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■生長の家誌昭和五十一年六月号谷口雅春先生 法語 善き”未来運命”を創造するために (7279)
日時:2013年03月23日 (土) 20時03分
名前:アクエリアン

■生長の家誌昭和五十一年六月号
谷口雅春先生 法語

善き”未来運命”を創造するために

一日の法語

困難を克服し得た勝利感

人は何故、野球を楽しみ、スキーを楽しみ、 ヒマラヤやアルプスの峻峰(しゅんぽう)に登 ることを壮快に感じ、時としては顚落(てんら く)して死することがある危険を前途に見なが ら、随分の費用をかけて、みずから進んでその 困難に直面して行こうとするのであろうか。 それは”困難”は自己に内在する”未見の我 ” ”神の子なる未見の無限力”を、顕在の世 界にあらわしたいという潜在的願いがあるから なのである。 そしてその困難を征服したときに、わたし達 は勝利の快感を味わう。生き甲斐を感じるので ある。何の困難もない平々凡々の生活が毎日続 く時には、人間は倦怠感を生じて、人生そのも のにウンザリしてしまうであろう。

二日の法語

勝利感と生き甲斐の源泉は何か

困難を克服し得た勝利感はどうして起こるの であろうか。実は”困難”というものは、”外 ”にあるのではなくて、自分の”内”にある” 心が描いた仮存在”なのだからである。 人間の実相は”神の子”であり、”無限力” であるから、”困難”などある筈がないのであ る。その本来の”無限力”を覆い隠して”包み ”(罪)によって、”困難”を感ずるのである 。一つでも、その”困難”を征服し得たという ことは”包み”を破って、内在実相の”無限力 ”が一歩一歩一層多く顕現し得たことであるか ら、自己の「実相隠蔽」を克服したことに勝利 感を感ずるのである。そして自己の「実相」が 一歩でも現象の世界に一層多く顕現し得たこと に生き甲斐を感ずるのである。

三日の法語

「我れ世に勝てり」

イエスは自分が磔(はりつけ)の刑に遭うべ き前途を予見したときにゲッセマネで祈るとき 、先ず「願わくはこの苦き盃(さかずき)をわ れより取り去り給え」と祈っているのである。 この願いは”肉体の願い”である。誰でも十字 架上に釘つけられて槍で刺されることを願う肉 体はあり得ない。誰の肉体でも、肉体は苦しみ を避け楽を得ようと欲するのである。しかし、 やがてイエスは「されど我が意(こころ)を成 さんとするには非ず、みこころの如くならしめ 給え」と、”別の言葉”を以って祈っているの である。「”苦き盃”(困難)を取り去り給え 」という前半の祈りは”肉体の願い”であり、 ”世俗的願い”である。しかし、「されど我が 意(こころ)を成さんとするには非ずみこころ の如くならしめ給え」という後半の祈りは、肉 体的自我を放棄し、その”世俗的願い”に打ち 勝ち、人類の罪の身代わりとなる崇高なる魂の 願いに身を捧げる決意ができたとき、彼は”世 俗的願い”に打ち勝ったのである。そこに真の 生き甲斐を感じ、彼は「我れ世に勝てり」と宣 言したのである。

四日の法語

世俗的な自己評価に雷同するな

人間は五官の感覚をもって自分の肉体を見、 自己を一定量の物質だという知覚を得て、常に 自己限定しつつ生活しつつあるのである。その 自己限定のままで生きている限りは、それは世 俗になじんで生きているのであり、「われ世に 勝てり」と宣言することはできないのである。 「われ世に勝てり」とは、外界の物質世界を征 服することではないのである。自己の内にある 「世俗的な自己評価」に打ち勝つことなのであ る。 自己を”神の子”と自覚することは、今これ が「自分の肉体的力」の極限だという自己限定 を打ち破って、常に自己に出来るだけ以上の事 を成すという理想目標をおいて、毎日一歩でも より多く前進し、進歩することなのである。

