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幸い (475)
日時:2012年08月17日 (金) 04時53分
名前:伝統


「幸せ」について、”生長の家“本流宣言”掲示板”では、
スレッド「幸せとは (5453)」で紹介して参りました。
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1185

この掲示板においても、続けて紹介して参ります。


この掲示板での幸福へのスタートとして「聖経 真理の吟唱」(P86)より


【万人の福(さいわ)いを招く祈り】

人間は神の子であり、すべての人間は神において一体である。
それゆえに何人(なんびと)も他の人を幸福にする働きをしない限りは、
自分自身も幸福になることができないのである。

神において一体であるところの人間にとっては、
「他の人」というものは本来あり得ないのである。
「他の人」と見えている人たちもことごとく自分自身に過ぎないのである。

人間は他の人の幸福な笑顔を見たときに自分自身も幸福感に打たれるのである。
家族のうちの誰かが悲しみに打ち挫(ひし)がれた憂鬱な表情をしているとき、
自分自身も憂鬱な暗い感情に滅入ってゆかざるを得ない体験は、
誰にも今まで一度ならずあったに相違ないのである。

自他は肉体的には別々に見えていようとも、精神において一体であるから、
このような現象が起こるのである。

どんな人間も他の人を幸福にする働きをした時にのみ幸福感を味わう。
どんな人の人生も、他の人を幸福になし得た程度において、
その人の生活の価値が定まるのである。

どんなに社会的に高い地位を得ようとも、どんなに経済的に裕かな富を得ようとも、
他の人を幸福になし得ない人の人生は真に成功だと言うことはできないのである。

「これから毎日誰かに、必ず一度は親切をしよう」こう決意してそれを実行することが
その人の幸福生活の始まりである。
親切は人に与えても減るものではないのである。

親切は与えれば与えるほど、自分に倍加されて返ってくるものである。
親切な心なくして人に対せば、人間関係は必ず不調和になるであろうし、
親切な心なくして物に対せば、その物は充分の力を発揮しないであろうし、
親切な心なくして事に対せば、何処かに行届かぬ点が生じて事を敗(やぶ)ることに
なるのである。

私は今この真理を深く心の中に銘記したのであるから、
全ての人に、物に、事に対して必ず親切をもってし、できる限り、
他の人々に役立つ生活を生きることを決意したのである。

必ず一日一回以上は、誰かの為になる仕事または行為を見出して、それを実行するのである。

物質的な事業はやがて消えて行く時がくるであろう。
物質的な富はやがて滅びてしまう時がくるであろう。

しかし人に親切をし、人を生かし、人の為になった愛行と徳行とは永遠に、
死を超えて不滅なのである。

競争者の繁栄を羨むことなかれ。競争者は他山の石であり、
自分の能力に拍車をかけてくれるための味方の声援である。
競争者は自分の能力を引き出してくれる水揚げポンプのようなものである。

私は今この真理を知るがゆえに、不滅の高き徳行の宝塔に向かって、
われどれほどの愛行を為し得るかと、わが愛の力を試さんがために、
神の愛行のサークルをマラソン競争の選手の如く、すべての人類とともに仲よく、
人生のコースを一歩一歩愛と讃嘆と祈りとをもって走るのである。

すべての人類が幸福でありますように。ありがとうございます。

       <感謝合掌 平成24年8月17日 頓首再拝>

【ミッキーマウスは来てくれない】 (527)
日時:2012年08月18日 (土) 04時59分
名前:伝統


      *メルマガ「人の心に灯をともす(2012年08月13日 )」より


   斉藤一人さんの心に響く言葉より…


   空気中には、病原菌だっていっぱいいる。

   社会に生きているってことは、大変なことが山ほどある。

   それを大変だって思う人もいるけど、私は大変だと思わないんです。
   あたりまえだって思っているんです。

   そんな中で、「仕事って楽しいな」とか「空気が吸えて幸せだな」とか、
   「日本じゅうの人が、私を待っててくれて幸せだな」とか思うんです。

   待ってたら誰かが幸せにしてくれるって言っても、待ってても誰も来ないんです。
   待ってても、ディズニーランドが向こうから来てくれるわけじない、
   いいものはこっちから行かないと。

   ミッキーマウスが家に来ることはないんです。
   ミッキーマウスに会いたかったら、行くしかない。

   誰かに幸せにしてもらおうとしても、無理なんです。

   そういう人はたいがい不満をためる。
   それで、不満をためてる人は、家庭や、職場や、どこかで吐き出すんです。
   それは、人に迷惑をかけてしまうんです。

   人に迷惑をかけている人は、幸せとはいえない。
   幸せになりたいんだとしたら、そろそろ、そういうことはやめたほうがいい。

   幸せは、自分の意思で作りだすものなんです。
   それでも、どうしても不幸が抜けないんだとしたら、そこから抜ける方法があります。

   不幸な人は、必ず微笑(ほほ)えみがないんです。
   笑顔がないんです。

   幸せだから笑顔になるんじゃありません。
   笑顔だから幸せな気持ちになるんです。
   先に笑顔なんです。

   もう一つ、不幸せな人の特徴があります。
   礼儀が足りないんです。
   
   笑顔で礼儀正しい人に、不幸な人っていないんです。
   これだけは絶対なんです。

   「マイ・フェアレディ」って映画がありましたけど、
   マナーを守って微笑むようにしたら、誰にでも奇跡が起こるんです。

        <『ゆほびか GOLD vol.15』マキノ出版>

   ・・・

「笑顔を出したほうがいいよ」というと、
楽しいことがないから笑顔は出せない、という人は多い。

同様に、「朝、嫌なことがあったから、なんでほんとうのこと言っちゃいけないんですか」
と言って、不機嫌な人がいる。

それに対して、斉藤一人さんは、こう言う。

「じゃあ、あなたは、髪が少ない人を見たら、ハゲてますよって言うんですかって」

嫌なことがあるから不機嫌だという人は、不幸だから笑顔が出ない、というのと同じだ。

先に、上気元(上機嫌ではなく)になるから、いいことばかり起きるし、
先に、笑顔を出すから、幸せになる。

同時に・・・

礼儀正しい人は、挨拶がしっかりとできる。
礼儀正しい人は、「はい」という返事が気持ちいい。
礼儀正しい人は、「ありがとう」や「感謝」の言葉が多い。

だから、相手を不快な気持ちにさせないし、自分も機嫌よくいられる。
笑顔と挨拶を磨き、上気元で、幸せに過ごしたい。

       <感謝合掌 平成24年8月18日 頓首再拝>

幸福を實現する思念法 (1475)
日時:2012年09月16日 (日) 06時20分
名前:伝統


   *『生長の家』誌(24年10月号)より
    (”童子 さま”のブログより拝借いたしました。
     ”童子 さま”のお許しをお願い申し上げます)
 
祈る場合に、先ずその祈り求めるものが、正しいかどうかを省みよ。
正しいと云うことを窮屈な意味にとってはならない。

《1》 その求めるものは建設的なことであるか。
       ― 破壊的なことは正しい願いではない。

《2》 誰かを豊にすることであるか。
       ― 誰かを乏しくならせることは正しい願いではない。

《3》 誰かを不幸に陥れたり、損失を与えたりするものではないか。

《4》 此の世に混乱を起したり、誰かの感情を掻き乱したりするものではないか。


これらの自己反省をしてみて、そのテストに及第するものであれば、祈って好いのである。
そしてその祈りの言葉は宇宙的な創造力によってバックされ実現の途上にあると信じて好いのである。

實相は最大の力である。

それは『實』であるから、如何なる『虚』の力もこれに対抗することは出来ないのである。
一つの『實相』の想いは百万の『虚』の想いを打ち消す力があるのである。

我々はどんな不幸が眼の前に顕れてきても、それを『實』と見ないで『虚』であると見るのである。
我々は見せかけの外貌を超えてそこに『實』にある『完全さ』を見なければならない。

