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検証: 雅宣総裁・新刊「生長の家(雅宣教)ってどんな教え?」<第3回> (4367)
日時:2012年12月07日 (金) 08時47分
名前:信徒連合

     検証: 


        雅宣総裁・新刊「生長の家(雅宣教)ってどんな教え?」


                 <第3回>




           < 基本的教義の概要> (P.12~70)


雅宣総裁は、生長の家の基本的教義を三項目に纏めて説明している。三項目とは、① 唯神實相、② 唯心所現、、③ 萬教帰一、の事であるが、この説明にいきなり入って行くところに問題があるのである。どこからこの三項目の言葉が出て来たのか? その源を明らかにしなければならないのに、彼はそれを怠っている。いや、むしろ無視していると言った方が適切であろう。

徳久克己先生(本部講師・長老)は、このように常に言われていた。「生長の家の教えを説く場合には必ず『生命の實相』等の聖典、つまり開祖・谷口雅春先生の御著書に立脚して説かなければならない。なぜならば、開祖・谷口雅春先生の“お悟り”が生長の家の教え(教義)そのものだからである。自分流の解釈で『教義』の解釈をしてはならない。自分流の解釈をすると、それは正確な意味においては、開祖・谷口雅春先生の『御教え』とは違った○○流の生長の家となる」と。○○流の生長の家とならないためには、常に開祖・谷口雅春先生の御著書に基いて『御教え』を解説しなければならないのである。

雅宣総裁は、徳久先生の様な考え方を「谷口雅春原理主義」と呼ぶ。そして、自身の個人的価値観(主として戦後日教組教育の左翼的唯物的価値観で『御教え』(教義)を解釈し、雅宣流の生長の家に変えて行き現在に至っているのである。

雅宣総裁の説く「基本的教義三項目」の出どころはどこなのか? 自称にしろ“法燈継承者”を名乗るならば、特に新しい人が聞きに来ている講習会ではこの「教義三項目」の出所を明らかにして説明しなければあまりにも不親切なのではあるまいか? それは『生命の實相』第二十巻(P.134-P.137)の開祖・谷口雅春先生「大悟徹底」の瞬間を記録された御文章である。


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<<ある日、わたしは静座合掌瞑目して真理の啓示を受けるべく念じていた。私はそのとき偶然であろうか、神の導きであろうか、仏典の中の「色即是空」という言葉を思い浮かべた。と、どこからともなく声が、大濤のような低いが幅の広い柔らかで威圧するような声が聞こえてきた。「物質はない!」とその声は言った。で、わたしは「空即是色」という言葉をつづいて思い浮かべた。と、突然その大濤のような声が答えた。「無よりいっさいを生ず。一切現象は念の所現にして本来無。本来無なるが故に無より一切を生ず。有よりいっさいを生ずと迷うがゆえに有に執して苦しむのだ。有に執せざれば自由自在だ。供給無限、五つのパンを五千人に分かちてなお余り、「無」より百千億万を引き出してなお余る。現象界は念のレンズによって転現せる化城にすぎない。かしこに転現すると見ゆれどもかしこに無し。ここに転現すると見ゆれどもここに無し。知れ、一切現象なし。汝の肉体も無し。」では、心は<ある>であろうかと思うと、その瞬間「心もない!」とその声は言うのだった。今までわたしは「心」という得体の知れない悍馬があって、それを乗りこなすのに骨が折れると思っていたのだ。ところが「心もない!」という宣言によってわたしは、その「心」の悍馬から実相の大地に降りたのであった。「心もなければ何も無いのか」とわたしは再び声の主にたずねた。「実相がある!」とその声はハッキリ答えた。「無のスガタが実相であるか、皆空が実相であるか」とわたしは尋ねた。「無のスガタが実相ではない。皆空が実相ではない。皆空なのは現象である。五蘊が皆空であるのだ。色想受行識ことごとく空である!」。「空と無とは異なるのではないか」とわたしはたずねた。「空と無とは異なるとは思うな。五蘊皆空であるのに空とは無ではないと思うから躓く。空を無とは異なると思い「無ではない」と思うからまた「五蘊は<無いではない>」と引っかかるのだ。「五蘊は無い」とハッキリ断ち切ったところに実相が出てくるのだ。<無い>ものを<無い>としたところに本当にアルものが出てくるのだ。」「では実相とはなんであるか」とわたしは訊いた。「実相とは神である。<ある>ものはただ<神のみ>である。神の心と神の心の顕現のみである。これが実相だ。」ここに神というのはむろん「仏」という意味も含んでいた。 「心も<無い>のが本当ではないか。」「<無い心>は受想行識の心だけだ。そういう意味でなら仏もない、衆生もない。心仏衆生三無差別と説く場合には心も無い、仏も無い、衆生を抹殺し、仏を抹殺し、心を抹殺し、いっさい無いといっさいを抹殺したときに実相の神、久遠実成の仏が出てくるのだ。」「それがキリスト教ならイエスを十字架にかけることになるのですか。」「そうだ、肉体イエスを抹殺したとき、実相のキリスト、アブラハムの生まれぬ前から生き通しの久遠のキリストが生きているのだ。イエスの十字架は現象を抹殺せば実相が生きてくるという象徴である!今ここに久遠生き通しの生命が復活する。今だ、今だ!久遠の今だ!今が復活だ!今をいきよ。」わたしの眼の前に輝く日の出の時のような光が燦爛と満ち漲った。何者か声の主が天空に白く立っているように思われたがそれはハッキリ見えなかった。しばらくするとその燦爛たる光は消えてしまった。わたしはポッカリ眼を開くと合掌したまま座っている自分をそこに見出したのであった。それ以来、心仏衆生三無差別の心というものが本来無いものであるということがわたしにハッキリ分かった。迷う心も無いから悟って仏になる心も無い。迷う心が進化して悟って仏になるとおもっていたのが間違いであったのである。ただ初めから仏であり、神である「実相の心」があるだけである。その実相の心が展開した実相の天地があるだけである。浄飯王の王宮を出て伽耶城を去ること遠からず、菩提樹下に六年静思して初めて悟りをひらいて仏となったという現象の釈迦牟尼佛は本来無かったのである。「法華経」の中で釈迦自身が「我実に成仏してよりこのかた無量無辺百千万億那由他劫である」といったその久遠の仏のみが実在であったのである。その久遠の仏が今ここに生きているのだ!十字架上に磔けられて「神よ、神よ、なんぞ我れを捨て給や」と哀号したイエスは本来無かったのだ。永遠の神性(キリスト)――「アブラハムの生まれぬ前から生き通し」とみずから言ったキリストのみが実在であったのだ。自分もまた明治26年11月22日に母の肉体より誕生したのではなかった。そして、現在の今はじめて悟ったのでもなかったのである。このままで、久遠の昔、そして久遠の今、はじめなき始めから仏であった自分であったのだ。・・・・・>> 


