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”善”のみ実在する (6016)
日時:2013年01月28日 (月) 04時58分
名前:伝統


     *「光明道中記」(1月28日<一切人間を礼拝する日>)より

【既に善があってそれが出て来る。
 その善と云うものが存在の本体であり、自分の本体なんです。(『驀進日本の心と力』)】

善とは外から縛る囹圄(れいご)ではない。
吾々の生命の本性が善なのである。

吾々の生命の本性が善であるが故に、
善は内から一種の否定すべからざる圧力を以て迫って来、
吾々をして善を為すように強制する。

この力を倫理学者は当為(Sollen)と名附けた。
若し善の内圧を拒むならば、吾々の生命は苦痛を感じ、苦悩を感じ、
その苦痛苦悩を表面にあらわして、それは吾々の肉体に色々の具体的病気として表れる。

病気は抑圧されたる「善」への衝動の悩み苦しむ有様だとも、
「善」が実現せんとしてまだ空虚の状態であるとも言い得る。

従って、「善」を為すように勧めることによって病気が治った実例は沢山ある。
生長の家へ相談に来て病気が治って帰る人々の殆ど全ては善を為すように勧められ、
善を為さんと決心し、抑制せられていた「善」への衝動が解放される故に治るのである。

すべての善のうち最も大なるものは中心に帰一する心をもつことである。
子は親に対して、妻は夫に対して素直に随順感謝するとき病気が不思議に治るのである。

           <感謝合掌 平成25年1月28日 頓首再拝>

引っかかるのを悪と言い、そのままを善と言う (6055)
日時:2013年01月29日 (火) 04時23分
名前:伝統


     *『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P28(1月29日)>より

悪は無いのである。
引っかるのが悪である。

柳は緑、花は紅(くれない)、あるがまあにして美しく、
あるがままにしてそのままよいのである。

緑でなければならぬと定(き)めたときに、
紅(くれない)が来たときには われらの心は引っかかる。

紅(くれない)でなければならぬと定(き)めたときに、
緑が来れば われらの心は引っかかる。

引っかかるのを悪と言い、そのままを善と言う。

天気晴朗よし、降雨霪々(いんいん)もまたよし、風凪(な)ぐもよし、暴風もよし。
《よし》と言いて、《よし》に捉われて対応策を講ぜぬのも引っかかったのである。

そのまま《よく》、そのままそれに対応して、
自然法爾の作(はたら)きができるのが引っかかっていないのである。

(中略)

そのままでその人の生活は屈託はない。
ただありがたいばかりである。
恐れもせねば呟きをせぬのである。

人生、このごとく生きよ。
これが生長の家の生活である。

淀まぬ生活である。悩まぬ生活である。病まぬ生活である。

           <感謝合掌 平成25年1月28日 頓首再拝>

絶対善を悟り、常に善念を把持する (6103)
日時:2013年01月31日 (木) 05時01分
名前:伝統

     *「光明道中記」(1月31日<絶対善を悟る日>)より

【善くしてやろうと云う想念は相手を害し、既に善いとの想念は相手をよくする。
                         (『生命の實相』第七巻)】

すべての魂の不安を去る信念は神の創造の世界に悪はないとの信念である。
神の造り給うた人間に悪はない。病気も無く、不成績もない。

病気があるかの如く見え、不成績があるかの如く見えるのはそれは五官が見るのであり、
五官は吾が信念の賦彩(ふさい)によって真相が歪められたる相(すがた)を見るに
過ぎない。

されば如何に五官に見える相が悪しかろうとも吾々はその五官の惑(まどわ)しに
心を顛倒せしめて了ってはならない。

吾が親または子を信ずること。
吾が夫または妻を信ずること。
兄弟姉妹の美しさを信ずること。
すべて人の善さを信ずること。

形の上で縛ろうとするとき、生命は自由を欲するものであるから、
反動的に反対の方向へ動いて行こうとするものである。
信じて善念を送りさえしたら其の人は必ずよく成る。

「信じていたのに騙(だま)されました」と言う人があるものだが、
その人は信じてはいたけれども、屹度(きっと)善念を送らなかった人に違いない。

阿弥陀仏を信ずるとは「南無阿弥陀仏」と称えることである。
子を信ずるとは放って置くことではない。
「善い子だ、有りがとう」と念じ称え、感謝の念を送ることである。

・・・

【常に善念を把持すべし】

     *「光明道中記」(P33<1月31日の法語>)より

神は人間に完全なる自由を与えたのである。
幸福も不幸も健康も病気もその外(ほか)なにものでも諸君は心に描くことが出来るのである。
そこに完全なる人間の心の自由があるのである。

