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八方礼拝 (5)
日時:2012年08月01日 (水) 17時12分
名前:伝統

『生命の實相』は、言葉で読み、心で読み、行ないで読む

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月1日>(P38)より

われわれがもし自分の周囲に幸福な世界を持ちたいと思うならば、
まず自分自身の心のうちに「幸福な世界」を持たなければならぬ。
環境は、心の影、外界は内界の反映であるからである。

では、自分の心のうちに「幸福な世界」を持つにはどうしたらよいであろうか。
また「幸福」とはいかなる状態であるのであろうか。

答えて曰く、調和が幸福な状態である。
億万の富があるも調和がなければ幸福だとは言えない。
だからわれらがもし自分の周囲に幸福な世界を持とうと思うならば
調和した心を持たなければならないのである。

ここに「汝ら天地一切のものと和解せよ」
この教えが絶対権威のあるものとして生きているのである。

まずあなたが不幸であるならば、手近のものと和解しているか省みよ。
和解するとは、「感謝することである」と『生命の實相』の巻頭には書いてある。

「感謝する」とは口先だけで「ありがとう」と
空念仏のような称え語(ごと)することではない。

心に深く感謝の意を起こし、その感謝の意を実行にまで駆り立てるほどの熱意ある
感謝でなければ本当に感謝しているとは言えないのである。

実行とは、心の思いの果実である。心で感謝していますと口には言っても、
実行しない感謝というものは、実のない感謝である。
徒花(あだばな)のような感謝は実を結ばぬ。

「あなたは良人に感謝していますか。」
「ハイ、感謝しております」こう答えながら、
時々「ああもして欲しい、こうもして欲しい、まだこうしてくれれば満足できぬ」と
言うような奥様がどこかにないであろうか。

ここの微妙なところで、その人の家庭の幸不幸と、健不健との岐(わか)れ目があるのである。

『生命の實相』は、言葉で読み、心で読み、行ないで読まなければ本当の悟りは得られぬ。
そして現象界は、心の世界の反映(かげ)であるから、
本当の悟りが心の世界に得られねば、「お反映(かげ)」はえられぬのである。

しかし世間には「言葉」で読むことさえも面倒くさいから、遠隔治療をしてくださいと
いうような不誠実な人たちもあるのである。こういう人にかぎって、治ったらもう用がない
と言って去り、治らなかったら「生長の家」は効かぬと悪評するのである。

お反映(かげ)は遠隔治療にあるのではなく、真理にあるのである。
真理を読むことを拒んで、その人たちは何を得ようとするのであろう。
誠実に実行するところに真理の治す力は作用(はたら)くのである。

       <感謝合掌 平成24年8月1日 頓首再拝>

「伝統」様。最初のご投稿、ありがとうございました。 (14)
日時:2012年08月01日 (水) 21時41分
名前:管理人

「伝統」様

この掲示板を信用してくださり、ありがとうございます。

「伝統」様のように誰からも信用されている方が書き込んでくださると、それだけで他の書き込み人たちも書き込む気になり、ひいては掲示板の信用が上がります。

「伝統」様のご文章は、あちらでもいつも拝読して心を明るく高く保っておりました。


今後とも、ご投稿をお願い申し上げます。


管理人・感謝



神の愛を疑うことは・・・ (18)
日時:2012年08月02日 (木) 04時32分
名前:伝統

”管理人 さま” まことにありがとうございます。
”管理人 さま”の勇猛心溢れるご愛行に心より感謝申し上げます。

・・・以下に、スレッドを続けさせていただきます。

神の愛を疑うことは・・・

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月2日>(P40)より

神の愛を疑うものは神の創造を疑うものである。
神の創造を疑うものは天地一切を疑うものである。

疑うとは信ぜぬことである。
信ぜぬとは否定することである。

否定するとは、その存在の根本について争うことである。
争うことは調和せぬことである。
調和せぬとは和解せぬことである。

神を否定し、神と争い、神と調和せず、
天地一切のものと和解せぬ者が幸福でありえないのは当然のことである。

       <感謝合掌 平成24年8月2日 頓首再拝>

『生命の實相』で繰り返し生命(いのち)の水を汲む (49)
日時:2012年08月03日 (金) 05時01分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月3日>(P40)より

プラトンの対話篇を「水車を踏む」のに喩えた人がある。
私の『生長の家』も『生命の實相』もまた踏まれゆく「水車」のごときものである。

水車は同じ形をなしつつ、同じ中心を軸として繰り返し回転する。
万巻の大蔵経も同じ真理を中心軸として繰り返し回転した。

私の『生命の實相』も同じ形を示しつつ、いつも同じ真理の文章を読まされつつ、
そのたびごとに読者はいっそう豊富な生命(いのち)の水を汲みとるのである。

水車は同じ形をし、同じ中心を軸として回転するものであるから、
もう二度と繰り返し踏む必要がないと言っておれば、
生命(いのち)の水を汲み上げることはできないのである。

       <感謝合掌 平成24年8月3日 頓首再拝>

『生命の實相』を筆写する講師 (52)
日時:2012年08月03日 (金) 08時23分
名前:伝統


「生長の家“本流宣言”掲示板」を読み返していて、
”童子 さま”による次の記事が目に留まりましたので、
こちらにも再掲しておきます。

『生命の實相』を筆写する講師 (290)
http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=74

 F県教化部のHPに書かれていますので、
 読まれた方も幾人かは居られると思いますが・・・


 I講師は87歳、なおかくしゃくとして威儀端然だ。
 平成20年より早朝神想観と聖経読誦の後、
 毎朝1時間『生命の実相』を第1巻より順次筆写して8巻に至り、
 喝破して言われるには、