闇はどんなに深くとも、それは『虚』であり、ニセモノであるから光に対抗することは出来ない。
悪は如何に姿をあらわしても、それは『虚』でありニセモノであるから、善には対抗することは出来ない。

善のみ実在することを信ぜよ。
それを言葉に出して語れ。
悪を言葉で否定せよ。


眼を瞑って、瞑想せよ。

 『人間は何であるか。
  人間は物質ではない。 肉体ではない。 霊である。霊は金剛不壊である。 

  だから黴菌に侵されることはない。気候風土の変化によって病気になることはない。

  霊は神通自在であるから、決して不幸に陥ったり
  貧乏になったりすることはないのである』


静かにこう念じて不幸を見るな。 幸福のみを見よ。
病気を否定せよ。 貧乏を否定せよ。
健康のみを見よ。 富裕のみを見よ。

心の世界に、幸福のみによって輝く世界を、
健康と富裕とに祝福されたる自分の姿を見詰めるのである。

  これを毎日数十分づつ続けよ。

  (”童子 さま”のブログ<2010/12/14(火)>アドレス
    → http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18229860.html )

       <感謝合掌 平成24年9月16日 頓首再拝>

【逆境は幸福である】 (2303)
日時:2012年10月08日 (月) 04時29分
名前:伝統

   *「人生読本」(P239)より

今まで、普通の人は、困難というものと、不幸というものとを同じ意味だと考えて、
困難は不幸である、「ああ困難がやって来た、自分は不幸である」とこう考えたものであります。

ところが生長の家では「困難」を「幸福」であると教えるのであります。

私達は障礙(しょうがい)物競走をしたり、或いはオリンピック競技に選手として出場しましても、
あの競技は一種の困難である、困難であるけれども、あの選手たちはあれを不幸であると思っていない。

あれは幸福である。
もし、あれが平地を歩く競技であって御覧なさい。
平地を歩くには困難がないから却って面白味が少ない、力も出ないのです。

困難はかくのごとく幸福なのです。
普通の人が困難を不幸であるとするのは、一種の迷妄(まよい)でありまして、
そのために困難の前に立竦(たちすく)んで、徒(いたずら)に人間一疋(ぴき)、
何事も成し得ないのです。

ところが生長の家では、人間は神の子であるから逆境に立てば立つだけ、
二倍三倍の力が出て来るという事を教えるのでありますから、
どんな場合に処してでも挫折してしまうということがないのです。

無限に力を引出してくるということができる
―――これこそ生長の家で教えられた人の特長であります。


私達の生命は、たとえば水のようなものであります。
フラスコの中に静止せしめて常温に置かれた水は困難な状態ではない。
チャンと箱入娘みたいに護られた状態です。
その代りにどんな力も出てこないのであります。

これを一旦高所へ上げて、そこから落差をつけて落としましたならば、
何万キロワット、何十万キロワットの水力タービンでも動かすことができる。
これは水が嶮(けわ)しい高所に、逆境に置かれたための賜(たまもの)です。

或いは皆さん、水の下から何千度という石炭の燃焼熱を与えてやると、
たちまち沸騰して、蒸気の力で何千馬力の大機関車でも動かすことができましょう。
これも水が逆境に置かれた賜であります。

私達は、逆境を不幸であると考えることが間違いなのです。
逆境は私達の中に宿っている無限の力を掘り出してくれるところの「縁」を与えてくれる、
たいへんありがたい友だちであると思わなければならないのです。

そうなりますと、私達は決して逆境や困難に挫折しない。
困難のくる度毎に、自分はそれだけ高まるのであるということを常に信じる事ができて、
どんな逆境も困難も、失望や落胆の原因となるものではありません。

逆境に置かれ困難に置かれるほど、常に私達は伸びるほか仕方ないのであります。

【この常に伸びるほか仕方ない生活、これが生長の家の生活であります。】

それには自分が神の子であるということを自覚することが根本であります。

私たちが困難に対して崩(くずお)れてしまい、挫折してしまうというのは、
自分の中(うち)に生きている「生命(せいめい)」が有限であり、
単なる物質的エネルギーであって、それには限りがあり、或る程度以上の困難になると、
打勝つことができないものであるというような間違った考えを以て
自分自身の生命(せいめい)を委縮させているからなのです。

ところが一転してこの生長の家の人生観になりますと、
自分自身の本体は、神の生命(せいめい)が”ここ”に宿っているものである、
或いは仏の生命(せいめい)が”ここ”にあるのである、

どんな力でも無限に出てくるのが”この”自分自身であるという確固とした自覚を得ますから、
困難に逢えば逢うほど、内から湧き出してくる力が多くなってくるのであります。

或る教祖は「難儀は節(ふし)や、節から芽が出る」ということを言いましたが、
これは実に易しい言葉で真理を穿(うがって)っています。

どんなに攻撃されても迫害されても、「難儀は節や、節から芽がでる」と信じていると、
どこまでも伸びる底力がどこからか出て来るのであります。

       <感謝合掌 平成24年10月8日 頓首再拝>

永遠の問い、「幸福とは」に迫る (2950)
日時:2012年10月29日 (月) 04時46分
名前:伝統


  *AERA 2012年10月15日号 より

何が人を幸せにするのか、幸せを決定する物質は何か。

心理学や脳科学、経済学などで、人間の幸福感を解明しようとする研究が進んでいる。

米ウィスコンシン大学のリチャード・デビッドソン教授(心理学・精神医学)らの
グループは、脳の働きから幸福感に迫ろうとする。

左脳前頭葉部と右脳前頭葉部の脳波の活動を調べ、
左脳部分が右脳に比べて活発な人は幸福感も高いとする結果を報告した。

右脳は主に五感を、左脳は主に論理や思考を司るといわれる。

デビッドソン教授は、日常的に瞑想をするチベット仏教僧の脳波も調べている。

すると左脳前頭葉部の活動が著しく活発だった。

瞑想の訓練をした人としなかった人とでも違いは明らかだったという。

「脳の働きも技術の習得と同様に、意識して訓練すれば変わる。
それによって幸福感も変化します」(デビッドソン教授)

「訓練」にはさまざまな方法があるが、
「たとえば他人の幸せや健康を心に思い描く瞑想法は効果的」だという。

「私自身、30年以上瞑想を続けていますが、不安や怒りといった負の感情が減りました」


幸福感を高めるための「介入」の研究も盛んだ。

米国では感謝の気持ちを持つと幸福感が増すという研究報告もある。

2003年の研究では被験者を3グループに分け、
一つめのグループは過去1週間を振り返って感謝することを5つ、
二つめは面倒だったことを5つ、
三つめには起きた出来事を5つ書かせた。

9週間続けたところ、
「感謝」のグループの人たちが、もっとも人生の満足度が高かったという。

       <感謝合掌 平成24年10月29日 頓首再拝>

小さなしあわせに気づく (3678)
日時:2012年11月17日 (土) 06時14分
名前:伝統


     *メルマガ「人の心に灯をともす(2012年10月29日)」

  斉藤一人さんの心に響く言葉より…


  しあわせになるには、何かをする前にしあわせになるの。
  日本に生まれてしあわせだなとか、今日も目が覚めてしあわせだなとか、
  とにかくしあわせになる。

  それで、しあわせになってから行動するんです。

  いちばんいけないのは、しあわせになるために何か行動することなの。
  なぜかって言うと、それは今、しあわせじゃないんだよね。
  つまり、不幸って自分で認めていることになるから。


