

 かくの如き純粋主観(純粋智)を吾らは實相と呼び、かくの如き純粋客観世界を實相界と称する。吾々が現実界又は現実世界と称するものと、實相界又は實相世界と称するものとは、此の様に異なるのである。』

西田幾太郎博士との対話  (3) (2014)
日時:2012年09月29日 (土) 16時07分
名前:童子

               三. 真に働くものは何であるか



【西田】 『物が働くと云うには物と物とが相対立すると云うことがなければならない。そこに同列的関係がなければならない。空間的関係がなければならない。

 働く物と云うのは空間的・時間的でなければならない。物力と云うものは時間的・空間的でなければならない。 ・・・・・・ 物と物とが相対立すると考えるには、物と物には互独立なものでなければならない。

 独立な物と物とが相関係すると云うには、その間には、その間に媒介者と云うものが考えられなべならない。併し媒介者と云うものは亦物と無関係なものと考えることはできない。関係と云うものがなければ項と云うものはない。併し項と云うものがなければ関係と云うものも考えられない。両者は固不可分離的なものでなければならない。』 〈同書 七頁〉




【谷口】 『「項」と云うのは方程式A+B=Cの如き各項を譬喩に用いたものであろうし、「関係」と云うのはA+Bに於ける「+」の如きものを指すのであろう。AとBとが+(プラス)されることが出来るのは、AとBとが本来同一のものであるからである。

 三個の林檎と四個の林檎とが+(プラス)されて七個の林檎となり得るのは、AとBとが互に本来同一のものであるからである。三個の蜜柑と四個の林檎とでは、いつまでも蜜柑と林檎と別々であって七個の蜜柑又は林檎にはなり得ないで、どこまでも三個の蜜柑と四個の林檎である。

 この場合三個と四個とをプラスせしめ得る関係に置き得る根本は、プラスを可能ならしめ得る媒介者が、AとBとの他にあるのではなくAとBとの本質が同一であるからである。

 AとBとのほかに特殊な媒酌人のような「媒介者」を立てて考えることは、本来「一」なる実在をA・B・+と三個の別々なるものに分析して考える唯物論的な考え方であると思う。』




【西田】 『個物は何処までも個物自身を限定すると云う個物の独立性の方向に徹底すれば、働くと云う如きは棄てなければならない。 〈同書 七頁〉 ・・・・・ 近世科学の世界は働くものの世界である。その底には非合理的なものがある。物質界とは個物を限定する意味に於いての一般者である。感覚的なるものと云うのは、個物化的限定の原理と云うことができる。』 〈同書 八頁〉


【谷口】 『個物を限定するとは、如何なる意味であるか。』


【西田】 『現実の世界は何処までも個物的でなければなければならない。現実は生きるものでなければならない。何処までも自己自身を決定するものでなければならない。』 〈同書 八頁〉



【谷口】 『それでは‘個物を限定’するとは、個々夫々のものが、個々夫々の‘自身の姿を決定する’と云う意に受取れる。それはそれとして、物が働くためには何故物と物とが互に相対立しなければならないのか。』


【西田】 『真に働くものは何処までも個物でなければならない。個物は個物に対して限定せられると共に、真に個物的なるものは何処までも自己自身を限定するものでなければならない。何処までも時間的なるもの、直線的なるものでなければならない。

 個物は唯個物から生れるのである。‘個物が一般から限定せられると考えられるかぎり’それは個物ではない。真の個物は個物に対する意味に於て、何処までも空間的になると共に、個物は唯個物から生れると云う意味に於て時間的でなければならない。』 〈同書 九頁〉

西田幾太郎博士との対話  (4) (2036)
日時:2012年09月30日 (日) 11時52分
名前:童子

【谷口】 『哲学者と云うものは何故そんなに難解な言葉を使って、難解に表現しなければならないのか、私は不思議な気がするのである。

 「生命の實相」を私が易しい通俗語を用いて書いたら、それは哲学でないと思っている人がある。野村證券の飯田清三が「生命の實相」を読んで見て、「生命の實相」には哲学がないと思って捨ててしまった。すると九州帝大の佐藤通次教授から「生命の實相」はそのままで一つの哲学体系を成しているのですよと云われて、再び読み返して見て、それが生命の哲学さとわかって熱心になったと云う話もある。

 私は独逸語が出来ないので充分わからないが、ヘーゲルなどは当時の独逸の通俗語を自由自在に駆使することによって、一層深い意義を表現したと云われる。

 私が目に一丁字のない人にわからせる生命の哲学を書こうと思って苦心したその結晶が、あの「生命の實相」である。

 もっと凝縮してその中心原理だけを一冊に纏めたものを出したら用紙の節約になるだろうと云って下さる人もあるが、哲学を哲学的難解語でないものを使って表現するのは一つの藝術であって、夫が如何に小学卒業位の人さえも解らせ得て、兎も角も生命が何ものかを知ることを得て救われたと云う礼状が来ている。