 『書き写して初めて気付くに、これでもかこれでもかと
 次から次に〃實相〃という文字が出てくる。
 これは神様が谷口雅春先生を通して、いくら説いてもまだ分っていないから繰返すのだ、
 と仰せられているように思う』と。

       <感謝合掌 平成24年8月3日 頓首再拝>

「愛」は実相、心の調和 (62)
日時:2012年08月04日 (土) 04時51分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月4日>(P41)より

愛はただの感情ではない。いわんやただの恋情ではない。

「愛」は実相なのである。事物の本質なのである。
歓喜なのである。調和なのである。
光なのである。生命(せいめい)なのである。

愛は激情ではない。激情は調和ではない。
激情はものを毀す。不調和はものを毀す。
不調和に生命はない。

激情のことを「愛」と呼び倣わしてきたがために、どれだけ多くの若い――
いな、相当年をとった ―― 人たちがその激情に身を滅ぼしてきたことだろう。

滅ぼすもののうちに愛はない。
生かすもの、生み出すもののうちにのみ愛があるのである。

愛は心の調和である。

       <感謝合掌 平成24年8月4日 頓首再拝>

躓きを含めすべてに感謝 (86)
日時:2012年08月05日 (日) 04時46分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月5日>(P41)より

躓きは不幸な出来事であるが、われらがまた躓きにも感謝しなければならぬ。

躓きはわれらが人生の道を歩むのに、十分高く足を挙げていなかったことを
教えてくれるものである。われらは躓きによって、躓かないときよりもいっそう
多くのことを学ぶことができるのである。

躓きはまたわたしの心の眼を開いてくれるものである。
もし、今少し手前で躓かなかったら、自分の今歩いている道が、
谷底へ落下する道であることに気がつかなかったかもしれないのである。

理屈で言うのでも、失敗を諦めるために言うのでもない。
躓きは当然感謝さるべきものである。

躓かなくなりえた者は、その幸福をいっそう感謝すべきであるが、
躓きもまた感謝する価値がある。

そうすればわれらは人生のどこにも感謝すべきものが充ちていることを発見しうるのである。

       <感謝合掌 平成24年8月5日 頓首再拝>

「静(せい)」の力を受ける (117)
日時:2012年08月06日 (月) 07時45分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月6日>(P42)より

「静(せい)」のうちにあずける時、そこに「聖(せい)」なる癒しの力があらわれる。
「静(せい)」は「生(せい)」であり、「清(せい)」であり、「聖(せい)」であり、
生かしであり、清めである。

絶対安静療法などのことを言っているのではない。
心がただ委(まか)せきりになって、全托の心境に万事を委ねるのである。

絶対安静療法などなどと言って身体(からだ)を安静にしても、
心が「静(せい)」になりきらない者は、
「静(せい)」の生かす力を受けることはできないのである。

我(が)の力による力みを捨てること。

静かに静かに、自分が委(まか)せきりになっているかどうか。
無理はないか。焦りはないか。

ひたすら歓びのある心持に落ちつけるとき、活動していても、活動していなくとも、
「静(せい)」の力を受けることができるのである。

       <感謝合掌 平成24年8月6日 頓首再拝>

「自分は健康だ」との観念を徹底させる (142)
日時:2012年08月07日 (火) 05時01分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月7日>(P43)より

健康を破壊してどうしても快復し難いのは、
その人が「自分は健康を損なった」という観念にしがみついているからである。

いろいろの療法や、思念や、聖典読誦が功を奏さないのは、
一方に「自分は病気だから、こうして治そう」というように、
「自分は病気だから」の観念に固くしがみついて、それと相撲をとっているからである。

「病気はない」は真理であり実相であるから、その健康なる実相を招(よ)び出そうと
しながら、「自分は病気だから」という考えの上にいつまでも足踏みしているようなことでは
「病気はない」の観念を招(よ)び出すことはできないのである。

「自分は病気だから」の観念を抛擲(ほうてき)して、端的に、
「自分は健康だ」の観念に置き換えたらその病気は癒えるのである。

ではその方法はいかん?

それは、すでに自分は健康である、完全に創造されているとの前提の下に神に感謝するのである。
合掌神想観をなして、次の如く神に感謝すべきである。

「神はすべてのすべてであり、完(まつた)き生命(いのち)であり、
完(まつた)き叡智(みちえ)であり、完(まつた)き聖愛(みあい)である。

すべてのもののうちに神の生命(いのち)は生き、神の叡智(みちえ)は充ち、
神の聖愛(みあい)は満ちている。

その例に漏れず自分のうちにも神の完(まつた)き生命(いのち)、
完(まつた)き叡智(みちえ)、完(まつた)き聖愛(みあい)は充ち、
それによって自分は完全に健康に生かされているのである。

自分は今まったく完全に健康に生かされているのでございます。
ありがとうございます。ありがとうございます。

自分は今まったく完全に健康に生かされているのでございます。
ありがとうございます。ありがとうございます。・・・」

こう、現に今健康で”ある”ところの思いに浸りきって、如実にそれを実感して
本当に感謝の言葉を述べることは、「自分は今病気だから、治すために・・・」
などという考えを一転せしめる力がある。

最後の「今まったく完全に健康に生かされている、ありがとうございます」の言葉を
できるだけ実感せまる調子で、心のうちに幾回でも、その実感が徹底するまで
繰り返すがよいのである。

      <感謝合掌 平成24年8月7日 頓首再拝>

「証上の修」 (177)
日時:2012年08月08日 (水) 03時48分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月8日>(P45)より

知的に知ることと、信仰的に知ることと、それを思念することとは、いずれも別のことである。
知的に知っても信仰的に信じていない人もあるし、
信仰的に信じていてもそれを知的に知らない人もある。

