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その身まったし (2063)
日時:2012年10月01日 (月) 04時54分
名前:伝統


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月はじめの言葉)より

保身の術

あらわれて出ることだけを知って隠れることを知らない者は自己を滅ぼすのである。
緊張ばかりを知って弛緩の道を知らない者も自己を滅ぼすものである。
昼のみあって夜なきときは人はついに滅びてしまうのであろう。

みずからを護る術を知る者はよくみずから隠匿する者である。
水遁、火遁、自由自在にして、変幻出没するものでなければ、大をなすことは出来ない。

嘗て大本教が破滅し、「ひとのみち」が崩壊したのは、その教義のなかに適しない点が
あったであろうが、その適しない点が露骨に表れて来て天下の耳目を惹いたのは、
あらわれて出ることだけを知って、隠れる道を知らなかったからである。

それらの教は、或は「時節には勝てんぞよ」と教え、「急ぐは事を壞る」と教えながら、
みずからの教団全体の動きが自己を顕すに急であって、隠れることを知らなかった。

保身の術は自ら韜晦(とうかい)して顕れざる位置に隠れ、
人を押し上げて人をも生かし、自分も生きるのである。

自分が暫く顕れることを焦ったために、自分自身が出る杭として壊滅するのみかは、
自己に頼っていた幾十万の人々を帰趨する処なからしめる。

その人のためを思いて顕われた位置に置かない私の心を汲むものは稀である。

・・・

    *「光明道中記(その身まったし)」(10月1日)より

十月一日  必ず成功する日

【生命が主であって一切の形相は従である。(『生命の實相』第八巻)】


他に損失を与えて自分が肥え太るのは成功の捷径(ちかみち)のようであるが、
それは失敗の捷径であり、窮乏に陥る近道である。

投機によって成功せんとする者はその轍をまた踏むに過ぎない。
何故なら、投機に於ては、実質的に何物も生産しないのであるから、
利益を得た半面には必ず損をした者があるからである。

損をする者があることによって儲かる事のみ考える者は、必ず最後は損をする。
或は必ずその悪業の応報として最後が悪くなるものである。

日露戦争時の成金いずこにありや、第一次欧州大戦時の成金今いずこにありや。
若しありとすれば彼はただ他人の損によって自分が利益を得ること以外に、
何か人のために貢献したものに相違ないのである。

因果はめぐる、応報は昭々として晦ますことは出来ないものである。
血を吸うて肥える蚊は必ず蚊燻(いぶ)しの攻撃を受けなければならない。

(一)生かすために斬る破邪の剣は尊ばれる。
(二)自己を護るための剣は許される。
(三)併し他を犠牲にして自己を拡張するために剣をとる者は剣によって滅びる。

「剣」と言ったのは喩(たとえ)である。

一言一行悉くこの方面に漏れるものは一つもない。

           <感謝合掌 平成24年10月1日 頓首再拝>

無我献身の日 (2095)
日時:2012年10月02日 (火) 04時40分
名前:伝統


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月2日)より

十月二日  無我献身の日

【生命の尺度で価値を測れ、金ではかるな。(『生命の實相』第十一巻)】


すべて他を制して之を墜(お)とし、それによって自分が利益を得んとする精神力は、
ついには自己を陥れて自己に危害を加えるものである。一時的の成功は斯くして
得られるかも知れないが、結局は自己を奈落に突き落とすに到るのである。

往年のナポレオンいま何処にありや、カイゼル今何処にありや、またヒットラー何処に
ありや、スターリン何処にありや。危いかな、全世界を共産化するまで、その赤カの
手をゆるめない理想をもつマルクス・レーニン主義者の行動を警戒せよ。

『古事記』が八俣の”遠呂智(おろち)”(遠きロシアの智慧)という象徴的名称にて
預言したところのマルキシズムの世界侵略政策が南下して来て、奇稲田姫(瑞穂国)を
侵略し、更にアジア全土に亘ってその赤化より護らんがために起ち上がったのが、
あの大東亜戦争であった。

それ故に日本はこの戦争を大東亜の民族の解放戦争と称したのである。
かくて南方諸民族は白人の支配下から独立し世界に新秩序が生まれたのである。

犠牲を惜しまず護りつづけた日本の無我献身がおのずから世界を此処まで
引摺って行ったのである。

           <感謝合掌 平成24年10月2日 頓首再拝>

却下(あしもと)を見る日 (2129)
日時:2012年10月03日 (水) 04時50分
名前:伝統


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月3日)より

十月三日  却下(あしもと)を見る日

【成功とは金でも名でもない。生命が向上進歩することだ。(『生命の實相』第十一巻)】

吾々は人生観を根本的に変えなければならないのである。人生観が万事である。

奪わなければ偉大になることが出来ないと思っている者の世界は呪われている。
彼は根本的に「人生」と和解していないからである。

ダーウィンの進化論はユダヤ人が人間を「神」の自覚から墜落せしめ、世界を混乱に陥れる
ために発明した学説だと言う人もあるが、ダーウィンの進化論で人類に最大の衝動を与えた
のは生存競争の概念であり、「生物は他を殺さなければ生きられない」との理論である。

生物の相互扶助の概念もないことはないが、著しくそれが圧縮(おしちぢ)められた。

すべての生物の生命は、神なる大生命から生れたものであるから、自然そのままの、換言すれば、
神の叡智の構図そのままに生活している時には殺し合いはないのである。そこには生かし合いが
あるばかりである。この状態を”エデンの楽園”と象徴的に名づけるのである。

魚族の如きは多数の産卵をしてそれが孵化して稚魚になる数も大変なものである。
その稚魚は親魚及び他の大魚の餌となって食されてしまう。

それは、一見殺し合いのようであるけれども、魚族には一尾一尾は人体の細胞の如く個性霊魂は
ないのである。魚族としての全体の種族生命に融合包含されているのである。

           <感謝合掌 平成24年10月3日 頓首再拝>

何かを人に施す日 (2160)
日時:2012年10月04日 (木) 05時03分
名前:伝統


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月4日)より

十月四日  何かを人に施す日

【他人の不幸に面したら一緒に泣いてあげよ。
  泣いてもその悲しみに捉われるな。(『生命の實相』第九巻)】

吾々は人生観を変えなければならない。世界を覆う世界大戦も、武器によって起こった
のではなく、人生観によって起こったのである。その人生観とは「生存競争必須」の観念
である。「奪う」か「餓死するか」二つに一つを選べの矛盾的人生観である。