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[ Ⅰ ] 生長の家の「教義」は、開祖・谷口雅春先生のお悟り(生命の實相の大悟徹底)そのものである。

雅宣総裁は、生長の家の“教義三項目”を学者的に四字熟語で説明しているが、これらは開祖・谷口雅春先生の<生命の實相の大悟徹底に基いている>という説明はしないのである。この“教義三項目”のうち「唯神實相」と「唯心所現」について、開祖・谷口雅春先生の上記、生命の實相の大悟徹底の瞬間の御文章の部分を整理してみると次のようになる。


< 『唯神實相』 >に関して――

① 知れ、一切現象なし。汝の肉体も無し。
② 心もない!
③ 実相がある!
④ 「五蘊は無い」とハッキリ断ち切ったところに実相が出てくるのだ。
⑤ <無い>ものを<無い>としたところに本当にアルものが出てくるのだ。
⑥ 実相とは神である。
⑦ <ある>ものはただ<神のみ>である。
⑧ 神の心と神の心の顕現のみである。これが実相だ。
⑨ 心仏衆生三無差別と説く場合には心も無い、仏も無い、衆生を抹殺し、仏を抹殺し、心を抹殺し、いっさい無いといっさいを抹殺したときに実相の神、久遠実成の仏が出てくるのだ。
⑩ 迷う心も無いから悟って仏になる心も無い。迷う心が進化して悟って仏になるとおもっていたのが間違いであったのである。ただ初めから仏であり、神である「実相の心」があるだけである。その実相の心が展開した実相の天地があるだけである。
⑪ 「アブラハムの生まれぬ前から生き通し」とみずから言ったキリストのみが実在であったのだ。このままで、久遠の昔、そして久遠の今、はじめなき始めから仏であった自分であったのだ。


< 唯心所現 >に関して――

① 物質はない!
② 無よりいっさいを生ず。一切現象は念の所現にして本来無。本来無なるが故に無より一切を生ず。
③ 現象界は念のレンズによって転現せる化城にすぎない。


このように整理すればよく解るのであるが、しかし、雅宣総裁が四字熟語にこだわったために大切な事をズバリと説明していない結果となっているのである。つまり、「唯神實相」・「唯心所現」は不完全な表現であるのである。正確な表現は次の通りとなる。