知的に知り、同時に信仰的に信じながら、なおかつその人から不幸が消えないならば、
それは思念が足りないのである。

思念は一種の実行であり、力であるのは、油田を掘鑿(くっさく)するようなものである。
学的にここに豊富な油田があることを測定しえ、そして石油の存在を信念的に信じていて
さえも掘鑿しなければ石油が噴出しないのと同じように、

『生命の實相』によって自分の「生命の実相」が、神そのままの分け”いのち”にて完全なる
ことを知り、信仰的にそれを信ずるとも、神想観を修しなければ、その実相の完全さが
実現しないことがある。

道元禅師はこれを「証上の修」と説いた。
悟った上での修行であって、修行して悟ろうとするのではない。
悟ったればこそ修行せざるにはいられないのである。

真宗でも、どうしないでも救ってくださっている阿弥陀仏の慈悲を感ずるがゆえに、
南無阿弥陀仏と称えずにはいられないのである。
やはり証上の修である。

      <感謝合掌 平成24年8月8日 頓首再拝>

自己を通して、神の無限性が顕現することを信ぜよ (248)
日時:2012年08月09日 (木) 07時29分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月9日>(P45)より

もし、自分が利益を獲得することが利己的目的でないならば、
もし自分が利益を獲得することが一切衆生を利益する目的に適うならば、
もし自分が利益を獲得することが他の人に光を与える手段を供しうるならば、

その利益の獲得を神に求めてもさしつかえないのである。
神は必ずその利益を与え給うに相違ないのである。

金銭、財貨そのものは浄でもなければ不浄でもない。
それを一切衆生を扱うために集めるならば多々ますます集めることも善である。

神の無限供給を得るにはまず神の無限性を信じなければならぬ。
われわれに宿る神が、常にわれわれを導き給うと信じなければならぬ。
われわれが神にいかほど求めても、求めすぎるということはないのである。

神は太平洋を自己の箱庭の池として造り、富士山をその築山とし、
ナイヤガラ瀑布を盆景の滝としたまうほど豊富な神である。

神はけっしてケチな神ではないのである。
神はけっして、空気を人間が吸ったら、ちょうど一バイで少しも余りがないように、
ギリギリ一パイに製造し給うたごときケチな存在ではないのである。

空気のみならず、日光でも、地下水でも、植物でも、海水でも、
使っても使っても無限に余るほどに製造し給うているのである。

だから神に求めすぎるということはけっしてないのである。
むしろ、われわれは神に求めることがあまりにも少なすぎるということをこそ
かえって恥ずるがよいのである。

われわれは、何よりも、わが業(わざ)はわが為(な)すにあらず、
われに宿り給う神が為し給うのだと信じなければならぬ。

この大信念が切々たる実感として溢れてくるまで、幾度(いくたび)でも繰り返し、
「わが業(わざ)はわが為(な)すにあらず、われに宿り給う天の父これを為し給う」
ということを念ぜよ。

しかして神に依り頼れ。
希望を持て。
心を平静に持て。

神の愛を信ぜよ。
無限性を信ぜよ。

神がその聖なるみ業(わざ)を自己を通して為し給うのだと信じて、
それを繰り返し念じて、自己の心を一変せよ。

      <感謝合掌 平成24年8月9日 頓首再拝>

「道は邇(ちか)きにあり」 (284)
日時:2012年08月10日 (金) 04時59分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月10日>(P47)より

世界を天国にする最も迅速な方法は、自分の最も手近な務めを、
熱心に喜んで十分尽くすことである。
自分に手近にある事物が、自分にとって神より与えられたる事物なのである。

食物も自分の手近に生産されるものが一等自分を活かしてくれるのである。
その日、その時、自分の食膳に上ったものが自分にとって最も消化しやすい栄養であるのである。
手近にあるものを感謝して受けるのが素直な生活であり、聖者の生活である。

古人も「道は邇(ちか)きにあり」と言った。
神の国も邇(ちか)くにあり、天国浄土も邇(ちか)くにある。
邇(ちか)くを忽諸(ゆるがせ)にするものはついに天国に到ることができないのである。

「道」は ――小なりといえども「道」に背かずんば、それは偉大なる生活であり、
大規模の生活なりとも、「道」にそむけば、矮小なる生活である。

何か歴史的な英雄じみたことをしなければ生き甲斐が感じられないのは、
野心の生活であり、真理の生活ではないのである。

真理は平凡であり、太陽は毎朝東から差しのぼってなんの変哲もないがゆえに偉大なのである。

      <感謝合掌 平成24年8月10日 頓首再拝>

排斥する心は毛虫のような心 (327)
日時:2012年08月11日 (土) 07時14分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月11日>(P47)より

人間たちが互いに憎み合い、互いに悪口を言い合うのがわたしには不思議でたまらないのである。
憎みや悪口の中には地獄があり、愛と讃め言葉の中には天国浄土があるということを
知っていながら、それらの人々は憎み、かつ悪口を言い合っているのである。

互いに排斥し合う者は「生長の家」の誌友ではないのである。
いわんや「生長の家」の講師ではない。
それは地獄の役員であり、閻魔の庁の衛丁(えいてい)ぐらいのところだろう。

「生長の家」のためにならないからといって、ある人を排斥するのはまちがっている。
「生長の家」はそんな小さなものではない。
生長の家のためにならない人間などは世の中にないのである。

毛虫でさえも世の中に何か貢献している。
いわんや毛虫に幾億倍優っている人間においておやである。
ある人間を毛虫のように思って排斥する人は、その排斥する方の人自身が毛虫のような
心をもっているのである。

