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大聖師 谷口雅春先生御著 『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《無病常楽の神示》 《完》 (3056)
日時:2012年10月31日 (水) 20時53分
名前:コスモス

                  

                   無病常楽の神示




  病んでいると云う病は本来ない、苦しんでいると云う苦しみは本来ない。『これだけ自分は苦しんでいる』と、その苦しみを自慢するような心は、却って病気を招く心である。キリストの受難に倣って自分も亦苦しもうなどと云う心も愚かな心である。

  キリストは神性であるから未だ嘗つて一度も受難はない。十字架も受難ではなく受苦ではなく法楽である。神の子には『難』の受けようがなく、『苦』の受けようがなく、任運無作、法爾自然、水の流るるが如く、すべてが惟神(かむながら)の法楽である。

  斯くの如く悟るとき苦しみを自慢にする心も苦しみを厭う心もおのずから消え去ってしまい、苦もなく、艱難もなく、苦楽を超越した本当の楽想を生じ、吾れが一変し、天地が一変し、人生はただ歓びの讃歌に満たされるのである。

  実相は苦楽を超越する法楽であって、実相をもって苦もなく楽もないと云うのは謬見である。汝らが『楽』と称する『楽』は本当の『楽』ではないから、『楽』を求むれば必ず苦を生ずるのである。

  五官のうちに、感覚の惑わしのうちに『楽』があるとするのは謬見である。五官の『楽しみ』はその本性決して『楽』にあらざるが故に『苦』に変ずるのである。

  実相はかくの如き仮相の苦楽を超越すれども、真相の『楽』そのものである。法悦そのものであり"法楽"そのものである。

  その『楽そのもの』が『常住の我』であって、これが『神の子』である。『神の子』が『人間そのもの』であって、その外に『人間』はない。

  人間とは常楽を言い、無病を言い、不苦を言い、不悩を言い、不壊を言う。肉体は『人間』ではない。人間の心の痕跡であり、足跡である。破懐すべきものは人間ではない。汝らよ、汝ら自身の不苦不悩無病の実相を見よ。

        (昭和七年十一月十日神示)


           (つづく)


      平成二十四年十月三十一日謹写 感謝合掌 


大聖師 谷口雅春先生御著 『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《無病常楽の神示》 ① (3107)
日時:2012年11月02日 (金) 13時59分
名前:コスモス



  「病んでいると云う病は本来ない、苦しんでいると云う苦しみは本来ない。『これだけ自分は苦しんでいる』と、その苦しみを自慢するような心は、却って病気を招く心である。キリストの受難に倣って自分も亦苦しもうなどと云う心も愚かな心である。

  キリストは神性であるから未だ嘗つて一度も受難はない。十字架も受難ではなく受苦ではなく法楽である。神の子には『難』の受けようがなく、『苦』の受けようがなく、任運無作、法爾自然、水の流るるが如く、すべてが惟神(かむながら)の法楽である。」


 「任運」というのは運に任せて、「無作」というのは計らいがないということ、"そのままの心"でいるということです。

 「法爾」というのは」、法そのままです。法そのままの動きにまかせるのです。「法」とは真理であります。

 真理の内部的催しのそのままに自然に動き出して、丁度、水が高いところから低いところへ流れるようなものであって、すべてに無理がないのであるということであります。

 すべてに無理がないから、其処には楽があるばかりであります。その楽は人間が工(たく)んでする人工的な楽ではないから、「すべてが惟神の法楽である」と示されているのであります。

 「惟神」というのは」、"かみながれ"ということであります。「神催し」と言ってもよいのでありますが、神様の"おはからい"から自然にもよおす流れの儘(まま)に生き、動き、生活して行くことであります。

そこに真理の喜びというものが湧いて来るのであり、これが法楽であります。日本では「神(かん)ながら」という場合に「惟神(ただかみ)」と書いて「かんながら」と読む習慣(ならわし)になっているのは、神のみが実在であり、そのほかのものは妄想だということを何となく知っていたと思われます。


              (つづく)


     平成二十四年十一月二日謹写 感謝合掌 



大聖師 谷口雅春先生御著 『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《無病常楽の神示》 ② (3118)
日時:2012年11月02日 (金) 16時54分
名前:コスモス




