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当り前という奇跡 (1998)
日時:2012年09月29日 (土) 05時03分
名前:伝統


    *「光明道中記」(P11)より

 【当り前のことに天地の恵みを自覚して有難いと判るのが悟りである。
                    (「生命の實相」第十二巻)】


一杯の味噌汁、一椀の朝食、天地の恵み茲に凝って吾々を生かしてくれていると知るのが
悟りである。斯く喜べるところに胃腸の病は存在しないのである。

既に空気ありて吾れを生かせり、有りがたきかな。

既に屋(おく)ありて吾れのために雨露(うろ)を防ぐ、有難きかな。

犬に生まれずして人に生まれたり、外国人に生まれずして日本人と生まれたり、有難きかな。

足ありて歩む、有難きかな。
手ありて物を執(と)る、有難きかな。


到るところに神の恵み満ちてあり。
心の眼覚むれば、娑婆は即ち寂光土ならずや。

到るところに大自然の恵満ちたり。

霜の白きも、木の葉の落ちたるも、霜の上に小鳥の足の印したるも、
日のさし上るも、晴れたるも、霧深きも、百鳥啼くも、白鳩飛ぶも、犬走るも、
眼覚めて見れば恵みならざるなし。

心の眼(まなこ)ひらくが新年なり。
歴日が新しくなるにあらず、生命の新生なり。

       <感謝合掌 平成24年9月29日 頓首再拝>

当たり前の幸せに気づける人になる (2094)
日時:2012年10月02日 (火) 04時37分
名前:伝統


     *メルマガ「人の心に灯をともす(2012年01月22日)」より

  中山和義氏の心に響く言葉より…

  ある男性には、4つ年下の妹がいました。
  妹は2歳のときに白血病にかかってしまい、
  それ以来、ずっと入院生活を続けていました。

  妹が病気になってしまってから、両親は妹の看護をするのに必死でした。

  休みの日にはいつもお見舞いに行っていたので、彼には家族旅行の思い出がありません。

  友達から、
  「この前、家族でディズニーランドに行って楽しかった」
  「お父さんにプールで泳ぎを教わったよ」

  という話を聞くと幼かった彼は、
  「僕はお父さんにも、お母さんにもどこへも連れて行ってもらっていない」
  とさびしい思いをしていました。

  「妹が病気のせいでどこにもいけない」と、
  幼い頃は妹を憎んでいたこともありました。

  しかし、大学生になり、自分の自由な時間が増えると、
  病院にずっといなければいけない妹がかわいそうに思えてきました。

  時間が空いている限り、お見舞いに行き、
  必死に病気と戦っている妹を応援してあげました。


  ある日。
  1時間くらい、テレビの話題、病院や大学であった出来事を話し合った後、

  「もうすぐ、クリスマスだね。クリスマスの日、また来るから」

  と言って帰ろうとすると、

  「おにいちゃん、クリスマスプレゼントに携帯電話が欲しい」

  とお願いされました。

  クリスマスの日、病気の負担にならないように
  できるだけ操作の簡単な携帯電話を探してから、お見舞いに行くと、

  「これ、頼まれていたやつ」とプレゼントを渡しました。

  そして、とても喜んでいる妹にメールや電話のやり方を教えてあげました。

  その日の晩、妹から彼に
  
  「おにいちゃん、ごめんね。
  私、小さな頃から、おにいちゃんに迷惑ばかりかけているよね。

  せっかくのクリスマスなのに・・・。

  ごめんね。

  おにいちゃん、ありがとう」

  というメールが届きました。

  これが妹からの最初で最後のメールでした。
  その日の晩、容態が急変して妹は亡くなりました。

  看護師さんから妹が亡くなったとき、
  携帯電話をしっかりと握りしめていて離すのが大変だったと教えてもらった彼は、

  「妹が最後の挨拶をしてくれたんだ」

  と思いました。

    <『人生の目的に気づく 24の物語』フォレスト出版 >

  ・・・・・

「あなたがなんとなく生きた今日は、
昨日死んでいった者が、あれほど生きたいと願った明日」(カシコギ)