 私は自分の手前味噌で云うのではない。私はもっと哲学を日本的な表現を以って表現し得なかったならば、真の日本的な哲学が出来て来ぬと思う。

 日本には古来哲学が無かったと云う人があるが無かったのではないが、その哲学的な表現は近代に至って外国哲学の翻訳を以って始まったので、哲学者と云う哲学者は自分の思想を翻訳口調の文章で表現する。

 これは日本語粛正の上から云っても重大なことであり、その理解し難い語脈の文章を理解しようと思って、考え考え読む為に、日本人の勉学時間が著しく無駄に浪費されていることに注目しなければならない。

 西田哲学が難解だと云われることは名誉なことではない。然もそれが日本的哲学の最初の成果だと批評している人もあるに於ておやである。私は難解な哲学的語彙を日本固有の通俗語に引き直す為に、「實相」を「もののほんとのすがた」とか、「プロジェクション」を「心の影」とか云うように誰にも解る語を工夫したのである。

 あなたの被仰る「個物が一般から限定せられると考えられるかぎり、それは個物ではない」とは何の意味か、私にはハッキリ判らない。

 それは想像出来るけれども、それが当っているか如何かはわからない。用語が明瞭でないときは思索が明瞭であり得ない。「一般」から限定せられるの「一般」とは、「個物に対する一般」即ち「個者に対する普遍者」だろうと思われるが、「一般が個物を限定する」とは如何なることであるか。

 普遍者〈神〉が個者を「かくあらしめている」と云う意味であるか。それならば、神が個者を斯くあらしめているが故にこそ個者があるのではないか。

 神にかくあらしめられていないバラバラの個生命を考えるときには一切の存在はバラバラなる何等統一も連絡もなき存在となる。個生命は一般者なる神に斯くあらしめているが故にこそ、個生命であり得、また個生命と個生命との関係連絡があり得るのである。』

西田幾太郎博士との対話  (5) (2194)
日時:2012年10月04日 (木) 21時35分
名前:童子

【西田】 『生命とは如何なるものであるか。生命と云うものは、先ず何処までも時間的でなければならない。そう云う意味に於てベルグソンの純粋持続と云うが如きものは最も能く生命の意義を明かしたものと云い得る。

 併し‘真の生命’と云うのは単にそれだけで考えられるものではない。生命は一面に於て何処までも空間的でなければならない。身体的でなければならない。然らざれば生命は夢幻的なものに堕する外ない。』 〈同書 九頁〉




【谷口】 『一寸待って下さい。「真の生命と云うものが空間的でなければならない、身体的でなければならない」としたならば、国難に献身し身体を失った軍人が、‘真生命’を失ったと云うことになるのですか。

 身体を失った軍人に‘真生命’があるとか、‘真生命’が発揮されたとか云うことは、「夢幻的なもの」を‘あり’と考える迷信でありましょうか。それでは古来神社に祭祀されている諸霊は身体がない故に‘真生命’がないと云うことになりませんか。それでは生命の唯物論又は物心二元論的なものとなる。

 私は、真生命と云うものは身体的なものだと考えない。身体は生命がそれ自身の波動によって創造したる表現の道具に過ぎない。生命を身体的な「個物」と考えるところに「物が働くというのは物と物とが相対立するということでなければならない」と云われるような相克対立の世界観が生ずるのです。

 「物が働く」と云うのも可笑しい表現だと思う。働くものは生命であり、「個」として同時に「普遍者」に繋がるところの生命が働くのであり、真に働くと云うのは、対立摩擦によって働くのではなく、夫々のものは個々別々に見えても本来「一」であるが故に、そこに‘統一状態’を得て働くことが出来るのである。

 それは一人の設計者の智慧に統一せられているが故に、夫々の部分は別々の「個物」のように見えても「個物」ではなく、各々「一人」の設計者の自己表現なのである。

 真にあるものは、身体的な各部分よりも、それを貫く「一」なる生命こそ‘真にあるもの’であり、又‘真に働いているもの’である。』


 

西田幾太郎博士との対話  (6) (2291)
日時:2012年10月07日 (日) 09時31分
名前:童子

            四. 世界と自己とを別と観るか一体と観るか




【西田】 『実在というのは、色々に考えられる。或者は我々の見るもの聞くもの、即ち感官の対象となるものを実在と考える。自然科学者の如きがそれである。或者は之に反して理性的なるもの、即ち思惟の対象となるものを実在と考える。プラトンのイデヤの如きは、かかる意義に於て考えられた実在と云うことができるであろう。

