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聖ルチア(サンタルチア)<天の光を運ぶ聖女> (4558)
日時:2012年12月13日 (木) 04時22分
名前:伝統

今日12月13日はキリスト教の聖人であるシラクサのルチアの日。
眼を守護すると考えられている聖ルチア(サンタルチア)の日。


聖ルチアというよりも「サンタ・ルチア」といった方が通りがよいでしょう。
聖ニコラウスよりも少し前の時代の人で304年のキリスト教迫害で殉教しています。

彼女はシラクサの人でしたが、聖アガタ(祝日2.5)の噂を聞き、
病気の母の快癒を祈るため母と共にシチリア島のアガタの墓を訪れました。

その時教会でミサが行われており、たまたま母と同じ病気の女が
キリストによって癒やされる聖書の一節が朗読されていました。
親子は感動して神に祈りそして聖アガタの墓の前でまた母の治癒を祈りました。

その時ルチアは突然眠りに落ち、夢の中に聖アガダが現れて告げました。

「ルチアよ。何故私に祈るのだ。そなた自身が母を癒やす力を持っているというのに。
見よ。もうそなたの母の病は治っておるぞよ」。

そしてその言葉の通り、母の病気は完全によくなっていたのです。

ルチアは感激し、この身を神に捧げるとともに自分たちの財産も全て
神様の意思に従って貧しい人々に分配してしまおうと考えました。
親子がたくさんの施しをしていると、ルチアの婚約者が心配してやってきました。

「ルチアよ、あなたは最近ずいぶんと慈善事業をしているが少しやりすぎではありませんか?
この調子では貴方は財産をなくしてしまいますよ」

ルチアは静かに答えました。
「いえ、あなた。私はもっと有利な財産を見つけたので、それを手に入れる為に
こういうことをしているのです。あなたも手伝って下さい」

無論ルチアが言ったのは神の国へ行くための財産のことでしたが、
そうとは気がつかない彼女の婚約者はそれではと親子を助けて、
益々貧しい人々を救う事業に力を入れました。

そうするとあっという間にルチアと母の財産は無くなり、
二人は無一文になってしまいました。

そこまで来てルチアの婚約者は自分がどうもだまされたらしいと気付き、
怒ってルチアを禁じられているキリスト教徒であるとして当局に訴え出ました。

裁判に掛けられたルチアは頑として改宗を拒否しました。
そこでルチアはお前は聖人だというからそれにふさわしく、
聖殿巫女として働くようにという判決が下りました。

聖殿巫女というのは、聖殿を訪れた信者と床を共にしてお告げをする巫女兼娼婦といった
職業です。これは当然キリスト教の教えには反する仕事なのでルチアはそれを拒否して、
それなら私はここから一歩も動きませんと宣言しました。

屈強の男が数人がかりでルチアを引き立てようとしましたがダメでした。
軍隊が動員されて何十人がかりで動かそうとしてもだめでした。
とうとう縄を掛けて牛を何十頭も仕立てて引こうとしましたが、それでも動きませんでした。

最後にはとうとう千人の兵隊と千頭の牛で引いて行こうとしましたが、
それでもルチアを動かすことはできませんでした。

そこで仕方なく、ルチアはその場で処刑されてしまうことになってしまいました。
そして刑吏が彼女の喉を引き裂きましたが、それでもルチアは大きな声でこう叫びました。

「みなさんにお知らせがあります! 今日キリスト教徒を迫害していた
ディオクリティアヌス帝がその地位を追われました。迫害は終わりを告げたのです。
そしてわが姉アガタがカタニアの守護者となったように私はこのシラクサの守護者と
なるでしょう」と。

彼女の声が終わらぬ内にローマから使者が到着し彼女の言葉を裏付けました。
ルチアは重傷を負いながらもそこから一歩も動きませんでした。
そしてそのままそこで亡くなり、その場に彼女の墓が作られ、
やがてその場所に教会が建てられました。

聖ルチアはその名前が光という意味であるため(日本人なら光子でしょう)、
光と関連してガラス工の守護者、眼病の守護者、
そして喉を裂かれたので喉の病気の守護者とされています。