普段丈夫な人が急に病気になったり、肉親が倒れたりすると、
今までがいかに幸せだったのか、そこで初めて気づく。

なんとなく、ぼんやりと生きることができる人は、本当は、このうえない幸せな人だ。


今、呼吸することのできる幸せ。

今、食べることができる幸せ。

今、生きていることの幸せ。


当たり前の幸せに気づける人でありたい。



・・・・以下は、谷口清超先生・著『いのちが悦ぶ生活』より

「当り前」は奇蹟以上にすばらしい


「当り前」のことが、とても嬉しく有難いことだ。手が動き、足が動き、
「あたり前に呼吸ができる」というその「当り前のこと」が、とても有難くすばらしい。

”奇蹟”を求めて、それが信仰の証しだというのは、”奇蹟”にとらわれた考えだ。
「当り前」の中にこそ、「神の子」の実体があるのだ。

        <感謝合掌 平成24年10月2日 頓首再拝>

噛みしめれば味があるのが、「当り前」の味 (2131)
日時:2012年10月03日 (水) 05時00分
名前:伝統


    *「光明道中記」(P65)より

【当り前のことが当り前である。噛みしめれば味がある。(「生命の實相」第十九巻)】

朝起きると小鳥が啼いている。
当り前のことだが嬉しく喜ばしい。

当り前の味は米の飯の味である。
いつ迄たっても飽きが来ないのが此の「当り前」の味である。

朝起きて顔を洗い、朝飯を食い、排便して出勤する。
平凡と言えば平凡だが、その平凡の味がわかるようにならなければ達人ではない。
唯なにかなしに嬉しいのである。

異常なることがあって嬉しいのではない。
ただ当り前のことが楽しく行じられるのが健康なる心である。
心臓はただ当り前のことを楽しく行じている。

それでこそ吾等は生きていられるのである。
吾等はただ当り前の事を楽しく行じてくれる心臓に感謝しなければならないし、
肺臓に感謝しなければならない。

それと共に吾等は自分の心臓や肺臓に「その儘に随順する心」を見習うべきである。
吾々は世界の心臓であり、肺臓である。
世界は吾々が其の儘素直に行じているそのことによって支持されているのである。

其の儘素直に楽しみ行ずる力は、宇宙を支持する力である。

太陽が朝昇ることを当り前の行事で面白くないと云って昇らなくなったら――?

        <感謝合掌 平成24年10月3日 頓首再拝>

当り前の幸せに気づく (2335)
日時:2012年10月09日 (火) 04時34分
名前:伝統


     *メルマガ「人の心に灯をともす(2012年08月04日)」

当り前の幸せに気づく~人生の成功者になるには

  斉藤一人さんの心に響く言葉より…


  なにか一つ問題が起きたとき、多くの人は「なぜ、こんな問題が起きたんだろう」と考えます。
  理詰めで考えると、いろいろな原因が思い当たるでしょう。

  でも、魂的な視点からいうと、
  自分で起きる問題は「自分の感謝のなさ」を教えてくれるものとして出てきています。

  だから、上司が自分にいやがらせをするのだとしたら、
  いやがらせをしない同僚やなんかに感謝が足りなかったのです。

  感謝の反対は「当たり前」。
  同僚たちがいやがらせをしないのは当たり前だと思っていた。
  ということは、感謝を知らないのです。

  だから、病気になったのだとしたら、からだに感謝することを知らなかったんです。

  それの「気づき」のために、どこかからだの具合が悪くなる。
  それに気づき、他の具合が悪くないところ一つひとつに感謝すればいいのです。
  必要な治療を受けながら、感謝すればいい。

  そうやって、問題のないところに感謝して、感謝して、
  最後に問題そのものにまで感謝できたとき、その問題は消滅するようになっています。

  この世は、そういう仕組みになっています。


  ということは、問題が起きたとき、
  「これは自分が感謝を知らなくて起きたんだ」と思い、
  最初から問題そのものに感謝するのが、一番いいですね。

  でも、最初から問題そのものに感謝するという流れには行かないものなのです。

  だから、最初は問題を起こしていない周りに感謝から始めるのです。
  周りへの感謝から始めると、やがて、その問題にも感謝できるようになります。

  そして、魂が上にあがります。


  この世で人生の成功者になるには、ただ一点、感謝です。

  逆をいうと、「当たり前」といった瞬間から、不幸が始まる。

  会社に行っても、そうですよ。
  給料日に、当然という顔をして給料をもらっている人もいるけれど、
  社長さんに、「ありがとうございます」「感謝しています」って、いってごらん。