☆☆☆ 「唯神實相」にして、「實相独在」 ☆☆☆
☆☆☆ 現象は「無」なるがゆえに、「唯心所現」 ☆☆☆


これが「生長の家」教規第五条の<教えの創始者谷口雅春の唯神實相の神学」の正しい表現の内容なのである。繰り返すが、雅宣総裁の四字熟語だけの表現は甚だ正確性を欠く不完全な表現である。このように申し述べると雅宣総裁は「そんな表現は初心者には難しい」と云うであろう。しかし、雅宣総裁の考えは浅い。宗教や信仰に関する理解は、肉体頭脳で為すのではなく“生命(いのち)の世界”、“たましいの世界”で把握するものであって、IQ指数が高いから、学歴が高いから生命の世界の「真理」の把握度が高いというわけではないのである。その人の魂の機縁の熟し度、霊魂年齢の高さによってそれ相応の真理が把握できるのであるから、たましいの機縁が熟していれば難しくても把握できるのである。だから、正確に<「唯神實相」にして、「實相独在」>・< 現象は「無」なるがゆえに、「唯心所現」>と説けばよいのである。そして噛み砕いて説明すれば良いのである。「實相独在」・「現象は『無』なるがゆえに」と云う言葉の省略は許されるべきものではないのである。


この正確な「唯神實相の神学」の内容がわかって次の「萬教帰一」の正確な意味が判るのである。


☆☆☆ 「唯神實相の神学」を“鍵”として他宗教の経典・教典を“紐(ひも)解いて”行けば「萬教帰一」 ☆☆☆


このことが「生長の家」教規第五条に於いて、「教えの創始者谷口雅春の唯神實相の神学を鍵として全世界の宗教の経典の真義を顕示して人生に光明あらしむるものである」と書かれている所以なのである。

雅宣総裁はこのように「萬教帰一」を正確に説明せず、先ず最初に、< いろいろの宗教の「共通点」を見出し >として、それから<「一つの真理」との関係を明らかにする>と解説している(新刊P.63~64)。しかし、如何にして諸宗教の「共通点」を見出して行くのか、についての過程(用具)の説明はなし、また「一つの真理」とはどういう真理なのかの説明もない。いたって論理性を欠く解説である。

この様な解説よりも、「何故、“生長教”ではなく“生長の家”なのか? “家”には門があり、奥へ入って行くと必ず奥座敷へ到る。“門”とは“宗門”、奥座敷へ入っていくには門の鍵を開けて入る。その“鍵”が開祖・谷口雅春先生の「唯神實相神学」と云う“鍵”である。この鍵で門を開け、そこで留まらずに、ずんずん奥へ進めば奥座敷で、異なる門から入って来た人たちも一同に会する事が出来る。

これが「萬教帰一」と云う正確な解説である。『生命の實相』を素直に読めばこのように判り易く理解できるのである。この様な理解の仕方をも彼は「原理主義」(新刊P.64)として排斥するのか?


以上の如く、雅宣総裁の「生長の家教義の三項目」の解説、いや雅宣総裁の把握の仕方と内容は開祖・谷口雅春先生の説かれた内容とは相当ずれているのである。雅宣総裁の“似て非なる”「今の教え」の誤りはこの様なものである。その依って来たる原因は、雅宣総裁は『生命の實相』の読み方が間違っているからである。

<真理は霊的に理会することが必要です。頭で真理を理会するということは、真理の周囲を堂々巡りして真理の外的な姿を知るに過ぎません。霊的に真理を理会するということは、「生命の実相」そのものに全身全霊をもって貫き入り力の本源をつかむ事、黙読する・朗読する・目で読み・声で読み・声のリズムの中に自分を溶かし込んで読む。>

と『生命の實相』に書かれているのであるが、彼は真理を霊的に(“たましい”で)理会しようとせず、頭(肉体頭脳)で理解しようとしているからである。所詮、雅宣総裁の今生の霊的体質上、そこまで求めるほうが無理なのかもしれない。

しかし、そうかといって、開祖・谷口雅春先生の「創世記」の霊感的解釈を真っ向否定して、<<『創世記』の第1章の天地創造と第2章4節以降の物語は、互いに大きく食い違い、矛盾している。だから、聖書研究者の間では、これらの話は、それぞれ別の作者の手になるということが、大筋で合意されているのだ>>(平成22年7月13日『小閑雑感』)などと個人的解釈を堂々と披歴し、これが「今の教え」であると言われたら、それこそ開祖・谷口雅春先生に弓引くものであって決して許されるべきものではないのである。まさに「雅宣教」以外の何ものでもない。“破門”である。