また聖ルチアは民間伝承では天の光を運ぶ聖女とされ、
また暗闇に光を与える女神、火を産み出す女神ともされています。

そして彼女の祝日は冬のさなかに大いなる太陽の季節の復活を祈る祝日としての
性格も持っているようです。

元々はシチリア島シラクサの聖女ですが、初期の頃から広い地域で信仰され、
特に北欧での信仰は厚いようです。

・・・・・

谷口雅春先生御講話「神癒のための集中講義」第七巻には、

眼の病は、ひとつは「光」を自分が見ないこと、
もうひとつは祖先(の魂)の中で、光から遠ざかっているものがいることによる
と雅春先生は説いておられます。

・・・以下は、「Lux(光)」に関連し、「生命の實相(幸福篇下巻<P113>)」等より

光の子とならんために光のある間(うち)に光を信ぜよ、われは光として世にきたれり。
(『ヨハネ伝』第十二章)・・・・(「生命の實相(實相篇<P77)」より)


神は光である。

われらが神を心に念じ、わが内に神を感ずるとき
われらの心のうちに光明が点ぜられるのである。

この「光明」を曇らせないことが大切である。

光が点ぜられたならば、その室(へや)の中にあるいっさいのものがハッキリ見えるように、
われらの心に光が点ぜられたら、われらが神の世嗣としてすでに与えられているすべての
善き物を、眼の前にハッキリ見出すことができるのである。

具体的に「あれ」「これ」求むるよりも、
常に心を光明で照り輝かすことのほうが必要である。

<参照>
(1)(生長の家“本流宣言”掲示板)サンタルチア【聖ルチアの日】 (5672)
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1254

(2)(当掲示板内スレッド)【目の愛護デー】 (2366)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=485

            <感謝合掌 平成24年12月13日 頓首再拝>

聖ルチアの日 (4594)
日時:2012年12月14日 (金) 01時03分
名前:

聖ルチアの日

合掌 ありがとうございます

 伝統様、よくぞこの記事をupして下さいました。
伝統様は、神様に導かれて、素晴らしいですね。

 私はこの日が聖ルチアの日だとも、聖ルチアの存在すらも知りませんでした。
いつも良い事をお教え下さいまして、ありがとうございます。


 以下は、生長の家の教義ではなく、私の経験から見つけた事柄ですので、創作物語とでも思ってお読みください。見当はずれかもしれませんので…

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 このルチアの日は、ヨーロッパ諸国で、大切に信仰されている日なのですね、
 生長の家の神様である、観世音菩薩様も、住吉大神様も、目と喉に関係する神様なのです。
聖ルチアも、目と喉に関係する方で、12月13日がご縁日なのですね、
(Wikiで見ましたら、昔は、この日が冬至であったとか、ここでも“冬至”が出てまいりましたね。
以前、別件で調べました時は、「復活」を暗示する日だったと思います。)

 谷口雅春先生は、毎日、本住吉神社に通われていた訳ですから、
別の日でも良かったものを、大神様は、わざわざこの日を選ばれて、神啓を授けられたのですね。

 どうして12月13日でなくてはならなかったのか、ただ単に、13が、谷口家にご縁のある数字だから、というだけでなく、どうして12月でなくてはならなかったのか、もしかしたら、こういう理由だったのかもしれませんね。


 私は、以前から、日本とイタリアの不思議なつながりについて、興味深く観察し続けておりました。
色々細かく申し上げておりますと、長くなりますので、
生長の家の皆様に分かりやすい点だけ挙げさせて戴きますと、

 桃の實会様のスレッドで、何度か投稿させて戴いたのですが、
最後の審判の絵に、キリストの足元に、大天使ミカエルが居て、天秤を持っている所が描かれていて、(という事をおそらく志恩様に教えて戴き、)
それが、九州の総本山の位置と符合する、と思われるのです。

 良く知られていますように、イタリアは、カトリックの総本山で、その国土は、長靴の形をしており、バチカン市国のあるローマはその足下にあります。
(イエスとミカエルは、同体だという説もあります。)

 このシラクサは、正確には、長靴をつまずかせている石の所にあるのですね(笑)

 もう多くの信徒様は、忘れてしまっておられるような気が致しますが、
生長の家の神様は、『黙示録』に描かれています、久遠のキリストで、
実際、『黙示録』が記されましたのも、この周辺(ギリシャ)の島だったと思います。