心に描けば法則が自働して心に描いたものを形に現してくれるのである。
諸君は自分の運命の構図を書くことが出来る。
そして好きな所に花咲かせ鳥をうたわせることが出来れば
又すきな所に地震も津波も大暴風(あらし)もおこすことが出来るのである。

全ての人々に愛念を起こすべし。
すべての悪を否定せよ。
善のみ汝の心を集中せよ。善のみ来(きた)るであろう。

           <感謝合掌 平成25年1月31日 頓首再拝>

ただ善のみ実現するための祈り (6234)
日時:2013年02月04日 (月) 04時46分
名前:伝統

     *『聖経 真理の吟唱』(P121)より

私の生命(いのち)は神の生命が地上に自己実現するために肉体として出現したのである。
だから肉体はただの物質ではないのである。わたしの肉体は神の生命(いのち)の顕現体である。
それゆえに常に完全であり、健康であり、幸福であるのが本来の相(すがた)である。

だからわたしは決して病気だとか、不健康だとか、不幸だとか、貧しいとか言って呟くことを
しないのである。悪しきことを想念して呟くのは、「言葉の創造力」の逆用である。

わたしは今、一切の消極的なものの考え方、自己劣等感を棄て去ったのである。
未だかつて私に関して如何なる”悪しきこと”も起ったことはないのである。

私は一度も病気したこともなければ、一度も災難を受けたこともなく、
一度も貧しかったこともないのである。

病気や災難や貧乏の経験が過去にあったと思うのは、それらはただ白日の「夢」でしか
なかったのである。現象はただ「夢」でしかないのである。

実相においては、常に私は健康であり、完全であり、裕かであり、
すべての善き事物がことごとく整えられ備えられていたのである。

今日(こんにち)より後、わたしは現象界をも、自分の意のままに支配するのである。
「夢」が自己の想念の具象化であるように、現象界も自己の想念の具象化であるのである。
だから自己の想念を支配することによって現象界の出来事を支配し得ることは当然だと
言わなければならないのである。

神は法則として宇宙に充ち満ちてい給うのであるが、
法則には、わたくしの差別意思はもたないのである。
神は決して、人間に自己の意思を強制し給うということはないのである。

法則は、酸素に水素を近づけなかったならば水を具体化することを強制しないのと同じように、
私たちが、心に不完全や不幸や病気を想念しないかぎりは、それらが私たちに関して
具体化してくることはないのである。

何でも心に想うことが現象界に実現し、
心に否定するものが現象界から消滅するのが法則なのである。

今より後(のち)、わたしは、ただ自己の実相の完全さのみを思うのである。

されば、私は次のごとく想念する。

「私は神の子であり、善であり、完全であり、健康であり、無限の進歩向上であり、
裕かであり、幸運にめぐまれており、家族すべて仲好く、あたかも地上天国のごとき
生活を送るのである。」

このように私は常に想念に善き事のみを念ずるのである。
だからその念ずる言葉のごとく”善き事”のみが 私の身辺には起ってくるのである。

神がこの真理をわれらに知らしめ給うた事に対して無限の感謝の意を表し奉る。
ありがとうございます。 

           <感謝合掌 平成25年2月4日 頓首礼拝>

自己自身を善たらしめよ (6542)
日時:2013年02月17日 (日) 04時39分
名前:伝統


    *『光明法語』<2月17日>(P46)より

吾々が「善」を思えば、吾々自身が「善」そのものになるのである。
吾々が破壊を思えば破壊が発生し、戦争を思えば戦争が発生する。
戦争の最初の責任者は先ず想念である。

常に「善」を以って自己の心を満たすべし、然らば汝は健康とならん。
神は「善」であり、「美」であり、健康なる「生命」である。

しかもその「善」と「美」と健康なる「生命」とは
神の切り離された断片ではなく、神そのものの3つの面であるから、
「善」がそこに實現すれば、「美」も「健康」も實現するのである。