[ Ⅱ ] 縦の真理(新刊P.33)の解説について――


雅宣総裁は、新刊書の33ページに於いて、「縦の真理」とは、「唯神のみあるのが實相である」と解説している。“解説”ではなく四字熟語の“字解き”だといっている。この解説はどうもシックリ来ないのである。間違っているのである。

正しくは、開祖・谷口雅春先生の大悟徹底の瞬間の上記御文章の < 「実相とは神である。<ある>ものはただ<神のみ>である。神の心と神の心の顕現のみである。これが実相だ。」>から云えば、< 神=實相であって、唯一の実在は神のみである >端的に言えば< 唯神實相・實相独在 >これが“縦の真理”である。


普通、“縦の真理”といえば「人間は神の子である」という事である。人間の實相(ほんとうのすがた)は神であり、久遠生き通しの生命(いのち)そのものなのだ、ということ。――これも開祖・谷口雅春先生のお悟り(大悟徹底)のコトバなのである。

上記御文章の中で < このままで、久遠の昔、そして久遠の今、はじめなき始めから仏であった自分 > と書かれているのである。この自覚への転換が生長の家の信仰に於いては最も大切な事であり、この自覚は「聖典『生命の實相』の熟読と『神想観』の継続によって到達できるのである」、と解説すべきである。


雅宣総裁の「教義」解説は、自らが四文字熟語の“字解き”と言っているように、学者による字句の解説と同じであり、そこには“いのちの響き”がない無味乾燥なものである。“いのちの響き”ある解説をなさねば宗教家とは言えないのである。

此処に、開祖・谷口雅春先生のお悟りの御文章の引用と“真理の証し人”の体験談を引用しての解説が必要となるのである。しかし、彼は科学では証明できないタマタマとしか考えられない体験談を信用していない。だから、自己流の解釈しかしないのである。そこに表面的には似ているが的の外れた雅宣流の生長の家の解説となる。雅宣総裁は救いようのない人間ではないか!




[ Ⅲ ] 唯心所現(新刊P.41)の解説について――


雅宣総裁の説き方は、とにかく学者評論家風の説明であって聴く人を魅了するものがない。宗教的にいえば霊的感動がなく、これから真理を生活に生きていこうとする意欲が湧いてこない。真理を実際生活に生きて現実に当面している問題を解決し、自分の運命を前向きに開拓していこうとの気持が湧き上がらないのである。学者評論家は現実的救済力がなくても許されるが、宗教家は人々の苦悩を現実的に解決し、運命を切り開いて行けるような真理の説き方が大切である。


① 雅宣総裁の説明によると、まず、「唯心所現」とは、「複雑な構造をもった潜在意識も含めて、唯(ただ)心で表現したところの人生を私たちは毎日送っている(P.45)、つまり心が(目に見える現象の)人生を作っている(P.40)」のだと云うことである。われわれは得てして「天空に輝く“本当の月”(實相)よりも湖面に映る月(現象)に興味を引かれる(心が波だち騒ぐ)場合が多い(P.36~37)」。そして、波立ち騒ぐ現象界の問題解決の道を示すために観世音菩薩の“救いの原理”があり、自己人生の誤った選択の道を正すようになっているのである(P.46~47)」。このように生長の家では、「實相と現象を分けて考え(P.57)、現象界では實相の表現は段階的に行われる(P.56)」のである。「人間の“本当の姿”というのは、段階的に開発されていく五つの表現活動、すなわち生物多様性・生命力・学習能力・運動能力・人格、これらのすべてを綜合したもの(P.54~55)」・「現象世界は實相表現の過程(P.50)」なのである。そして大切な事は、「自分だけでなくて、他の人もすべての人々が皆、仏であり神の子であると云う“観の転換”を図る。そうすることで、この現象世界は『唯心所現』の原理が働いて全の方向へと表現が進行していくことになる。そして、どんな困難に遭遇しても絶望しないで生きていくことができる(P.50)」。短く纏めればこのようになると思われる。


この説き方は、間違いではないがあまりにも学者的な解説の嫌いがある。やはりここでも根本聖典たる『生命の實相』を紐解いた解説の方が格段にわれわれの心に響いてくるのである。


② 開祖・谷口雅春先生の『御教え』、横の真理である「唯心所現」とは < 肉体も環境も心の影(反映)>ということである。雅宣総裁のように< 心が人生を作る >よりも簡明直裁である。聴く人の立場からすれば“人生”と言う言葉よりも“肉体・環境”と言うコトバの方がより現実的な己を振り返らざるを得ない言葉となる。