 又或者は我々の自己に直接なる経験内容、即ち広義に於て内的知覚の対象となるものを実在と考える。直接経験説とか、純粋経験説とかいうものは、かかるものと考えることができるであろう。此の如き考えの人々は主客未分以前の立場に立つと云うも、要するに内から外を見るに過ぎないと云うことができる。



 併し私は我々の真の自己というべきものは働く自己というものであり、真の実在というものは行動的自己の対象と考えねばならぬと思う。我々は此の世界に生れ、行動によって自己自身を実現して行く。かかる我々の行動に抵抗するもの、我々と戦うもの、それが我々に対し、真に客観的と考えられるものでなければならぬ。それが真に我々の如何ともすることのできない、真に我々を越えたものと考えられるものでなければならぬ。

 真実在というものは、我々の行動的自己の立場から考えられねばならない。無論、見るとか聞くとかいうことも作用であり、考えるということも作用である。直覚ということすらも、作用と云わねばならぬかも知れない。単に見るものと見られるものとが一つであるならば直覚ということすら考えられないのである。』 〈岩波版 『哲學の根本問題』中の形而上學序論 一頁―二頁〉

                      ~ つづく

西田幾太郎博士との対話  (7) (2349)
日時:2012年10月09日 (火) 12時20分
名前:童子

            四.世界と自己とを別と観るか一体と観るか(つづき)



【谷口】 『私の考では、見るものと見られるものとが一つであるが故にこそ、こちらの生命が対象を直覚する。すべては「一」から始まる。


 谷口哲学の物の観方は「生長の家倫理学」に書いたように、すべて実在は「一」であると云うところから始まる。

 
 もっと克くあなたと話を交えて見ないと匇々に結論は出来ないが、西田哲学は実在は「一」ではないと云うところから出発しっているのではないかと思われる。「実在というものは行動的自己の対象と考えねばならぬ」と云うあなたの言葉などもそれである。


 私に言わせれば「行動的自己」そのものが実在なのである。そして此の「世界」は「行動的自己」の生み出したる「世界」である。「世界」と「行動的自己」とは一つなのである。


 「世界」と「行動的自己」とが互いに「一」であるが故にこそ、「自己」と「世界」との関係が可能であり、「自己」が「世界」に働きかけくることも可能なのであると私は考える。


 あなたは「我々は此の世界に生れ、行動によって自己自身を実現して行く」と云われるが、それは感覚で見た常識的見解であって、何処にも形而上学はない。感覚で見た常識的見解では、人間が‘そこに於て’生れ、且つ死ぬ容れ物のように見える。併し「自己」と「世界」とが別々のものであれば、「自己」と「世界」との連関が如何にして可能であるか。


 谷口哲学に云わせれば、「自己」が「世界」の中に生れるのではなくして、「自己」が「世界」を創造するのである。「世界」は「自己」の容れ物ではなくして、「自己」そのものの自己実現が「世界」である。〈無論「自己」とは肉体ではない。肉体も亦一つの「世界」であり、自己が自己実現として創造したる一つの「世界」である。〉


 「世界」は「自己」と倶に生まれ、「自己」と倶に滅するのである。「世界」と「自己」とは「一」である。「一」であるが故に、「自己」は「世界」に働きかけ、変形し、価値づけをすることが出来るのである。


 先ず「自己」が実在であり、自己の自己実現として「世界」がある。「世界」の中に「自己」が生まれたのではなく、「自己」が世界を創造するのである。』

西田幾太郎博士との対話  (8) (2458)
日時:2012年10月12日 (金) 21時02分
名前:童子

          四.世界と自己とを別と観るか一体と観るか (つづき)




【西田】 『実在と考えられるものは、我々に対抗するもの、我々と戦うものでなければならぬ。併し、単にそれだけのものが実在ではない。単に我々を越えたものは、我々に対して何物でもない。実在とは我々を限定する意味を有つものでなければならぬ。』 〈同書 三頁〉




【谷口】 『あなたの世界観が「一」から出発しているがゆえの止むを得ざる結果であるかも知れないけれども、あなたの世界観は戦いの世界観であり、相克の世界観であって「大和」の世界観ではない。


 「我々と対抗するもの」「我々と戦うもの」が実在であるならば、弱肉強食は実在であり、戦争は実在であり、闘争摩擦の一切のものは実在であり、それは実在であるが故に、消滅さすことの出来ないものとなる。


 谷口哲学から云えば、真実の自己〈天之御中主神から始まり、「此の漂へる國を修理固成せ」との神勅となって顕れた創造の生命〉のみが実在であり、その「我々に対抗するもの」その「我々と戦うもの」は「非実在なるもの」〈古事記的表現を以ってすれば「漂へるもの」〉と観るのである。


 我々を限定するものは「実在」にはあらずして、「実在なる自己」によって征服さるべきところの消極無に過ぎないのである。何者も「実在なる自己」に対抗し、これを束縛し、真の意味に於て戦いを挑み得るものは無い ―― これが生長の家の世界観である。