 私はイタリア人を尊敬しているのですが、
以前に天皇陛下に膝をついて敬礼して下さった騎手も、イタリア人だったと思います。
 ローマ法王も、靖国の英霊の慰霊祭を執り行って下さいました。(バチカン市国ですが)
その他にも、色々あるのですが、イタリア人も、様々に言われていますが、純粋な所があり、偉いと思います。



 いつか、住吉大神様が、イエスであり、日本国の真相(實相)が多くの人の知られる所となりましたら、
聖ルチアの祝祭日を祝っておられたヨーロッパの方々は、どんなに喜ばれる事でしょう。
自分達は、知らず知らずのうちに、同じ神様を信仰してきていたのだ、と感慨深く思われるのではないでしょうか。


 現代では、生長の家は、まるで一宗一派の宗教のような扱いで、色々気兼ねして、その素晴らしい教義を隠蔽してしまいがちなのですが、
実は、地球規模の、宗教を超えた、“真理”そのものだと思います。

 たしか、仏典(原文のほう)にも、極楽浄土は、顕現していないのではない、ただ単に、心の目が曇っているので、すでにあるのに見えていないだけ、というような事が書かれてあったと思います。



「我は平和を持ち来さんが為に来たるにあらず、かえって剣を投ぜん為に来れるなり」

 生長の家は、『総本山』を失ってはならないと思います。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
伝統様、いつもありがとうございます。
伝統様の投稿して下さった真理の言葉のお蔭で元気が出ました。

眼に関する神癒 (4604)
日時:2012年12月14日 (金) 06時25分
名前:伝統

”縹 さま” いつもありがとうございます。
この度も、目を開かせてくれる内容の投稿で、感服いたしております。

>「我は平和を持ち来さんが為に来たるにあらず、かえって剣を投ぜん為に来れるなり」
> 生長の家は、『総本山』を失ってはならないと思います。

本当にそうだと思います。
道楽やお遊びではなく、真剣に真理を説かれる総裁を望みます。

・・・

以下に、真理が説かれるところに神癒が顕現する事例(眼に関する神癒)として、
谷口雅春先生の言葉を紹介しておきます。
(生長の家“本流宣言”掲示板)(3963) ~童子 さま 記事 より
 → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=697

・・・(『白鳩』誌 昭和27年12月号 巻頭言)

昭和二十七年十月五日、埼玉県浦和市の講習会で

私は子供の状態は父母その他近親にゐる保護者の心境が反映してあらわれるものであるから、
保護者たるものは、たとい子供の現象状態にどんな不完全な形があらわれてゐようとも、
現象を本当にあると思って、それに心を執して、心の底に『不完全』を《ある》として
歎いてはならないのである。

現象にどんな不完全な形態があらわれてゐてさえも、
それはただ『心の影』として気にかけず、
『實相』の完全さのみを一心に心の眼でみつめるようにすると、

『観ることは創造することである』と云う原理に従って、
観る通りに、實相の『完全さ』のみがあらわれて、
不完全さは消えて了うと云う法話をしました。

すると、体験談発表の時間になって、埼玉県秩父郡荒川村の上林照太郎と云う人が起ち上って、
次のような話をされたのであります。

『自分の孫の〃もとえ〃は生れ出たときに驚いたことに両眼がないのであります。
荒木眼科へ行って相談すると、今は分娩後間もないからメスで切ることは出来ないけれども、
百日もしたら眼のところをメスで切って見ましょうと院長は云われました。

しかし私は、随分長い間の生長の家の誌友でありますから、
『甘露の法雨』を読誦すると共に、

『人間は神の子であるから、神が両眼のないような不完全な人間を造り給う筈がない』と、
その嬰児を抱いて神想観をし、両眼のそろってゐる完全な孫の姿を一心に、毎日毎日念ずる
ようにしました。

すると眼が自然に出来て来て、百日目にはその目があいたのであります。
今はもう完全に両眼が見えて、瞳の黒が少し小さいように見えるが、
他所の子供たちと愉快そうに遊んでゐるのであります。』 

