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大阪・阿倍野道場ものがたり (4323)
日時:2012年12月05日 (水) 13時16分
名前:童子

 大阪阿倍野にある生長の家阿倍野道場は、本年〈※43年〉一月七日に創立二十周年を迎えた。 この期に阿倍野道場の由来と、その発展を通して先人達の活躍をかえりみ、それと同時に今後の発展を考えてみよう。

 現在〈※43年〉、阿倍野地区に在住する誌友数は約六千名、誌友会場七十ヶ所、白鳩会支部十二ヶ所、最寄会二十五、青年会支部は六ブロックになって活発な運動をしている。

 この道場の幹事長、大崎小松氏は、文字通り当道場の主、御主人の大崎犬生氏が昭和二十六年になくなってこれを受継ぎ、今日をあらしめた女丈夫、誌友達から〃お母さん〃と呼ばれ、慈母のように慕われている。



            ◆阿倍野道場の母体 ―― 四ツ橋道場

 御主人の大崎犬生氏は大阪商船に二十七年間無欠勤でつとめた人、昭和六年に退職後、喫茶店経営を始めた。たまたま昭和十年に『主婦の友』五月号に掲載された「生長の家の奇蹟的治癒」を読んで神縁に結ばれたという。

 当時、大阪の生長の家は誌友が除々にふえはじめ、み教え宣布に活躍を始めた時である。生長の家のみ教え普及のため、自分の商売をなげうって、最初の道場〈上六道場 ― 現大阪教化部〉を建てるべく尽力された寺田繁三氏、これと前後して『生命の實相』全集〈全十巻〉第一巻が発行され、これを一反風呂敷に背負って、大阪各地の誌友に配達された塚田忠五郎氏の話はあまりにも有名である。


 昭和十二年六月には上六道場が出来次いで十三年八月には、寺田繁三氏を中心に、塚田忠五郎、荒井英太郎〈現・全国講師〉、永谷伊三郎、山本健太郎、舟橋作二、小山藤治らの諸氏によって四つ橋道場が開かれた。大崎犬生氏もこのメンバー〈生長の家同人〉に加わった。


 はじめは道場の運営については、各自が資金を出して会社を作り、その利益で維持しようとしたが、この合同経営はうまくゆかず、結局会計を扱っていた大崎氏が維持運営を引き受けることになった。

 これが大崎氏夫婦にとっては幸いしたという。というのは、道場運営を引き受けることになってから、夫妻で毎日道場に通うことになって、み教えと密接にむすびつき修行の場を与えられたからである。



            ◆信念の人 寺田繁三講師

 四ツ橋道場の講話と個人指導は、主に寺田繁三氏があたった。氏は導師として、自他共に許す第一人者であったという。

 「寺田先生の 〃人間神の子や! 完全や!〃 の一喝で、大抵の我の強い人でも、ハッとして立上がって、其処にすぐ体験が出るんですね。中には先生に一喝されて怒って帰る人があるんです。ところが家に帰ってよくよく考えてみて〃先生のおっしゃる通りだ〃と思ったら病気が消えていたという人もありますし、長い人は一年経って御礼を言う人もありました。

 それで私らも〃初めて来た人にはもう少し易しく言うてあげて下さい〃と言うんですが、 〃かまへん表面の心で怒っていても、潜在意識に入っているから、また来るよ〃 と言われて、もう本当にスバッと 〃人間神の子!〃 の縦の真理一本を説かれて病気が治る人、三十年来の跛(あしなえ)から立ち上ったり、三角関係が解決したり、もうその数は無数でした。

 あの元全国白鳩会副会長の平岡先生も、この寺田先生の指導を受けられ、〃人間、神の子、病気はないんや〃の一言で、三年間の脊椎カリエスから立上られた方です。」 (平岡初枝著『しあわせを見つめて』日本教文社刊参照)