 この世界観が正しいと云う事は、「肉体」と云う一種の「世界」を観るとき、それが実証せられるのである。即ち「何物も自己の生命を縛るものは無い」と云う自覚に立つとき、今まで自己を縛っていたと見える病気等の如きものが姿を消す事実によって、その非実在を実証するのである。


 これは「人類」の「自己」に於ても同様に実証せらるべきものである。「人類」の「自己」が〈人類の生命〉が「何物も自己の生命を縛るものは無い。既に平和也という自覚の上に立って行動するとき、国家の病いの如く見えていた所の不完全な闘争は、それは本来非実在なるが故に姿を消すべきである。


 乃ち「我々に対抗するもの」「我々と戦うもの」は本来非実在なのである。谷口哲学は西田哲学と此の点に於て全然反対の観方に立つものである。』

                 ~ つづく

西田幾太郎博士との対話  (9) (2523)
日時:2012年10月16日 (火) 12時38分
名前:童子

          四.世界と自己とを別と観るか一体と観るか (つづき)




【西田】 『実在と考えられるものは、単に我々を越えたものではなく、何処までも我々を限定する意味を有つものでなければならない。我々を限定し尽くすもの、否我々の底から我々を限定するものが真の実在と考えることができる。』 〈同書 三頁終五行目〉



【谷口】 『「我々の底から我々を限定する」ものが実在であるならば、その「我々」と云うものは一体何であるか。それは実在に対抗するところの何者かでなければならぬ。


 ‘実在にあらず’して実在に対抗するものは ―― それは‘実在でない’から“無い” ―― 即ち、その「我々」なるものは無い。「無いもの」には行動的自己とか人格的行動などは無い。谷口哲学では是を「偽存在の我」と呼んでいる。


 偽存在の我は本来無いのであるから、それがわかれば「無我」の自覚に達するとき、その行動的自己は、「自己ならざる自己」すなわち、宇宙的自己とならざるを得なくなる。此処に対立的対抗的自己がなくなって、そのままの対立なき「一」の純粋自己なるものが顕現するのである。


 かくてここに我々を限定する対立者はなくなって、天爾自然に自由なる宇宙即我〈世界即我〉の行動的自己があらわれるのである。』




【西田】 『私の人格的自己というのは、我の中に非我を包む絶対我という如きものを意味するのではなく、個人的自己としてこの現実の中に働くものを意味するのである。』 〈同書 五頁末行・六頁〉


【谷口】 『非我を包む絶対我こそ本当の人格的自己である。それ谷口哲学では「本当の自分」と易しく呼び、又は「実相の自分」と云う。個々の人格的自己の内に全ての世界が包まれている。だから人格的行動は世界を動かす。世界を創造するのである。


 世界と人格とは「一」である。「一」であるからこそ互に連関があり、相互関係があり、人格的行動が可能となるのである。』

                 ~ つづく

西田幾太郎博士との対話  (10) (2567)
日時:2012年10月18日 (木) 10時57分
名前:童子

           五.真の時と生命とは別であるか



【谷口】 『人格的行動とは如何なるものであるか。』


【西田】 『人格的行動とは如何なるものであるか。行動と云うのは、先ず一種の運動と考えることができる。併し私が此処に云うのは単に物体運動と云うが如きものを云うのではない。すべて‘時に於て’変ずるものを意味するのである。意識作用と考えられるもの、こういう意味に於て運動と考えることができる。

 ギリシャ語のキネシスとは、かかる意義を有って居たということができる。』 〈同書 六頁〉



【谷口】 『ギリシャ語でどう云う意味かが問題ではない。ギリシャ語で語ればギリシャ的な考え方になって純粋に日本的な考え方になり切れない憾みを生ずる。在来の哲学者の哲学の殆ど皆と云って好い位外国語脈の難解な述語と語法と行文とで考え、思索し、語るために、どれほど哲学を難解にし、且つ日本的哲学の発現の邪魔をしていたかも知れない。

 これからの日本人は純粋に日本語で日本的に思索し表現しなければならぬ。外国の語源探索と実在そのものの探求とは凡そ異なるものであることを知らねばならない。

 ところが貴方は人格的行動とは「時に於て変ずるもの」だと云われるが、私はそれに対して異議があるのである。私は人格的行動とは「時」を創造するものだと考えている。生命の人格的行動の持続が「時」であり、生命の人格的行動の展開が「空間」であると思う。

 「時に於て変ずる」と云うが如く、「時」と云う容器の如きものがあって、その中で「生命」が人格的行動をなすのではない。「生命」が行動するところに時間を生じ、空間を生ずる。最もこれは時計で測るような外的、又は相対的時間ではない。それは内的時間又は一層適確に云えば、純粋時間とも称すべきものではあるが。』