  それでうまくいかない人の多くは、はたから見てしあわせそうじゃないんだよ。

  まわりから見ても、しあわせそうに見えないとダメ。


  たとえばおいしいおまんじゅうがあったとするでしょ。
  おいしいだけじゃダメなの。
  おいしそうに見えないとダメなのね。


  会社に行ったら「一生懸命仕事してます」とか「楽しく仕事してます」って
  言うけど、そう見えなかったらダメなんです。

  しあわせになりたかったら、しあわせだと思うこと、
  しあわせに見えることが大事なんだよ。

  そうすると、そういう人が寄ってくるの。

  上に上に向上していくと、やはりそれに見合った人格が現れるんです。
  自分が向上すればまわりに向上した人が集まってくるの。

  それで、たとえば人の悪口ばかり言っていた人は、
  そういう人が集まるところに行くから、これも“引き寄せの法則”なんだよね。

  弱い者いじめしていた人は、そういう人が集まるところに行くの。

        <『変な人の書いた世の中のしくみ』サンマーク出版>

     ・・・・・・・・・・・

しあわせそうに見えない人は、不幸のオーラを発している。
不平不満や愚痴ばかり言っていたり、暗い顔をしていたり、挨拶がなかったりする。

しあわせそうに見える人は、小さなことにも「ありがとう」と感謝したり、
うれしいとか楽しいとか、ニコニコ笑顔で言っている。


おまんじゅうやケーキは、「うまい」だけじゃダメ、
「うまそうに見える」ことの方が大事。

だから…

「元気がいい」ことより、「元気がよさそうに見える」こと。

「運がいい」ことより、「運がよさそうに見える」こと。

「ツイている」ことより、「ツイているように見える」こと。


「今日目覚めることができた!自分は運がいい!」、
と何かをする前から運がいいと思うこと。

そのためには、まわりから、運がよさそうに見えることが必要。

小さなしあわせに気づく人には、しあわせな人が集まる。

       <感謝合掌 平成24年11月17日 頓首再拝>

幸せのかくし味  (4085)
日時:2012年11月29日 (木) 07時13分
名前:伝統


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2012年11月25日)」より

  美輪明宏氏の心に響く言葉より…


  今すぐ幸福になる方法、常に幸福感を味わえる方法があります。
  それは簡単なことです。

  つまり、どんなことでも何でもよいから〈感謝すること〉を自分の中に、
  まわりに探して見つけることです。

  「見える、ああ有り難い」、「聞こえる、ああ有り難い」、「話せる、ああ有り難い」、
  「手足が動く、雨風をしのげる天井や壁のある所で寝起きができる、ああ有り難い」、
  「着るものがある、食べ物がある、ああ有り難い、幸福だなあ」等々。

  もしそれが「えっ、それが何で? どうして? 」と理解できない人は、
  一度それ等の病気をしたり、ホームレスになったりして一切を絶ってみれば、
  有難味や感謝する気持が、感覚でよく身に沁(し)みてわかります。

  ちょど断食の行のように、水絶ちの後、最初に飲んだ水の美味しさ有り難さは、
  日常では忘れているものです。

  普段は「こんなまずいものが食えるか」と思っていた一汁一菜の食事が、
  「こんな旨い粥がこの世にあったのか」と思うほどです。

  ですから世の中で忌み嫌われている、病気や貧困や不安やトラブルという〈負〉の部分は、
  実は幸福を感じるためのバロメーターなのです。

  断食の行とは世の中のあらゆるものを感謝する心を芽生えさせるための行なのです。

  肉親をはじめ多くの人に愛されてきた人は、
  愛されることの嬉しさ、有難さ、幸福感を、それが当たり前だと思い、鈍感になっています。

  しかし親にも他人にも愛されずにきた孤独な人は、
  誰かからほんの少し愛されたり優しくされただけでも、
  大変な喜びを感じたり、有難味を、また幸福感を味わうことができるのです。

  〈白〉の白さを際立たせるには、その〈白〉の傍(かたわら)に
  黒い色のものを置けばよいのです。

  苦労した事が多く、苦しみの深さが深ければ深いほど、
  幸せが訪れた時、それがどんなにささやかな幸せでも、大きな幸福感として
  満喫出来るものなのです。

        <『ああ正負の法則』PARCO出版>

  ・・・・・

すべてのことは、それを「当たり前」と思った瞬間に、感謝がなくなる。
今、仕事があること、住む家があること、手足が動くこと、そして生きていること…

「ビリがいるから1位がいる」(相田みつを)

勝ち続けて、どん底を味わったことのない人は、人の悲しみや痛みがわからない。


禍(わざわい)の後には、必ず幸せが来る。
つらいことは、幸せのかくし味。

       <感謝合掌 平成24年11月29日 頓首再拝>

壁が立ちはだかるのは、神さまの愛 (4427)
日時:2012年12月09日 (日) 04時10分
名前:伝統


     *芦川裕子・著「(斎藤一人)天使の翼」(P111)より

《しあわせのなり方には、その道に行かない、という方法もあるんだよ》

人間、生きてると、いろんなことがあるよね。
楽しいことばかりじゃなくて、嫌なこともある。

だけど、私は、こういうの。
「あなたに乗り越えられない壁はないよ」って。

これはどういうことかというと、たとえば、今、自分の目の前に立ちはだかる壁がある。
そのとき、この壁をよじのぼろうとする人がいる、壁を壊そうとする人もいる。

だけど、壁の越え方って、壁には一切触れず「横に曲がる」という手段もあるし、
「穴を掘って下に行く」ということもできるんだよね。

落ち着いて周りを見てみたら、壁の横に入り口があるかも知れない。
穴を掘るといいかもわかんない。梯子をかけたら越えられるかもわかんない。

壁を越える方法はいくつもあるのだから、
まずは自分が考えつく方法を全部出してごらん、ということなの。

そして、自分で考えついた方法でもって、その壁を乗り越えることがどうしても
できないのだとしたら、それは「越えるべき壁」ではないの。

そのときは、横道に行ったり、すればいいんだよ。
「越えるべきではない壁」をなんとか征服しよう、よじのぼろうとするのをやめるの。
その道は、行ってはいけない道なんだよ。


あのね、しあわせのなり方には、「その道に行かない」という方法もあるの。
道を歩いてきたら、そこに壁があって、どうしても越えられない壁なんだとしたら、
「そちらには行ってはなりません」と神さまが教えてくれているんだよ。
横に行くか、後ろへ戻りなさいといっているの。

人間はね、みな、神さまの子どもなの。
裕子ちゃんもそうなんだよ。
親は、わが子を見捨てたりはしないの。
だから、「神はわれを絶対に見捨てるわけがない」って。

壁が出てきたのは「そっちに行っちゃいけない」という、神の愛なんだ。
そう思ったときから、人はいろんなものが見えてくる。
もっと楽しく生きられるんだよ。

       <感謝合掌 平成24年12月9日 頓首再拝>

人間の究極の幸せ (5337)
日時:2013年01月07日 (月) 04時31分
名前:伝統

     *大山泰弘・著「利他のすすめ」(P19~29)より

痛恨の思い出があります。1959年のある日のことです。
ひとりの養護学校の先生が私のもとを訪れ、「生徒を就職させていただけませんか」と
懇願されました。

何度も頭を下げて必死に説得されようとする先生を前に、私は、こう言い放ったのです。
「そんな、おかしな人を雇ってくれなんて、とんでもないですよ。それは、無理なご相談です。」

当時、知的障害者は「精神薄弱者」「知恵おくれ」「白痴」などという差別用語で呼ばれ、
社会の差別と偏見を怖れる家族は、彼らを家の奥で人目を避けるように暮らさせていました。
そんな時代の価値観に、私はどっぷりと浸かっていたのです。

しかし、先生はあきらめませんでした。
数日後、再びやってきて、「就職を」と頭を下げられました。・・・再度お断りしました。
それでも三度、先生はやってきました。そして、こうおっしゃったのです。