五日の法語

困難は実相内在の美を磨き出す研 磨機である

困難は、自己に内在する力を、平常普段の生 活以上に発揮させてくれる”呼び水”になるも のである。目標が、日常生活程度では、誰でも 出来る平凡な普通一般の生活になっていて、別 に現在以上の力を引き出してくれる機会をつく ってくれないのである。 それだから、神は一見”困難”と見える問題 又は事象を、時々すべての人に課して、それを 解決するために、その人が”日常以上の力”を 発揮する機会を与えて下さるのである。それだ から”困難”の来る毎に、その”困難”と、そ して、その困難を与え給うた神とに感謝せよ。 困難という研磨機を通して、わたし達の魂に 内在する貴き光が、一層多く燦然と輝き出すこ とになるのである。

六日の法語

運命は課せられた労役ではない

運命というものを他から課せられた労役だと 思ってはならない。”運命”を物質でつくった 革輪(ベルト)が回転させている「物質の歯車 」であるなどとは考えてはならない。”運命の 原点”は”自分の心”にあるのである。”心” が運命の原点である。 ”運命の原点”である”自分の心”が明るく 輝けば、明るい運命が自分に向ってやって来る のである。 何よりも大切なのは”自分の心”を明るくす ることである。部屋が暗いと思っていたが、実 は自分が自分所有の電燈をともさなかったから だと気がつく人は幸いである。 誰でも自己の内に無限燭光(しょっこう)の ”霊の灯(ともしび)”が決意を以てスイッチ を入れれば輝くような霊の実相の霊源をもって いるのである。

七日の法語

”心”を光明面に向くよう切り換 えよ

自分の”心”が暗黒の方向へ向いているか、 光明の方向へ向いているか、自分の心を顧みな さい。そして暗黒の方向へ向いておれば光明の 方向へ心を切り換えなさい。 ”心”という電車が、あなたの”心”の向く ところへ回転して行ってあなたを運ぶのです。 それを”運命”と人はいうのである。『愛と光 との生活』(新選谷口雅春法話集第八巻)の7 7貢には次のように書かれている。暗黒な気分 になった時には必ずこの本をひらいて、その一 節をお読みなさい。必ず心が明るくなり、運命 が明るい方向に回転してまいります。 「諸君よ、必ず諸君の心の中に”光明”のみを 描け、必ず諸君の心の中に成功のみを描け。心 に描くことは、心の世界に種子を蒔いたことに なるのです。そうして、心に”光明”の種子を 蒔いて置いてから、その手入れをし、施肥(こ やし)を一所懸命にやるように、形の世界でで も、出来るだけ勉強し、出来るだけ働き、前進 前進、ただ前進、ただ伸びることのみを知って 、一寸の暇もなく間断なく進むのです・・・・ ・・」

■生長の家誌昭和五十一年六月号 谷口雅春先生 法語 善き”未来運命”を創造するために (7280)
日時:2013年03月23日 (土) 21時13分
名前:アクエリアン

八日の法語

”心”を「幸福行」の電車に乗り 換えよ

さて、『愛と光との生活』の本には「皆さ んが幸福な成功をしようと思ったら、手足 を無暗に動かすまでに、心の向きを”幸福 行”にして 置かなければなりません」と書か れている。手足は自分で行き先の方向をき めず、”心”がそ の方向を定(き)めるので あるからである。しかし”心”は如何にすれ ば、その習慣的方向を定(き)めることが できるであろうか。暗い心を明るくしよう と思っても、従来の習慣や惰力ではどうし ても心が暗くなる人があるのである。そこ で”心”を支配するものは何か ?という重要 な問題に逢着するのである。

九日の法語

”心”が先か ”コトバ”が先か

”心”を支配するものは ”コトバ”なので あ る。聖書の『ヨハネ伝』には「はじめにコ トバあり、コトバは神とともに在り、コト バは神なりき。万のものこれによりて成 り、成りたるもの一つとして之(これ)に よりて成らざるものなし」と示されている のである。また『甘露の法雨』には 「『心』動き出でてコトバとなれば一切の 現象展開して万物成る」とも書かれている のである。「コトバ」は万物生成の根元で あり、万物の本質を成しているもの、万物 生成の第一原因はコトバであるというのが 『ヨハネ伝』の記述であるが、『甘露の法 雨』の方は、