 大崎小松氏は目を細めてなつかしそうに語る。ここでもう一人、現在、地方講師として活躍している芳邨十四喜(よしむらとしき)氏に、寺田講師との出合いをお話して頂こう。

                        ~ つづく

(2) (4335)
日時:2012年12月06日 (木) 02時50分
名前:童子

          ◆芳邨十四喜(よしむらとしき)氏は語る


 『私が四ツ橋道場へ行ったのは十四年頃でした。生長の家が別にいいと思って行ったのとちがうんです。 〃あれは邪教だ〃と思っていました。ところが生長の家に知識層が吸収されて行く。それが私には解せません。それで一つのぞいてやろう思うて、四ツ橋道場へ行きましたわ。


 道場は三階でしてね。昇って行くと丁度寺田先生が指導していなさる最中でした。田舎の村長さんみたいなけったいな人が羽織、袴はいてやってたんですね。その時の指導が面白かったんです。

 三角関係で悩んでいる中年の婦人でした。その御主人が二号さんとアメリカに渡ってしまって食えなくなって、その御主人と海をへだてて争っているのがらちあかん。 それで 〃もう私は玄海灘へはまって死ぬつもりで切符買うているんだ〃と頑張っているんですわ。


 そしたらあの寺田先生は、純情な人ですから頭から汗ぽつぽつと流いて湯気立てながら指導なさる。湯気たててね。

 そのときの寺田先生の指導は、「そのアメリカに行っている主人を拝め」というんです。 そしたらその奥さんは 

 「私がこの手でおがんだら先祖に申訳ない。拝まんならんのは主人や」

 というて寺田先生に喰ってかかるんですよ。 寺田先生は元気にね、「それでも拝むんや!」って、・・・・ 私はそれを聞いていて 〃はあ面白いな、こんな世界もあるのかいな〃 と思って、はじめて‘拝む’ということを私は其処で聞いた。 その奥さんは、

 「私は明日、玄界灘はまって死んで、主人の首にとりついて仇討ちをする」

 その時、明日死ぬというから、私は 〃この人どないなるやろう。女の人ってこわいなあ〃 と思うて聞いておった。 そしたらその奥さんは寺田先生の言うことを聞かないから、先生はとうとう 〃帰れ! 帰れ!〃 とおこりはった。それで奥さん帰ると思ったら帰らんでちゃんと坐っているんですよ。 〃あのおっさん怒らんといいのに、何でまたあんなにきつう怒りはるんやろうな〃 と思っておった。

 翌日ですよ。私は〃もうあの奥さん玄海灘へはまって死んだかいなあ〃と調べに行くこっちゃ・・・・・ それで次の日に又四ツ橋道場へ行って三階へトントンと上がって見たら、昨日の奥さんが来ていなはる。 〃やれ死なないでよかった〃 やはり私の心根は可愛らしいのね(笑声)


 それから五日位したですが、その奥さんが、「こんな遠い日本から手を合わせて拝んでもアメリカに届きますか」と質問したんですよ。寺田先生は「届きます」と言う。私は 〃ああ、あの奥さんの心、随分おさまったんだな〃 と思いました。

 私は根が坊主ですから、郷里の北陸へ帰ってこの教え弘めたらいいなと思いました。この頃になると、別に生長の家は悪いことも教えてないし、邪教だと思ったけども邪教じゃないわという気持になって、これまで土・日曜は漫才に行っておったのをやめて、四ツ橋道場に通ったですよ。



            ◆熱のこもった命がけの指導

 『あの頃は寺田先生と荒井先生と交互に指導なさったですよ。これがまあ実に熱心なんですね。それがあの浄土真宗で坊主が口で言うだけで熱意がないような教えだったら、それっきりもう行かんと思いますね。

 ところが寺田先生の指導を見ていると思わず引きつけられますなあ。命がけで質問するのに、それに命がけで答えられるでしょう。やっぱり見上げたものだと思わざるを得んですね。それが魅力でずっと通ってました。


 あれは一ヶ月経たん内でした。 荒井先生が 〃あんた出て体験談をしなはれ〃 と言われて出て来たのが、その奥さんですよ。 〃あれ、あの人はもう体験が出来た。わしよりうまいことしたな。わしは何も無いやないか〃 と思って聞きましたよ。そしたら、