毛虫が人に嫌われるのは、自分を衛(まも)るために人の不快がる装いをして
平気なことである。自分を衛るために、人の迷惑になる悪口を言う人は毛虫の心である。

      <感謝合掌 平成24年8月11日 頓首再拝>

「心」が万事に先行する (357)
日時:2012年08月12日 (日) 06時52分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月12日>(P49)より

列車に乗ってその列車が転覆したからといって、その列車に乗せた駅員が悪いのではない。
転覆するような列車に乗るのは、乗ったその人自身にその列車に乗るようになっている
「心」があったからである。

「心」が万事に先行するとういうことを知る人は不幸に逢っても、他を憎んだり恨んだり
するものではない。自分の「心」がそれを造ったということを知っているからだ。

列車に乗って不慮の災難に逢うことも、人の口車に乗って不幸に陥ったり物事が失敗に終わる
ということも、「乗る」のは、自分がその乗物に引きつけられて乗ったのだから、自分自身の
「心」の中に原因があるのである。

他(ひと)が「悪い、悪い」と思っている人は、要するに責任を他(た)に転嫁する卑怯者の
ことである。

人間は強くなるにしたがって、いっさいの原因を自分自身に帰するようになる。
そして聖者と言われるほどの人になると、衆生の一人でもまだ苦しんでいる者があると
自分自身の責任だと感ずるものである。

世界のすべての人類が「光明思想」を知らず、また知っても十分実践せず、
不幸に沈淪(ちんりん)している者があるのは、わたしの宣伝が足りないからなのである。
皆わたしの罪なのである。

      <感謝合掌 平成24年8月12日 頓首再拝>

運命は、磁石に喩えられる (390)
日時:2012年08月14日 (火) 04時04分
名前:伝統

(最終的な復旧前ですが、昨日投稿し、現時点で未復旧の分の再投稿です・・・
日時:2012年08月13日 (月) 07時41分)


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月13日>(P50)より

一つの結婚に破れて、「惜しいことをした。あそこまで進んでいたのに。
あの人が要らぬ口添えをしたからだ」などと後悔する者は愚かなる者である。

成らない結婚は、それは成らないことによってそれは良かったのである。
だれかの少しの口添えくらいで破壊するような結婚は砂の上に建てられた家のようなもので、
結婚してからも少しの風波に揺られると破壊したかもしれないのである。

結婚してから、夫婦関係を破壊するのは遅すぎる。
破壊するなら婚前のちょっとした問題で破壊したが良かったのである。

物の成ると成らざるとは、「誰かがどう言った」などのことに原因があるのではない。
不思議なその人おのおのの「心」の中にある運命が招(よ)び寄せる力が、
ある運命を反発し、ある運命を磁石のように吸い寄せるのである。

      <感謝合掌 平成24年8月13日 頓首再拝>

心の王国を征服する (397)
日時:2012年08月14日 (火) 08時02分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月14日>(P51)より

世界を征服することは偉大であるが、まず自分の心の王国を征服することはいっそう偉大である。
ます自分の心の王国を征服し、自分の心に真理を実現すれば、
一家に平和は来たり、一家に平和来たれば近隣相和す。

近隣相和せば、一町一村に平和来たり、一町一村に平和来たれば、一群一県に真理来たる。
一群一県に真理来たれば、国家はじめて正法に立脚し、国家正法に立脚すれば四隣の国
おのずから相和し、四隣の国おのずから相和せば、もって世界の平和を招くに足るのである。

      <感謝合掌 平成24年8月14日 頓首再拝>

誌友の方からの手紙 (427)
日時:2012年08月15日 (水) 04時30分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月15日>(P51)より

ある人からこんな手紙が来た ――

私信でまことに恐れ入ります。
昨夜古い雑誌を見ていましたら、『制作』8月号の三上秀吉氏「雲仙」がみつかりました。
「雲仙」を顕微鏡で眺めたような、細かい描写でございます。

今春、先生には「雲仙」にいらっしゃいましたので、これをお読みくださればいくらか
ご興味がおありではないだろうかと考えまして、お贈り申し上げます。

登山記であると童子に創作であり、宗教的求道記でもあり、好個の短編だと考えます。
(わたしの尺度では)それで、お手すきの時お気楽に読んでいただければ大変ありがとう
ございます。

三上秀吉氏は志賀直哉の高弟で、今年44、5歳の年配の人でございます。
わたしは文学の上で兄事しています。わたしが『生命の實相』を読まない時、加藤さんで
苦しんでいる時、三上氏がいろいろ仏教哲学の手ほどきをしてくれました。

わたしが、『生命の實相』に吸いつけられたのは、
三上氏からいろいろ指導されていたからであります。

しかし、昨夜、この「雲仙」を読み返してみまして、三上氏は現象の奥に本体「無明」を
追求しているところに、三上氏の知性の混濁を発見しました。
以前は、三上氏の説に眩惑されていましたけれど・・・。

先生のご指導によりまして、現象の奥に澄みきった実相を拝ましていただくようになった
自分をしみじみ幸福に感じました。また、在来の仏教的詩感の消極性が自分の感覚(文学上)
にあわなくなったことを感じ、生長の家の教えにづれてわずか1年に足りませんが、
自分の変わり方に自分ながらびっくりいたしました。

しかし、三上氏は、非常に叡智の高い人で、日常の生活も隙のない、律(りつ)の正しい人
でございます。朝夕、『般若心経』を読んで座禅をやっています。

昨年7月わたしが『生命の實相』を感謝している時、三上氏は、ぺらぺらとページをめくって
みて、「これは通俗仏教じゃないか」と言いました。それから昨年10月、わたしが生長の家
を礼讃しますと、三上氏は「僕たちはパリサイ人だ」と謙虚な意味で言いました。

それから私が今年の2月生長の家に入る時、「肉体的ハンディキャップのついている君は、
生長の家の信仰によって、それを超越していることを実証してくれ」と、実に美しい言葉で
激励してくれました。