「神が一切のものを造りたまふや(中略)
ただ『心』をもつて造りたまふ。
『心』はすべての造り主、
『心』は宇宙に満つる実質、
『心』こそ『全能』の神にして偏在したま ふ。
この全能なる神、完全なる神の『心』動き 出でてコトバとなれば一切の現象展開して 万物成る」

と示されているのである。そこで”心”が 先 であるか、コトバが先であるかの問題が生 ずるのである。

十日の法語

医師のコトバは患者の症状を左右する

ある人が近頃、肉体に元気がなく、衰弱を 感ずるので医師の診察を請うと「これは肝 硬変であるから絶対治らない。入院しても 入院しなくとも結局は死ぬ」という診断を 受けた。この診断を下された当人は、妻の 下に帰ってくると、顔色蒼白、気力喪失、 診察を受けるまではそれほどでもなかった 衰弱状態が倍加していたというのである。

この場合の現象を考察してみると、 (一)医師の診断というのはコトバで成さ れた。コトバによってその後の衰弱現象は 成ったのである。 (二)コトバが患者の”心”を動かして、不安 恐怖で満たしたのである。コトバは患者 の”心 ”を動かしたのである。 (三)”心”が不安恐 怖で満たされた結果、 彼の肉体の症状が悪化して一層疲労憔悴を 増したのである。即ち”心” は生理作用に影 響を与えるのである。

以上、コトバを”心”を動かして次に起こる 現象発生の第一原因者として解釈したので ある。しかしこの医師の発したコトバとい うのは、本人のコトバではなく、第三者た る医師が発したコトバの影響である。わた したちは第三者の不幸や病気を暗示するコ トバに左右されてはならないのである。他 より来る暗黒のコトバを防衛する方法を 知っておかなければならない。

■生長の家誌昭和五十一年六月号 谷口雅春先生 法語 善き”未来運命”を創造するために (7282)
日時:2013年03月23日 (土) 21時22分
名前:アクエリアン


十一日の法語

"心”はコトバと顕れて生理作用 を変化させる

では、第三者たる医師のコトバに左右されず 、自分自身のコトバによって、自分自身の肉体 の症状又は生理作用を健康の方向に支配するこ とができないものだろうか。この場合は「自分 の心」が先ず決意して「私は神の子である。病 気はないのだ」という明るいコトバを心の中で 発し、常に繰返し念ずるのである。即ち、「心 動き出でてコトバと成れば一切の現象展開して 万物なる」と示されている『甘露の法雨』の聖 句の順序に従って、”心”先ず動いてそれ以後 の現象が展開することに成っているのである。

十二日の法語

凡夫は三業に翻転せられて止ま る所を知らず

「南無阿弥陀仏」と称名念仏して、極楽浄土 に往生するという浄土教の諸宗の教義の場合を 考えてみるならば、称名念仏することは「コト バを発する」ことであり、「コトバの力」の応 用である。 ところで称名念仏しようと思うのは、先ず” 心”が思うのであるから「心動き出でてコトバ となる」ということである。コトバは「心のエ ネルギー」の上に乗ったアイディアの展開であ る。 ”心”は動き出でてコトバとなり、その「コ トバの力」によって万物は展開してあらわれる 。その万物を見て”心”が動く。かくて再びコ トバが生じ、コトバによって万物が生じ、その 万物を見て”心”が動く、永遠に循環展伝して 繰返して止まるところを知らないのである。こ れを意業・口業・身業ーー三業の流転といい、 業の流転のままに流され動かされていることを 「業力に転ぜらる」と言うのである。

十三日の法語

善業つねに循環す

「業が深い」などというと、過去の悪業の蓄 積が多いことに普通用いられているけれども、 業というものには善業もあり悪業もあるのであ る。善業の展開として生じたる幸福や健康や繁 栄を見て、心が幸福や健康や繁栄を心に描く。 心に描かれたこのが、また具象化するという法 則に従って、また幸福、健康、繁栄が現われ無 限に連鎖循環するに至ることが善業を積んでお けば起こるのだから、業力に翻転せられている ことは必ずしも悪くはないのである。それは善 業の永遠の流転となって、積善の報いとして善 き現象があらわれて来るので、その善き現象を 見て”心”がよろこび、”心”がよろこんで明 るくなるので、明るい積極的な愛他的な行為が 出来る。そして自然に和顔となり、感謝となり 、親切丁寧なコトバが出て来、善きアイディア が発想せられて来るのである。このようにして 、運の好い人はいつまでも好運にめぐまれ、そ の好運が常につき添って幸福な生活が自然に送 られて来るようになるのである。