 そのアメリカの御主人から弁護士を通じて 〃一寸来い〃 と言われてアメリカへ行ったら、〃長い間、金の不自由をさせたから、これこれの財産をやる〃 と言われて、当時の金で二千円でしたか貰ったそうです。それでその奥さんは皆の前で「日本から太平洋を隔てて拝んでも通じるんだという事を身をもって実感しました」という体験談をしたんです。

 それで私も感心して、中々こりゃいい教えやと思うて、それが長いこと身について、到頭講師のはしくれになったんですわ』

                        ~ つづく

 

懐かしい芳邨先生 (4359)
日時:2012年12月06日 (木) 23時36分
名前:蒼穹

童子さま、どんどん続けて下さい、お願いします。

芳邨先生の方言がそのままに文に現れて本当に懐かしく思います。一種独特のアクセントを思い出します。

蒼穹さま ありがとうございます (4390)
日時:2012年12月08日 (土) 04時21分
名前:童子

 地元から離れませんでしたので、大阪はもとより他府縣のことは存知あげません。

 ただ全国の生長の家の皆さまは、上記『阿倍野道場ものがたり』に登場する方々と同じではないでしょうか。全生活、全生命を懸けて御教えに生きて居られたのではないでしょうか。


 最近では『師を呼び捨てにして得意がっているハレンチなブログ』や『理誌100万運動を正面から否定し先輩を軽侮する掲示板』までもが出現するようになり、まことに先人達に顔向けできない思いの日々です。


 大阪阿倍野道場の諸先輩の生き様を読んで、先人達に恥かしくない後輩でいたいものです。

(3) (4391)
日時:2012年12月08日 (土) 04時49分
名前:童子

         ◆地の塩の働き、大崎夫妻のこと



 この芳邨氏と同じように大崎犬生氏も毎日道場の端に坐って、寺田講師の熱心な指導や奇蹟的な多くの体験を間のあたりに見て、 〃自分の余生はこの生長の家の普及に捧げよう〃と確固とした信念が生れたが、入信前はやはり曲折があったという。


 大崎氏は大阪商船退職後、株式投資に興味を持った。奥さんの小松氏も株の勉強をしていくらかその高低が解る位にまでなったが、はずれることもあって不安定な生活だった。

 実家の父親が心配して 〃お前達も神信心をしたらどうか〃と言われたのがきっかけで、小松氏は御主人に勧めたが、

 「お前がやるのは勝手だが、人に勧めてくれるな」と、はじめはにべもない返事だった。奥さんは仕方なく親孝行のつもりで、自分だけで神道の一派で先祖供養を説く神信心を始めた。

 ところが昭和七年に生後一ヶ月の三男が亡くなり、又甥に商売をさせるためにと思って始めた喫茶店経営も、昭和九年の風水害で一頓挫、そして十年には御主人が脳溢血で倒れてしまた。 〃此処で主人に亡くなられたらどうしょうもない〃

 小松氏は神にすがるように祈った。 〃どうぞ神様、主人ほ立上らせて下さい。主人が無欲の人ですから、成功したら、人の為に尽す人ですから、どうぞお守り下さい。そのために私はどんな行でもします〃

 この願をかけて、小松氏は瀧の水を頭から受けて三日間祈ったという。

 妻の一念でこの危急は去ったが、信心に関心を示し始めた御主人が又逆もどり、小松氏は夜中二時に起きて水垢離をとり、毎日一時間、御先祖にお祈りをした。

 この祈りが神に通じたのか、不断なら、殆ど読んだことのない『主婦の友』を手にした大崎氏は、生長の家の記事に感激し、早速本部に『生長の家』を申込まれた。

 奥さんの小松氏は今迄の経験を通して病気の治ることは不思議ではないと思っていたが、とにかく主人にどんな信仰でもいいから入って欲しいという願いはこの時叶えられたのだ。