それから本年4月には、「やはり谷口先生のような人に、現下の日本を救う大宗教を樹立して
もらいたい」と言い、また二十日ばかり前には、「僕は正直のところ宗教的には確固たる信念
がないのだ。谷口先生のような方に、僕は駆引ないところを言ってもらいたい(喝の意)のだ」
と言っていました。

こうして、わたしは自分の身辺の人が生長の家を徐々に正しく認識し、かつ鑽仰してくれる
ことを嬉しく思います。

しかし、実際生活において、三上氏は非常に清潔で健康で、
いろいろな点でわたしは教えられます。

いろいろつまらないことを申し上げましたが、「雲仙」が何かご興味がございましたらと
思いまして・・・・敬具

      <感謝合掌 平成24年8月15日 頓首再拝>

精神身体医学知識の活用 (456)
日時:2012年08月16日 (木) 19時46分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月16日>(P54)より

米国ウィスコンシン州モンロー衛生病院長ジョン・A・シンドラー博士は、米国にて医者通いを
している病人の50%以上は精神が身体に及ぼした疾患(Psychosomatic illness)――
であるということを最近発表しているのである。

さらに同博士はニュー・オルレアンのオシュネル衛生病院の患者500名について調査した
ところによるとそのうち、386名の病気は精神状態――特に心配、難問題、いろいろの
精神的争いなどが因(もと)になって起っていたということを強調しているのである。

実にこのパーセンテージは77%に上るのである。

この問題はけっして、一、ニの精神治療家の言説のみを根拠とするのではなくして
主(おも)なる米国の医学者、精神分析学者、心理学者は口を揃えて、取越し苦労、
問題の未解決による煩悶、家庭の不和、事業の失敗、経済的煩労、

過去に犯したる罪の暴露の恐怖、良心の呵責、劣等感、人に秘密にしているある悩み、・・・
等々、無数の精神的原因が肉体の病気となって現われるということに同意しているのである。

たまたま、物質的治療にのみ頼る医者がそのような学説に反対論をとなえることがあるのは、
精神に原因があるとして治療されれば、物質的治療を放棄する者があり、そのために治療の
時期を過ったり、また時に医師にかかる者が少なくなったりする惧れがあるからである。

しかし医学的物質治療は精神的治療と両立しないものではないのである。
精神方面の治療は原因に対する治療であり、物質方面の治療は結果に対する治療である。

黴菌等を原因とする病気も、黴菌に侵害されるような精神状態がさらに原因になっている。
むしろ物質治療を行なう医者が、精神方面の原因についても理解を持ち、精神的原因をも
除去しつつ、病状(結果)の消滅のために物質的治療を施すようになるならば、
患者は非医者に頼って医者からのがれてゆくようなことはなくなるのである。

現代の医者にとって必要なのは新薬の試験的乱用ではなく、
もっと精神身体医学的な知識を獲得してそれを患者に応用することである。

日本教文社から出たメニンジャー博士の『おのれに背くもの』や『愛憎』などの本は
この方面の好参考書である。

      <感謝合掌 平成24年8月16日 頓首再拝>

価値に理屈はない (473)
日時:2012年08月17日 (金) 04時47分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月17日>(P55)より

家庭光明寮は婚前の**に花嫁としてのあらゆる資格を与えるために訓練する学校であるが、
ある時、その中に一度結婚して、姑との折合いが悪くてついに離婚になった美しい娘が、
もう一度花嫁としての修行をするため寮生の中に混じっていた。

彼女は目立って美しかったが、目立って知的ですましこんでいるので、他の寮生とが全然
異なる雰囲気を持っていた。

なぜこの美しい知的な娘が結婚生活において今まで不幸であったのだろうか。それは彼女自身が
間もなく「他の寮生たちが何でも無邪気に、箸の転んだのにまでも愉快そうに笑うのが低級に
見えて皆さんと合わない」と申し出たことによってハッキリわかったことであった。

彼女は何事にも素直にそのまま美しいと無邪気に受け容れる性質を持っていなかったので
あったのである。

素直に笑う事ができないものは「笑う門に福運来たる」の法則にすでに背いているのである。
その上、まだ素直に笑っている少女たちを低級だとか何だとか非難しているのである。

彼女の眼から見るならば、素直に食卓に談笑している舅姑たちも低級に見えたのであろう。
それならば彼女が舅姑から排斥されて離縁になったのも無理はない。
だれでも低級だと見られて喜んで、その批評者を迎えるものはないからである。

しかし、なぜ、無邪気に笑っている少女たちが低級なのであろうか。
そう感じられるなんじの心がかえって低級なのである。

無邪気に笑う樹草の花が人間に愛でられるのは、無邪気に生命が笑っている――
そのこと自身がすでに価値があるからである。人間も同じことである。

価値に「なぜ?」という理窟づけをしたときに、
その人はもう知恵の樹の実を食べたイブになったのである。
そして彼女は永遠にエデンの楽園から追い出されねばならないのである。
彼女が離縁になったのも無理はない。

価値は、理窟なしに価値なのである。

      <感謝合掌 平成24年8月17日 頓首再拝>

いっさいをそのまま受ける (529)
日時:2012年08月18日 (土) 05時02分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月18日>(P57)より

与えられたるいっさいをそのまま受けるところに幸福は来るのである。

ある会社の重役が涜職(とくしょく)の嫌疑によって某刑務所の未決監に投獄せられたときに、
彼はひと晩ぐっすり寝入って翌朝洗面して向こうにある鏡に映る自分の顔を見たときに驚いた。