十四日の法語

あなたの生活を「幸福新幹線」 に乗りかえなさい

以上は常に善業を蓄積している人のことであ るが、過去に悪業を積み重ねて来て、暗い現象 を見、心が暗くなり、心に暗いアイディアのみ が想い浮び、そのアイディアの具象化として暗 い運命、不幸や災厄や病気のおとずれに見舞わ れ、その現象を見て、更に心が暗くなって、暗 い事のみ心に思い浮かぶような気の毒な人は、 どうしたらこの業の流転を喰い停め、業力に翻 転せられる事なしに、幸福の”人生電車”に乗 り換えることができるのだろうか? それは、”不幸の業力”の電車に乗っている ままだから、その「不幸電車」が運んで行くと ころについて行くより仕方がないのである、「 幸福新幹線の電車」に乗り換えればよいのであ る。

■生長の家誌昭和五十一年六月号谷口雅春先 生法語 善き”未来運命”を創造するために (7292)
日時:2013年03月24日 (日) 09時43分
名前:アクエリアン

十五日の法語

観の原点を「実相世界」に移すこと

「幸福新幹線」に乗り換えるというのは、 言葉はやさしいけれども、一体、具体的に は、どうすればよいのであろうか。人間の 住む世界は”心の世界”であるから、”自分の 心”が不幸 ばかりの”暗い世界”を描いて、そ の自分の描いた”暗い世界”に、”自分の 心”が今まで住 んでいたのであるから、そん な”暗い世界”か ら”自分の心”を呼び出せば よいのである。「一躍超入実相地」ともい うべき境地に入るのである。今まで”自分の 心”という”生活の 原点”が、”現象の脚場”の 上に立ち、”現象 の周囲”を見廻して、その 現象の暗さのみを見て、暗いアイディアを 積み重ねて来たために、そのアイディアの 具象化としての暗い世界ばかりがあらわれ ていたのであるから、今度は、「われ今五 官の世界を去って、実相の世界に入(い) る」と、神想観実修の最初の「観の原点」 の転換をするために唱える言葉にある如 く、今まで”五官の世界”(現象界)に立っ て、現象界の暗い事象のみを眺めて来てい た其の「観の原点」を、実相世界に移すの である。そして新しき”観”がはじまる。神 の無限に完全なる智慧が満ち、その、完全 なる智慧によって構図されたる無欠の実相 世界が今ある。其の万徳現前の世界を”観 る”のである。”観る ”ことは、”既にある”も のを顕すことになるのである。

十六日の法語

色受想行識の円環を完成すること

”観る”は、心のはたらきであり、意識のは たらきであるから”意業”である、”色受想行 識”の”想業”である。”観る”ことによって 、 ”想”が思い浮ぶーー内在のアイディアが顕 在になるのである。心の世界に於いてアイ ディアが思い浮かぶとき、これを具体化す るための”行動”が起こる、それが”行”であ る。”行 ”は”想”を完成するのである。”行”が 伴わない”想”は”空想”に堕してしまう。「今 年は私の田地一段歩に十俵のお米がとれま した。神さま、ありがとうございます。」 と神に感謝して祈っても、種蒔きとか耕運 とかの”行”が 伴わない時は、感謝の念も、 アイディアの想念も空転して消えてしまう ことになるのである。”色”は波動的存在で あり、波動を受けて感覚がそれを感ずる、 その”受けて感ずる”のが ”受”である。受けて 感じて、それは何を意味するかを”想う”、 即ち感覚がアイディアとなり、想念とな り、”行動”となる。その全体を 統合総攬す る”心”が”識”である。 この色受想行識の連環 を一円想に完結するとき、単に心の波動に すぎなかったものが、現象界に具体をもっ て完成するのである。