大東亜戦争は自国を犠牲にすることによって、大東亜の非圧迫民族を白人から解放する目的で、
国民の血をそそがれたのだ。

最初はこれを自覚しないで、ドイツ流に「持てる国と持たざる国との生存競争的展開」である
として、その人間自然の不可避的事実であると価値づけようとした人もあった。

併しドイツは「ダンヒチを寄越すか、寄越さなければ武力で奪う」と傲語したのであって、
日本が八紘為宇の理念に無我献身して南洋諸国延いてはアフリカ諸国をも白人の桎梏から
解放せしめたのとは理念の相違があるのである。

成功の秘訣は奪うことではなくて献げることにある。
戦勝の秘訣も、奪うことではなくて献げることにある。

形は敗戦の如く見えても、献げる戦争には敗戦はないのである。
民族の自覚に貢献してこれらを独立せしめたのは勝利である。

           <感謝合掌 平成24年10月4日 頓首再拝>

霊に生きる日 (2217)
日時:2012年10月05日 (金) 05時00分
名前:伝統


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月5日)より

十月五日 霊に生きる日

【物質からは生命は生れない。生命を生むものは生命のみである。(『生命の實相』第十一巻)】

物質文明は形骸(かげ)の文明であるから、物質文明のみを尊重して、物質文明”のみ”で威力を
示そうとするとき、それが霊の権威を失うとき、物質文明はただ破壊力のみを揮うことになる。

物質は霊を失うときその自然の傾向が「破壊」と「分解」とにあるのは、
霊を失った肉体が自然に腐敗分解し自己破壊を遂げる事実を見ても判る。
物質とは本来建設的威力なきものである。

物質の優強を以て威力を示そうとする者はその破壊的威力によってみずからも、その破壊的威力
の前に多くの骸骨(されこうべ)を晒さねばならぬ。物質文明の威力とは骸骨(されこうべ)の
威力である。骸骨は初めから人殺しであり、物質は初めから人殺しである。

最初は神を求めていた人が、神を求めたその結果、物質が豊かに整ってくると、隴(ろう)を得て
蜀(しょく)を望み、今度は物質がもっと欲しくなり、その時には神を忘れて了い、その結果失敗
すると、「あんな神はもう効かぬ」などと云う実例が往々ある。

病気の時にもよく似た例がある。最初神をもとめて健康になると、その健康を何に使うか、全然
神とは似もつかぬ利己主義のことに使って不健康となり、「生長の家に入ったら最初は病気が
治ったが今は効かぬ」と不平を言う。

恐るべし。

           <感謝合掌 平成24年10月5日 頓首再拝>

自己解放の日 (2241)
日時:2012年10月06日 (土) 04時51分
名前:伝統

    *「光明道中記(その身まったし)」(10月6日)より

十月六日 自己解放の日

【貧乏や不幸がなくとも霊魂が進化し得るような状態になれば貧乏や不幸はなくなる。
                            (『生命の實相』第九巻)】

幸福は偶然に来るのであり、不幸も偶然に来るのである。
神を信ずればとて幸福が来る人もあれば不幸が来る人もある ―― 斯う云う偶然論者も、
彼が経験する生活範囲に於いてはまことにその偶然論者の言う通りである筈である。

何故なら、その人の住む人生はその人の人生観の展開であるからである。
彼の運命が一見「偶然」と見られるものに翻弄され、惨めにも人生に敗退するのは、
それは彼のみずから招くところではあるけれども、彼は神が与えた「神の子」の権利を
抛棄したものだと言わなければならないのである。

神が彼に与えた権利とは何であるか。
それは「人間の絶対自由」と云うことである。
「人間は運命の主人公である」と云うことである。

運命に翻弄されるものは運命の奴隷であって主人公だと云うことは出来ない。
神は人間に運命の主人公たることの権を与えたまうたのである。

与えられた権を抛棄するものは、神に背く者である。
神に背くことは、自己を晦(くらま)すことである。

吾々は神に背くとき、自己を晦すとき不幸に堕ちるのは当然である。

           <感謝合掌 平成24年10月6日 頓首再拝>

黙示を受くる日 (2285)
日時:2012年10月07日 (日) 04時53分
名前:伝統

    *「光明道中記(その身まったし)」(10月7日)より

十月七日 黙示を受くる日

【神示とは「生命」が肉体を通過しても少しも屈折しないで「生命」の黙示そのままが
 精神に顕れて来る状態である。           (『生命の實相』第十一巻)】

「神は霊媒にはかからぬ」と云う意味は、民間市井の巫女的現象、口寄現象、二重人格として
出て来るのは、いずれも霊示であって、その憑(かか)って来る霊魂の等級に応じて
一(ピン)から十(キリ)まであって、悉くは信ずべからずと云うことである。

国家の大事に尊き方の上に神霊来格の実例は古書にも見えていることである。
と云って普通の場合に於ては高級神霊さえも霊媒には憑らないのであるから、(『生命の實相』
霊界篇参照)霊媒的現象によって高級霊又は神が来(きた)ったと思って、思いあがって
はいけないのである。

普通霊媒にかかるのは特殊の霊媒自身の守護霊か、その辺に紆(う)路ついていた浮浪の霊の
悪戯(いたずら)である。斯くの如きものを神示だと思って有り難がっていたら必ず失敗する。

「神示」とは普通「霊示」の如く二重人格現象として、神寄せ式にはあらわれない。
それは「神格の内流」として直日霊(なおひのみたま)の啓示として、
”心が”純粋”になったとき”、内部から直接的に啓(ひら)かれて来る。

普通の人でも「良心」とはそれである。
「絶対」の直接把握だ。

私の著書の中に「神示」と書いた部分は神想観中、心が純粋になった時、
直感された真理をその直後に書いたのだ。

           <感謝合掌 平成24年10月7日 頓首再拝>

神は善のみと知る日 (2305)
日時:2012年10月08日 (月) 04時34分
名前:伝統


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月8日)より

十月八日 神は善のみと知る日

【神は「真如」であり此の真如より来生せし神人が「如来」である。(『生命の實相』第一巻)】

「神は善である。至誠の善である」そう云うことは神示である。
その文章(かきかた)が神示なのではなく、示された真理が神示なのである。

理窟はないのだし、運算も三段論法も要らぬのである。
そう云うことは神想観中でなくとも普通の時にも、パッと内部の光耀(こうよう)で判ることがある。

そこで普通の「直観」と「神示」とはどう区別すべきかなどど云うことを
色々考える人もあるらしい。
直観は純粋であれば神示だと思っても好い。併し要は純粋度の問題である。

利害関係に晦まされるに従って純粋度は減ずる。
物質ありと引っかかる程度に従って純粋度は減ずる。
五官に捉えられるに従って純粋度は減ずる。

そこで宇宙の絶対実在を悟るために、仏教では般若波羅蜜多の行があり、五蘊皆空と観じ、
色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)なしと観じ、眼耳鼻舌身意なしと観じ、
色声香味触法(しきしょうこうみそくほう)なしと観じ、
眼界耳界鼻界舌界身界意識界なしと観じ、