それは彼の眼が幼い児童の眼のように実に澄みきった美しい眼であったということである。

五十歳を過ぎている彼は、もう五十歳を過ぎたら、眼の白い部分は老衰の結果どんより
曇ってしまって、永久に幼児(おさなご)のように澄みきった美しい眼にはなれないものだと
思っていたのである。

ところが、実に彼の眼の複雑な濁りは、彼の複雑な浮世の問題に悩んでいる
心の具象化にすぎないのであった。

今、彼は刑務所に投獄された。
浮世の問題について何を思い煩っても、手の届かない世界の事であったから、
彼は何ひとつ思い煩わないで、与えられた未決監の生活をそのまま素直に受けたのだった。

監獄はそんな彼にとって苦しいところではなかった。
その世界は狡猾な策略も商戦も何も複雑な思い煩いの要らぬ世界であった。

彼は与えられた生活をそのまま素直に受け取って、まるで幼児のような心境になったのだ。
その心境が一夜のうちに具象化して彼は澄みきった瞳の色になっていたのだった。

監獄の生活でさえそのまま素直に受けるときそこに天国があるのだ。
もしこの重役がこの未決監から逃げ出そうと思っていろいろ焦っていたならば、
この澄みきった美しい眼にはなれなかったに相違ない。

―― こうわたしはその重役の話を聞いたとき教えられたのであった。

      <感謝合掌 平成24年8月18日 頓首再拝>

神様の無限供給をいただく方法 (565)
日時:2012年08月19日 (日) 04時26分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月19日>(P57)より

赤ん坊が母親の乳房をいただく方法はすこぶる簡単である。
母親の膝に縋って行き、まことにも信頼した心境で、
両手を持ってその懐を開くのである。

人間がもし神の子であれば、
その神の子が神様の無限供給をいただく方法はすこぶる簡単である。
それは神の膝の上にかき上がって、まことにも信頼した状態で、
両手でその懐を開けばよい。

信頼せぬ者、両手で開かぬ者、信じない者、働かない者は
与えられないのはしかたがない。

      <感謝合掌 平成24年8月19日 頓首再拝>

内なる神に、信じて求めよ (610)
日時:2012年08月20日 (月) 07時29分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月20日>(P59)より

求めよ。ただし、信じて求めよ。さらば必ず与えられん。
飢え渇くごとく求める者はついに生命(いのち)の泉を見出すであろう。

しかし、どこへ向かって求むべきであるか。
多くの先人は求むる方向が間違っていたために失敗したのである。
彼等は「神」に求むることを忘れて、人に求めたのである。

あるいは、彼らは「神」に求めることは求めたのであるが、
その神なるものは木像であったり、金仏であったり、石像であったり、時とすると
声の届かない遠方にいたりして、こちらが求めていても聞こえなかったりしたのである。

そこでわれらは、そんな遠くにいまさない、実に自分の手近なところにいまして、
常にわれわれの求めを聞いてくださる「内在の神」に求めることにすべきである。

宇宙普遍の神 ―― それは普遍であり給うがゆえに、わがうちにも宿り給うて、
わが欲求をことごとく諾(き)き給うのである。

      <感謝合掌 平成24年8月20日 頓首再拝>

調和の念と黴菌  (642)
日時:2012年08月21日 (火) 04時56分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月21日>(P59)より

同一種類の黴菌もその寄生する人間にしたがって毒性を現わすことも、毒性を現わさないことも
ある。

「ロムリンゲルとシュナイデルは健康人の腹中にチフス菌を発見した。ジフテリア菌あるいは
そのごく近い変種が健康児の咽喉(のど)にいることがある」とルネ・アランデイ博士は
言っている。

かつて某所の衛生課で調べたところによるといって某新聞に出ていたが、赤痢菌と称して
同一種に取り扱われている菌は、十数年前赤痢菌として取り扱われた菌とは形状までも
全然相違しているとのことである。

黴菌も性質が変わり、形状も変わること、猛獣も飼育すれば性質も形態も変化するのと
同じである。

長井折三博士は「医師はすべからく伝染病の伝染する理由を研究するとともに、
伝染病非伝染の理由も研究せざるばからず」と言っている。

大阪外語の教授山本健太郎氏が上海戦に参加したとき、支那軍が細菌戦術をとって飲料水に
細菌を投じたために、味方の軍勢中あびただしい赤痢菌患者やコレラ患者ができた中に、
悠々恐怖なく戦友を看護しつつ善戦したが、

出征の際、気の毒なほど痩せていた山本先生、戦地においてかえって肥満し、
いっこう赤痢にもコレラにも罹らなかったという。

山本教授は『生命の實相』の巻頭の教えに従って、戦場にいてさえも「天地一切のものとの
調和」を念じ、心に病を思わず、全然恐怖を超越していたということである。

伝染病が伝染しなかった原因は同教授の調和の念と、無恐怖の念と、心に病を思わざる
平和の心境にあったにちがいない。

人によっては、黴菌はその人に病気を起こさないでいながら、その人の中に調和して
住んでいることもできるのである。また病菌は徐々にまたは急速にその人の体内から退却して、
別の調和した世界へと移行を開始するものである。

      <感謝合掌 平成24年8月21日 頓首再拝>

症状は生命の活動、症状に感謝せよ! (673)
日時:2012年08月22日 (水) 04時37分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月22日>(P61)より

症状が生命の活動であって死の活動でないのは、死んだら症状が無くなるので明らかである。
発熱や喀血や下痢や咳嗽(せき)を病気の活動だと思うのは明らかに錯覚である。

いわゆるわれわれが「病気」だと思っているこれらのごとき症状は、生活環境に抵抗または
対応せんとする内部生命の活動の顕われであって、「病気」そのものではないのである。