 御主人は自分が納得したら何事でもすぐ実行に移す人、送られて来た『生長の家』を夢中で読むなり、家族十人の名で申込み、親戚、知人に〃読め、読め〃と勧めて行った。

                        ~ つづく

(4) (4396)
日時:2012年12月08日 (土) 05時22分
名前:童子


 昭和十二年の五月には、東京から谷口雅春先生が御来阪、大阪実業会館に於いて御講習会が開かれた。大崎夫妻も家族四人と共に受講した。

 谷口先生の御講演は手相の変った話をされた。

  ―― 心境が変ったら手相も変る。それと同じように心境が変ったら自分の運命も支配できる ――。

 何と素晴らしいお話だろう。今まで生長の家にあまり関心のなかった小松氏も、引入れられるように耳を傾けた。 〃病気が治ったり、環境が良くなることは体験したけれども、人間、何時ぐらつくか解らない。この先の不安を何とかして無くしたい。そして大磐石の上に坐った気持になりたい。それにはどういう心になったらいいのか ――〃

 この講習の直後、一緒に受講された母堂の心臓病が治り、弟さんの肺結核が全快したという。



 小松氏は御主人の許しを得て、次の日から生後一ヵ年の子供を抱え、上六道場に五ヶ月間通ったという。

 ―― 一切が自分の内に在るんだったら、持っているものを出して使うのは世話ない、無限の可能性を持っていても使わなかったら何の役にも立たん ――


 こうして大崎夫妻が足なみ揃えて、我神の子の自覚が芽生えて来ると、環境も好転して不思議と土地が手に入り、その年の中に、梅田の阪急前と、阿倍野に喫茶店を開くことが出来た。

 一年して大崎氏が四ツ橋道場の運営を引き受けた時、四軒の喫茶店の中の一店の利益を道場維持の費用にあてることには、何の躊躇もなかった。

 或る日、船橋作二氏が、「大崎さんとこは大きな出費で大変やなあ」と言われた。

 大崎氏は、「先生、大変やなんて思ってこの仕事は出来ません。私達はこの道を楽しんでいます。道楽と言っても唯の道楽でなく、この仕事は、私らの命を賭けた使命と思ってますわ。私の商売も生長の家のみ教え普及の資を得るための方便ですわ」



 昼は寺田講師担当の指導、夜は荒井英太郎氏が担当し、体験発表会は隔日の夜に行われた。神様は、お休みにならないのだ。誰が何時来ても指導が受けられるようにと、一日の休みもしないというのが方針だった。


 卓越した講師陣、これを支える縁の下の力持、これらの生長の家同人が一丸となって体験は体験を生み、喜びを生んで、五十畳の道場は、二年を経ずして一杯に溢れる程の人々が集った。


 しかしこの四ツ橋道場も、戦争が激しくなった昭和十七年、強制疎開のやむなきに到ったが、この四ツ橋道場の同人達のみ教えの熱情は益々もえ上がり、戦後いち早く大阪に生まれた阿倍野道場原動力となったのである。
                        ~ つづく

大崎氏ご夫妻の娘さん・大崎華子さんのこと、平岡初枝先生のこと (4435)
日時:2012年12月09日 (日) 11時13分
名前:志恩

童子様

横スレ、失礼致します。

童子様、この度は、大阪の【阿倍野道場ものがたり】を書いて下さいまして、
誠にありがとうございます。

私は、この「阿倍野道場つながり」のことを、トキ様掲示板の方へ投稿させて頂いたのですが、
阿倍野道場関連のことですので、こちらの光明掲示板の方へも、書かせて頂くことにしました。


 《大崎氏の娘さんである大崎華子さんと、平岡初枝先生のこと》

阿倍野道場の幹事長・大崎犬生氏と大崎小松氏ご夫妻の娘さんである、私の知っている
「大崎華子さん」の生い立ちが、
童子様のお陰で、おぼろげながら 分らせて頂けて,有り難く存じております。

(大崎華子さんは、若い頃、生長の家・大阪青年会で大活躍されてたことは、
 以前に、山ちゃん1952様が

 大阪青年会の黎明期について書かれた記事の中に、
  そのお名前がありまして、知る事が出来ました。)


創始者・谷口雅春先生が,総裁先生でいらした時代のこと、
私が本部に奉職していた時のことですが、

原宿本部会館の真ん前に、質素なアパートが、一軒建っていました。
そのアパートの
2階の6畳、1間の方に、平岡初枝先生が、1階の6畳、1間の方に、堀静先生が、各々単身で間借りされておられました。