  この一言をいえるか否かで、人生、えらく違ってきます。

     <『運命は変えられる』KKロングセラーズ>

  ・・・・・

ケガをして右足を骨折した人は、「なぜあの時、骨折したのか」と悔やんだり、反省したりする。

しかし、斎藤一人さんは、そうではなく、骨折した右足より、
ちゃんと動く左足や、手や、口や耳といった、他の身体の部分に感謝する方が先だという。

その感謝を身体の各部分ずっとやっていくと、
最後はそれを気づかせてくれた骨折した右足にも感謝することができるようになる。

これは、城野宏先生が、脳力開発という考え方の中でいつも出す事例と同じだ。

例えば、「浅草で、大火事があった」、と新聞に載ると、多くの人は、「それは大変だ」、となる。

しかし、脳力開発的に考えるなら、浅草以外は無事だった、と考えることができる。


人は、目立つ方や、声の大きい方にどうしても目がいく。
しかし、新聞やマスコミの報道などがそうだが、目立つ方は少数部分なのだ。
目立たない部分の方が圧倒的多数。

当たり前のこと、普段気が付かずに正常に動いていることは、目立たない。

目立たない当たり前の幸せに、感謝できる人でありたい。

        <感謝合掌 平成24年10月9日 頓首再拝>

”当り前”に感謝する心が信仰である (2801)
日時:2012年10月25日 (木) 04時41分
名前:伝統

    *北尾巳代治・著「幸せは今ここに」(P45)より

だいたい幸福というのは心が喜ぶことなのです。心が満足することなのです。

では心の喜びはどうしたら得られるか、というと、感謝したらいいのです。

でもね、皆様は心の中で考えるかも知れないですね。
「有難いことがないのに感謝なんて出来ないじゃないか」と。
誰でも初めは皆そう思うのです。

ところがそうじゃないのですよ。
何も変わったことがないのが有難いのですよ。

昔、腸が悪くなって、手術をして長い間人工肛門で排便していた人が、
病気が癒って、本当の肛門から大便した時に、世の中こんなに有難いことはない、
と話していましたよ。

一人の中風のお婆さんが教化部にやってきて、個人指導を受けたのです。

「先生、私の左足が動かんのです。治して下さい」
「お婆さん、足が治りたかったら感謝したら治りますよ。毎日有難うございますと
お礼をいいなさい」

「先生、お礼をいえといっても、私は足が動かんのですよ。足が治ったら何でも感謝しますよ」
「そうじゃないのですよ。あんたの足はあんたの不足の心が現れているのや。
あんたが礼をいう心になったら治るんだよ」

「先生、そりゃ無理だよ。治らんのに、有難うないのに、どうして礼がいえますか。
治してもらったら、なんぼでも礼をいいますがな」
「お婆さん、本当に治ったら礼をいいますか。それじゃ、あんたの右の足を治してやったから、
早う礼をいいなさい」

「右は患うてやへん。これは初めから動いているのや」
「初めから動いていたら、もっと有難いじゃないか。考えてごらん。両方動かんかったら
教化部にも来られへんのや。右が動いているお蔭でこうして歩くことが出来る。
有難いなあ、と思わしてもらいなさい。その有難いと思う心が、あなたの心を喜ばせて
生命(いのち)をふるい立たせるから病気は治るんですよ」

といわれたのですが、この”当り前”に感謝する心が信心、まことの心ですね。

        <感謝合掌 平成24年10月25日 頓首再拝>

学級担任、奇跡の復活 (2997)
日時:2012年10月30日 (火) 04時13分
名前:伝統


      *メルマガ「ココロの授業(2012年09月28日 )」より


腰塚勇人さんってご存知ですか?