十七日の法語

あなたに宿る”生命”は”神” である

それゆえに”行”が必要である。行動が必要 なのである。その行動の必要と仕方とを説 いたのが私の『人生を前進する』である。 毎日”光 ”をかかげて前進するものはつい に、”暗い過 去の影”を消して光明輝く世界 に自分の住む世界を光転してしまうことが できるのである。『人生を前進する』の本 には、幾たびも過去に地殻が変動し、一度 築かれたものが破壊されて地殻の中に埋没 されても、またその地殻の上に何かを築き あげずには置かなかった大自然の生命力の 逞しさを説いて、それと同じ生命力が自分 の内に宿っていることを説き、次の如く結 論しているのである。

「諸君に宿っているところの生命力もおよ そかくの如きものである。生命がかくも執 拗にたくましく、埋没されても、圧下され ても、滅びることを知らずに伸びることの みを知って退嬰しないのは生命とは『神』 であるからである」(『人生を前進する』 200頁)

■生長の家誌昭和五十一年六月号 谷口雅春先生法語 善き”未来運命”を創造するために (7308)
日時:2013年03月25日 (月) 17時15分
名前:アクエリアン

十八日の法語

ころぶたびに前進している

まことに人生は”七転び八起き”である。現 象はころんだように見えても、その人の魂 はころんでいないで、ころぶたびに前進し ている。わたしは九州に移転してから曾孫 に午前一回、午後一回、お茶の時間に会う ことにしている。まだ生後一年数ヵ月にし かならない其の幼児は、一分間もじっとし ていないで室の中を走り廻るのであるが、 まだ歩き慣れないものだから、時々倒れ る、けれどもその倒れたことを悲しむこと もなく、にこにこ笑いながら自分で起きる 。彼は倒れた姿勢のときから立ち上がるの に、どこの筋肉はどのように力を入れれば 立ち上がることができるか、それを自修し つつあるのであり、ついに誰に教えられな いでも、絶対に倒れないで歩いたり走った りする術を自得し、横に伏したり、俯向き に臥した状態からどのように腕をつっぱ り、脚を動かせば直ぐ起き上がれるかを習 得する。彼は幾度も倒れながら、彼は常に 前進しているのである。わたしは、こんな 幼な児の、生命の不屈不撓の精神を讃美す る。イエスは「凡そ、天国に入る者は、こ の幼児の如きものである」とわたしのよう に、また別の意味で讃美しているのであ る。

十九日の法語

病気は自己限定によって起る

『愛と光の生活』の91頁には”病気も怠け 者も本当は無い”と題して次のように書かれ ているのである。----------

「神様は善でいらっしゃいますから、悪い ものを決してお創造りになりませんでし た。悪いものを神様は決してお創造りには ならなかったのでありますから、悪いもの はあるように見えても、それは無いので す。病気もあるように見えても無いので す。あなたがたとい怠け者に見えていよう とも、怠け者のあなたは無いのです。本当 のあなたは決して病気でもありませんし、 怠け者でもないのです。ただあなたはあな たの心で、病気のように、また怠け者のよ うにあらわしているに過ぎないのです。そ れは一万円であっても五円位きり出さない のと同じなのです。病気や怠け者は、ある だけの力を出さないで、一万円を五円の値 打ちだと思い間違えているのと同じなので す。」

と示されているのである。 つまり、”人間・ 神の子、無限力”と自分の 実相の”本当の健全 さ”を悟ると、自己限定 によって生じている病気は消えてしまうの である。

二十日の法語

運命の三種類について

現在の不幸や病気を運命だなどと考え、自 らの考えによって、その不幸や病気を現象 面に固定させてしまってはならないのであ る。だいたい運命には三種類あるのであ る。

一、根本運命
二、中間運命
三、未来運命

の三つである。

二十一日の法語

人間の根本運命には不幸も病気もない

だいたい”運命”の”命”という字はイノチ とも ミコトとも読む字である。ミコトとはミコ トバ(御言)のことであって、人間のイノ チは神のミコトバが宿っていて、それがわ れわれの人体に運(めぐ)り循環している ので、われわれは生きているのである。新 約聖書の『ヨハネ伝』に、