           <感謝合掌 平成25年2月17日 頓首礼拝>

善とは「無礙無縛」を言う  (6575)
日時:2013年02月19日 (火) 04時55分
名前:伝統

     *「光明道中記」(2月19日 無礙無縛の日)より

【善にでも引っかると悪になる。心が停滞すると心の影として血液循環が一箇所に停滞し
 病気を引起す。(『生命の實相』第三巻)】

善とは無碍を言う。無碍なるが故に人事処の三相応を得る。

善とは何ぞやと云う問題は、古来幾多の宗教家思想家によって考えられ、説明された問題である。
そして「善とはこれだ! 」と一つのものに執着したとき多くの人は躓いたのである。

「善」とは形ではない。「執(しゅう)」を脱した状態こそ「善」であるから、
一物を指してコレだと執したとき「善」は消えて了っているのである。
「執」を脱したときおのづから「生命」は生きる。

「生命」が素直に生かされて行くのが「善」である。
斯う言えばすぐ「生命」を生かそうと「生命」に執する人が出来るであろうが、
「生命」に執したとき、その「生命」は既に生きなくなる。

だからキリストは警句して曰く、
「生命を獲んとするものは生命を失い、生命を損(す)つる者は生命を獲ん」と。

また諸聖は曰く
「生きようと思ったら■」「《ままよ》と思う心にならなければお蔭は得られぬ」
「泳ごうと思ったら海の底から足を離せ」

私は曰く

「善とはなんぞや。生きることだ」。

「生きるとは何ぞや」  曰く  「無(む)」。

           <感謝合掌 平成25年2月19日 頓首礼拝>

善人とは (6680)
日時:2013年02月24日 (日) 04時44分
名前:伝統


     *『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P64(2月24日)>より

善人ということは正しいばかりが善人ではない。
善悪の標準は生長の家の出現によって変化したのである。

正しくても暗い人は善人ではない、
その人は自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。

正しくとも捉われる人は善人ではない、
その人は自分を窮屈にし、他(ひと)と争い、自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。

正しくとも力の弱い人は善人ではない、
彼は自分を殺し、他(ひと)を助けることができず、
同時に他(ひと)を見殺しにせねばならぬからである。

どんなに正しい胸せまき人たちが病気になったことであろう。
真っ直ぐなということだけが善ではない。
三角も四角も円も楕円も善である。

人時所三相応せるものが善である。
生かすことが真理である。

まっすぐなばかりが善だと思っているために腹を立てたり、
胸が塞がって死んだ人の数は欧州大戦で死んだ人の数より多いのである。

           <感謝合掌 平成25年2月24日 頓首礼拝>

善と健康とを実現する言葉 (7042)
日時:2013年03月11日 (月) 03時56分
名前:伝統


     *『日々読誦三十章経』(十一日の経言<のりごと>)より

吾れは善事を求める。善事をのみ求めるのである。
吾れは万物のうちに、そして万人のうちに神の『善』の宿るのを見る。

神は『善』である。
そして吾が求むるもの、吾が思うものを、何よりも先ず与え給う。

吾れは神を吾が『愛深き父』『優しき救い主』だと認める。
吾れは凡てのうちに宿る神の調和と、宇宙にみなぎる愛と心とを感ずる。
神は凡ての者の父であり給う。

それ故に吾れは万人を吾が友、吾が兄弟であると観ずる。
誰も此の世界に吾れに敵対する者もなければ、
吾れも亦此の世界の誰に対しても敵対しないのである。

全人類は吾が親戚であり、吾れは全人類の友である。

吾れはいま万物、万人および宇宙を司どる法則が
吾が心を反映するものであることを知るのである。
―― それ故に、吾れは高き善き想念のみを心に描きつつあるのである。

吾れはいま最も輝かしき信仰と、朗らかな情緒とで満ちあふれているのである。

吾れは、『悪』に与えた力を取り返すのである。
即ち『悪』が実在すると云う思想を撤回する。
それ故に『悪』は今本来の『無』に帰したのである。

吾れはいま円満完全なる神の子である。

吾れは完全なるものと調和せるもののみを思考する。
吾れはいま健全と調和とのみを宇宙より受けるのである。
宇宙の心は吾が想念に全く相応ずる事物を造って呉れつつあるのである。