  「斯くの如く悟るとき苦しみを自慢にする心も苦しみを厭う心もおのずから消え去ってしまい、苦もなく、艱難もなく、苦楽を超越した本当の楽想を生じ、吾れが一変し、天地が一変し、人生はただ歓びの讃歌に満たされるのである。

  実相は苦楽を超越する法楽であって、実相をもって苦もなく楽もないと云うのは謬見である。」


 ここが大切ですね。「苦楽を超越した本当の法楽」でないと本物ではない。今迄「楽」と思って快楽を続けていると、それはやがて「苦」に変ってしまうのです。

 苦しみをさけて楽を得たいとか、肉体の快楽を得たいとかいうその「楽」では、それは相対的な「楽」でありますから、相対的条件の如何によって変化するのであります。

 肉体の五官のたのしみはそれを嘗めているうちに、その快楽が苦しみに変って来るのです。ご飯でも「うまいなあ」と思って食っていると、あんまり食べ過ぎると、お腹をこわして苦しみに変って来るのであります。

 "性"の快楽などもあまり貪ると心身困憊してノイローゼになってしまう。麻薬を吸引して恍惚となっていると、それが習慣になると大変な苦痛となる。

 そういう苦楽を超越したところの絶対的なものが「法楽」であるのであります。「自分」というものがある間は「自分」と「他」と、或いは「自分」と「神」とが対立している。

 対立は摩擦であるか、絶縁であるか、どちらかで、ピッタリ「一つ」になることが出来ない。先ず自分がなくなることが必要である。

 「自分」がなくなり、カラッポのパイプの中へ水が流れ入るように「神」を流れ入らしめたら、「吾れが一変し、天地が一変し、人生はただ歓びの讃歌に満たされるのである。

 実相は苦楽を超越する法楽であって、実相をもって苦もなく楽もないというのは謬見である」というような状態が自分自身の生きた体験として味わうことができるようになるのであります。


  「汝らが『楽』と称する『楽』は本当の『楽』ではないから、『楽』を求むれば必ず苦を生ずるのである。

  五官のうちに、感覚の惑わしのうちに『楽』があるとするのは謬見である。五官の『楽しみ』はその本性決して『楽』にあらざるが故に『苦』に変ずるのである。」


 楽をしたい楽をしたいと思っていると、益々苦しみになる。例えば覚醒剤を注射したら、苦しみがなくなると思って、注射すればするほど、覚醒剤中毒にかかって、苦しみは増えて来るし、酒を飲んだら、しばらくの憂さ晴らしができるかと思ったら、益々苦しみは増えて来る。

 財産でも殖やしたら、益々楽かと思って財産が殖えると、貧乏の親戚などが無暗に無心にやって来る。色々の団体から寄付金の強要に来る。強盗は来るし、税務署から呼び出しがあり、行かなければ、叱られた末、税金は取られるし、

 いろいろの"たかり"が集まって来て、厄介は益々殖え、それに対する処置に困る――ということになって、一向「楽」というものは出て来ないのであります。だから神様は「楽を求むれば必ず苦を生ずる」とお示しになっているのであります。


            (つづく)


    平成二十四年十一月二日謹写 感謝合掌 


大聖師 谷口雅春先生御著 『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《無病常楽の神示》 ③ (3157)
日時:2012年11月03日 (土) 11時11分
名前:コスモス



  「実相はかくの如き仮相の苦楽を超越すれども、真相の『楽』そのものである。法悦そのものであり"法楽"そのものである。

  その『楽そのもの』が『常住の我』であって、これが『神の子』である。『神の子』が『人間そのもの』であって、その外に『人間』はない。

  人間とは常楽を言い、無病を言い、不苦を言い、不悩を言い、不壊を言う。」



 実相というものは、相対の「楽」ではなくて、「絶対楽」であり、その「楽」そのものが「本当の人間」だと言うのであります。「本当の我」と「楽」とは一体てであるというので、爰には涅槃経の"常楽我浄"の大乗仏教思想と同じものがあらわれているのです。

 苦しんでいるのは「本当の我」ではないのであって、「本当の人間」とは常楽即ち常に楽しいのであります。「人間」とは本来無病のものなのです。「人間じゃもの、四百四病の病の容れ物だ」なんて言う人がありますが、決してそうじゃないのです。