以前、テレビで腰塚さんのドキュメントを見て、私は号泣しました。

腰塚先生は、中学校の体育教師。
「鬼の越塚」と呼ばれるくらい 熱血で厳しい先生で有名でした。

自分のクラスの子たちがもうすぐ3年生になるという 2002年3月1日、
腰塚先生は、スキーで転んで首の骨を折り、首から下が全く動かなくなります。

お医者様から奥様に告げられた言葉は、

「一生寝たきりか、よくても車いすでしょう」

生きる希望を失い、毎日、どうやったら**(確認後掲載)るかとそればかり考え、
…首から上しか動かない腰塚さんは、舌を噛み切ろうとして血だらけになった日もありました。

そんな腰塚さんに奥さまは
「何があっても、ずーっと一緒にいるから」

生徒たちからは
「先生、待っているから」…とたくさんの手紙が届きます。

「何で俺なんかのために…」と涙した腰塚先生は

一人じゃないんだと気づき、
すべてを受け入れ、いつも笑顔でいよう、
そしてどんなことにも「ありがとう」を言おうと決心しました。

すると、少しずつ少しずつ、手足が動くようになってきたのです。

「この子たちの担任として復帰したい!」と
強く思った腰塚先生は
苦しいリハビリも、持前のバイタリティーでこなします。

毎朝8時半にはベッドの上で、出席簿を見ながら、
一人一人の生徒の名前を呼んで出席をとりました。

そしてなんと中学校に復帰。
復帰初日…
腰塚先生は、生徒たちの出欠をとりながら涙を流します。
もちろん、生徒達も。

卒業式に、生徒たちに伝えたのは、 【命の大切さ、そして5つの誓い】。


「5つの誓い」

【1】口は…人を励ます言葉や感謝の言葉を言うために使おう

【2】耳は…人の言葉を最後まで聴いてあげるために使おう

【3】目は…人のよいところを見るために使おう

【4】手足は…人を助けるために使おう

【5】心は…人の痛みがわかるために使おう


この言葉を胸に・・・ 次の動画でその奇跡をご確認ください。

ただし、【号泣注意】周りに人がいない場所で観ることをお勧めします。


「奇跡体験アンビリバボー」腰塚氏出演10 7 8
http://www.youtube.com/watch?v=H6c82bVkQIY&feature=player_embedded

        <感謝合掌 平成24年10月30日 頓首再拝>

絶望から奇跡へのスイッチ (3529)
日時:2012年11月13日 (火) 04時51分
名前:伝統


腰塚勇人氏の著書から、スレッドに関連のある部分を数回にわけ紹介して参ります。

”30万人が感動し、涙した「命の授業」”
         <腰塚勇人(著)、ダイヤモンド社(刊)> より

(絶望から奇跡へ)

(1)一瞬にして、「首から下の手足」がまったく動かなくなりました。

  ①2002年3月1日、スキーの練習で首骨折。
  ②医師から、「手術が成功して命が助かっても、一生、寝たきりか、
   よくても車イスの生活になる」と言われた。

(2)周りの人々が、「私の命」を救ってくれました。

  ①手術は成功したが、首から下は、まったく動きませんでした。
  ②入院から5日目、舌を切って「自殺」を試みたが、痛くて、途中で止めました。

   本当は生きていたくてしょうがなかったのです。
   しかし、どうやってこれから生きていけばいいのか、見当がつかなかったのです。

  ④そんな私の命を、「多くの心温かい人々(妻、看護師、職場の同僚、クラスの生徒たち、
   部活の生徒たち)」が救ってくれたのです。

   本当に感謝しています。

  ⑤入院中ずーっと思い続け、やり続けたこと。それは・・・。
   「今のすべてを受け入れ、そのすべてに自分が責任を負い、すべてに感謝する」
   ということでした。