吾が想念は完全円満である。
吾が信仰は確固不壊である。

吾れは自己が完全に健康であることを思考する。
いま、吾れは既に癒されたのである。

つねに吾が求めを聴き給う神に感謝致します。

いまより吾れは神と偕(とも)に語り、神と偕に歩む。
それ故に吾れは吾れを信じ、総てのものを信ずるのである。

           <感謝合掌 平成25年3月11日 頓首礼拝>

善の本体は神なのである (7660)
日時:2013年04月14日 (日) 04時50分
名前:伝統


      *「静思集」(P237)より抜粋

唯一の善は神のみである ―― これが善の本質であります。
善の本質は「神」なのであります。是が大切なことであります。

人間が此処に現れ出たのは、神なる内部生命がちょうど、花が内部の力の発現として咲き出でる
ように、見えない内部から外部へと咲き出でたところの「神の生命(せいめい)」なのであります。
根本が定まることが必要です。

人間の生命は、神を此処に実現するため此処に発現したのであります。
人間の目的は神を実現するためにあるのですから神を実現したら善です。
その反対に神を隠したら悪になります。

この根本真理は永劫に渝(かわ)ることなき真理です。

罪というのは、神を包んで実現せしめないことであります。
神の実現を包むのが罪であって、神を現せば善なのです。

善というのは、どういう形、どういう現象とかいうものではない。
神が、善なのです。神が善の本体なのであります。

その「善」の本体であるところの「神が顕るれば乃ち善となり、義となり、慈悲となり、
調和自ずから具わり」と『甘露の法雨』に書いてあります通り「神」が善なのですから、
神が顕れたら必ず善となるのです。

「何が善か」の問題は「唯一の善は神のみである」という根本真理
―― 此処から出発しなかったならば混雑してしまうのであります。

           <感謝合掌 平成25年4月14日 頓首礼拝>

六つの誓い (9408)
日時:2013年06月22日 (土) 04時31分
名前:伝統


     *『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P173(6月22日)>より

今後必ず自分の眼に封印して他(ひと)の悪を見まい。

今後必ず自分の耳に封印して他(ひと)の悪を聴くまい。

今後必ず自分の唇に封印して他(ひと)の悪を語るまい。

今後必ず自分の眼(まなこ)を開いて他(た)の行ないの中から善きところのみを見よう。

今後必ず自分の耳を傾けて他(ひと)の言葉の奥にある善き意味のみを聴こう。

今後自分の唇を開けば必ず人の善を褒めよう。

        <感謝合掌 平成25年6月22日 頓首再拝>

人間の善なる部分のみを見る  (9867)
日時:2013年07月16日 (火) 07時10分
名前:伝統


       *メルマガ「人の心に灯をともす(2013年07月15日)」より

   (ジョン・C・マクスウェル氏の心に響く言葉より…)

   あなたが人のためにできる最善のことの1つは、その人にベストを期待することだ。
   それがあなたの魅力となり、その人を引きつける。

   私はそれを「すべての人に10点満点をつける」と呼んでいる。


   この習慣は、まわりの人たちが自分自身を高く評価するのに役立つだけでなく、
   あなたを助けることにもなる。

   ジャック・ウィーゼルによると、

   「叩き上げで富を築いた100人の人に関する調査で、共通の特徴が1つだけ見つかった。
   大成功を収めた人びとはみな、人間の善なる部分のみを見ている」という。


   ベンジャミン・ディズレーリはこのことを理解し、実践していた。

   そして、それが彼のカリスマとなった。

   「他人に対してできる最も偉大な善行は、自分が持っている富を分かち合うだけでなく、
   他人が持っている富を本人に発見させることだ」

   というのが彼の哲学である。

   もしあなたが人を高く評価し、励まし、潜在能力を発揮させるのを手伝うなら、
   その人はあなたについていきたいと思うようになる。

       <『「人の上に立つ」ために本当に大切なこと』ダイヤモンド社 >

  ・・・・・

お金を投じ、新たな事業を起こそうとする人で、
これは失敗するかもしれないと思って始める人はいない。

100%成功すると思うから、新規の事業を始めることができる。

たとえ何度失敗したとしても、
チャレンジし続ける人は、どんなときも、常に明るくプラスに考える「楽天性」を持っている。

失敗するかもしれない、という恐れを持っていては、一歩も踏み出すことはできない。


人間の見方も全く同じで、
その人の善なる部分を見るからこそ、仲間として信用もでき、ともに仕事もできる。
そして人は、認められ期待されたときに、倍も3倍も力を発揮する。