と破天荒な体験談をせられたのであります。


長崎市外崎戸炭鉱の対う側にある大島の大前文子さんが生れた時には『白眼』のみあって
黒瞳がなく、盲唖学校で点字を習い、点字によって『甘露の法雨』を毎日読んでゐると
或る日、白眼の中央部から黒瞳が発生して来て突然見えだした』 

と云う奇蹟と一対をなす奇蹟であります。


『甘露の法雨』の功徳もさることながら、
現実に『眼のない子供』を『完全な眼がある神の子』として
その完全な相を毎日心に凝視して、ついにそれを実現せしめた上林照太郎さんの定力も
亦まことに素晴らしいではありませんか。

この事実に比ぶれば他の軽い病気や、子供の悪い癖などを、
『實相』の圓萬さ〃のみ〃を観じて癒してしまうなどのことは
いと容易いと云わねばなりません。

            <感謝合掌 平成24年12月14日 頓首再拝>

【神の光を受ける祈り】 (4651)
日時:2012年12月15日 (土) 07時35分
名前:伝統


      *『聖経 真理の吟唱』(P16)より

【神の光を受ける祈り】 

私の魂の内には永遠に消えない光が宿っているのである。
それは神から来たれる光である。
如何なる暗黒なる時にも、その光に照されて進んで行けば、
私たちは決して道に迷うことはないのである。

その光は愛の光である。
智慧の光である。
生命の光である。

愛が輝き出す時すべての憎しみは消えるのである。
智慧が輝き出すとき迷いが消えるのである。
生命が輝き出すとき疲労が消え、老衰が消え、病気が消え、死が消えるのである。

神の愛の光が、私の内に輝き出すとき「自」と「他」との障壁が消える。
利益の奪い合いがなくなり、怒り憎しみは赦しと変じ、
さらに相手を祝福することが可能となるのである。

私は常に心の窓をひらいて、神の愛の光を今受けるのである。
だから私の全存在には、神の愛の光が照り渡っているのである。

神の智慧の光が 私の内に輝き出すとき、人間が物質的存在だと見えなくなり、
霊的存在だということが悟られて来、物質的欲望が少なくなり、
霊的愛他的な行いに導かれて行き生活が浄められるのである。

すでに神の生命の光が 私の内に輝き出したのである。
わが全身は生命力にみちあふれ、老いなく、病なく、疲労なく、
溌剌として人類の共通的歓喜のために尽くすことができるようになっているのである。

神の愛の光も、智慧の光も、生命の光も、無限であるから、それは輝かせば輝かすほど、
与えれば与えるほど光輝燦然としてその光と力とを増すのであるから、

私は愛を人に与えることを惜しまないのである。
智慧を与えることを惜しまないのである。
生命を与えることを惜しまないのである。

人は神の子であり霊である。

霊であるということがわかると、自と他とが一体であり、
彼と我とが一体であり、超えんとして自他を超え、彼我を超え、
私の愛憎を超えて、全体の栄えのために尽くすようになるのである。

全体の栄えのために自己を挺身するとき、一粒の麦が姿を没して
大地に身をまかすとき、多くの新しき芽を分けつして、
多くの実を結ぶことができると同様になるのである。

私はもはや、肉体的存在でないことをさとったのである。
私は「個」にして「全」、「全にして個」である。
個性を完全に発揮する悦びを味わいつつ、しかも全体の栄えのために
身を挺してそこに何等の矛盾もないのである。

            <感謝合掌 平成24年12月15日 頓首再拝>

光を見る心 (5124)
日時:2012年12月29日 (土) 06時48分
名前:伝統

    *「光明法語」(12月29日の法語)

福山市三吉町の木工業横山勇君はこんな霊験を語った。

「私の妻は一方の眼の瞳に星がかかって、その星が次第に大きくなり失明した状態になっていた。
6月に尾道市に生長の家の講習会が開かれたとき聴講に来た。第一目の講習を受けた翌日は
眼が痛み出して二日目の講習会には出席出来なかった」。

これは迷いの自壊作用である。

「第三日には痛みが和(やわら)ぎ出席したが、何かの拍子に手が眼の包帯にふれて
包帯の位置がズレると、星に瞳孔が閉ざされ見えなくなっていた眼が見え出した」。

心が一変して光を見る心になったからである。

            <感謝合掌 平成24年12月29日 頓首再拝>



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