   そして、「自分の命はあらゆるものに助けられ、生かされている」ことに気がつきました。

  ⑥「先生」として職場に復帰すると誓った瞬間、まず「やる」と決めたことは、
   どんな小さなことにも「ありがとう」を言うことでした。

   今思うと「ありがとう」を言い続けていたら
   「ありがとうを言いたくなるような幸せな出来事」が起きはじめた気がします。

   それがみなさんが言ってくれた「奇跡」の存在なのかもしれません。

  ・・・・・

《感謝は恩恵の流れに対してスイッチを捻る事である》

       *谷口雅春先生・著「光明法語」(P37)より

吾々は電燈の光を得ようと思えば先ずスイッチをひねる事が必要である。
先ず吾々みずから或る力を与えるのである。
すると光が与えられる。

太陽は照っていても、その光を受けようと思えば先ず自分が眼を開かなければならぬ。
眼を開くと云う動作を与えることによってのみ太陽の光は与えられるのである。

そのように吾らはすべての恩恵を与えられているのであるが、
それは先ず自分が恩恵に向かって感謝することによってのみ、
その恩恵がわがものになるのである。

感謝すると云うことはスイッチを捻(ひね)る事に当る。

        <感謝合掌 平成24年11月13日 頓首再拝>

常笑 (3719)
日時:2012年11月18日 (日) 06時48分
名前:伝統


「常に笑顔でいること」で、自分も周りも嬉しくなります。

(1)入院中、私は「生きている価値がない!」と思うことが度々あり、思いっきり「被害者」
   になった気持ちでいっぱいでした。

   そんなネガティブな状況を救ってくれたのが「笑うこと」でした。

   「笑うという行為は、時に深刻な問題をどうでもいいもの=
   気を楽にさせてしまう効果がありみたい!?」と感じました。

(2)「笑顔をつくる」ようにすることで、
   「行動を変えることで気持ちを変えることができる」ことを発見しました。

   どんなものにも感謝ができ、「ありがとう」が言える自分がいると、
   自然に「笑顔」が生まれてくることに気づきました。
   そんな自分を好きになりました。

(3)私は「常笑(じょうしょう)」という言葉が気に入っています。
   この「常笑」を意識できるようになってからは、その時々の人生を楽しめるようになったからです。

   今、とっても生きていることが楽しいです。
   人生で、今が、一番、幸せです。

  ・・・・・

《朗らかに笑って生きよ》

       *『生命の實相』「第七巻」(P22)より

『道は満ちるなり。天照大神の御分身のみちてかけぬよう遊ばさるべく候。
人は陽気ゆるむと陰気つよるなり、陰気かつ時は穢れなり、
けがれは気枯れにて太陽の気をからすなり、そこから種々色々のこと出来するなり。

何事も有りがたい有りがたいにて日をおくり成され候へば、
残らずありがたいに相成り申すべきなり。』

『何ほど道を守り候とも、心陰気に相成り候はば出世相成り難く申し候、
何卒春の気に相成り候て御執行なさるべく候。』


これは七日間に両親を相次ぎて失い、悲嘆のあまり肺結核にかかりて命旦夕に迫りし
黒住宗忠が豁然大悟してすべてが有り難く感ぜられ、明るき心になりし結果、
さしもの大患、太陽の前の霜のごとく消滅せし体験をば人に教えられし書簡のうちの一節である。

世の病人よ恐るるなかれ。心さえ明るくなれば肺結核でも癒えるのだ。
諸君よ、笑え、笑え、さかんに笑え。

黒住宗忠も肺結核を自ら治した当座は人から気が違ったかと思われるほど、
間断なく笑ったそうである。

では我らは快活に小鳥のように陽気に満ちた生活を送ろうではないか。
陽気のみちた家は必ず生長する。その家は『生長の家』となる。

この世界は何も我々が悲しんでやらなければ悲しみに不足して困るというような
ことはないのである。

黒住教祖に倣え。陽気になれ、嬉しいことを語れ。はしゃげ。哄笑せよ。
しかし苦笑や冷笑はおことわりだ。

        <感謝合掌 平成24年11月18日 頓首再拝>   

生かされている有難さ (4197)
日時:2012年12月02日 (日) 06時48分
名前:伝統

”30万人が感動し、涙した「命の授業」”
         <腰塚勇人(著)、ダイヤモンド社(刊)> より

(生かされている有難さ)