「もう、就職をとは申しません。でも、せめて働く体験だけでもさせていただけませんか。
あの子たちはこの先、親元を離れて地方の施設に入ることになります。そうなれば一生、
働くということを知らずに、この世を終わってしまう人になるのです。
一度だけでも働くということを経験させてやりたいんです。」

ここでようやく私に、「ふつうは働くのが当たり前なのに、それができないというのはかわいそうだな」
と同情心が芽生えました。そして、「2週間程度なら」ということで、就業体験を受け入れることに
したのです。

就業体験の初日、先生に連れられて、2人の15歳の少女と親御さんが会社へやってきました。
先生と親御さんは、「よろしくお願いします」と何度も何度も頭を下げられました。
2人の少女は恥ずかしそうにオドオドしながらうつむいていました。

彼女たちにやってもらったのは、完成したチョークを入れた包装用の箱にシールを貼る仕事でした。
わが社でもっとも簡単な作業を頼んだのです。私は、ちゃんとできているか心配で、ときどき
2人の様子を見にいきました。

すると、2人は一言も口をきかず、無心でシールを貼り続けていました。
お昼休みのベルが鳴っても手を止めようとはしません。
「もう、お昼休みだよ」と従業員が肩をたたいてやっと気がつくほどでした。

ちょっとした失敗でも、居場所のないように身を縮ませるので、
「そんなに気にすることじゃないよ」と言うと、心底ホッとした表情を見せます。

そして、仕事が終わって「ありがとう。助かったよ」と声をかければ、
心から嬉しそうな笑顔で応えてくれました。
その姿には、どこか、私の心を打つものがありました。

就業体験の2週間は、あっという間に過ぎました。
「何事もなく、2人をお返ししなければ」と思っていた私は、正直ホッとした気持ちでした。

ところが、最終日の終業後、2人を世話していた一人の社員が私のところにやってきて、
こう言いました。

「こんなに一所懸命にやってくれるんだから、一人か二人だったら私たちが面倒をみますから、
あの子たちを雇ってあげてください。」

この唐突な申し入れに、腕を組んで考え込んでいるいる私に
「これは、社員の総意です」と迫ってきます。
「ほんとにいいの? 」と念を押すと、「大丈夫ですよ。だんだん慣れてくるはずですから」と
にこやかに応えます。

その笑顔に観念した私は、「それなら」ということで、
2人の少女を正式に採用することに決めたのです。

養護学校の先生が、わが社を3度も訪ねてくださったり、社員たちの後押しがなければ、
私はそのまま一生をやり過ごしてしまっていたでしょう。
これが、いかに貴重な出会いであるか、このときの私にはわかりませんでした。

しかし、その後、2人の少女が私の心に起こした小さな波紋は、大きく大きく広がっていきました。

彼女たちは、雨の日も風の日も、満員電車に乗って通勤してきます。
そして単調な仕事に全身全霊で打ち込みます。

どうしても言うことを聞いてくれないときに、困り果てて「施設に帰すよ」と言うと、
泣いて嫌がります。どうして、施設にいれば楽に過ごすことができるはずなのに、
辛い思いをしてまで工場で働こうとするのだろうか? 

私には不思議でなりませんでした。

そんなある日のことです。私は、とある方の法要のために禅寺を訪れました。
ご祈祷がすみ、参集者のために用意された食事の席で待っていると、
空いていた隣の座布団に、偶然にもご住職が座られました。

私は、「若輩者である自分から何か話しかけなければ」と焦り、
こんな質問が思わず口をついて出ました。

「うちの工場には知的障害をもつ二人の少女が働いています。
施設にいれば楽ができるのに、なぜ工場で働こうとするのでしょうか?」

一瞬、間がありました。
そして、ご住職は私の目をまっすぐに見つめながら、こうおっしゃったのです。

「人間の幸せは、ものやお金ではありません。
人間の究極の幸せは次の4つです。

人に愛されること、

人にほめられること、

人の役にたつこと、

そして、人から必要とされること。

愛されること以外の三つの幸せは、働くことによって得られます。
障害をもつ人たちが働こうとするのは、本当の幸せを求める人間の証なのです。」

私は、しばし言葉をなくしました。
そして深く考えさせられました。

確かにそうだ・・・。人は働くことによって、人にほめられ、人の役に立ち、
人から必要とされるからこそ、生きる喜びを感じることができるのだ。

家や施設で保護されているだけでは、この喜びを感じることはできない。
だからこそ、彼女らは辛くても、しんどくても必死になって働くのだ。

・・・それがいかにかけがえのないものか、私は生まれて初めて考えさせられました。


*大山泰弘氏は、1932年生まれ。日本理化学工業(株)という会社の経営者。
 「日本でいちばん大切にしたい会社(坂本光司著、あさ出版刊)」で紹介され話題になりました。

       <感謝合掌 平成25年1月7日 頓首再拝> 

幸せも、自分の心が決める (5945)
日時:2013年01月26日 (土) 04時47分
名前:伝統

    *メルマガ『癒しのことば(2013年01月24日)』より

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 「持っていてもそれを活用せず、財産を受けとってもそれを楽しまず、
  富を譲られてもそれを使わなければ、ないのと同じことである」

                 -- モウル(イギリスの批評家)--

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『健康』とは、どのような状態をいうのでしょうか。

何となくわかっているようで、いざ人に伝えようとすると、難しいものですね。
 
辞書を調べてみると、

 ・身体に悪いところがなく、丈夫なこと
 ・精神の働きやものの考え方が正常なこと

といったように説明されています。

これはつまり、病気やケガがなかったり、心の状態にも問題がない、ということになり、
結局は、「健康でない状態でないことが健康だ」と言っているようなものですよね。

やっぱりわかったようなわからないような……

それに、身体に悪いところがないといっても、
少しくらいの不調は誰でも持っているのではないでしょうか。

軽い風邪をひいていたり、仕事のし過ぎで疲れている、
あるいは寝不足で身体が重いという人も多いでしょう。
虫歯やちょっとした擦り傷だって、悪いところがあるといえばあることになります。

それ以外のところはピンピンしているのに、そんなちょっとした不調があるだけで、
その人は、もう健康ではないのでしょうか。

精神の働きやものの考え方が正常といったって、何が正常で何が正常でないのかの定義も、
簡単に決めることはできないでしょうね。

人それぞれの考え方がありますし、その人の置かれた環境もありますから、よっぽど反社会的な
思想や、周りに害を及ぼすような考え方でなければ、少々個性的な考え方をしていても、
それを異常だとは決めつけることができないような気がします。

身体に悪いところがなくても、考え方が健全でなければ健康ではないということはわかりますが、
身体も元気で考え方も異常でないという条件を満たしていれば、元気がなくても、
やる気や意欲を感じていなくても、その人は、健康であるといってしまっていいののでしょうか。

もっと不思議なのは、身体にかなりの問題を抱えていても、
自分は健康だと思っていて、いつも元気で明るい人もいます。

逆に、それほど悪いところはなくても、ちょっとした不調や心の悩みがあるだけで、
自分は健康でないと落ち込んでしまう人もいたりします。

辞書の定義と、その人が思っていることと、いったいどちらが正しいのでしょうか。

正しいとか間違っているとかは別として、ひとついえることは、私たちが生きていくうえでは、
今、自分が自分に対してどう思っているか、何を見ているかということが重要だということです。

少しばかりの不調だけを見てため息をついているより、
他の健康な自分の良いところを活かしてみようと思うことの方がいいですよね。

何も問題がないからと、ただ現状に立ち止まっているのではなくて、
今は、完全な状態ではないとしても、少しでも良くなっていこう、成長していこう
と進んでいく方が、よっぽど健康だといえるのではないでしょうか。