【西田】 『時に内とか外とかいう区別が考えられるが、物理学者の時の如く単なる外的時と考えられるものは寧ろ空間的時というべく、又単なる内的時と考えられるものは可能的時たるに過ぎない。

 内的即外的、外的即内的なる所に真の時というものがあるのである。真の時というのは内外統一の‘形式’と考えることができる。』 〈同書 六頁〉


【谷口】 『真の時と云うものは外的時でもなく、内的時でもなく、内的即外的、外的即内的なるものであると云うのは正しい。併し「真の時というのは内外統一の‘形式’」と云われる其の「形式」であることには賛成出来ない。

 真の時というのは、純粋生命そのものである。その純粋生命のハタラキが外面に投影したとき、それを認識する仕方の形式が現象時間又は外的時である。‘真の時’と云うものを単に形式と観るのは誤りであると思う。』



【西田】 『すべて有るものは時に於てあり、時に於て働くと考えざるを得ない』 〈同書 六頁終二行目〉


【谷口】 『その「時に於て」と云われる考え方に、「時」と、そこに働いている「生命」の分裂が露呈されている。そう云う「生命は渾てであり、一である」と云う観方とは全然別なるところの、「生命」と「生命が働く座、又は場所」とを二分してしまうところに物質的なバラバラ的な世界観があるのではないか。

 「生命」と「生命が働く座」とは本来「一」なのである。「生命」が「時に於て」働くのではなく、「生命の純粋持続的働き」そのものが純粋時間なのである。

 純粋時間又は「真の時」とは変ずる如く見ゆる現象時間〈又は「外的時」〉の根底にあるところの生命そのものの行動的自己であると思う。』

                 ~ つづく

西田幾太郎博士との対話  (11) (2610)
日時:2012年10月19日 (金) 13時23分
名前:童子

           六.他から動かされるものは物であって生命ではない




【西田】 『アリストテレスは変ずるものの根底には変ぜざるものがなければならぬと云った。かかる意味に於て変ぜざるものとは、如何なるものであるか。物自体が固(もと)不変であり、それが部分的に自己を顕現し行くと考えるならば、その物は変ずるのではない。

 物力の世界というものを考えてもデュ・ポアレモンの云った如く運動の起源を説明することはできぬ。動くものは自己自身の中に自己否定を含んだものでなければならない。生命に於ての如く潜在的なるものが顕現的になると云っても、それは既に自己自身の中に矛盾を含んだものでなければならぬ。

 それが他から動かされると考えられるならば、それは物であって生命ではない。併し我々は如何にして自己自身の中に矛盾を含んだものを考え得るか。』 〈同書 七頁終一行目―七頁〉



【谷口】 『「他から動かされると考えるならば、それは物であって生命でない」と云う考えは正しい。例えば生命が薬物によって動かされると考えるならば、それは「生命」と呼ぶと雖も、それは「物」であって「生命」ではない。「生命」を「物」として考え、人間を「物質」として考える唯物論者を無くするのが谷口哲学である。

 アリストテレスの「変ずるものの根底には、変ぜざるものがなければならぬ」と云ったのは、「異なる時に於て別の相をとっていること」を「変ずる」と云う。別の相をとりながら、それが「別のもの」ではなくして、「同じもの」が変じたのだと云う限りに於て「変ぜざる同じもの」が其の根底になければならないのは当然である。

 「動くものは自己自身の中に自己否定を含んだものでなければならない」と貴方が云われるように、生きているものは、自己自身の中に「自己充足」と「自己否定」との二つの原理を内に含み包んでいるところの「中」である。「自己充足」がなければ、自己が成立たない。併し、「自己充足」を実現しようと思えば「自己否定」しなければならない。

 喩えば、原稿を書こうと欲せば、〈自己充足〉、頭脳が働いてエネルギーが消耗する〈自己否定〉が如きである。「自己充足」の原理はイザナギの原理であり、「自己否定」の原理はイザナミの原理である。生命とはイザナギとイザナミの両原理の内に包み含みながら、それが決して混合でもなく、また化合でもなく、それが本来「一」なるところのものである。

 この「一」なる実相の把握が、日本には哲学がないと云われていながら、真の日本民族の哲学であったのだと思う。本来「一」なることが判らなかったならば、「如何にして自己自身の中に矛盾を含んだものを考え得るか」との疑問が解決出来ないのは無理もない。イザナギ・イザナミのムスビによっての世界創造を説く日本哲学は、もう既にこのことを解決しているのだと思う。』



【西田】 『アリストテレスが色は色に変じても、色は声に変ぜないと考えた時、‘色の一般者’という如きものを考えたと云うことができる。併しかかる考え方によっては、何処までも変ずるものとか働くものというものを考えることはできない。