その頃、童子様がご紹介下さいました大阪・阿倍野道場の幹事長・大崎小松氏の娘さんである
「大崎華子(はなこ)さん」が、
平岡先生のアパートの部屋へ、ちょくちょく遊びにいらしていたのです。

平岡先生は寺田繁三先生の勧めで、
原宿本部の婦人局(白鳩会中央部)へ奉職され、
白鳩会全国講師として全国的に活躍されておられました。

大崎華子さんが、大阪から上京されたのは、
華子さんは、平岡先生の熱烈なファンだったので、

平岡先生を追って
上京されたのだと、華子さんが当時、私に上京した理由を教えて下さいました。


その頃、華子さんは、赤坂にある世界聖典普及協会に一時的に就職されてました。

私はといえば、ある局の本部職員でしたが、
勤務時間後のひととき、

本部食堂で食事を作っておられた本部職員の福田愛さんに協力する形で、
平岡先生の夕食をアルミのお盆に乗せて、

毎夕のように、
平岡先生のアパートのお部屋まで運ぶという愛行をさせて頂いておりました時期でした。

ですから、その頃、時々平岡先生の部屋にいらしていた大崎華子さんとも、お話する機会に恵まれました。

華子さんは、私より確か20歳ほど年上のお方だったと思います。
とても雄弁でいらして姉御肌で明朗な女性でした。

平岡先生は、阿倍野道場、直属の本部講師・寺田繁三先生のご指導を受けられ、
持病だった「脊椎カリエス」という難病が、神癒により完治してしまったことは、

私も平岡先生の口から直にお聞きしたことがございます。

そして平岡先生は、本部ご在職中も、
本部を退職後、生まれ故郷の富山県富山市へもどられて地方講師として、
再び光明化運動に挺身されていらした時も、

亡くなるまで生涯
「脊椎カリエス」が
再発されたことは、ありませんでした。


(※ 余談ですが、
  平岡先生は、ご自宅のすぐ近くにある小さい神社の神主さんでもあられました。

平岡先生の亡き娘さんも熱心な生長の家でしたが、
  お孫さんご夫婦も、勿論、生長の家の信徒でおられます。)
  
  

ほんとうに、生長の家のみ教えのお陰で、神事が起こり、
平岡先生は、すっきりと難病と言われていた病が、完治されておられたのでした。

 

       合掌 ありがとうございます。 



もっと先輩の生き方に学びたい (4453)
日時:2012年12月10日 (月) 06時51分
名前:童子

 志恩さま ありがとうございます

 志恩様はいろんな人とお知りあいなのですね。
 うらやましいく思います

 『祈り合い』を【祈りの外注】【祈りのアウトソーシング】と解釈する輩が出現するようになった今日此の頃、谷口雅春先生は勿論のこと、とても生長の家の先輩方々に顔向けできません。

 

(5) (4454)
日時:2012年12月10日 (月) 07時37分
名前:童子

          ◆阿倍野道場を開設する


 昭和二十年八月十五日、終戦の日、大崎氏は家族と共に夕餉の食卓をかこんだ。

 「さあ、皆、元気を出して、頑張ろう。陛下はいばらの道をとられたのだ。この前途多難の時に、生長の家のみ教えは益々必要になって来る。儂はこれからずっと、生長の家を弘めるために余生を捧げる決心をした。皆もこれ以上に頑張ってもらいたい」

 大崎氏の言葉に皆も賛同した。疎開先から大阪にもどった大崎氏は、阿倍野の焼跡に立って祈った。

 「神様、この地に生長の家の道場を建てさせて頂きます。神様の御心のままに、吾らを導き給え」


 二十年の暮れには焼跡にバラックを建てて商売を始めた。当時の食糧不足は今日では考えられない程ひどかった。食物なら、どんなものでも飛ぶように売れた。薯、小魚、かんぴょう、ズルチン、配給のバター等を言値より高く買って、一割安く売った。又出入りの商人お巡りさん、配給食糧を持って来るおかみさん等が来る度に、店の裏で、米の飯を食べさせ、皆を喜ばせることも忘れなかった。


 この商売も生長の家普及のための拠点を作るという大きな目的のためであった。約一年して二階建ての本建築が出来上がり、一階は戦前にやっていた喫茶店〃モカ〃とし、二階を道場とした。