されば賢者は症状に感謝し、発熱や喀血や下痢や咳嗽が起こるごとに、内部生命の、
かほどまでにして自分を生かそうとしている努力に感謝するのである。

      <感謝合掌 平成24年8月22日 頓首再拝>

伸びるしかない (694)
日時:2012年08月23日 (木) 07時15分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月23日>(P61)より

不満足さえも、またまことにありがたいことではある。
不満足があるので、われわれは信仰に志し、真理に到達し、救われることができたのである。

不満足に対してさえもわれらが感謝するとき、どこに真の「不満足」があるか、
「不満足」と見えたのは「満足」の偽装であり仮面にすぎない。

陰極陽転の理は昭々として明らかである。
資源不足して人造の代用品いたるところに満ち、人知の進歩かえって増大する。
不足は増大の本である。

窮せずんば伸び、窮すればさらに伸びる。
人はまことに伸びるしか知らぬ偉大なる存在である。

      <感謝合掌 平成24年8月23日 頓首再拝>

任運無作、法爾自然 (725)
日時:2012年08月24日 (金) 07時13分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月24日>(P62)より

ひたすら道を求むるために釈迦時代の弟子は親を捨て、妻を捨て、子を捨てて出家したのである。
「汝の父母、妻子、姉妹(きょうだい)に反(そむ)くものに非ずんば吾が弟子となることを
得ず」(ルカ伝14の26)とキリストは言った。いずれも大した覚悟である。

大事の前にはいっさいを捨てねばならぬ。
捨てることさえも捨て去って、去来するものをそのまま素直に受けるとき、
去るべきものは去り、来るべきものは来たりて、ただ自分はありがたく受けるのである。

任運無作、法爾(ほうさながら)自然(じねん)、いのちさながら、それが法悦の境地である。

冬のうちに春は準備されている。
くわしく言えば「春」は「冬」のうちにあるのである。

平和は戦いのうちにあり、幸福は不幸と見えるもののうちにある。

法さながら受ける者には「冬」のうちに「春」のあることが分かり、
幸福は不幸と見えるもののうちにある。

法さながら受ける者には「冬」のうちに「春」のあることが分かり、
戦いのうちに「寂光土」があることがわかるのであるが、
現象に捉えられて、焦る者には、ただ心の描く地獄が見えるばかりである。

      <感謝合掌 平成24年8月24日 頓首再拝>

法爾(ほうさながら)の境地 (747)
日時:2012年08月25日 (土) 04時53分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月25日>(P63)より

執着の愛は憎悪と裏表である。

憎み、嫉(ねた)み、憤(いか)り、苛立ち、惜しみ、悲しみ、嘆きは
すべて病気の因(もと)である。

法爾(ほうさながら)になる時病気が治るのは、
法爾(ほうさながら)の境地は執着を断った境地であるからである。

天理教で、「病気が治りたいなら、すべてのものを神様にあげてしまえ」と言うのも、
法爾(ほうさながら)の心境にならせるためであって、
必ずしも搾取の手段ではないのである。

搾取は教会の制度から来るのであって、教祖の教えから来るのではないのである。

      <感謝合掌 平成24年8月25日 頓首再拝>

他を羨むな! 自己の内に宿る価値を掘れ! (772)
日時:2012年08月26日 (日) 07時59分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月26日>(P64)より

もてるものを見て羨むな。
羨むとは心病(うらや)むことであり、心が病むことである。
すでに心病(こころや)めば身の病の現われるのは当然である。

他(ひと)のもてる”もの”を見るから、心”もの”に執着し、
執着するがゆえに粘着し、捉えられ、縛られて心が苦しむのである。

他(ひと)のもてるを見るときには、ものを見ず心を見よ。
いかなる心が、その道を引き寄せたか。

二十五年前(ぜん)無一物のフォードがその二十年後(ご)には自動車王して
億万の富を引き寄せた心境を知るがよい。
そして、その同じ「心」が自分の内にも宿っているものであることを自覚せよ。

羨むなとは諦めよということではない。自分が貧弱なままで諦めておれということではない。
自分の内に彼と同じところの立派な価値が宿っているということを信じて
勇猛果敢にそれを掘削せよということである。

あなたの内に、”すでに”すべてが宿っているものを、
隣の井戸水の豊富を羨んでいる暇に、自己の地面に井戸を掘ればよいのである。

掘れば掘るほど滾々(こんこん)と生命(いのち)の清水が湧き出てくるのである。

      <感謝合掌 平成24年8月26日 頓首再拝>

愛憎を離れた平等の本心 (785)
日時:2012年08月27日 (月) 07時31分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月27日>(P64)より

愛するも憎むも心であるが、それは本心ではない。
愛憎の心は妄心である。
妄心とは本来”ない”心である。

本心は愛憎を離れた心である。平等の心である。
愛憎を離れた平等の本心のみ、よく自己の心中の敵を殺し、
自己の内なる敵を殺す者よく自己の外に敵手を必殺する。

無敵流の兵法の極意はここにある。

      <感謝合掌 平成24年8月27日 頓首再拝>

精神分析で止まるな! 感謝にまで誘え! (796)
日時:2012年08月28日 (火) 04時26分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月28日>(P65)より

若い娘さんがお嫁に行って、その家庭がおもしろからぬ場合に、なんとかしてその婚家先から
逃げ出そうという思いを起こすと、病気になったりすることがある。病気になったら実家に
帰れると思うと潜在意識がその目的を達成させるために肉体を病気にならせるのである。

嫁が、そういうふうに逃げ出そうと思っているかぎりは本当の真心を尽すことができないから、
舅、姑から見ても百パーセントその嫁が真心を尽しているというように見えないから、
舅姑の方でも不満足である。そこでどうしても嫁に対して冷たく当たるということになる。