(1)いろいろな人々のおかげで、「今」、自分が生かされている。

   この事故をしたことで、私の44年間の人生、
   その瞬間、瞬間の「一期一会」の積み重ねで、人生が成り立っている。

   「いろんな人々のおかげで、自分が生かされている」ことを実感しました。

(2)世の中「当たり前と思っていること」は、すべて感謝の対象です。

  ①不自由なことは正直多いです。でもいいんです。

   この「右手と下半身の麻痺」のおかげで、「8割方動くようになってくれた左手と左足」に、
   ものすご~く感謝できるんです。

  ②あまり動かすことはできませんが、
   それを常に教えてくれている「麻痺した右手と下半身」は、私の「人生の宝物」です。

  ・・・・・

    *「光明道中記」<P205>より抜粋

7月1日 ただ有り難い日

  当り前の人間を自覚し、当り前に生きるのが「生長の家」の人である。
  当り前の人間が神の子である。     (「生命の實相」第二巻)


  功徳は心の眼(まなこ)を開いて見たときに到るところに満ちているのである。

  心の眼を開いて見れば到るところ神恩仏徳が充満している。
  吾等は実に宏大無辺の天愛につつまれているのだ。

        <感謝合掌 平成24年12月2日 頓首再拝>

「おかげさま」で今の自分がある (4793)
日時:2012年12月19日 (水) 06時48分
名前:伝統

     *「みんなで探したちょっといい話」(P66)より

いつもよく働く靴屋さんのもとへ、あるとき天使が乞食の姿になって現れました。

靴屋さんは乞食の姿を見ると、うんざりしたように言いました。

「おまえが何をしにきたかわかるさ、しかしね、ワシは朝から晩まで働いているのに、
家族を養っていく金にも困っている身分だ。ワシは何も持っていないよ。
ワシの持っているものは二束三文のガラクタばかりだ」

そして、嘆くように、こうつぶやくのでした。

「みんなそうだ。こんなワシに何かをくれ、くれと言う。
そして、今までワシに何かをくれた人など、いやしない・・・」

乞食は、その言葉を聞くと答えました。

「じゃあ、私があなたに何かをあげましょう。お金に困っているのならお金をあげましょうか。
いくらほしいのですか。言ってください」

靴屋さんはおもしろいジョークだと思い、笑って答えました。

「ああ、そうだね。じゃ、100万円くれるかい」

「そうですか、では、100万円差し上げましょう。ただし、条件がひとつあります。
100万円の代わりにあなたの足を私にください」

「何? 冗談じゃない! この足がなければ、立つことも歩くこともできやしないんだ。
やなこった、たった100万円で足を売れるもんか」

「わかりました。では、1000万円あげます。ただし、条件が一つあります。
1000万円の代わりに、あなたの腕を私にください」

「1000万円!? この右腕がなければ、仕事もできなくなるし、かわいい子どもたちの
顔をなでてやれなくなる。つまらんことを言うな。
1000万円ぼっちで、この腕を売れるか! 」

「そうですか。じゃあ、1億円あげましょう。その代わり、あなたの目をください」

「1億円!? この目がなければ、この世界の素晴らしい景色も、女房や子どもたちの顔を
見ることができなくなる。駄目だ、駄目だ、1億円でこの目が売れるか! 」

「そうですか。あなたはさっき、何も持っていないと言ってましたけれど、
本当は、お金に代えられない価値あるものをいくつも持っているんですね。
しかも、それらは全部もらったものでしょう・・・」