 明けて二十二年一月七日、大崎氏は起きるとすぐに小松氏に言った。

 「今日は道場開きをしよう」
 「でも、まだ誰にもお知らせしてありませんがな」
 「かまへん。これから栗原先生にお願いに行って来るわ」
 「じゃ、寺田先生もお願いします。道場が出来ることを楽しみにしておられたから・・・」

 この日は寺田繁三氏、塚田忠五郎氏、栗原保介氏、大崎氏夫妻の五人で、道場開きをした。四ツ橋道場と同じく寺田講師を中心に、毎日の指導を皆ですることになったが、はじめは講師の方が多くて、聴講者は二、三人という時もあったという。



            ◆宣伝、広告のはしり

 大崎氏は先ず、道場の横壁に大きく〃生長の家〃と書いた看板を掲げることから宣伝を始めた。当時はまだ本建築はまだまばら、遠くの方からでも、道場の建物はすぐ目についた。又、職にあぶれた浮浪者を連れて来て、サンドウィッチマンに仕立て宣伝もしたという。

 
 「阿倍野道場の場所が、近鉄百貨店の筋向いでしたし、奈良、和歌山方面へのターミナルでとても便利な処でしたから、戦前の誌友さんが尋ねて下さったりして、吉田長詳さんもお子さんから 〃生長の家が近鉄百貨店の際にあったよ〃 って教えられて来て下さった方ですし、直江平十郎さんも南方から復員して来て下さり、小畑富記さんも見えて除々に戦前の四ツ橋道場の同人達が集って下さいました」



 道場開きの時、大崎氏は何としても此処で谷口雅春先生をこの大阪にお迎えしたいという念願を披瀝、その年の七月一、二、三日と三日間、市の公会堂を借り切ってしまった。

 小松氏はその時のことを、
 
 「あの時はとにかく会場と日時を先に定めてしまったんです。その後で本部にお願いしましたら、それが運よく谷口先生が六月末に広島に御講演の予定だからという御返事でした。その時は本当に、神様は少しね無駄をなさらないんだなとつくづく思いました」


 大崎氏は、この講演会の前宣伝に当時としては先端を行く、吊りビラ広告を市電やバスの中に掲げた。今でこそ車内に広告はあふれているが、当時はまだそれまでの余裕がなかった時である。講演会には〃生長の家健在なり〃と喜んだ戦前の誌友や新人が沢山集った。


 二十三年には阿倍野道場の講師陣による講演会を開き、公会堂に二千五百名が集ったという。かくして阿倍野道場に繋がり、此処にすなどられた人々は千人を超え、急速に誌友もふえて行った。