それらを”ある”かの如く思い間違えた「無明(まよい)」も無しと観じ、
「無明」もないから「悟る」と云うことも無しと観じ、・・・斯くの如くして一切の引っかかり
を無くして初めて、「ここに彼岸あり」と悟る。

その内部的自覚は神示の一種である。

波羅蜜多とは到彼岸(はらみた)と訳されている。

           <感謝合掌 平成24年10月8日 頓首再拝>

ここに彼岸ありと悟る日 (2336)
日時:2012年10月09日 (火) 04時36分
名前:伝統


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月9日)より

十月九日 ここに彼岸ありと悟る日

【同じ真理も時に応じ場合に応じて相(すがた)が変る。(『生命の實相』第十一巻)】

「ここに彼岸あり」と云う文字が眼に見えても、耳に聴かされても、それが二重人格式に
他から教えられるだけで、一重式にその人の生命そのものの自覚となって来ないのは
真理の絶対把握でないから神示ではない。

それは霊示又は霊教として霊魂からの導きであることはあり得る。

併しそれは自己神格の内流ではない。
仏性の開示ではない。
波羅蜜多ではない。

「ここに彼岸あり」をそのまま直接的に自覚するのが神示である。

香厳和尚の撃竹(きょうちく)の公案は有名なものであるが、
師に教えられている間は、ただ師弟相対して相対的に教えられているだけで、
自己神格の内流的啓示(インスピレーション)とならなかったのである。

ところが或る日庭を清掃している時に瓦片(がへん)が飛んで竹の幹に衝突した。
その音を聴いた時に、内部からパッとその真理が啓示されて来たのである。
それは二重人格的な霊媒現象ではない。これが神格の内流である。

同じ真理でも”外”から来るのと、”内”から来るのとはそんなにも相異するのである。

”内”からのは真理の直接把握である。
真理の直接把握を「神示」と言い、二重人格的に教えられるのを霊示と言い、
霊媒現象と言うのである。

「神示」とあるのを神さまが物を言ったと思って貰いたくない。

           <感謝合掌 平成24年10月9日 頓首再拝>

般若波羅蜜多を行ずる日 (2368)
日時:2012年10月10日 (水) 04時44分
名前:伝統

    *「光明道中記(その身まったし)」(10月10日)より

十月十日 般若波羅蜜多を行ずる日

【般若波羅蜜多の修行は「神想観」の修行である。(『生命の實相』第一巻)】

波羅蜜多の道 ―― 換言すれば神の内流と一つになる道 ―― に六種ある。
六波羅蜜多と言う。
そのうち波羅蜜多は既に言った通りである。

物質なし、肉体なし、五官なしと、一切皆空の否定から、すべての引っかかりを無くして、
本来の自由自在の神格を流露(るろ)して行くのである。
訳して智慧波羅蜜多と言っている。

禅那波羅蜜多と云うのがある。
禅定(訳して静慮<じょうりょ>)によって心を鎮め、斯くして精神統一を得て一切に
煩わされることなく自己の神格の内流を直接把握するのである。

その直接把握を悟道(さとり)と言っている。
神想観は一切皆空と照見しつつ、精神を統一して蓮華蔵世界の光明燦爛たる光景を静慮しつつ、
自己を光明無量、生命無量、慈悲無量の毘盧舎那身(びるしゃなしん)として観ずるのである
から、般若波羅蜜多と禅那波羅蜜多とを同時に行なうものである。

檀那波羅蜜多とは布施波羅蜜多とも訳されている。
布施とは施しをする事であるが、一言にして言えば、愛他の行である。
愛他を行ずる事によって、個々の肉身は別々に分かれてい乍(ながら)も。
自他一体平等なる彼岸(実相)の風光を自覚する行である。

悟りを開くには神想観と同時に愛他の行を行なえと云う教と一致する。

           <感謝合掌 平成24年10月10日 頓首再拝>

精進堅固の日 (2395)
日時:2012年10月11日 (木) 07時10分
名前:伝統


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月11日)より

十月十一日 精進堅固の日

【悟りの中間過程にある時は、信念を以て怠らず進め。(『生命の實相』第六巻)】

波羅蜜多(神格の内流による自覚)を得る方法に尚三つある。

尸(し)羅波羅蜜多(持戒波羅蜜多)、せん提波羅蜜多(忍辱波羅蜜多)、
毘利耶(びりや)羅蜜多(精進波羅蜜多)の三波羅蜜多がそれである。
これはいずれも「良心として顕れる神格の内流」に関係している。

神格の内流の愛行面が「布施」であり、神格の内流の悟道面が般若と禅那(換言すれば
智慧と静慮)とである。そして神格の内流の道徳面又は良心面が持戒、忍辱、精進である。

神格(仏性)そのものは一つであって不可分であるけれども、それに波長を合わせる方面
から言うと、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若の六つを立てて六羅蜜多としたのが
仏教である。

生長の家では忍辱の方面はあまり言わぬ。
如何なる不遇、不幸、逆境、侮辱に対しても克(よ)く耐え忍ぶことによって
仏性を開顕せんとする忍辱に代って感謝を強調したのである。

無理に「怺(こら)える」のでは和解が出来ていないと説かれている。
感謝が出来たとき「怺(こら)える」ことが要らないので辱(はずかし)めが
消えるのである。

           <感謝合掌 平成24年10月11日 頓首再拝>

人を全部宥(ゆる)す日 (2443)
日時:2012年10月12日 (金) 04時31分
名前:伝統


    *「光明道中記(その身まったし)」より

十月十二日 人を全部宥(ゆる)す日

【人を恨む心を以てしては恨み心を解くことは出来ぬ。(『生命の實相』第七巻)】

尤も仏教でも忍辱(にんにく)と云う到彼岸法(はらみたほう)をただ如何なる苦痛も、
迫害も、圧迫も、意地悪も耐え忍ぶと言う如く「怺(こら)える」程度に於てのみ
説いている訳ではない。

これは「忍辱」の第一段階であって他より害を加えられたのを耐え忍ぶところの
(一)”耐忍”である。

更に仏教では(二)”安忍”と云うのが説かれている。単に怺えるのではなく、
安んじて忍受するのである。受くべきものは受けるより道はない。逃れようとすればする程
苦しいのだと云う真理を知って安んじてうけるのである。

この境地に於ては病気が治ることさえある。
生長の家でも、病苦に喘いでいる人にこの「安忍」を説くことによって
病苦頓(とみ)に癒される実例さえある。

更に仏教ではその上の段階の「忍辱」が説かれている。
それは(三)諦忍(たいにん)と言うので、迫害する者も迫害される者も、それらは”有る”
ように見えても本来存在しないと道理を諦めることによって瞋(いかり)の心を除くように
するのである。