 色とか音とかいう如きものの底に横たわる物という如きものを考えて見ても、限定せられた一般者の限定として、そういうものが考えられるかぎり、それから変ずるものとか働くものとかいう如きものは考えることはできぬ。』 〈同書 七頁〉



【谷口】 『色の底に横たわる一般的本質 ―― 物理学者のエーテル ―― と云うようなもを考えて見るとする。青い色が黄色に変ずると普通考えられるのは、青い色が黄色に変ずるのではなく、青い色の根底に横たわる一般的本質エーテルが〈エーテル否定の説もあるが、これは茲では論ぜぬ。〉その振動数を変ずるのである。しかもエーテルは依然としてエーテルであるから、それはエーテル“から”黄色に変じたのではない。エーテル“が”黄色をあらわしたのである。

 エーテルはエーテルの中に「黄色を顕す」と云う「自己充足」を遂げんがために、他の無数の色をあらわし得る可能性を内に含みながら、自己の振動数を限定して〈自己否定〉、黄色に感じられる波動のみをあらわした。これは自己否定と同時に自己充足である、イザナミと同時にイザナギである。

 自己否定を‘媒介’として自己肯定を実現したと云うよりも、自己否定即自己肯定である。それを「自己のうちに矛盾を含む」と観るのは、此の世界を矛盾と観るところの矛盾世界観が、観る人の心の奥底に横たわっているからである。自己否定即自己肯定は矛盾ではない。

 これは物理学的に謂えば、遠心力と求心力とは矛盾的存在ではなく、遠心力あっての求心力であり、求心力あっての遠心力であり、此の両者は本来「一」であるのと同様である。』



【西田】 『動くものというのは、何処までも我々の対象界と考えるものを破って、之を変じて行くものでなければならぬ。』 〈同書 八頁四行目〉


【谷口】 『私は対象界と考えるものを‘破って’とは考えたくない。生命は対象界を破るのではなく対象界を創造するのである。一層適切に云うならば、自己が対象界に変るのである。

 自己と対象界とは「一」である。どこまでも一切が「一」の展開であると考えなければならぬ。自己と対象界とを別々に対立する抗争的存在と考える根本的世界観から、その観の展開として苦難の人生が生れるのである。

 生命は他から動かされることなくして一切を自己みずからの顕現として、それを創造するところの自主的なるものである。自己を遮りとどむる対立的抗争の世界をみとめてはならないのである。自己の内に一切世界が包まれ含まれ、それを自由に顕す如き本来「一」の世界観を必要とするのであり、またかかる世界観のみが真実なのである。』

                 ~ つづく

西田幾太郎博士との対話  (12) (2649)
日時:2012年10月21日 (日) 14時46分
名前:童子

           七.純粋時間と現象時間とに就いて





【西田】 『時は無限の過去から無限の未来に向って流れると考えられる。時の両端は結び付かないものでなければならぬ。如何なる意味に於いても、その両端が対象的に結び付くと考えられるならば、時というものはなくならねばならぬ。

 併しアウグスチヌスも云った如く、時の過去と未来とは何等かの意味に於て結び付く、即ち一つのものに於てあると考えられねば、時というものは考えられない。』 〈『哲学の根本問題』 八頁五行目〉



【谷口】 『無限の過去から無限の未来に向って流れていると考えられるのは、現象時間のことであって‘真の時’ではない。

 ‘真の時’はかくの如き無限の過去も無限の未来も「今」の一点に於て把んでいて ―― 其処から一切の時間と空間とが展開するところの極微の一点なのです。 ―― 本当は極微の一点もないのだけれども、象徴的な表現をもって謂えば無時間無空間の一点から一切の時間と空間とが展開し出で、またそこに「帰る」のです。

 後から復帰すると謂う意味での「帰る」ではなく、その一切に「今」現に帰一しながら、しかも無限の時間と空間とを展開しているのが‘真の時’なのです。帰一と展開とが同時即一に行われているのです。

 これがあなたの云われる「アウグスチヌスも云った如く、時の過去と未来とは何等かの意味に於て結び付く、即ち一つのものに於てあるというものは考えられない」と謂うことの意味だったら、此の点に於ては西田哲学と谷口哲学と同じだと謂い得ると思う。』

                ~ つづく





西田幾太郎博士との対話  (13) (2693)
日時:2012年10月22日 (月) 22時42分
名前:童子

            七.純粋時間と現象時間に就いて (つづき)



【西田】 『すべてあるものは、一般が個物を限定し、個物が一般を限定すると云う仕方に於てあるのである。真に主語となって述語とならないヒポケーメノンというものはかかるものでなければならない。

 時に於てあるもの、時間的と考えられるものもかかる仕方に於てあるのである。時に於てあるものは、何等かの意味に於て限定せられた現在に於てあり、何処までもかかる現在によって限定せられるものと考えられねばならぬ。