                           ~ つづく

(6) (4593)
日時:2012年12月13日 (木) 23時48分
名前:童子

          ◆神様からたてどりや


 大崎氏は或る日、小松氏にふともらした。

 「百万円の借金が出来た」

 小松氏はすかさず、

 「そりゃ有難いこっちゃ」
 「なんでや」
 「そんな神様のお仕事しているんやもん、そりゃ神様が払うて下はりますがな」
 「そりゃそうやな」

 小松氏のこの自信ある言葉が出たのも、四ツ橋道場時代に培われた。

 小松氏が戦前、喫茶店をしていた時、実家から資金を借りていた。それを毎月五百円づつ返済して、返し終って、今日は少しばかり心祝いをしようと道場に行った。

 「ほう、今日はうれしそうやな、何でや」 と寺田先生。

 「え、今日は借金全部払うたから、心祝いしようと思いますねん」

 「そんな、商売するもんが、借金なかったら、何も出来ん。そんなもん何ぼあったかて神様が払うて下さるわ」

 「さよですかあ」

 このことがあってから小松氏は無限供給に繋がる道を見出し、数々の体験を経て自信があった。

 或る時など、今日銀行に八万円納めなければならない時、手許には六万円しかない。

 「今日は神様、どないな方法で解決して下さるやろう」

 その日の二時になって、思いもつかない処から二万円きっちり持って来たという。

 「神様はきっちりしか下はりやしませんな」

 「それでいいのや」


 戦後はじめて大阪に谷口先生をお迎えした時、たまたま、飛田給道場を買われるというお話を先生がなさった。

 小松氏はこの時言った。

 「お父さん〈大崎犬生氏〉、私達は生長の家でこんなに喜ばせて頂いたから、少しでも寄附さして貰いましょうね・・・・」

 「そうやな、何ぼさして貰うか」

 小松氏は心の中で十万円、十万円と思っていた。

 「十万円でどうや」

 「いいですね、させて貰いましょう」

 しかしこの時は百万円の借金を抱えていた。

 「とにかくお前から、谷口先生の奥様に申込みの手紙を差し上げておき」

 「どない書きましょう」

 「十万円献納させて頂きます。ただ手許に今お金はありませんが、神様が下さり次第、期日までに必ず完納させて頂けるものと確信致します・・・・」

 この献資も願い通り完納して、当時の百万円の借金も、今考えてもどうやって返済したのか覚えのない程、一年位で返済してしまったと言う。


 神のみ教えを顕わさんがための、この一途な献身を神は嘉し給うたのである。

                           ~ つづく

昭和23~24年当時の100万円は、現代に換算すると…… (4598)
日時:2012年12月14日 (金) 01時55分
名前:志恩

童子様

>>4593:童子様

>>大崎氏は或る日、小松氏に ふともらした。

 「百万円の借金が出来た」

 小松氏はすかさず、

 「そりゃ有難いこっちゃ」
 「なんでや」
 「そんな神様のお仕事しているんやもん、そりゃ神様が払うて下はりますがな」
 「そりゃそうやな」>>


そして、
>>4323:童子様

>>大阪阿倍野にある生長の家阿倍野道場は、
  本年〈※43年〉一月七日に創立二十周年を迎えた。<<


と書かれておられますから、その話は、

戦後の昭和23~24年頃の 百万円 だということになります。

それで、当時の 百万円 とは今に換算すると、幾ら位になるのかしらと、
知恵袋で調べてみました。

すると、

【1949年(昭和24年)の25万円の賃金なら、現代ではおそらく約1,000万円くらいになるでしょう。】

と載っていました。

ですから、現代の貨幣価値は、

当時の 40倍 くらいになっているのでした。

 ”40倍”ですから

大崎様が、「100万円」の借金が出来た といわれたのは、
今で言えば、「4000万円」の借金が出来た ということだったのです。

飛田給道場建設資金に「10万円」を奉納されたというのは、
今で言えば、「400万円」を 奉納されたということだったのでした。


 童子様、
 
 「阿倍野道場ものがたり」の続きを楽しみにさせて頂きます。 合掌礼拝


(7) (4661)
日時:2012年12月15日 (土) 12時03分
名前:童子

          ◆多くの導師が此処で育つ


 信念の人、寺田繁三講師の活躍は前回に述べたが、氏のみ教えに対する熱情、内からほとばしるような自信に満ちた指導は、単に、多くの奇蹟を生んだのみにとどまらず、別な面、即ち、み教えの指導講師の範ともなった。

 現、全国講師として活躍しておられる荒井英太郎講師も、四ツ橋道場から阿倍野道場へと、寺田講師の片腕ともなって活躍した人、 〃講師はかくあるべきもの〃 という伝統が此処で生れた。自然、講師としての規準も高くなって、講師を志す人達の相互の研鑚も熱を帯びて来る。


 四ツ橋道場の同人である永谷伊三郎氏は、阿倍野道場になって、昭和二十三年から七年間、自分の修行のためにと、神想観の実修を毎日道場に出て指導したという。


 この外、吉田長詳氏、山本健太郎氏、芳邨十四喜氏、当舎克允氏、今広重太郎氏、大林市郎氏、西田利雄氏等諸講師が続々とこの阿倍野道場で育って行った。

 大崎小松氏は、
 「講師の方々は本当に熱心に、お互いに研鑚して下さって、現在は二十四名居て下さいます。皆さん、大体十年のキャリアを持っていなさるんです。

 これから若い方々にも講師になって頂きたいですが、十年位の経験を持たれた方を現在は推薦しています」





            ◆体験続出、喜ぶ信徒


 昭和二十四年に、大崎夫妻は、奈良の練成会に参加して、この練成会の素晴らしさに感激、早速阿倍野道場にもこれをとり入れ、 〃志貴山一泊練成会〃 を計画、年に三回程、毎年のように続けて来た。