 人間が病気をするんじゃなくて、人間の"抜け殻"が病気をするのです。本当の人間は「神の子」ですから、絶対に病気もしないし苦しみもしないのであります。

 だから神示には「人間とは常楽を言い、無病を言い、不苦を言い、不悩を言い、不壊を言う」とあるのであります。

 「不苦」即ち苦しまない、「不悩」即ち悩まない。「不壊」即ちくだけないところの、「常」であり、「楽」であるところの「真我」が「本当の自分」なのであります。常に無常で、うつり変るところの肉体は「人間」ではないのであります。だから、

  
   「肉体は『人間』ではない。人間の心の痕跡であり、足跡である。破懐すべきものは人間ではない。汝らよ、汝ら自身の不苦不悩無病の実相を見よ。」


 と示されているのであります。

 肉体の現在の状態は心の足跡でありますから、心がどこを歩むかということによって、肉体の健、不健の状態の現れようが変って来るのであります。

 肉体は人間じゃなくて「心の痕跡」であるとは巧みな形容であります。だから、病気が現れておっても、それは「人間」が病気をしているのではなくて、「心の足跡」がそんな姿にあらわれているのに過ぎないものですから、「病気は無い!」とはっきり言えるのであります。

 たとい肉体に病気があらわれて人から、「お前、偉そうに言ったって病気しとるじゃないか」と言われても、「いや、わしは病気しとらん。心の足跡が病気しとるんじゃ」と言うことになるのであります。


             (つづく)


      平成二十四年十一月三日謹写 感謝合掌 



大聖師 谷口雅春先生御著 『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《無病常楽の神示》 ④ (3161)
日時:2012年11月03日 (土) 12時05分
名前:コスモス


 森川政輝という人が、只今、小豆島の観海楼という旅館の料理場の主任になっているのですが、此の人は、只今、生長の家の教化支部長として、関西教区方面にいられる秋月暁君といっしょに、私が住吉に居った時分に生長の家本部にやって来られたのでした。

 そのころ京都の宇多野療養所におって二人とも肺病で、なかなか治らないで悲観しておられた。ところがたまたま『生命の實相』を読んで生長の家にやって来て、一ヶ月位私の家に通って、私の話をきいて、私と一緒に神想観をした。

 それで二人とも治って健康になったのですが、その治りつつある頃に森川政輝君は、あれは何とかいう紀州淡輪(たんなわ)にある淡輪ホームという療養所におられましたが、ある日、その療養所から私に手紙を寄こされたのでした。

 何と書いてあったかと言うと「私は、病気でねていながら、病気をしていない、"本当の自分"というものがあるということが分りました。」こういう手紙を寄こされたのであります。

 こうして肉体は病気をしていても「本当の自分」は病気をしていないということがわかったという悟りを手紙に書いて寄こすようになってから、病気が完全に治ってしまったのです。

 それからもう二十年にもなりますが、其の後諸方へ転々として行かれたらしいのですが、今では観海楼の料理場の主任をしていて、料理が美味しいというので評判がよい。

 どこで料理の仕方をおぼえたのか知らんけれども、観海楼に行くとあの人が僕に特別に念を入れて料理をしてくれる。旅館の板前の主任をやっているので、ただの料理の職人かと思ったら、ちゃんと立派なニ階建の自分の家を一軒建てて、裕福に暮らして、人間として成功しておられます。「こうなったのは先生のお陰です」と会ったときお礼を言っておられました。

 もう一人の秋月さんも生長の家で肺結核が治って」、一時大阪で生長の家の講師をしておられたが、その後、途中で信仰がふらふらになり、脱線しましたら、再び結核が再発したのかどうか知らぬが、顔色が黒っぽい紫色の所謂る悪液質みたいになり、痩せ細りまして、もう顔に死相があらわれたようになっていました。これは罰が当ったんじゃないのであります。

 生長の家の神様は罰を与えないけれども、自分自身で自己処罰して罰を与えるのです。それで一時瀕死の状態みたいになっておられましたが、今まで自分は間違っていた、生長の家で一ぺん生命が救われていながら、生長の家をはなれるなんて申し訳がなかったと気がついて、