靴屋さんは何も答えることができず、しばらく目を閉じ、考え込みました。
そして、深くうなずくと、心にあたたかな風が吹いたように感じました。

乞食の姿は、どこにもありませんでした。

・・・

あるとき、神社の宮司さんに教えていただいたことがあります。
神社では願いごとをするのではなく、
ただ一言、「おかげさま」と感謝するものなのだとおっしゃるのです。

それまでごれほど多くの願いごとをしてきたことか。
「おかげさま」と感謝することは、ちょっと考えるといくらでも出てきます。

「手足があって、歩けることにありがとう」
「目が見えることにありがとう」

「今日、ご飯を食べるお金があることにありがとう」
「雨の日でも、住む家があってありがとう」

「両親が健康でありがとう」
「友達がいてありがとう」
「家まで無事に帰って来られてありがとう」

だから今日も、「おかげさま」

・・・

ないもの探しをして嘆くよりも、今あるものに感謝したい。

        <感謝合掌 平成24年12月19日 頓首再拝>

当たりまえの日常が有難い (5946)
日時:2013年01月26日 (土) 04時52分
名前:伝統

      *メルマガ「人の心に灯をともす(2013年01月22日)」より

衛藤信之氏の心に響く言葉より…


ある企業のトップセールスマンたちの集まりに講師として招かれたときのこと。

そのなかでも一番のセールスを上げる女性と隣接する機会がありました。
失礼ながら、見た目はごくふつうのおばさんです。

その人が休んでいるのを誰も見たことがないといわれるほどのすごい働きぶりに加えて、
同僚や部下の面倒もよく見、彼らの売上にも協力を惜しまないのだそうです。
そのせいで、周囲から母親のように慕われ、頼られながら、謙虚で少しも偉ぶるところがない。

そんなすばらしい人柄が、少し会話を交わしただけの私にもよく伝わってきました。

彼女は自分の生き方、働き方について、こんなふうに語ってくれたのです。

「私の母はよく、『1年に3日だけでもいいことがあったら、その年は最高の年だよ』
といっていました。
その母に育てられた私も、『生きるのは苦しいのが当たりまえ』と思って生きてきました。

ですから3日いいことがあれば、残りの362日がたとえつらく苦しい日でも、
私は十分、幸福だって…

ですから、こうしてみなさんとおしゃべりして、おいしいものを食べられる、
ただそれだけで私は幸せすぎるくらい幸せなのですよ。
幸せすぎて母に申し訳ないくらいです」


足りないことがあって当たりまえと考え、むやみに幸せを欲しがらず、
ありきたりでささいなことにも深い喜びを見出す。

そんな“賢者の知恵”が彼女に確かな幸福をもたらし、
彼女のトップセールスウーマンとしての心の支えになっているのです。

このように、人間の幸と不幸はどうやら、
「苦労を引き受ける心が幸せを引き寄せ、幸せを求めすぎる心が不幸を生む」
という皮肉な逆説の糸で結ばれているもののようです。


今の時代、多くの人が、「あって当たりまえ」の世界で
「うまくいって当然」という価値観の中に生きています。

水道の蛇口をひねれば水が出て当たりまえ、電車は時間どおり発着して当たりまえ、
約束は守られて当たりまえ、欲しいものはお金を出せば手に入るのが当たりまえ。

万事、自分の思いどおりに進んで当然と、多くの人がそう思っているように感じます。

だから、その当たりまえが少しでもうまくいかないと、
それがそのままストレスや不満になってしまう。


常に「ない」のがふつうだと考えれば、「ある」だけで幸せなのに、
「ある」が当たりまえと思っているから、「ない」ことがたくさんの不満や不幸の種に
なってしまう。

     <『今日は、心をみつめる日。』サンマーク出版>

  ・・・・・・

何かの本で読んだ話だが…

昔の人は、「一緒に苦労してくれないか?」とプロポーズして、結婚したという。

今の人は「二人で幸せになろう」と言って結婚する。

苦労しようと言って一緒になれば、苦労するのが当たりまえとなる。

しかしその逆なら、ちょっとした苦労や困難があるだけでも、
それは約束違反となり、苦痛となる。

だから、今は昔に比べ離婚が増えている、という話だった。


「ないことが当たりまえ」と思えば、ただ「ある」だけで有り難い。

当たりまえの日常に感謝できる人でありたい。

        <感謝合掌 平成25年1月26日 頓首再拝>

当たり前の中の奇跡 (6333)
日時:2013年02月08日 (金) 04時21分
名前:伝統


       *山下景子:著「美人の日本語」より

共同で収穫したり、漁や狩をした時の一人当たりの取り分を、当たり前と言ったそうです。
それぞれの働きに応じて分け前は決められました。

「当たり前」が当たり前でなかった時代があったのです。

私たちが何もしないで受け取っているものは、何らかの恩恵だと考えたほうがよさそうです。
人は慣れるとすぐに当たり前と思ってしまいますが、私たちが生まれたことも、
生きていることも、そして水や空気があることも奇跡です。