逆に、人間に不信感を持っている人は、多くの人を使うことはできない。

人間の本性は基本的には善であるという、おおらかな「性善説」でいく方がうまくいく。

人の善なる部分、明るい部分を見続ける人でありたい。

        <感謝合掌 平成25年7月16日 頓首再拝>

「悪は存在しない」、「善のみがある」 (10407)
日時:2013年08月06日 (火) 04時44分
名前:伝統


        *「光明道中記」(八月六日 娑婆即寂光土と悟る日)より

【神の創造は皆完(まった)きものである。(『生命の實相』第十一巻)】


「世界に非道が充ちていると云うことは、歴史と同じようにそれよりも更に古い文学さえも
同じように、否あらゆる文学中の最も古きものなる祭司の宗教と同じように古い嘆きである」
とカントは言っている。

けれども生長の家は、世界には何ら非道なことは存在しないと言うのである。

それは存在するものは「道」ばかりであるから、
それが少なくとも存在する限りはそれは「善」であり、
それが「善」でない限りに於て、それは如何に存在するように見えようとも、
それは「非道」即ち「道の欠乏」「道の無」をあらわしているに過ぎないとするのである。

カントも此の世界が如何に見えようとも

「人間を本性(即ち普通に生まれついている通りの)から身体(しんたい)が
健康なのが当り前だと見做さねばならぬ如く、人間をその本性上から
精神的にも健全にして善なりと見做してはならない理由はない」

と言っている。

すなわち世界及び人間の本質はそれ自身「善」であると云うことである。

釈迦はこれを「一切衆生仏性あり」と言い、「山川草木国土悉皆成仏」と言ったのである。

凡て心の眼を開いて見れば「悪」なるものは存在しない。

これ第一にして最後の真理である。

          <感謝合掌 平成25年8月6日 頓首再拝>

善のみを視(み)る日 (10428)
日時:2013年08月07日 (水) 04時54分
名前:伝統


         *「光明道中記」(八月七日)より
         
  【環境と心とは合せ鏡のように互いに影響し合う。(『生命の實相』第一巻)】 

今日いちにち自分の前に立つ人を、必ず善人であると信ぜよ。

如何なる不快なる相(すがた)をもってあらわれようとも、
その不快なる相は、現在又は過去に於て自分のどこかに潜(ひそ)んでいた不快な心の反映
であると信じて自己を省みよ。

そして相手の奥にある真実相を見て敬し、礼し、拝め。

自己には峻厳であり、他には寛大であれ。
自己に峻厳で、他に対して寛大なのは、自己は峻厳に耐え得る強さがあり、
他は峻厳に耐え得る強さがないと思い上がるからではない。

人は既に完全であるのに、その完全なる相が自分の眼(まなこ)に映じないのは、
自分の心の眼が曇っているのであるとして、責任を自己に帰し、
自己の現在の愚かさから自分自身を脱却せんがためである。

人の悪を指摘して改心せしめようとする場合には腹立った声、憎む表情
── そんなものを伴うならばこれを指摘しない方が好い。

相手のために倶(とも)に泣き得る底(てい)になったときのみ、
相手の悪を指摘してもそれは「咎められている」と云う感じを得ないで
相手を改心せしめ得るであろう。

人間は「咎められている」と云う感じを持ったとき、
魂を閉じて全く相手の忠告を受けないのである。

       <感謝合掌 平成25年8月7日 頓首再拝>

善のみが満ちている。 (10459)
日時:2013年08月09日 (金) 03時20分
名前:伝統

       *「光明道中記」(八月九日 迷い消ゆる日)より


【恐怖の宗教は人を迷いに導き、その挙句人を病気に突落す。(『生命の實相』第十巻)】
 
神の中には不幸はない。
不幸は神が完全に表現されていないからである。
神が完全に表現されていないのは、神を完全に観ないからである。

心の眼(まなこ)をひらいて神の全能を完全に観ないことを「迷い」と言うのである。
「迷い」は一つの「状態」であって「存在」ではないのである。だから不幸や災厄を
吾々の眼に視える世界から駆逐するには、ただ心の眼を開けば好いのである。

では心の眼をひらくにはどうすべきであろうか。

しずかに五官の眼を閉じ、五官によって仮りに見えているところの制限の感じを
取り去ることである。そして凡ての「善」のなかに、「幸福」のなかに、
包まれ切っているところの自分を静かに観ずるのである。

例えば次の如く ──

   自分は善のみ幸福のみの世界に住んでいる。
   自分の眼(まなこ)のとどく限り、
   自分の影響される限りの、

   すべての虚空にはただ神のみが
   幸福のみが善のみが満ちている。

       <感謝合掌 平成25年8月9日 頓首再拝>



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