 併しそれと共に何処までもかかる現在を破りかかる現在を変じて行くものでなければならない。時はかかる意味に於て、すべて有るものの自己限定の形式ということができるのである。

 時に於ては、超越的なるものが内在的であり、内在的なるものが超越的である。時は現在が現在自身を限定するより始まると考えられる所以である。変ずるものというのは、かかる意味に於て時に於てあるものとして考えることができるであろう。』 〈同書 十一頁四行目〉




【谷口】 『あなたの難解な哲学的表現にぶつかった気がする。何故難解かと云うと、思想そのものが、難解なと云うよりも、「一般が個物を限定し、個物が一般を限定する」と云う語句が如何なる思想を意味するのか不明瞭な点です。


 語句の意味が解ってのち、その意味する思想が難解と云うのではなく、語句が何を意味しているかが不明瞭なために、何を意味するかを考え考え読まねばならぬ。


 西田哲学の難解は、哲学の難解ではなく、語句の難解さを哲学の難解さと取違える点にある。


 「一般」とは何を指すか、「個物」とは何を指すか、「限定」とは如何なることを指すか、実例を挙げて説明でも加えて置かれれば、貴方自身の表現しようとする事柄がハッキリするが、そうでない限りは、読者は読者の考え方でよって一人一人別々にそこから特有の意味を想像して読みとるほかはない。


 だから読者は西田哲学を理解したつもりで、色々に理解し得たと想像しているだけで、読者の想像力によって別々のように理解したようなつもりになっているのである。 この事は諸家の西田哲学の批評や紹介文を読んで見ると、皆な異なっているのでも判明する。』

                ~ つづく

西田幾太郎博士との対話  (14) (2814)
日時:2012年10月25日 (木) 11時55分
名前:童子

           七.純粋時間と現象時間とについて (つづき)




【谷口】 『ところで貴方の謂われる「一般」とは、「主語となって述語とならないヒポケーメノン」と次にある語で察することが出来るようであるが、「主語となって述語とならない」と云うのは、喩えば、「色が赤い」と云われる場合、「色」と云うものは、すべての色彩に‘共通している一般者’であり、「赤」と云うのは、個々別々の色彩である。


 そこで、「色」を「一般」と称し、「赤」を個物と称し、「色」が「赤」であるためには、すべての色彩であり得る「色」の可能性を「赤」のみ限定しなければならぬ。

 そう云う有り方に於て色彩があることを指して、「一般〈色〉が個別〈赤〉を限定し、個物が一般を限定すると云う仕方に於てあるのである」と云われるのだろうと私は色々考えた上に想像し得たのです。



 前後を対照し考えながら読まねば一行と雖も不可解であるので、一頁読むのに三十分はかかるので随分人騒がせな難文だと思う。

 それでも実際私の解した意味を貴方が語ろうとしているのか如何かは解らない。難文をもって哲学の深遠さと混同してはならないと思う。


                 ~ つづく

西田幾太郎博士との対話  (15) (2907)
日時:2012年10月27日 (土) 22時14分
名前:童子

           七.純粋時間と現象時間とに就いて (つづき)




【谷口】 『此の一節で、貴方は「‘時に於て’ある」と云う語を繰返し使用していられる。私の考え方に於ては、「時に於てある」と云う事は‘現象時間の流れ’に於て有るのであって、それは「本当に有る」のではなく、「顕れている」と云うことに過ぎない。


 現象的存在 ―― 即ち真に‘ある’のではない。現れている存在は ―― ‘ある’世界〈実在界〉から、‘あらわれ’の世界〈現象界〉へ展開する時に、時間的継続の序列を以て展開する。それは映画に於て巻き収められたる一巻のフィルムが展開して映画面に繰りひろげられるとき、その一齣一齣が時間的序列をもって展開するにも等しいのである。


 この事実を指して貴方は「時はかかる意味に於て‘すべて有るもの’の自己限定の形式ということができる」と云われるのだと思われる。併し時間的流れに‘於て’あるものは「‘すべて有るもの’」と私は云いたい。「‘ある’」と「現れ」とを混同することは哲学に於ては致命傷である。


 ‘本当に有るもの’〈実在〉は、時間に於て有るものではなく、かの巻き収められたるフイルムの如く時間的序列を「絶対無」の一点に巻き収め握るものである。その「絶対無」の一点には時間が無いのではなく、有るのではなく、一切の時間的序列がその中に包容されていながら、そのまま無時間なのである。


 その無時間は時間が無いのではなく、それこそ純粋時間であり、所謂る「真の時」である。これを日本的表現、古事記表現をもってすれば「目無堅間の小舟」である。それに乗るとき、そこに龍宮城が有るのである。