そして嫁と岳父母(しゅうとたち)との間に仕切りができたようになる。
けれども逃げ出すことができない。逃げ出すことができないのを逃げ出すために病気にでも
なるほかしかたがない。そこで潜在意識が病気をつくるのである。

夫婦間の仲がわるいために病気になれば、胸の病気か、泌尿器生殖器の病気となって現われる。
岳父母(しゅうとたち)を憎んだり、自分をこんな家へ嫁がせたのは父母が悪いと、父母を
恨んだりすると脊椎カリエスになったり、頭の病気になったりする。

こうしてその人を精神分析しただけでは病気は治らない。
本人を説得して、本人の不平や憎みを捨てさせねばならぬ。

「ここがわたしの家である。どんな苦しみであろうがどんな悪いところであろうがわたしの家である。
わたしが受けてそれを改善してゆくしか道がないのである」そう思って、受くべきものを
受けてしまう心境にならせたときに、そしてそれを感謝の念に変えしめた時に苦しみというものが
消えてしまうのである。

これが和解の真理の応用である。和解の真理というものは、都合のいいことだけに和解している
のじゃ足りないのであって、悪く見えるものをそのまま素直に受けて拝む。

痛み来たれば痛みに礼(らい)し、熱来たれば熱に礼し、下痢来たれば下痢に礼し、
いかなる症状をも敵と思わず、自然療能の催しなりとして感謝して受けるのである。
―― この心境に導くとき、病が消える。カリエスが消え、癌が消える。

精神分析は、分析の仕荒(しあ)らしだけではいかぬのである。
最後は「天地一切のものに和解し、感謝せよ」という宗教的心境にまで
誘導することが必要なのである。

神経性心悸亢進症などは心臓の動悸を恐怖していたのを、一転して「心臓が動悸しているので
血が循(めぐ)っているのである。ありがとうございます」と感謝の言葉を唱えさせるだけで、
治ってしまった実例がある。

以前樺太の敷香(しすか)町の巡査をしていた星平治という人のごときは札幌医大で両腎臓が結核
に冒されているから治療の道なしと宣言せられたのを、

腎臓の疼痛ごとに「自然療能博士が治してくださる信号だ。ありがとうございます」とその疼痛に
感謝し妻に和解するように指導しただけで治ってしまい、戦争中召集されて満州へ3年も従軍して
いてなんら病気が再発しなかったと報告せられた実例もある。

腎臓の病気も夫婦の心的葛藤から来るのであるから、それを調和させたとき治った実例は多い。

      <感謝合掌 平成24年8月28日 頓首再拝>

本当の「南無阿弥陀仏」称名の意義 (840)
日時:2012年08月29日 (水) 06時55分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月29日>(P67)より

「吾れに対(むか)いて主よ主よと言う者必ずしも天国に入るにあらず」とイエスは言った。
蓄音機のレコードのように「南無阿弥陀仏」と機械的に称えるだけでは救われぬ。
阿弥陀仏に南無(帰命)しなければならぬのである。

「阿弥陀様、阿弥陀様、阿弥陀仏様、あなたの無量寿とわたしの”いのち”とは一体です。
わたしはあなたの無量寿の”いのち”の中に融け込んでいるのです。今本当に融け込んでいる
のです! だからわたしのいのちも無量寿なのです! 」という意味が本当に「南無阿弥陀仏」の
称名の意義である。

心に深き意味の伴わない念仏は、唇念仏であり、蓄音機念仏であり、
唇だけが、蓄音機だけが極楽浄土へ行くであろう。

      <感謝合掌 平成24年8月29日 頓首再拝>

明瞭に語られたる言葉は、実現力が強い (865)
日時:2012年08月30日 (木) 08時03分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月30日>(P68)より

明瞭に語られたる言葉は、曖昧に念ぜられたる言葉よりも実現力は強いのである。
合掌瞑目神想観の形式をとり、自分の耳に聞こえるほどの声をもって、
次のごとく誦(とな)えることは自己内在の無限の力が自覚する上に効果がある。

「神はすべてのものを我に与え給えり、ありがとうございます。(十回)
神は無限の智慧を我に与え給えり、ありがとうございます。(十回)
神は無限の愛を我に与え給えり、ありがとうございます。(十回)
神は無限の生命(いのち)を我に与え給えり、ありがとうございます。(十回)」

十回には限らないのであるが、あまり永いのも長時間かかるし、短くても感銘が浅くなる。
十回と限定したのはそのためである。

敬虔の念を起こすために合掌の形式をとっているから、1回称えれば、右手の拇指に軽く力を
入れ相対する拇指を押し、2回称えれば右手の人差指に軽く力を入れて相対する指を押し、
順次に中指、紅指指、小指と移り、さらに左手の拇指より始めて左手の小指に至りて、
終われば合掌のまま、数のことを考えて意識を複雑にすることなしに十回称え終わるのである。

「ありがとうございます」と称える時は、すでにそれを受けたる感激に浸りつつ
本当にありがたい気持を起こすのである。

言葉は単なる思想以上の感情を招(よ)び起こし、
感情は単なる思想以上の動的創化力となるのである。

      <感謝合掌 平成24年8月30日 頓首再拝>

「徳」とは「直心を彳(おこ)なう」こと (891)
日時:2012年08月31日 (金) 07時17分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月31日>(P68)より

「徳」とは何であるか。
その文字の組立てによれば「直心(じきん)を彳(おこ)なう」ことである。

直心とは素直な心である。
そのまま素直にありがたく受けて、与えられたる条件において
与えられたる使命を彳(おこ)なうことが「徳」である。

不幸は一方で一つの形を押し込んで隠せば他の形で他方に顕われる。

そのまま素直に受けきったとき光明化するのである。

      <感謝合掌 平成24年8月31日 頓首再拝>



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