この奇跡の積み重ねを当たり前としか思えなくなるほど心が麻痺してしまうのは、
悲しいことだと思いませんか。

当たり前の中の奇跡・・・そのことに気づいたとき、感謝の言葉がいっぱい溢れてきます。

             <感謝合掌 平成25年2月8日 頓首再拝>

甘えを排し、”どこのどなたか存じませんが”と感謝する  (6616)
日時:2013年02月21日 (木) 04時39分
名前:伝統


       *メルマガ「人の心に灯をともす(2011年11月10日)」より

   小林正観さんの心に響く言葉より…


   夫婦ゲンカをする人は、これは自分の妻だ、これは自分の夫だ、という誤解をしています。
   その人は自分の身内で家族であるから、何をいってもいいと思っているのです。

   でも、仮に隣のおじさんが毎月給料を運んでくれていると思ったら、
   文句を言ったりしないでしょう。

   「どこのどなたか存じませんが、毎月、毎月私たちの家族が食べられるように
   してくださって、ありがとうございます。
   経済的に困らないようにしてくださって、ありがとうございます」

   とただ手を合わせて感謝するしかありません。


   「たまの土曜日くらいは、子どものキャッチボールの相手をしてよ」

   と疲労困ぱいして帰ってきた夫に向かって、こう言ってしまう妻がいるようです。

   隣のおじさんだったら感謝しかないのに、自分の夫であると、
   なぜそんなにイヤみばかりを言ってしまうのでしょうか。


   夫の側からすると、どこのどなたかわからないおばさんが、
   朝知らないうちに現われて、食事をつくってくれる。

   朝起きると味噌汁から湯気が立ち上っている、
   夕方帰ってくると夕食を用意してくれているなんていうことは、有り得ないことです。


   他人だったら、手を合わせて感謝するのに、
   なぜ夫や妻には感謝しないのでしょうか。

   それは、家族という名の甘えでしょう。

   原点に立ち戻って、というより、原点よりずっと前のほうまで戻って、
   夫も妻も、「この人は、もともとは他人だ」ということを認識する。

   そして、この他人の男性が私に対して、 たくさんのことをしてくださることに感謝。
   他人の女性が私に対して、 たくさんのことをしてくださることに感謝。

         <『すべてを味方 すべてが味方』三笠書房>

   ・・・・・

夫婦の間だけでなく、会社でも、親しい友人でも、人間関係には、必ず甘えが存在する。

「甘え」とは、慣れてしまって、お礼のひとつも言えず、
逆に、毒づいたり、嫌味をいったりすること。

会社では、給料を払っているのだから、言われた仕事をするのは当たり前。

夫が、毎晩、家に帰ってくるのが当たり前。
妻が、食事や洗濯をしてくれるのが当たり前。

友人が、一緒に食事をしてくれ、話を聞いてくれるのが当たり前。


どんな親しい人であっても、元々は「縁もゆかりもない人」なのだ、
と思ったとき「甘え」はなくなる。

そして、「当たり前」の出来事は、
本当は奇跡のような有りえないこと、と得心したとき、そこに感謝が生まれる。

当たり前の幸せに、心から感謝できる人でありたい。

          <感謝合掌 平成25年2月21日 頓首再拝>  

当たり前のことができる者が大賢人である (7125)
日時:2013年03月15日 (金) 04時44分
名前:伝統


       *『生命の實相』「第三十七巻・幸福篇上」(3月15日)より

心をしっかり持つこと。

上の者を尊敬すること。
下のものをかわいがること。
夫婦仲よくすること。

腹を立てぬこと。
悲しまぬこと。
取越し苦労せぬこと。

あたりまえのことだと馬鹿にせぬこと。
あたりまえのことができるものが大賢人である。

これをあたりまえのことだと軽蔑する者よ。
お身(み)たちはこのあたりまえがどれほどの程度にできているか。

          <感謝合掌 平成25年3月15日 頓首再拝>  



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