自分が健康かどうかは、最終的には自分自身が決めることのようですね。


『幸せ』とは、どのような状態をいうのでしょうか。

これも人によっていろいろな定義はあるでしょうし、
障害や悩みがない状態と考えることもできます。

でも、やっぱり幸せだって、自分の心が決めるのでしょう。

自分が持っていないもの、足りないところだけを見て焦りを感じたり、
人と比べて劣っているところを嫌悪したりしていては、何を持っていても、どんな状態にいても、
けっして幸せになることはできないでしょう。

それよりも、自分が持っているもの、与えられた状態、恵まれていることを
もっと楽しんで活かしていくことが大切でしょう。
 
気づくだけでいいのです。 

あなたは、そのままで最高だし、必要なものはいつも持っていた。
そして、今までも、そしてこれからも、ずっと幸せだったということに。

           <感謝合掌 平成25年1月26日 頓首再拝> 

『幸福』と『不幸』は、コインの裏表 (6283)
日時:2013年02月06日 (水) 04時43分
名前:伝統


     *メルマガ「癒しのことば(2013年01月30日)」より

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「人生の基本ルール:幸せになることを選択する」

        -- ウィリー・ジョリー(アメリカのカウンセラー)--

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『幸福』の反対は、『不幸』だということになりますが、
この2つの距離は、どれだけ離れているのでしょうか。


ここに、ひとりの「不幸の国」の住人がいるとします。

彼は、自分が住んでいるところがイヤでイヤで溜まりません。
太陽が昇るとまぶしいし、夜は暗くなって怖いのです。
晴れの日は、暑くて汗をかいて不快だし、
雨が降れば降ったで、濡れるのがうっとうしく思えます。

夏はうんざりするほど暑いし、冬が来れば寒くてやりきれない。
春と秋の、ちょうどいい気候の頃なんて、すぐに過ぎていってしまいます。
 
それに、仕事は忙しくて疲れるし、家に帰れば、
狭いところに家族がひしめいていて、うるさくて心の休まるときもありません。

一生懸命に仕事をしても誰も認めてくれないし、
家族のためにがんばっても、感謝のひとつもされたことがない。

彼は、自分がこんな国に生まれてきてしまったことを嘆いています。

これは自分ではどうすることもできないのだとあきらめ、
ただツイていないことを恨んでいるのです。
こんなところに住んでいるから、いつまでたっても不幸なんだと思っています。



さて今度は、「幸福の国」に住んでいる人をご紹介しましょう。

彼は、自分が、この国に生まれてきたことに感謝しています。
だって、毎日太陽が昇ってすべてを照らしてくれるし、夜には美しい星を見せてくれます。

晴れの日は身体を温めてくれるし、ときおり雨が降って大地を潤し、
心を洗い流す時間をプレゼントしてくれるのです。
 
暑い夏には、泳ぎに行ったり、夕涼みをして楽しむことができますし、
冬は、スキーをしたり、温かい料理に心が和んだりします。
おまけに、春や秋の、心地よい季節だってあるのです。

ありがたいことに忙しく仕事をさせていただいているし、家には家族が大勢いて賑やかです。
仕事では、うまくいくときばかりではありませんが、自分なりに努力しています。

それに、愛する家族がいるから幸せなんだと感謝してがんばっています。
本当に、今、こんな幸せな国にいることに満足しているのです。


このふたりは、ずいぶん違う国に暮らしているようにも思えますが、
実は、同じ家に住んでいるのだと言ったら信じられますか。

そう、「幸福の国」と「不幸の国」の距離は、本当はゼロなのです。

『幸福』と『不幸』は、コインの裏表のように、違っているように見えて、
実は同じもののようです。

違っているのは、「不幸の国」の住人は、
今の自分の環境をどうすることもできないとあきらめていることと、
誰からも感謝されていないと思っていることです。

確かに、天気や職場の環境を変えることはできないかも知れません。
だけど、自分の考え方や思いを変えることはできるはずですね。
「自分が幸せになる」、という選択をすることもできるでしょう。

また、不幸の国住んでいる人には、確かに感謝が足りません。
もっと感謝があれば、幸せになれるでしょう。
でも、その感謝は、誰かからされることではないのです。
 
仕事で認めてもらえない、家族から感謝されないと嘆くのではなく、
今の仕事や職場を自分が認め、家族の存在に感謝することが足りないのです。
 
これもコインの裏表と同じようで、
自分が認めていないものからは認められることはありませんし、
感謝の気持ちを感じるからこそ、感謝されることになるようです。

「不幸の国」に飽きたら、いつでも「幸福の国」に引っ越すことができるのです。
 
簡単なことです。
自分が幸せになることを選んでみるだけでいいのです。

           <感謝合掌 平成25年2月6日 頓首再拝> 

人はどんな場所でも幸せを見つけることができる (6428)
日時:2013年02月12日 (火) 04時46分
名前:伝統

     *渡辺和子・著「置かれた場所で咲きなさい」(P10~15)より

私(著者の渡辺和子さん)は、30歳間際で修道院に入ることを決意し、
その後、修道会の命令で修練のためアメリカに行き、修練終了後、35歳で日本に戻り、
次の命令で岡山のノートルダム清心女子大学に派遣され、
その翌年、二代目学長の急逝を受けて思いがけない三代目の学長に任命されました。

36歳でした。

東京で育った私にとって、岡山は全く未知の土地であり、さらにこの大学は、
初代も二代目もアメリカ人の70代後半の方が学長を務めていました。

その大学の卒業生でもなく、前任者たちの半分の年齢にも満たない私が学長になったのですから、
周囲もさることながら、私自身、驚きと困惑の渦中にいました。

修道院というのは、無茶と思えることでも、目上の命令に逆らうことは許されないところでしたから、
私も「これが神の思し召し」として従ったのです。

初めての土地、思いがけない役職、未経験の事柄の連続、それは私が当初考えていた修道生活とは、
あまりにもかけはなれていて、私はいつの間にか“くれない族”になっていました。

「あいさつしてくれない」こんなに苦労しているのに「ねぎらってくれない」「わかってくれない」

自信を喪失し、修道院を出ようかとまで思いつめた私に、
一人の宣教師が一つの短い英語の詩を渡してくれました。

その詩の冒頭の一行、それが「置かれたところで咲きなさい」という言葉だったのです。
岡山という土地に置かれ、四苦八苦している私を見るに見かねて、くださったのでしょう。

私は変わりました。
そうだ。置かれた場に不平不満を持ち、他人の出方で幸せになったり不幸せになったりしては、
私は環境の奴隷でしかない。

人間と生まれたからには、どんなところに置かれても、そこで環境の主人となり
自分の花を咲かせようと決心することができました。
それは「私が変わる」ことによってのみ可能でした。

いただいた詩は、「置かれたところで咲きなさい」の後に続けて、こう書かれていました。
「咲くということは、しかたがないと諦めることではありません。それは自分が笑顔で幸せに
生き、、周囲の人々も幸せにすることによって、神が、あなたをここにお植えになったのは
間違いでなかったと、証明することなのです。」

私は、かくて“くれない族”の自分と決別しました。

私から先に学生に挨拶し、ほほえみかけ、お礼をいう人になったのです。
そうしたら不思議なことに、教職員も学生も皆、明るくなり、優しくなってくれました。

「置かれたところで咲く」この生き方は、私だけでなく、学生、卒業生たちにも波及しました。

ノートルダム清心女子大学にも、自分の本意ではなく、この大学に入学した“不本意入学者”がいます。
その人たちにいう「時間の使い方は、そのまま、命の使い方なのですよ。置かれたところで咲いていてください」
という言葉は、私自身の経験に裏打ちされているからでしょうか、学生たちの心にも響いて
届いてくれているようです。

結婚しても、就職しても、子育てをしても「こんなはずじゃなかった」と思うことが、
次から次に出てきます。
そんな時にも、その状況の中で、「咲く」努力をしてほしいのです。

どうしても咲けない時もあります。
雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。

その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。
次に咲く花がより大きく、美しいものとなるために。・・・・