「言(ことば)は肉体となりて我らの中 (うち)に宿りたまえり。我らその栄光を 見たり」(第一章十四節)

とある。根本運命とはこの一節に録(し る)されているわれらの内に宿るところ の”栄光”で あるのである。この栄光ある”神 の子”として の実相を、”根本運命”又は”根 本業”として 、神の像(かたち)の如く、不 可視の神の像(かたち)が、可視的像(か たち)をもって生まれて来たのが人間であ るのである。この”根本 運命”として授かっ て来た”命”をそのまま歪 めることなしに運 行せしめて来たならば、人間はいつまでも 本来の完全の相(すがた)にあらわれて、 病気や不幸はあり得ない筈なのである。 ”根本運命”というのは、「人間は”神の子” であり、あらゆる方面に於いて完全円満無 欠である」ということである。これは変わ ることなき人間の享けた根本の運命であ る。

■生長の家誌昭和五十一年六月号 谷口雅春先生法語 善き”未来運命”を創造するために (7321)
日時:2013年03月26日 (火) 17時20分
名前:アクエリアン

二十二日の法語

中間運命について

第二の中間運命というのは、人間が自己の 肉体的顕現を見て、自己を物質的存在であ り、有限の存在であり、他より奪わなけれ ばその”有 限”を何とか”やり繰り”できない 不完全な存在だと誤認することによって、 実相の完全な顕現の上に、”迷い”のヴェー ルを着せられ、実相が眩まされて不完全に あらわれて生活が狂って来た、その狂って 来た生活に於いていとなんだ”間違いの 業”の運行が中間運命として、現 世の生活に あらわれているのを指すのである。

その中間運命の現在の運行の轍から大抵の 人は免れることができない。それは自分自 身が造った業であり、その業の轍の運行に 今も自分が関与して、それを運(めぐ)ら す”心の力”を それに加えつつあるからであ る。

二十三日の法語

あなたは”過去の業”の後押 しをしていない か

自分自身が”心の力”を加えて、不幸や病気 をつくる”過去の業”を後押しして運行せしめ ているのであるから、”過去の業”に引きずら れて、その業の運転する方向へ進んで行く ほかはない。そして「因果は免れることは 出来ない」とか「業というものは果たさな ければならない」とか思ったりして”呟 く”のである。

わたしが一般人は、過去の業の轍に”心の力 ”を加えて後押ししているというのは、「過 去の業は果たさねばならない」とか「因果 は免れることは出来ない」とか思うことを 指して言うのである。「思う」ということ は「意業」のエネルギーを加えて更に”過去 の業”に後押しし ていることであり、それを 言葉に出して言ったり呟いたりすること は、”言葉の業”(即ち口 業)によって、”過 去の業”の運行に拍車をか けて益々、その業 力を強めて、自分自身が”業 ”の運行に引き 摺られて行くことになるのである。

二十四日の法語

あなたの根本運命に超入せよ

あなたが、もし”過去の業”を”心の力”( 意 業)や”口業”(言葉の力)によって後押し をしているならば、即刻、今それを止めな さい。つまり言葉や呟よって、「自分には 悪い業がつきまとっている」とか「業は果 たさねばならない」とかいうことを表現す ることを止めなさい。そして、「人間・神 の子」の地上誕生の” 原点”に心を振り向け なさい。あなたは決して、”過去の業”を”誕 生の原点”としてこの世 に生まれてたのでは なかったのです。”心”を 一躍させて、”神の コトバ”によって創造られ て完全な自性を もって生まれた其の原点に還るのです、 『創世記』が示すところの「神の像(かた ち)の如く人を創造(つく)り」と神が仰 せられて、人間をつくり給うた”人間の根本 運命”に立ちかえるのです。根本運命だけ が、青空のように常住なのです。”中間運 命”に心を 引っかからせて現実の不幸や病気 を悩んではなりません。”中間運命”は、青 空の上に途中から湧き出た”雲”のようなも のであり、それは根本実在ではないから、 あなたが”心の力”で それを握って、消える のを妨げない限り必ず消えるのです。あな たの”心”の中から”中間運 命”に過ぎない不幸 や病気を、今直ぐ放ち去って、常住の存在 である青空の如き、あなたの根本運命「人 間・神の子の実相」に想いを馳せ、その根 本運命こそ実在だ、そのほかに何もないの だと、「実相」の中に超入するのです。