生長の家ではもう「忍」と言わずに(四)感謝を説くのである。

迫害者も被迫害者も本来存在しないと否定して諦(あきら)めるのではなく、斯く見えている
のは観世音菩薩が我らを済度し給う為にわが心の相(すがた)を仮りに斯くの如くあらわし
示し給うのである。

有難いと、感謝の心を積極的に起すのである。

           <感謝合掌 平成24年10月12日 頓首再拝>

甘露を飲む爽やかな日 (2464)
日時:2012年10月13日 (土) 04時58分
名前:伝統

    *「光明道中記(その身まったし)」より

十月十三日 甘露を飲む爽やかな日

【一つの憎みは十人の憎みを招び、一つの愛念は百人の愛念を招ぶ。(『生命の實相』第十一巻)】


「忍」がまだ自覚されているのは「忍」の最上のものではない。
キリストは、「終りまで耐え忍べ」と言ったし、また「汝の敵を愛せよ」とも言った。

「終りまで耐え忍べ」と云う語(ことば)には「忍」がまだ忘れられていないし、
「汝の敵を愛せよ」と言う語は、「忍」が超えられて「愛」に変じている点では
一段の進歩ではあるけれども、まだ「敵」が忘れられていない。

生長の家では「敵はない」と言い、「忍」に代うるに「感謝」を以てするのである。

永嘉大師は、
「他の謗(ぼう)するに従(まか)せ、他の非するに任(まか)す。火を把(と)りて
天を焼く、徒(いたずら)に自ら疲るるのみ、我れ聞いて却(かえ)って甘露を飲むに似たり、
鎖融(しょうゆう)して頓(とみ)に不思議に入る」と言われたそうであるが、
この境地は素晴らしい高い大きな境地であるが、相手を見下げた感じがある。

「火を把(と)りて天を焼く、徒(いたず)らに自ら疲るるのみ」と云う語(ことば)には、
相手に対する呪詛さえある。その心境には感謝がない。
「我れ聞いて甘露を飲むに似たり」には、一種の独善的な感じがする。

どうしても一切を感謝に変える生長の家の到彼岸(はらみた)術は忍辱波羅蜜多以上のものである。

           <感謝合掌 平成24年10月13日 頓首再拝>

悪癖自然に去る日 (2480)
日時:2012年10月14日 (日) 04時57分
名前:伝統

    *「光明道中記(その身まったし)」より

十月十四日 悪癖自然に去る日

【業は実際に於て何処にも実在するものではない。(『生命の實相』第八巻)】

持戒の方面でも生長の家は仏教ほど喧(やかま)しく言わない。
持戒を喧しく言う仏教は、その教の建て方が、人間は罪を犯すように出来ているのであるから、
成るべくその野性に逆行して抑えて行くようにしなければならぬと云う建て前になっている。

例えば五戒と云うのでも善事をおのずから行ずると云う風には説かれないで、殺生、偸盗(ちゅうとう)
邪淫、妄語、飲酒などの上に不の字を付けて、不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒
などと呼んでいるのを見ても、「何々を為すな」式に抑えておりことが判るのである。

此の方面での到彼岸(はらみた)法は仏教は甚(はなは)だ拙(まず)い。
多くの仏教信者が戒を守らんとして戒を守ることが出来ず、破戒の僧や、破戒の信者が
現れ易いのはそのためである。

人間は罪を犯すように出来ている ―― そう云う人生観でいて、罪を犯さぬように
戒を保たしめることは甚だ難しいことである。

生長の家で、酒を飲むなとも言わず、不飲酒戒もないのに自然に飲酒癖が治って行く
実例が多いのは何故であるか。

それは「人間は罪を犯すように出来ていない。善いことしか出来ないように出来ている」と、
人間観をグラリと転ぜしめる結果、彼岸に達する道が《いと》易らかに開かれるのだ。

           <感謝合掌 平成24年10月14日 頓首再拝>

点滴石を穿つ日 (2493)
日時:2012年10月15日 (月) 04時21分
名前:伝統

    *「光明道中記(その身まったし)」より

十月十五日 点滴石を穿つ日

【幾度も生れ更わった霊魂ほど、現世幽界を度重ねて浄化作用を営んでいる。
                               (『生命の實相』第八巻)】

精進と云うことは何事を成就するにも必要なことである。
「精神一到何事か成らざらん」の諺もこれに当る。
国民総動員も之に当る。

点滴石を穿つ。天才は忍耐也。精神とは毎日たゆみなく行なうことである。
少しずつでも毎日たゆみなく聖典を読む、毎日たゆみなく神想観を行ずる、
毎日たゆみなく飯を食う、すべて是(これ)が精進である。

一度に力を出して置いて、あとはい眠っているのは精進ではない。
兎と亀との競走に於て、のろい亀が勝利を得たのは、亀はたゆみなく歩んだからである。

仏教で六波羅蜜の一つに到彼岸法(はらみたほう)として、精進が挙げられているのは、
悟りに到るにも毎日の精進が必要だからである。

精進のあるところ必ず魂が輝き出ずるのは、毎日磨いている廊下が光沢を増してくるのと
同じことである。1年360回拭くので廊下が光るのであるから、1週に360回
拭いて置いて、あとは放って置いても廊下は光るかと云うと、そう云う訳には行かぬ。

何故行かぬか、それは精進がないからである。

『生命の實相』も1回読んで意味が分かったと思って、
アトすっぽ抜かして置いては魂の進歩はない。

道場の講義も毎日聴くので効果があり、この日記も毎日読むから効果がある。
解ったと思って止める者は気の毒だ。

           <感謝合掌 平成24年10月15日 頓首再拝>

憎む人のない日 (2514)
日時:2012年10月16日 (火) 04時58分
名前:伝統


    *「光明道中記(その身まったし)」より

十月十六日 誰も赦した、憎む人のない日

【実在すなわち光明、これを不可思議光と言い、如来自在と言う。(『生命の實相』第十一巻)】

   善し悪しやにくや可愛いと思わねば世界がまるでわがもの

誰の歌か知らぬがなかなか好い歌である。
生長の家の教は「天地一切のものと和解せよ」との教えである。
さてその和解はどうしたら出来るのか、答えて曰く、総感謝であると。

そんなに和解していたら戦争は出来ぬではありませぬかと質問されたこともあった。
和解した時本当に不死身の力が出て来る。

こんな話がある。

戦争のときに敵の間諜を捕えたが、軍の掟で斬らねばならぬ。
そう云う時にその間諜が平然として微笑したり、平然として合掌していたりすると
どうしても斬ることが出来ぬ。