 再び生長の家にもどって来られて、生長の家の講師として人を救う愛行をして、生涯を捧げようと決心されて、わが身の病気を忘れて、人を救うために真理を説いてあるかれたのです。

 あの人の話は面白いのでなかなか評判がよい。落語家の金五樓みたいな風格があり、人を笑わせながら真理を説くのが上手なのです。そうして愉快に楽しく心を明るくする真理を教えて歩いているうちに又、健康が回復してぶくぶく肥えて来られました。

 人間は「肉体」ではないのですから、霊であったら、普遍的の存在であり、自他一体でありますから、他を生かすようにしていれば、自分が生きて来るようになるのです。

 他を生かすことを止めて利己的になり、互いの恩愛を遮断するようになると、大生命の流れがそのまま現象化しないで病気があらわれます。

 
            (つづく)


     平成二十四年十一月三日謹写 感謝合掌 



大聖師 谷口雅春先生御著 『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻 《無病常楽の神示》 ⑤ (3164)
日時:2012年11月03日 (土) 12時54分
名前:コスモス


 「人間は神の子である」ということを本当に自覚したら、自然に他の人にも、その真理を伝えたくなるのです。他に伝えたくならないようだったら、「人間・神の子、自他一体」の真理を自覚していない証拠です。

 「報恩行に就いての神示」にありますように、吾々は、神様の真理を知らしてもらう機縁を与えて下さった橋架けになった人――真理と縁を結んでもらった人に対して、その恩というものを忘れてはならないのです。

 生長の家の誌友は生長の家という縁を通して、神様を知らしていただいたのでありますから、「もう真理を知ったから、私は神様と直通だ。もう生長の家など通さないでよい」などと恩を遮断すると、其の生命を断ち切る心の反映として、現象的に病気その他の不幸があらわれて来るのです。

 生長の家の教えは簡単ですから、もう知ったら止めようと思ったら、いつでも止められるけれども、知るという事と体得するという事とは違う。

 生長の家の真理の書物は非常に沢山ある。他のどの宗教にも無いくらいに沢山あるけれども、簡単に言えば縦の真理は"人間神の子"ということであり、横の真理は"環境も肉体も吾が心の影"ということで、縦と横との二つの真理で、それでおしまいだ。

 「それで分った。はい、さようなら。人間は神の子だから、自分は神の子で、神様は親だから『子』と『親』とこれから直通だ」という訳で、相愛会へも教化部へも道場へも往かぬ。そして「わしはわしで独立独歩の神様の子だ」と考える人もあるけれども、それはやっぱり間違っているいるのであります。

 それは人間というものが、神様とのみ直通していると考えて、神の子の相互関連による孤立した存在ではないというところの真理を忘れてしまっているのであります。

 人間は「全体」の中にいるところの「一人」であって、全体とのつながりに於いて生かされているのであるということが、神の子の自覚であるということを忘れてしまって、自分だけの力で神様と直通だ! というような考えを起しているから、そういう間違った考えを起すことになるのであります。

 臨済宗方廣寺派の菅長、足利紫山老師が大分市の関川晃代さんに言われた言葉に「あんたは、生長の家によって真理を悟らしてもらったんだから、ほかの宗教によろめいて行ってはいけませんよ。信仰にも貞操がなければならない」というのがありますが、

 まことにそうであります。「万教は唯一つの真理に帰するから、何処へよろめいて行っても同じじゃないですか」という理屈づけをして、他の宗教をのぞいてくる人がありますが、これは自分の神性をひらかして頂いた「因」に対する純潔を欠いているので、なんぼう道をといてもいけないのです。

 嘗て講談社の校正係としとった人で、人を怨み憎んで殺してやりたい位だったその怨みが、生長の家の神示を実行して、消えた。

 そして今は清々しい気持になれた。その怨みが消える方法を教えてもらったのは、生長の家のお陰であるというので、毎年、二、三遍は必ず、私にお礼の手紙をよこす人がありますが、そういう人は、本当に因縁を知り、恩を忘れない立派な人だと言わなければなりません。


            《 完 》


     平成二十四年十一月三日謹写 感謝合掌 




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