■生長の家誌昭和五十一年六月号 谷口雅春先生 法語 善き”未来運命”を創造するために (7328)
日時:2013年03月27日 (水) 18時51分
名前:アクエリアン

二十五日の法語

自己の実相たる神の根本業を 観よ

わたしは人間の運命を「根本運命」 「中間運 命」「未来運命」という語 で説明して来ました が、それを次の 如くを言い換えれば、人によっ ては 一層理解し易いかと思います。 ”運 命” という語を”業”という語におきか えるので す。

一、根本業(根本運命)
二、中間業(中間運命)
三、未来業(未来運命)

「根本業」というのは、神のコトバに よって 、天地一切のものを支配すべ き「神の代表」( 神の像(かた ち))としてつくられたところの 、 あなた自身の存在の根元たる神のみ業 (わざ )のことであります。”神のコ トバ”が「汝、 わが像(わが代表)と して天地一切のものを支 配せよ」と 仰せられた。その「コトバ」が我ら の内に宿り給うて地上に誕生した自己 の実相の 尊厳さと栄光とを”自覚”の 内に観るのであ ります。

「ここに神の御業によって誕生し た”神の子 ”たる自分がある」と、今 直ちに自分の実相の 完全さを観、”神 の子”の完全さを繰り返し コトバに唱 え、繰返し心で念じなさい。また毎 朝神想観のときに念じなさい。病気な んていう 中途に出来た”迷いの雲”は 吹っ飛んでしま うでしょう。

二十六日の法語

神の根本業こそ本当の実在で ある

「根本業」とか「中間業」とか「未来 業」と か申しましたが、”業”という字 は”わざ” と読む字で行動または行為 を表現するのであり ますが、神は 「万物を想うということによって 創 造った」と仰せられているのである が、(『 神 真理を告げ給う』参 照)”想う”という行 為をするとは、何 をするかと言いますと、コト バ即ち アイディアを心の中に思い浮かべ、そ れ を心の中で唱えていることであり ます。それは 心の中にコトバを唱え ていることでありますか ら、意業で あると共に、口業であります。それ だから”業”という字はわざと読む字で あり ますが、業(鳴り)とも読まれ る字であります 。在原業平という 『伊勢物語』に出て来る有名 な歌人 もありましたが、生活とか渡世とかい う 意味の語に「なりわい」(業生 い)という語も あります。

兎も角、「元始(はじめ)にコトバあ り、コ トバは神とともにあり、コト バは神なりき」と いう『ヨハネ伝』 の冒頭の語は、神の”根本業 ”として コトバ(アイディア)が業(わざ)と なり行動となって、”人間神の子”が創 造さ れた人間存在の根本業(根本運 命)を示すので あって、その根本業 にくらべれば、中間業とし ての現在 の不幸な運命の如きものは浮雲のよう に間もなく消えて行くべきものであり ます。

二十七日の法語

お前の商売をやめて神の商売 をやれ

『生命の実相』の中にこんな話が書か れてあ ります。第一次世界大戦のと き、巨億の船成金 になった山下市助 さんが大正九年の恐慌のとき にすべ ての財産の価値が暴落し、借金だけは 暴 落しないので、三百万円の借金が 出来、(当時 の三百万円は現在の三 十億円にも当たる)その 返済が不可 能になった時、山下市助さんは金光 教の信者であったので、当時有名な指 導者であ った大阪泉尾教会の三宅先 生に指導を求めると 、先生はいとも 簡単に「借金なら払ったらよい 」と いわれた。「払える力がある位なら先 生に 相談にまいりません」と市助さ んが答えると、 三宅先生は「お前に は払えないかも知れないが 、神なら 払える。今日からお前の商売はやめて しまって、神の商売をやれ、そして神 の番頭と なって、神さまのお導きの ままに動け」といわ れた。そのお導 きの通りに実行して破産の宣言 をま ぬがれ、再び捲土重来して満州に鉛の 鉱山 を経営されという実話が載って いるのである。