そこで何か侮辱を与えて間諜を怒らせる ―― 憤ると云うことは「斬る心」を起すことである。
間諜が憤って「斬る心」を起して憎らしそうな顔をした時に思い切ってバッサリ斬れる。
斬られるのは、「斬る心」を起したからである。

無心の小児は斬ることが出来ぬ。
愛憎を超え、善し悪しを超えたところに不死身を得るのである。

キリストも「此の幼児(おさなご)の如きものならずば神の国に入ること能わず」と言ったし、
白隠禅師も「是非憎愛総に拈抛(ねんほう)すれば、汝に許す生身(いきみ)の観自在」と
言ったが、愛憎に心が捉われるから地獄が現出するのである。

           <感謝合掌 平成24年10月16日 頓首再拝>

愛憎を超える日 (2536)
日時:2012年10月17日 (水) 04時40分
名前:伝統

    *「光明道中記(その身まったし)」より

十月十七日 愛憎を超える日

【真に人を救う道は無我の愛にて相手を目覚めさせるにある。(『生命の實相』第二巻)】

地獄とは自在を失った状態である。
自在を失うから苦しいのである。

では自在とは何であるか。
何ものにも囚(とら)えられないことである。

愛憎は人間の心を最もよく囚えて自由自在を失わしめる。
愛憎のないところに自由自在を得るのである。

死ぬのが恐ろしいと云うのも、生を愛し死を憎むからである。
生を愛し死を憎むことがなかったら生死に囚えられぬ。
生死に囚えられなかったら生死に於て自由自在である。

沢庵禅師が柳生但馬守と立会ったが、剣聖但馬が斬り込もうと思っても
斬り込む隙がなかったと云う話がある。

日本へ来て北条時宗の悟の師となった祖元禅師は元の兵来たって彼を斬ろうとした時
平然として「人空(にんくう)また法空(ほうくう)、電光影裡、春風を斬る」と一喝を
諷して首をさし伸べたが斬ることが出来なかった。

禅宗六祖の慧能も神秀の弟子行昌(ぎょうしょう)が来って斬ろうとしたとき
平然として首をさし伸べたが三たび剣を揮えども斬ることが出来なかった。

「善し悪しやにくいや可愛い」があるからこそ、通力を失って斬られるものを。
通力を失うのは囚われるからである。
囚われなければ吾々は白隠禅師の言ったように生身の観自在菩薩であるのだ。

病気などに罹(かか)るのも愛憎に捉われて通力を失うからである。

           <感謝合掌 平成24年10月17日 頓首再拝>

愛憎を捨てる日 (2557)
日時:2012年10月18日 (木) 04時57分
名前:伝統

    *「光明道中記(その身まったし)」より

十月十八日 愛憎を捨てる日

【ひらいた掌(てのひら)だけが新しいものを掴むことが出来る。(『生命の實相』第十一巻)】

沢庵禅師が柳生但馬守と試合(たちあ)ったとき、沢庵禅師に少しも隙がなかったが、
禅師が柳生但馬守に授けられた『不動智神妙録』と云うのがある。

それには和解が必勝の道であると云うことが書いてあるのである。
和解と云うのは愛憎に囚われない道であるから同時に必勝の道となるのである。

『不動智神妙録』の一節に

「物に心が止(とどま)り候へば、いろいろの分別が胸に候間、胸のうちにいろいろに動き候。
止まれば止まる心は動きても、うごかぬにて候。たとへば十人して一太刀づつ我へ太刀を入るるも、
一太刀を受流して跡に心を止めず、跡を捨て跡を拾ひ候はば、十人ながらへ働きを欠かさぬにて候。

十人十度、心は働けども、一人にも心を止めずば、次第に取合ひて、働きは欠け申す間敷候
(まじくそうろう)。若し又、一人の前に心が止まり候はば、一人の打つ太刀をば受流す
べけれども、二人めの時は、手前の働き抜け申すべく候。

千手観音とて、手が千御入(おい)り候ば、弓を取る手に心が止まらば、九百九十九の手は皆、
用に立ち申す間敷(まじく)候。・・・」

心が一つ物に囚えられたなら、千本手があっても他の手がお留守になって自由自在を失う。

・・・・・

<参考Web:不動智神妙録
       → http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/pg196.html
       沢庵「不動智神妙録」
       → http://www4.ocn.ne.jp/~koperu/takuan.html   >

・・・・・

           <感謝合掌 平成24年10月18日 頓首再拝>

心配のなくなる日 (2598)
日時:2012年10月19日 (金) 04時45分
名前:伝統


    *「光明道中記(その身まったし)」より

十月十九日 心配のなくなる日

【心配、取越苦労、憤怒などは恐怖心の変形である。(『生命の實相』第十二巻)】


「善を思わず、悪を思わず、正与麼(しょうよも)のとき、那箇(いかん)かこれ
明上座(みょうじょうざ)が本来の面目(めんぽく)」
これは慧明に六祖慧能大師が与えられた一喝であった。

善悪愛憎に因えられ、これが可(い)かん、あれが可かんと言っている間は通力を
失った状態であるから本当の大善は出て来ないのである。

「心の狭い善人」は生長の家ではいたく排撃せられるのである。
これが善い、これが悪いと云う人が多く肺病にかかって血を喀(は)いたりするのである。

善いも悪いもない、其処へ出てきたものをその儘受け流す、
次に出てきたものも、そのまま受け流す。
これが神妙不動智の極意である。

「ああ血がこんなに出たから、もう駄目だ」などと考えたら、
もう血に心が因えられたから通力を失って一層健康が悪くなるのである。

「血が出た。オーライ」「熱が出た。オーライ」「痰が出た。オーライ」
別にいつまでもそれに心を引掛けていないで、出たのは出たとして、それ以上何も嘆かぬ。
出るものが出たら、あとはサッパリするものである。

心が引掛らねば、生命は「生きる力」なのだから必ず生きる。

血が出た、痰が出た、熱が出た ―― に是非、善悪を引っ掛けて、
心がいつまでも思煩(おもいわずら)うところに病気も長引く。

すべて有り難く受け流して行けば病気は消える。

           <感謝合掌 平成24年10月19日 頓首再拝>

「欲しい」を捨てる日 (2621)
日時:2012年10月20日 (土) 04時54分
名前:伝統

    *「光明道中記(その身まったし)」より

十月ニ十日 「欲しい」を捨てる日

【自分を本当に愛する事が出来る者は、本当に隣人を愛する事が出来る。
                          (『生命の實相』第二巻)】

善悪愛憎に捉われると云うことは、「斯くあり《たい》」「斯うし《たい》」「逢い《たい》」
「見《たい》」「食べ《たい》」などの「《たい》」に囚われることである。

この「《たい》」が心にある間は、その人はどうしても「《たい》国」の囚人で、
本当の自由も極楽もその人にはあり得ないのである。

天理教では此の「《たい》」を「惜しい」「欲しい」などの八つに別けて、八つの埃と言っている。
「たい」が心の病気であり、心の病気が肉体に投影して肉体の病気となるのである。