「置かれたところ」は、つらい立場、理不尽、不条理な仕打ち、憎しみの的である時もある
ことでしょう。信じていた人の裏切りもその一つです。人によっては、置かれたところが
ベッドの上ということもあり、歳を取って周囲から“役立たず”と思われ、片隅に追いやられる
ことさえあるかもしれません。

そんな日にも咲く心を持ち続けましょう。

多くのことを胸に納め、花束にして神に捧げるためには、その材料が必要です。
ですから、与えられる物事の一つひとつを、ありがたく両手でいただき、
自分しか作れない花束にして、笑顔で、神に捧げたいと思っています。

“どんなところに置かれても、花を咲かせる心を持ち続けよう”

“境遇を選ぶことはできないが、生き方を選ぶことはできる。
「現在」というかけがえのない時間を精一杯生きよう”

・・・・・

<動画:シスター渡辺和子さんの「置かれた場所で咲きなさい」
    → http://www.youtube.com/watch?v=SWgjmve_v4A >

           <感謝合掌 平成25年2月12日 頓首再拝> 

【笑顔でいるから楽しくなる】 (6887)
日時:2013年03月04日 (月) 04時51分
名前:伝統


     *メルマガ「人の心に灯をともす(2013年02月27日)」より

   中山和義氏の心に響く言葉より…


   デパートで働いているある女性は、いつも先輩に、

   「もっと楽しそうに仕事をしなさい。
   そんな疲れた顔でお客さんの相手をしたら誰も買ってくれないわよ」

   と怒られていました。

   彼女もそのことはわかっていたのですが、仕事が嫌になっていたので、
   それがどうしても顔や態度に表れてしまっていました。

   ある日、彼女はAさんと一緒に催事の販売をすることになりました。
   Aさんは彼女の同僚で、いつも本当に楽しそうに働いている女性です。
   Aさんは、慣れていない忙しい催事の現場でも、いつものように笑顔で働いていました。

   どうしてそんなにいつも笑顔でいられるのだろうと思った彼女は、思いきってAさんに、
   「どうして、そんなにいつも楽しそうに仕事をしているんですか?」
   と尋ねてみました。Aさんは、

   「そんなに楽しそうに仕事をしているように見えますか?
   そうだとしたらそれは亡くなった私の母のおかげだと思います」

   と答えました。

   その日の仕事が終った後、彼女はAさんからお母さんの話を詳しく聞きました。

   Aさんは、お父さんが病気で小さい頃に亡くなってしまったため、
   お母さんに育てられたそうです。
   お母さんは、仕事でどんなに疲れて帰ってきても、
   いつもAさんの前では笑顔でいたそうです。

   ある日、Aさんが、

   「どうして、お母さんはいつも楽しそうなの?  疲れたりしないの?」

   と尋ねると、お母さんは、

   「お母さんだって疲れているときや嫌な気分のときもあるよ。
   でも、そんなときこそ、笑顔でいないといけないと思っているの。
   ためしに笑顔を作ってごらん。  楽しい気分になるでしょ」

   と答えました。

   Aさんがお母さんに言われた通りに笑顔を作ると、お母さんは、

   「その笑顔を見たいから、お母さんはいつも笑顔でいるんだよ」

   と微笑みながら話してくれたそうです。

   最後にAさんは、彼女に向かって笑顔で言いました。

   「家は貧乏で大変でしたが、母の笑顔のおかげでいつも楽しかったんです。
   楽しいから笑顔でいるのではなくて、笑顔でいるから楽しくなるんですよ」

   次の日、彼女はAさんのように朝から笑顔でいるように気をつけました。
   すると、いつもはあまり話しかけてくれない人まで、

   「おはよう、楽しそうだね」とか、

   「今日はやけに機嫌がいいね」

   などと話しかけてくれました。

   彼女の気持ちも自然に楽しくなりました。

   笑顔の人の周りには、笑顔の人が集まってきます、だから、楽しいことも増えていくのです。

    <『会社に行くのがもっと楽しみになる感動の21話』三笠書房 >

   ・・・・・

「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」

という心理学の有名な言葉がある。
つまり、身体的な反応を意図的に起こせば、後からその感情がついてくるということ。

それは、楽しいという感情も同じ。

「楽しいから笑顔でいるのではない、笑顔でいるから楽しくなるのだ」

いつも不機嫌で、怒ったような顔をしていれば、不平不満、文句や愚痴ばかり言う嫌なヤツになる。

人は、その表情や態度に似合った人になる。


いつも笑顔で機嫌よくしている人は、幸せを引き寄せる。

           <感謝合掌 平成25年3月4日 頓首再拝> 

他のよろこびを喜ぶところに本当の幸福はある (6958)
日時:2013年03月08日 (金) 03時45分
名前:伝統


          *『生命の實相』第七巻生活篇(P81~81)より

諸君よ、本当の幸福は自分の幸福を追いもとめているあいだは、
月を追いかけて走る子供のようなものなのだ。
走っても走っても結局はその幸福をつかむ日は来ないのである。

他のために役に立ち、他からよろこばれ、他のよろこびを自分の心に反射して輝く
ところの喜びを味わわない限りは、いかなる富豪でも、王様でも、王子様でも
本当の幸福にはなれないのだ。

自己を与えることによってのみ自己は拡大する。
与えることによってのみ自分のもっている宝の価値は十倍二十倍になって還ってくるのだ。

あの貴いラジウムのように毎秒間数百万の電子を放射しても少しもその量を減じない
ラジウムのように、人間は自分をどんなに与えきっても、どんなに他のためになっても、
どんなに他を幸福にしてあげても、自分がそのために減ってしまうということは決してないのだ。

それどころか与えれば与えるほど、滾々(こんこん)としてわが生命は湧き出て来るのだ。
それは本来、わが生命は他の人の生命と一体(ひとつ)であるからだ。
他の人の喜びのうちに本当は自分の喜びを見るのであるからだ。