 龍宮城とは、一切の存在が秩序整然と巻き収められている実在界のことである。一切の現象は此の無時間無空間の一点〈実は一点も無い「絶対無」〉に孕んで、此処より発し、此処に帰るのである。


 アウグチスヌスが、「時の過去と未来とは何らかの意味に結び付く」と云ったのは、無時間無空間の「一」より発し、「一」に還帰しつつ、各時間点は不連続でありながら、此の「一」に於て連続すると云う意味を云ったのだと考えられる。』

                 ~ つづく

西田幾太郎博士との対話  (16) (3198)
日時:2012年11月04日 (日) 00時21分
名前:童子

           八.対立するものは本来『一』である





【西田】 『こう云う意味に於ては、先ずアリストテレスの考えた如く、個物が一般を含むと考えることもできる。併し単に斯く云えば、個物を単に唯一なるスプスタンテイヤと考えると撰ぶ所なく、それは変ずるものでも、動くものもなくなる。』 〈同書 十二頁 四行目〉



【谷口】 『個物が一般を含む ―― 特殊の個々の色、例えば「黄色」〈個物〉は、「色」なる〈一般〉を含むと考える場合、「黄色」が次第に日にやけて代赭色に変ずるならば、それは厳密なる意味に於いて謂えば、黄色が代赭色に変じたのではなく、黄色の波動が無くなって、それにとって代わって代赭色の波動が顕れたのである。

 黄色と代赭色(たいしゃいろ)とは直接的に連続していない。それが連続しているように感じられるのは、「色」なる一般概念が共通していること、又は「色」の感覚を起さしめる実質であるエーテルが、「色」と見えるものの奥に共通していることである。

 黄色が代赭色に変じた場合、黄色と代赭色とは不連続でありながら、それはエーテルなる実質に結びついていることによって連続している。しかもエーテルなるものは、「色」そのものではなく、又「色」が無いのでもなく、すべての色彩に見えしめる可能を内に包蔵しながら、個々の色彩を超越している超越的一般者である。

 この個々の色彩の奥にあるところの実質エーテルは、それみずからエーテルであることを変ずることなしに、個々の異る色となって現れる。現象の色彩は変ずるが、その奥にあって一切の色彩を内に包蔵するエーテルは変ぜぬ。変ぜぬものが、変ずるものとなって顕れつつあるのである。

 AとBとが全然別物の出現と云わずして、‘一つのもの’が変じたのだと云うためには、変じない一つのものがその奥になければならぬ。AとBとは不連続であっても、その「一つのもの」によって連続しているのである。』
                 ~ つづく

西田幾太郎博士との対話  (終章) (3300)
日時:2012年11月06日 (火) 21時21分
名前:童子

          八.対立するものは本来『一』である (つづき)






【西田】 『こう云う意味に於て変ずるというものが考えられるには、既に非連続の連続という意味がなければならぬ。

 変ずるものの世界は生滅の世界でなければならぬ。アリストテレスも、生滅するものに於ては実体が変ずると考えて居る。そこに既に無が有を限定する意味があるのである。

 併し真に働くものというのは、単にその於てある世界に対する事によって考えられるのではなく、個物が個物に対すると云うことによって考えられるのでなければならぬ。

 例えば、物が働くということでも、それが物理的空間の歪という様に考えるならば、物理的現象というものは、すべて物理的空間の変化と考える外なく、働くというものは考えることはできない。

 力という如き概念は、物理的世界から除去するの外ないであろう。絶対に相独立するものが相対立し、一が他を滅するか、他から滅せられるか、両者相争う所に働くということが考えられるのである。』 〈同書 十二頁 九行目〉




【谷口】 『絶対に相独立するものが相対立すると云うが如きことは私には考えられない。

 それが対立が可能であるは、相独立するが如く見えるけれども、同一面上に〈譬喩的に云う〉あるからである。相対立する両者は、それが対立が可能である以上、それは、両者を包摂し統合する一層深い根拠の上に立っているからなのである。

 戦いが可能であるのは、どちらが一方を食い、一方が食われるにせよ、相対立する両者が「一」なる本源に還帰せんとするが故にこそ可能なのである。

 東洋的なるものと西洋的なるものとが相反するのは、東洋的なるものと西洋的なるものが本来「一」なる‘いのち’から分岐したものであるからである。それは電気の陰と陽との如きものである。

 それが相反するのは、語を換えて云えば、互に相結ぶのである。互に相結ぶことによって電気は一層高次の光を放つのである。

 東洋的なるものと、西洋的なるものとが相反するのは、二つに分岐したる文化が本来「一」にまで結び着いて、一層高次なる光を放たんがためである。

 「汝等天地一切のものと和解せよ」と云う場合の和は、‘ある’べきものが‘ある’べき所にピッタリと坐ることである。』

                  (了)



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