時々私に病気の相談を持ち掛けてくる人がある。
そんな人に私が「あなたは心に不平ばかり持っているから、そう云う不平を捨てなさい」
と言うことがある。

すると益々相手は不平らしい顔附をして、
「私は別に不平の心を有(も)っていませぬ」と言う。

「併しあなたは、もう少し斯うし《たい》、斯うして《欲しい》と思うことがあるでしょう」と
言いますと、「それはあります」と言われる。

その斯うして《欲しい》、斯うあり《たい》が、あなたの気が附かない不平であって、
それが心が善悪愛憎に囚われているので、生命力が自由を得ないで病気に罹っている。

その「こうして《欲しい》、こうあり《たい》」の《欲しい》と《たい》を捨てれば
不思議に病気が治ることがあるものである。

           <感謝合掌 平成24年10月20日 頓首再拝>  

必ず一人を導く日 (2637)
日時:2012年10月21日 (日) 06時26分
名前:伝統

    *「光明道中記(その身まったし)」より

十月ニ十一日 必ず一人を導く日

【真我は迷わぬ。「迷い」と云うのも、「迷うている我」と云うものも”無い”。
                          (『生命の實相』第十一巻)】

一切皆空を、すべて皆無し、「人」もなく「法」(一切の事物)も無しと観ずる事だと
考えている人もある。これを人空法空と言う。併し総てが何もないと観ずるのは断観外道の
観方だと言って排斥する人もある。ただし、外道と言っても必ずしも間違と云う意味ではない。

仏教以外の人生観であって、正統の仏教ではないと云う意味に過ぎない。
仏教も、歴史的流れに従って次第にそれが完成しつつあるのであって、肉体の釈迦が説いた
教えだけが仏教だと思うと間違いである。

釈迦は「法華経」の中で「吾れ常に此(ここ)に在りて説法す」と言っているので、
法体の釈迦は今も此に在りて説法しているのであって、外道だと思われていた真理が
案外真の仏教であったりするかも知れない。

私に言わせれば、キリスト教も仏教であり、生長の家も仏教である。
久遠の釈迦が、常在法体の釈迦が、別の時代に、別の形をもって、
或るスピーカーを通して同じ真理をその時代に相応しく説いたものである。

大乗仏教は今や日本で完成しつつあるのである。
インドで二千五百年も以前に説かれた仏教のみが仏教だと思うのは愚者である。

釈迦は随宜(ずいぎ)説法せられたのであるから、
日本で、そして現代では、またその時処相応の仏教が出現するのは当然である。

           <感謝合掌 平成24年10月21日 頓首再拝>  

現象無しと完全に知る日 (2664)
日時:2012年10月22日 (月) 07時22分
名前:伝統

    *「光明道中記(その身まったし)」より

十月ニ十二日 現象無しと完全に知る日

【三界唯心の真理に於て仏教、基教、生長の家は一致す。神と仏とは一如。
                          (『生命の實相』第十一巻)】

二千五百年前に説いたと伝えられている仏教の説き方を標準にして、
その通りの説き方でないから間違っていると判断を下すのは間違いである。

仏教の次第に時処の展開に従って完成するのであるから、
生長の家の説く仏教が今迄の説き方と相違するからとて、
外道だとか間違いだとか言ってはならぬ。


却ってその説かれる真理の実生活に及ぼす力を見ねばならぬ。
樹(き)の善悪は果実を見て知れである。
一見高邁な真理のようであっても人間を本当によく救わぬような宗教は駄目だ。


一切皆空を生長の家のように物質もない、肉体もない、心もないと、
綺麗に「無し」と截ち切り得ない人が在来の仏教界にもあって、

「空とは単に無しと云う意味ではない。空の意義にはもっと玄妙の意義が存するのである。
物が全然無いのではなく、”物あるが儘に是れ空であると観ずるのが”真空妙有の観である。
これを非有非空(ひうひくうう)、亦有亦空(やくうやくくう)の理とも言う」
等と云われるのである。

非有非空と言えば中々偉そうだが、「有るのでもない、無いのでもない」と云うことであり、
「亦有亦空」とは「有るのでもあり亦(また)無いのでもある」と云うことである。

一箇の牡丹餅を出されても非有非空(あるのでもないのでもない)では食べる訳にも
行かぬから、一生涯考えて神経衰弱になるであろう。

           <感謝合掌 平成24年10月22日 頓首再拝>  

妙有を悟る日 (2707)
日時:2012年10月23日 (火) 06時22分
名前:伝統


    *「光明道中記(その身まったし)」より

十月ニ十三日 妙有を悟る日

【本当の美はそこに生命が生きていると云うことである。(『生命の實相』第四巻)】

真空妙有と云うとこれ又中々偉そうな仏教哲学の言葉であるが、この偉そうな語(ことば)
が人々を誤らせて真空と云うものが妙有であると考えしめられている仏教研究者に
度々逢ったことがある。

つまり物質は無い、こんな形をしていると云う物質は無いけれども、
物質を形成している本体たるエーテルの如き、斬れども斬れぬ実体は有るのだ。

そのエーテルの如き妙なる実有(じつう)の顕れが「物質」であるから、
物質があるが儘にそれは真空であるとするのである。

併しこの観方では、本体の顕れが直に物質となるがために、或る物質的形態をもったところの
「病気の腐爛せる肉体」の如きものを本体の顕現(あらわれ)であると認めることになり、
病気(その他の不完全相)も本体があらわしているのだ、病気の実在性を強調することになり、
結局その念の支持力によって病気が何時までも消えないことになるである。

それは物質的不完全形態をそのまま妙有のあらわれと見ないで、「物質”なし”、ただ妙有
のみ”あり”」とハッキリ「無し」と「有り」とを裁断したところにあるのであって、

「病気は?」 答えて曰く
「有に非ず、空に非ず、亦有でもあり、亦空でもある」などでは病気は消えぬ。

           <感謝合掌 平成24年10月23日 頓首再拝>

本当に明るくなる日 (2752)
日時:2012年10月24日 (水) 06時28分
名前:伝統


    *「光明道中記(その身まったし)」より

十月ニ十四日 本当に明るくなる日

【本当の明るさは常に真理と、愛と、智慧とから来るのである。(『生命の實相』第八巻)】

「物質無し、肉体無し、心も無し、ただ妙有のみあり」
―― 此の「無し」と「有る」とを明瞭に裁断したところに生長の家の新しき真空妙有の
説き方があり、それが驚くべき奇蹟をあらわし、