「實相」は完全であるのに何故現象は不完全なのか? この説明は「新講『甘露の法雨』解釈」のP.176の図解とP.180の解説が最適である。“映画のフィルムの喩え”なんて現代には通用せぬと云う人もあろうが、そんな人には昔の映写技術としての“活動写真”の解説をすれば良いだけである。


現代日本の状態は、少子高齢化や長期不況による将来人生への経済的不安・病気や災難への遭遇不安・自殺者の増大・衝動的殺人事件・・・と云った不安定社会へ突入している。この様な不安定社会情勢(社会的経済的戦乱の巷)の中にあって如何に生きていくか? 宗教家は人々の悩み解決に自信を与えなければならないのである。

雅宣総裁の如き上層の経済的に安定したセレブ階層から、苦悩を抱えて生活する一般庶民の下層の人々を見る目は、冷たい学者的分析と口先だけであって、この処方箋では駄目である。

かかる社会的経済的戦乱の巷における「唯心所現」の解説は、特に『生命の實相』第一巻・第四章「心の世界における運命の形成」と『生命の實相』第三巻・第二章に書かれている生長の家信徒・久保田儀蔵氏の体験に依拠するのが最適である。ここのところをシッカリト自分ものとするならばこれからの“乱世”を自信を持って切り抜けていけるのである。この様な「唯心所現」の説き方でなければならないのである。


(注)

雅宣総裁は、新刊書P.41~45に於いて、“現在意識”と“潜在意識”の解説をしているが、語句の解説の域を出ていない。「唯心所現」との関連で説明する場合には、「現在意識の思いと潜在意識の思いとが相反していれば、潜在意識の思いの方が優先して実現される。従って、希望実現のためには、現在意識の想念と潜在意識の想念との一致が何よりも大切であって、そのためには聖典の熟読と神想観の継続によって信念を深める(潜在意識への思いの深化定着)ことが大切と云う解説も入れなければ生活に生きる真理とはならない。この事は「牝鹿の脚」の話として開祖・谷口雅春先生は講習会で話され、『善と福との実現』に掲載されている。




[ Ⅳ ] “生命の實相”と申し候事は・・・

雅宣総裁は、もっと開祖・谷口雅春先生の端的な“お悟り”の言葉を信徒に紹介して解説すべきである。生長の家の根本聖典の書名は『生命の實相』である。この「生命の實相」に関する開祖・谷口雅春先生の有名な解説がある。これは、「實相訓」と言われているものであって、講習会の時にお泊りになった信徒のお家で墨書され、信徒の方が表装して掛軸にされたものである。


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             開祖・谷口雅春先生「實相訓」


<< 生命の實相と申候事は、此世界が此儘神の国であり、人間は其儘神の子なりと申事に
候。観ずればそれが現るゝものに候。観ぜざれば現れる事なく、さればこそ心を静めて實相を見よと申すに御座候。
 現象に如何なる悪現れ申候とも、いづれも神の作り給へる實在には無之候間、気にかけずに唯實相円満なる相のみを観ずれば、結局は円満なる實相現るゝものに有之候 >>
(昭和二十二年正月、新居浜 秋月家)


<< 生命の實相を悟ると申候事は、今此処の生命を久遠の生命と自覚して不恐、急がず唯ひたすら其の儘に生きることに候。今の生命を大切に遊ばさるべく候。
 一瞬の中に久遠、一挙手の内に無限の存することを知り萬事をゆるがせにする事なく、一瞬、一瞬を喜びて感謝して生きるとき其処に無限の供給あり、其処に無限の健康有之候 >> 
(昭和二十二年十月二十六日、姫路 田中家)



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「生長の家とはどんな教え?」と云うならば、この「實相訓」の紹介と解説を必ず書かねばならぬ。しかし彼はすべて自分流の解説しかしていない。故に、雅宣流の生長の家となる。そして、開祖・谷口雅春先生の本当の『御教え』から脱(ず)れていくのである。だから、似て非なる「雅宣教」と言わなければならぬのである。

所詮、『無』の関門を未だ超え得ぬ者が、『無』の関門を超えた世界を自分流に解説すること自体がどだい無理なことなのである。雅宣総裁はこのことに気付き今までの非礼を開祖・谷口雅春先生と信徒の前に陳謝して生長の家教団を去らなければならないのである。これが宗教家としてのせめてもの雅宣総裁の身の処し方である。






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