           <感謝合掌 平成25年3月8日 頓首再拝> 

幸福とは心の一つの状態である (7071)
日時:2013年03月12日 (火) 07時30分
名前:伝統


      *「生命の實相」第三十七巻幸福篇上(3月12日、3月13日)より

持ち主もなく宝物(たからもの)がいたるところに埋められている。
誰もそれを掘り出さないだけだ。
幸福になる道はただ《自分で》掘り出すことにある。


幸福になりたければ、まず自分が幸福になれである。
あたりまえのことがあたりまえである。噛みしめれば味がある。

注意すべきは、幸福とは心の一つの状態であるということである。

金殿玉楼の中にいて輾転反側して眠れない人もあれば、
弾丸雨飛の中にして喜びいっぱいの人もある。

           <感謝合掌 平成25年3月12日 頓首再拝> 

幸福は無我の中にある (7141)
日時:2013年03月16日 (土) 03時54分
名前:伝統


      *「生命の實相」第三十七巻幸福篇上(3月16日)より

幸福は無我の中にある。
従うことの中にある。

幸福が我欲の中や、強情我慢の中にあると思っている間は、
その人の心に悪魔が忍び込んでいるのである。

無いものを「有る」と主張する嘘つきが悪魔である。

           <感謝合掌 平成25年3月16日 頓首再拝>  

作家・三浦綾子さんの幸福論 (7299)
日時:2013年03月25日 (月) 03時39分
名前:伝統


      *メルマガ「「人間力(2013年03月23日)」より

禅の研究と著述に九十六年の生涯を傾注された鈴木大拙博士が、
こういう言葉を残されている。

「人間は偉くならなくとも一個の正直な人間となって
信用できるものになれば、それでけっこうだ。

 真っ黒になって黙々として一日働き、時期が来れば“さよなら”で消えていく。
 このような人を偉い人と自分はいいたい」

平明、しかし深遠な一つの幸福論である。



幸福論の言葉で真っ先に思い出す人に、作家の故三浦綾子さんがいる。

三浦さんの人生は難病の連続だった。

24歳で突然高熱に倒れたのが発端である。
それがその後、13年に及ぶ肺結核との闘病の始まりだった。
当時、肺結核は死に至る病だった。

入退院の繰り返しの中で、三浦さんは自殺未遂も起こしている。

さらに悲惨が重なる。脊椎カリエスを併発。
ギプスベッドに固定され、動かせるのは首だけで寝返りもできず、
来る日も来る日も天井を目にするのみ。

排泄も一人ではできず、すべての世話はお母さんがした。
そんな生活が4年も続いたとは想像を超える。

そこに一人の男性が現れて結婚を申し込む。
光世さんである。

その日から薄皮を剥ぐように快方に向かい、
二人は結婚する。

綾子さん37歳、光世さん35歳だった。
そして綾子さんの書いた小説『氷点』が 新聞社の懸賞小説に当選、作家への道が開ける。

しかし、その後も病魔はこの人を襲い続けた。
紫斑病。喉頭がん。

三大痛い病といわれる帯状疱疹が顔に斜めに発症、鼻がつぶれる。
それが治ったと思ったら大腸がん。
そしてパーキンソン病。

この二つを併発している時に、
本誌(月刊「到知」)は初めてお会いしたのだった。


次々と襲いかかる難病。

それだけで絶望し、人生を呪っても不思議はない。
だが三浦さんは常に明るく、ユーモアに溢れていた。

「これだけ難病に押しかけられたら、
 普通の人なら精神的に参ってしまいますね」という 本誌の質問に三浦さんは笑顔で答えた。

「神様が何か思し召しがあって 私を病気にしたんだと思っています。

 神様にひいきにされていると思うこともあります。
 特別に目をかけられ、特別に任務を与えられたと……。

 いい気なもんですねえ(笑)」


誰の人生にも絶望的な状況はある。
だが、心が受け入れない限り、絶望はない。

同様に、誰の人生にも不幸な状況はある。
しかし、心が受け入れない限り、不幸はない。

三浦さんの生き方はそのことを教えてくれているように思う。

その三浦さんがこんな言葉を残している。


「九つまで満ち足りていて、十のうち一つだけしか不満がない時でさえ、
 人間はまずその不満を真っ先に口から出し、文句をいいつづけるものなのだ。

 自分を顧みてつくづくそう思う。
 なぜわたしたちは不満を後まわしにし、
 感謝すべきことを先に言わないのだろう」

幸福な人生をどう生きるか。各界先達の英知に学ぶ。

           <感謝合掌 平成25年3月25日 頓首再拝>  

【幸運とは心がけ次第である】 (7544)
日時:2013年04月08日 (月) 04時53分
名前:伝統

      *メルマガ「人の心に灯をともす(2013年04月04日)」より

   鳥賀陽正弘氏の心に響く言葉より…


   「幸運とは心がけ次第である」(ワイズマンの法則)

   イギリスの心理学者、リチャード・ワイズマンは、何百人もの人物と面接をして研究した結果、

   「幸運は突然、天から降ってくるものでなく、心がけ次第である。 決まった習慣を身に
   つけさえすれば、つまり、自ら決めた考え方や行動で幸運を招くことができる」

   と断じたのだ。

   彼は、幸福が訪れる機会や素地を、普段からなるべく多く作っておくことの重要性を
   説いており、それを実現する上で、次の4つの原則を打ち出している。


(1)1つ目に、 「チャンスが最大限に拡大するように努めること」

   幸運に恵まれる人は機会を自らつくり、それを捉(とら)えることに長(た)けている。

   たとえば、彼らは交際の範囲、つまりネットワークを広げて、これはと思う人に会うと、
   そのチャンスを逃がさずに利用している。

   さらに強い好奇心を持って、絶えず新しい経験を積むようにしている。

(2)2つ目は、 「自分の本能や予感に素直に従うこと」

   幸運な人を見ると、自分の本能やカンに素直に従い、
   効果的な決断を下した上で行動をしている。

   さらに自分の直観力を高めるために、瞑想をしたり、邪念を払拭する努力を
   普段から行なっている。

(3)3つ目は、 「幸運を願い、期待すること」

   運のいい人は、幸運が訪れるだろう、と常にポジティブに考える。
   期待することによって、願いを少しでも実現できるようにする。

   しかも、このような前向きの思考でいれば、苦難に直面しても
   それを乗り越える努力ができるので、他人との付き合いもスムーズに運ぶ
   というメリットがある。

(4)4つ目は、 「不幸を幸運に転じさせること」

   つまり、絶えず物事は明るい面を見るべきである。
   幸運な人は、不幸な目にあっても、くじけずに、それを克服する精神力を持っている。

   「禍(わざわい)を転じて福となす」のである。
   たとえ、どんなに事態が悪化しても、ひるまずに、それをバネにして立ち直るようにするのだ。

        <『「○○(マルマル)の法則」辞典』PHP文庫>

  ・・・・・

中村天風師はこう語った。

「終始一貫、笑顔でとおすようにしてごらん。
不運な人、体の弱い人は、ひとしお、笑いに努力するんだ。
笑うにつれて、人生の幸福と幸運がどんどん開けてくるから」


とりたてて何も面白いことがなくても笑顔でいれば、
やがて笑顔に見合った面白くて楽しい状況がやってくる、という。

幸運も同じで、それを引き寄せる法則がある。


それは…

常に、好奇心を持ち、損得に関係なくよいネットワークを広げること。

常に、神仏に対し畏敬の念を持つことにより、素直になること。

常に、どんなに厳しい状況になろうと、最後は自分はツイてるからうまくいく、
と根拠のない自信を持つこと。

常に、物事の明るい面だけを見る習慣をつくること。


幸運を引き寄せるかどうかは、心がけ次第だ。

           <感謝合掌 平成25年4月8日 頓首再拝> 

今、幸福な人生だ、と気づくこと (7636)
日時:2013年04月13日 (土) 04時40分
名前:伝統


          *『光明道中記』(四月十三日 招かずして幸福来る日)より 

【貨幣を与えると労働力が動き出して価値創造が始まるのであります。(『百事如意』)】


何でもあまり追っ駈け廻すと嫌われる。
恋人にさえもあまり執着するならば、その人は嫌われるであろう。
執着と云うものは相手にまつわり着き、相手を心で縛って窮屈な感情を起こさしめるからである。

「金」を追っかけると「金」は逃げて了うか、「金」から来る「幸福」は逃げて了う。
「儲けよう」と思ってそればかりを追っかけている相場師に、
結局儲けた人も幸福になったひとも一人もない。

「眠り」を追っ駈け廻して「是非眠らねばならない」と「眠り」を追っ駈け廻す時は
「眠り」は逃げて了う。―― 心の法則は何事に当て嵌めても同一効果である。

夜よく眠る法は、寝床は眠くなるところだ、と知らなければならない。
人生も同じことである。幸福に”なろう”とするよりも、
人生と云うところは幸福な所だと気が附けば幸福がおのずから来るのである。

今晩はまた眠れないだろうと予想することは寝床とは眠くならぬ所だと予想することになるから、
不眠の原因となる。今晩は眠れないだろうの感情は恐怖を伴った感情である。

恐怖は外敵に対峙する感情であるから、外敵がある場合眠らないでいることが必要であるから、
不眠は自然の自衛作用である。自衛作用を病気だと取違する者は愚か者である。

           <感謝合掌 平成25年4月13日 頓首再拝> 

不幸は裏返せは、みんなプラス (7762)
日時:2013年04月19日 (金) 06時20分
名前:伝統


      *メルマガ「人の心に灯をともす(2013年01月31日)」より

   医師の鎌田實氏の心に響く言葉より…


   たかの友梨(ゆり)さんの実母は、妻子ある男性と恋愛し、彼女を産んだ。
   母親が別の男性に嫁ぐことになり、一度は父親の家に引き取られた友梨さんだが、
   義理の母からいじめられた。