キリストの言ったところの「吾れを信ぜずとも、わが業(わざ)を信ぜよ」と言った如き
業績が続々あらわれるようになったのである。

「真空」とは”現象が真空であり”、真無なのであって、
妙有が真空なのでもなく、真空が妙有なのでもない。
”現象が真空であり”、”実在が妙有なのである”。

妙有とは捉えどころのないエーテルの如き、風の如き、煙の如き頼りなき存在の意ではない。
妙有は妙なる具体的金剛不壊の存在である。
「妙有の人間」は清浄無垢健康そのものの具体的実在人間である。

妙有の人間は”肉体病むと見ゆるときにも、今だ嘗て病みしことなく”、
”又これからも病むことなき真人間(リーアル・マン)である”。

それは五官に触れ得ない故に非有(あるでもない)、非空(ないでもない)などと
古い仏教では形容したのであろうが、後世人をして人間の真実性を補足するに
くるしませる結果となったのである。

「人間は仏性である、仏性こそ人間である」と云うが如き表現法(いいかた)でも尚足りない。

「真の人間」は仏性と云うような抽象的存在でもない、
具体的な仏身であり、金剛不壊身である。

           <感謝合掌 平成24年10月24日 頓首再拝>

月一回の恩を返す日 (2804)
日時:2012年10月25日 (木) 04時49分
名前:伝統

    *「光明道中記(その身まったし)」より

十月ニ十五日 月一回の恩を返す日

【毎朝が新生である。吾らは朝ごとに新しく生まれ変わる。(『生命の實相』第十二巻)】

(一)人空 ―― 曰く、

   物質の人間、肉体の人間は存在しないと否定せよ。
   而して「妙有の人間」を今ありと肯定せよ。

   「妙有の人間」は抽象概念の人間ではなく、現象肉体の人間よりも、尚一層具体的で
   あり、尚一層金剛不壊であり、真清浄真無垢真健康なるが故に、それを自覚するとき
   病気が頓(とみ)に癒えるのである。

(二)法空―― 曰く、

   物質の世界、不完全形態を物質的にあらわしている此の世界は
   空にして本来存在しないと否定せよ。而して「妙有の世界」今此処にありと肯定せよ。

   「妙有の世界」とは現象世界よりも一層具体的な金剛不壊の世界である。
   現象世界は具体的に見えていても崩れるが、「妙有の世界」は現象世界が破壊すると
   見ゆるときにも「わが浄土は安穏(あんのん)なり」と釈迦が「法華経」に於て
   説いたところも金剛不壊の世界である。

   金剛不壊と云っても祖元禅師が「電光影裡春風(でんこうえいりしゅんぷう)を斬る」
   と言った如き、風の如きエーテルの如きものであるから、斬っても斬れないと云う
   ような頼りなき世界ではない。

   「宝樹華果(ほうじゅけか)多くして、衆生の遊楽するところなり、諸天天鼓を打ち
   伎楽を奏し、曼陀羅華を雨ふらして大衆(だいしゅ)に散ず」と「法華経」の自我偈
   にあるが如き具体的妙(たえ)なる世界である。

           <感謝合掌 平成24年10月25日 頓首再拝>

家庭整う日 (2852)
日時:2012年10月26日 (金) 05時05分
名前:伝統


    *「光明道中記(その身まったし)」より

十月ニ十六日 家庭整う日

【現在は過去の念で決定した宿命である。未来は・・・。(『生命の實相』第二巻)】


    引き寄せて結べば柴の庵なり解くればもとの野原なりけり

こんな仏教の諸行無常を歌った歌が、
妙有の世界を殺風景な野原的世界の観を与えしめた。

現象界の美しき建物は”ある”けれども、それが解けて解体してしまえば、
その材料となった殺風景な野原ばかりだと云うのは、
実在の風光を誤ること著しいものである。

金銀財宝色々の形にあらわれているが、そんな金銀財宝は空しきもので、
いずれも電子の組み合わせによって顕れ方が異(ちが)うだけで、
実相は一様平等砂漠みたいな電子に過ぎないと云うような人生観である。

これでは妙有の世界は、ただ材料の世界だと云うことになって了う。
「材料はあれども製品(現象)は仮の姿」と云うような考え方である。

併し在来、仏教ではこの材料なるものを、地水火風の四大としたのであって、
四大を妙有としたのではない。

地大(堅性のもの)と、水大(湿性「のもの)と、火大(霊性のもの)と、風大(動性のもの)
とこの四つの要素が組合わされ、引き寄せて結べば柴の庵のような現象になっているのであるが、
分解すればただの要素になる。

実在世界もなければ、実在人間も無い――こんな考え方では仏教は生きて来ない。

妙有は理念実成の世界なのである。

           <感謝合掌 平成24年10月26日 頓首再拝>

神に融け入る神想観をする日 (2880)
日時:2012年10月27日 (土) 04時35分
名前:伝統


    *「光明道中記(その身まったし)」より

十月二十七日 神に融け入る神想観をする日

【健康とは筋肉の発達ではない。心に「私」なき聖者は常に長命である。
                    (『生命の實相』第十二巻)】

神想観の実修にあたって、自分の欲する事物を精神統一の世界から招び出して来るために、
目的事物を強く念ずる人がある。そしてそれは功を奏することもあれば、功を奏さぬこともある。

ただ注意すべきは「私」の凝念(ぎょうねん)の力によって事物を現象界にあらわそうとするのは
我(が)の心の力の仕事であって、神の力の展開ではないと云うことである。

それは時にはひどく疲労を惹起せしめ又将来に愛憎の業を流転せしめることがあるのである。
何故なら「あれが欲しい」と念ずることは一種の愛憎の念であるからである。

神想観の最高の方法は、愛憎の念を動かさず、ただ実相の世界に、神の智慧と愛と生命との
充ち満ちてあるその妙なる有様を観ることである。

吾々は我の想念の力によっては、そう多くを動かし得ない。
実相の創化作用の自働によってのみ無限の力が湧いて来るのである。

ただ自分と云うものを仏(神)の家に投げ入れて、
仏(神)の方からはからわれることが正しいのである。

愛憎によって人間が註文しなければ、
欲しい事物が与えられないように思うのは神の力を信じないものである。

愛憎があればあるほど自由を失い、神の波長に合わず神想観の効果は少い。

           <感謝合掌 平成24年10月27日 頓首再拝>

良き種を蒔く日 (2922)
日時:2012年10月28日 (日) 04時45分
名前:伝統

    *「光明道中記(その身まったし)」より

十月二十八日 良き種を蒔く日

【きょう種を蒔いたからとて今日はえない。芽が出るには時間が要るのだ。
                            (『生命の實相』第十一巻)】

若し吾々が、実相なるもの、神、宇宙の本体、実在に対して、無限智、無限愛、無限生命、
無限供給、無限調和・・・等々一切の善きものを具体的に認めることが出来ないならば、
吾々の現実生活にもそれらの善きものが発現して来ないのは当然である。