 この練成会には全講師全誌友が、出席、講演と体験発表。午後には、全参加者が一緒になって演芸会をして和気あいあいの内に、感激と喜びを分ち合い、信徒間の熱ももえ上り、体験が続出、人間・神の子病なし、無限供給を多くの人が身をもって体験し、喜び勇んだのだ。


 これらの人々がこれを契機に、それぞれの地区に帰って、誌友会、白鳩会を結成、無我の愛と奉仕に生きる大崎夫妻の後に続々とつづいた。

 現在の七十ヶ所の誌友会、二十ヶ所の白鳩会も、皆、こうした人々であるという。


 この信貴山一泊見真会が発展して、阿倍野道場感謝法楽会として道場恒例の名物となり、今日に及んでいる。

                          ~ つづく
 

(8)  (4737)
日時:2012年12月17日 (月) 09時18分
名前:童子

           ◆一粒の麦、地に落ちて


 昭和二十六年八月、大崎犬生氏は病を得て、他界した。盛大な道場葬の後、幹部の人々が寄って今後の方針を話し合った。

 これまで大崎氏は 〃費用は神様から縦どりや〃 と言って講演会は勿論、道場の維持一切を大崎氏個人が資までまかなって来た。

 大崎小松氏はその席上で言った。

 「主人の望みは生長の家のために捧げることでした。み教えの普及が、一番の念願でしたし、商売の方はその費用を作り出す方便やと言ってはった。私も主人のこの意志をついで今後もこの道を行きます」


 道場維持については、皆が協議して感謝会というものを作り、はじめて会員組織となって運営することになった。この感謝会が発展して現在の阿倍野道場維持報恩会が生まれたのである。


 三十年後には、五十畳の道場に毎日、人々が溢れ、入り切れずに帰る人もあったという。期せずして道場に集る人々の中から、「新しい道場を建てましょう」という気運がもり上がった。たまたま、道場の土地問題が起ったのが契機として、新道場建設に踏切り、吉田長祥氏所有の土地を借りて現在の阿倍野道場が出来上がった。


 最近では現阿倍野道場も、色々な行事が増えて、百畳の道場も手ぜまとなり、生命学園、青年会等の会場を増築する計画がある。この費用も現在は五代目の道場維持報恩会長斎藤義介氏を中心に、皆が競って献資を捧げ、間もなく目標額を突破するという。


 大崎氏夫妻の無我の奉仕の精神が此処にも反映して、皆が喜んで献資をして道場を守り続けている。

                           ~ つづく

(9) (4774)
日時:2012年12月18日 (火) 12時04分
名前:童子

          ◇愛と奉仕の阿倍野道場



 大崎氏なき後、その意志をついだ小松氏は阿倍野道場幹事長として多忙な毎日を送っている。

 道場の行事一切と指導は勿論、講師の育成、対外的な仕事、時には講師の代講で、各地の誌友会、白鳩会にも出講する。

 「もう毎日色んな問題を神様が与えて下さいますが、皆自分の勉強や思うております。時には 〃神様はどこまで私を可愛がって下さいますのか〃 と思われるようなむづかしい問題もありましたが、今は、どんなことも解決する自信があります」


 道場の大黒柱として頼もしい限り。信徒達は、道場に来て、小松氏の笑顔に接し、言葉を交わすだけで、小さな悩みも消え、安堵するのだろう。

 現に十年のキャリアを持つ講師や青年たちに、小松氏は 〃お母さん〃 と親しまれているのだ。

 〃一粒の麦 地に落ちて 多くの実を結ばん〃 という聖句がしきりに浮んで来る。信念の人、寺田繁三氏を代表とする、熱のある指導、体験続出、これを支えるような大崎氏夫妻の地の塩の働き、これらが阿倍野道場の伝統となって、今日の道場に集る人々の中に実を結び脈々といきづいている。

    『生長の家』誌 43年5月、6月号 より



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