■生長の家誌昭和五十一年六月号 谷口雅春先生法語 善き”未来運命”を創造するために (7347)
日時:2013年03月28日 (木) 20時38分
名前:アクエリアン

二十八日の法語

自性円満の根本運命に還って出直すこと

「今から、お前の商売をやめて、神の商売 をやれ、神ならどんな巨額な借金でも払え る」という指導は、単に、商売や、金銭上 の問題だけではないのである。「今からお 前の生活をやめて、神の生活をはじめる。 神ならどんな困難も切り開くことが出来 る」という意味にも解することが出来るの である。人間が色々の生活上の問題で困難 を生ずるのは、人間の「我の心」で利己心 が出たり、欲心が出たり、煩悩が出たりし て、根本運命であるところの「自分は神の 子」であるという自性円満を忘れてしまっ て、「自分は猿の子孫で、動物と同じよう な下等なものだ」という現代科学とやらの 示す常識で”中 間運命” の不完全な生活をす るからなのである。こうして生じた困難を 解決するには、宜しく”中間運命” の世界に マゴマゴすることなく、自分の”根本運命” たる「人間神の子」の実相に立ちかえって 生活をやり直すのがよいのである。本源に 還るということによってのみ人間は自由無 碍の世界に出ることが出来、困難が解消す るのである。

二十九日の法語

毎日一定時間に神想観を修すること

『人生を前進する』という本の第四十七章 には次のように書かれている。

「人間は神の自己実現である。最高の自己 実現なのである。自己実現ということは坐 して手を拱いていて”神の実現”が出て来る ということではなく、日々の行持を通して 行動化してあらわれて来ることなのであ る。」

われわれは日々の行持を大切に実行しなけ ればならないのである。朝起きて洗顔を 終った時、一定時間を定めて必ず神想観を することによって、自分の心を神の方向へ 向けかえてその日の出発をするがよいので ある。成就したい希望があるならば、神と 一体感を得た心の状態に於いて、その”希 望”を心に唱え、その希望が ”心の世界”に於 いて既に成就したことを感謝するがよい。 その希望の成就が世のため人のためになる と同時に、自己の魂の向上に役立つもので あるならば、”心の世界”に於いて既に受 け て感謝したところのその事柄は屹度(きっ と)現象界に投影して、実現して来るに相 違ないのである。

三十日の法語

善き幸福な”未来運命” を創造するために

本源に心の視点を定めて、”根本運命”たる 神の子に本来定められている幸福を見、健 康を見、繁栄を視るがよい。

人間の根本運命は、神がつくった根本の御 業(みわざ)(根本業)なのであるから、 それが唯今、現象界にあらわれていよう と、あらわれていまいと、それは消えるこ とも無くなることもないのである。”運が悪 い”という人は、” 根本運命”が悪いのではな く、神のつくった根本の御業(みわざ) (根本業)の運行に随わないで、自分の”我 の心”で選んだ、道なき道 を勝手気儘に進ん で来たからなのである。

”運が悪い”と思う人は、ここらで一寸たち 停って、自分の生活が本当の道の上を歩い ているか脚下照顧して考えて見ることが大 切なので、自分が途中で、どんな業(わ ざ)をしたか、人を憎んだことはないか、 腹を立てたことはないか、人を怨んだこと はないか、憂え悲しんで暗い心になったこ とはないか、栄えている人を見て嫉妬した ことはないか、自分の持ち分でないものを 羨んで欲しがったことはないか、人と喧嘩 したことはないか、恩ある人を逆に罵った ことはないか、これらのことは途中で自分 がこしらえた”中間業”であるから、一度そ れを懺悔して洗い浄めてしまってから、青 空のように曇りのない本来運命の方へ進ん で行き、本来運命の延長としての、唯、善 のみ、幸福のみ、繁栄のみの”未来運命”を 創造して行くがよい。その善き未来運命の 建物を建てる地均(じなら)しとして、一 度は練成会に参加して、浄心行を受け、以 上あげたような色々の”中間業 ”を紙に書い て懺悔し『甘露の法雨』の集団読誦の中 に、その懺悔の神と共に悪しき”中間 業”を 消去してしまうがよい。



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