何故なら外界は内界の投影に過ぎないからである。

吾等は我(が)の念力によって欲する事物を現象面に創造するのではなくして、
ただ実相妙有の相(すがた)を眺め、讚嘆し、礼拝し、感謝するのである。

神想観を我の念力の凝念法だと思っている人は全然間違であるが、
何か欲する事物を招び出すためにする行事だと思っている人も間違である。

そしてこれを一種の観念法だと思っている人は、
全然当らずと云う訳でもないが一面観である。

神想観は讚嘆行であり、礼拝行であり、感謝行である。

讚嘆と、礼拝と、感謝は、すでにその御業(みわざ)が既に成就していると云う前提の
もとに行ぜられるものである。それには成就しないかも知れぬと云う不安が微塵もない。

それは南無阿弥陀仏と称えて、信心決定(けつじょ)せると同じことである。
ただ異なるのは死後の世界に於ける救いが信心決定せるだけでなく、
神想観に於いては「今」すべての救いが信心決定せることである。

           <感謝合掌 平成24年10月28日 頓首再拝>

断然決意の日 (2953)
日時:2012年10月29日 (月) 04時54分
名前:伝統


    *「光明道中記(その身まったし)」より

十月二十九日 断然決意の日

【決断とは何かを捨てると云う事である。倒れることを恐れず、自己の不決断のみを恐れよ。
                              (『生命の實相』第四巻)】

真に愛する仕事でないと大成することは出来ない。
忠実にやる仕事でないと大成することは出来ない。

忍耐強くあり、凡(あら)ゆる艱難に耐え忍び、艱難と闘うことをハイキングの如く楽しみ、
しかも尚、その仕事を通して国家または人類に貢献せんと決意したものでないと大成する
ことは出来ない。

才智ばかりで小細工する者はついにその才智に翻弄されて自己が崩れてしまうであろう。
寛大な雅量と、鞏固(きょうこ)なる意志と、而も人心を収纜(しゅうらん)するたぎる
如き情熱とは大成する者には必要である。

更に大切なのは「神に導かれる」と云うことである。
信仰深くして、神と偕(とも)なりとの自覚を以ているばかりでなく、
真に神に導かれている人にして、機に臨み変に応じ自由自在の叡智を有っている人
でなければならない。

而もかくの如き人でも、人の信義を裏切ることを極度に厭う人でなければ終を完うしない。

           <感謝合掌 平成24年10月29日 頓首再拝>

求むるに先立ちて財宝集る日 (2999)
日時:2012年10月30日 (火) 04時19分
名前:伝統


    *「光明道中記(その身まったし)」より

十月三十日 求むるに先立ちて財宝集る日


【結果を求めた愛は必ず不幸に終わる。よき果を結ぶのは結果を求めない愛ばかりである。
                             (『生命の實相』第一巻)】

「求めよ、さらば得られん」これは第一段階である。
「神は求むるに先立ちて必需物を知りたまう」これは第二段階である。

更に進んでは「知り給う」も「与え給う」も、
そんな「求めるもの」を私事に予想する心がなくなってしまわなければならないのである。

ただ神”のみ”がましますのである。
神は大慈である。
ただ大慈”のみ”がましますのである。

今更何を求めよう。

ただ、神の中へ溶け込むことのみをこそ求めなければならないのである。
溶け込むとは固まりがなくなることである。「我」の求めがなくなることである。

偉くなり、富を得たい、光栄を得たい、すべての野心、野心がとげられない悲しみ。
一切の怒り、不安、恐怖、呪詛(のろい)、之(これ)らすべてのものを放下せよ。
真に神の神意でありますようにと祈れ。

おお! その中にこそ全てがあるものを。

神を、聾(つんぼ)扱いしてはならぬ。
大声で怒鳴らなければ聞こえない者だと思ってはならない。
注文をして置かなければ、神はこの問題を忘れ給うかも知れぬと思うな。

           <感謝合掌 平成24年10月30日 頓首再拝>

言葉の神秘を知る日 (3035)
日時:2012年10月31日 (水) 04時58分
名前:伝統

    *「光明道中記(その身まったし)」より

十月三十一日 言葉の神秘を知る日

【言葉の力によって認めるものだけが存在に入る。 
                (『生命の實相』第二巻)】 

早稲田政治科出身の先輩、上田謙氏は言語学を深く研究している人である。
次のような草稿を送ってこられた。

―― 言(こと)とは音(おと)に子音Kなる無意味の接頭語を飾りたるものです。
葉とは端(はし)くれ即ち現象の意。

然らば音とは何ぞや。
是れ印度(いんど)、波斯(ペルシア)、希臘(ギリシア)等に於ける
拝火教によびなされし音即ち odo と称する veda 教典に説く
万有に貫通する生命乃至実在の事也(なり)。

希臘”オデ”イ・イリ”アド”は皆此の音乃至 odo の事にして、
是が又歌とも同じものです。

其の証拠には「斯う云う事を歌って置き乍(なが)ら」云々の言葉の中の
「歌う」とは「言う」乃至言葉の意味なるに依(よ)りても知らる。

又音無(おとな)しい人とは、喋らぬ人の謂(いい)にて、
是も音とは言葉である事が証さる。

かく日本人の上層を成せるものの名は正しく梵語と同一語源で
出羽(でわ)は deva(神)、佐分利(さぶり)は svara(日神<ひのかみ>) 

幣原(しではら)は svara では余り梵語其の儘故、これを隠して「て」を入れて
「し(て)はら」であり、されば神の意である弊(しで)の字があるので、
此の弊(へい)の字が「しで」と読む理由が解る訳で字引には謎である。
んと撥(は)ねて「しんばら」となる。

御社(おんしゃ)の「光明」も「しばら」で光明真言に言う「じんばら」は
此の「しばら」で光明(神)の事です。

・・・・・

谷口雅春先生が説かれる「言霊」については、
次のスレッド「『言靈と神通力』」で学ぶことができます。
 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=613 

他には、”山ちゃん1952さま”のブログがあります。

「言ふ」「云ふ」との違い
http://plaza.rakuten.co.jp/tecnopla/diary/201210290000/

靈という字の意味は
http://plaza.rakuten.co.jp/tecnopla/diary/201210290001/

・・・・・

           <感謝合掌 平成24年10月31日 頓首再拝>



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