   ほどなく、養子に出された。

   つらい旅のはじまりだ。

   その養父母は、どうやら養育費目当てだった。
   ろくにおしめも替えてもらえず、ほうっておかれた。

   見るに見かねて、引き取ってくれた女性がいた。
   お母さんになってくれたその人がすごかった。

   新しい両親のもと、友梨さんは初めて、家庭のぬくもりを知る。
   二人が実の親じゃないなんて、考えたこともなかった。

   でも、幸せは束の間だった。
   5歳のとき、養父がほかの女性との間に子供をつくってしまったのだ。

   お母さんは自分から身を引き、友梨さんを連れて家を出た。
   
   やがて再婚するが、その家庭もうまくいかなかった。
   新しいお父さんは、友梨さんに体罰のある教育をした。
   借金を重ね、あげくに蒸発。

   お母さんと友梨さん、重い障害のある弟は、住む家さえ失ってしまう。
   絶望し、電車に身を投げようとした母親の手を、
   友梨さんが懸命に引いて止めたこともあった。

   死の誘惑に打ち勝つと、お母さんは懸命に働いた。
   旅館で住み込みで仕事をしていたため、友梨さんは親戚の家を転々とする。

   やっとまた一緒に暮らせるようになったのは、小学校5年生のときだった。
   中学生になって、お母さんが生みの母ではないことを人から知らされた。

   ショックだった。
   でも同時に、感謝の気持ちでいっぱいになった。
   縁もゆかりもない自分を引き取って育ててくれた。

   精神的にも経済的にも追いつめられていくなかで、
   自分の子ではないからと放り出すこともできたのに、そうしなかった。

   友梨さんは、その恩を忘れない。
   
   友梨さんは、高校進学も断念せざるを得なかった。
   中学を卒業すると理容学校へ。
   そして1年後、前橋市内の理容店に住み込み、見習い修行をはじめる。

   といっても、勉強をあきらめたわけではなかった。
   働きながら定時制高校に通い、4年かけて卒業するのである。
   雇い主に頼み込んで、夕方に仕事を抜けさせてもらい、
   自転車で数キロ離れた高校に向かった。

   夜遅く店に戻ると、タオルの洗濯や鏡磨きに汗を流した。

   深夜からが、自分の時間。
   近所の美容院からもらってきた髪の毛や、顔を描いた風船を使って、
   カットや顔そりの練習に励んだ。

   ぶきっちょと言われて育ったから、人の2倍も3倍も努力しなければ、と思ったという。

   当時のことを友梨さんは、

   「つらいと思ったことは一度もありません。
   努力すればしただけ、着実に技術が自分のものになっていく。
   それがうれしくて、おもしろくて、夢中でしたから」

   群馬県の理容コンクールで入賞。

   もっと上を目指すため東京に行きたい、と考えはじめた。
   上京したのは、20歳のとき。

   夜の7時まで理容店で働き、8時から12時までは居酒屋で皿洗い。
   そのかたわら、通信教育で美容師の資格もとった。

   爪に火をともすような生活をしながら、100万円を貯めた。
   そのお金を握りしめ、友梨さんはフランスへ渡る。

   「パリでエステティックサロンが大流行」という新聞記事を目にし、
   これだと直感したという。
   24歳だった。

         <『人は一瞬で変われる』集英社>

  ・・・・・

現在、たかの友梨さんの経営する、「たかの友梨ビューティクリニック」は
全国に124店舗があり、1000人を超える従業員がいる。

たった一代で築き上げた会社には、20年選手が100人いるという。
入れ替わりの激しいエステ業界では異例のことだ。

たかの友梨さんの自伝のタイトルは、「運が悪くてよかった!」。

運の悪さを嘆く人もいるが、逆にそれをバネにできる人もいる。
「不幸は裏返せは、みんなプラス」という友梨さん。

マイナスをプラスにひっくり返して生きてきた人には、限りない魅力がある。

           <感謝合掌 平成25年4月19日 頓首再拝> 

本当の幸福 (7925)
日時:2013年04月26日 (金) 04時04分
名前:伝統


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(4月26日)

本当の幸福は淡々たる水のごときものである。
淡々たる水のごとき幸福によってのみ魂は本当の渇(かつ)を癒やされるのである。

どぎつい幸福、有頂天な歓喜、陶酔的な快味は、
アイスクリームのごとく、コーヒーのごとく、砂糖入りの紅茶のごとく、酒のごとく、
アルコールのごとく、刺激が強いかわりにいつまでも渇きは続くのである。

淡々たる生活の本当の幸福の味を知るようになるまで、
人間は彷徨(さまよ)い歩かねばならないだろう。

           <感謝合掌 平成25年4月26日 頓首再拝> 

「状況」ではなく、「態度」を変える (8044)
日時:2013年04月30日 (火) 07時28分
名前:伝統


           *メルマガ「人の心に灯をともす(2013年04月26日)」より

   (ジョン・C・マクスウェル氏の心に響く言葉より…)


   W・クレメント・ストーンは、第2次世界大戦中に夫とともに
   カリフォルニア州の砂漠へ移り住んだ若い妻の話を書いている。

   東部で生まれ育ったその女性には、砂漠は荒涼としたこの世の果ての土地に見えた。
   住居といえば、ネイティブアメリカンの村に近いところにあった掘っ立て小屋しかなかったし、
   英語を話せる人もいなかった。

   彼女は1日の大部分をその家の中で過ごし、日中のうだるような暑さが収まるのを待った。

   夫が長期の旅に出かけたあと、彼女は母親に、家に帰りたいと手紙を書いた。
   数日後、母親から返事が届いた。

   「2人の男が、刑務所の鉄格子から外を見ていた。
    1人はぬかるみを、もう1人は星を見ていた」

   これを読んで、彼女は目が覚めたような思いがした。
   
   状況を変えることはできないが、自分を変えることはできる。

   それからは、ネイティブアメリカンの隣人と友達になり、
   一緒に機織をしたり、陶器を焼いたりした。

   そして時間をかけて砂漠を歩き、自然の美しさに感嘆した。

   突然、新しい世界が開けた。
   変わったものといえば、彼女の態度だけである。

   周囲の状況に気が滅入るようだったら、変化のときが来ているのかもしれない。
   「状況」ではなく、「態度」を変えるべきときが。

   自分を取り巻く状況を最大限に活かせるようになれば、
   あなたと夢の間に立ちはだかる、手強い障害は消えてなくなる。

           <『一勝九敗の成功法則』“齋藤孝訳”三笠書房>

   ・・・・・

人は、「相手を変えること」ができないのと同じように、「状況」を変えることはできない。

しかし、自分の見方や態度が変わるだけで、状況は一変する。

それは、「幸せ」を感じることと同じ。
「幸せ」という現象や状況があるのではなく、自分が幸せを感じるかどうかで決まる。

砂漠に住んで、幸せを感じる人もいれば、それを不幸せと思う人もいる。

「失敗ではない。うまくいかない方法を一万通り発見しただけ」
と言ったエジソン。

人は、見方や態度によって幸せにも不幸にもなる。

           <感謝合掌 平成25年4月30日 頓首再拝> 

「一時の快楽」と「幸せ」の違い (8289)
日時:2013年05月10日 (金) 04時53分
名前:伝統

   *『あなたに奇跡を起こす 笑顔の魔法』野坂礼子・著(P196~  )より

私たちは、ともすれば「幸せ」と「好都合」を混同し、「好都合」を求めて走ってしまいます。
ところが、いくら「好都合」を追求しても、本当の幸せにはたどり着けません。
それどころか、結局はたいへんな不幸を引き寄せてしまいます。

「好都合」とは、「不安」「不快」を避けるために、
一時的な「快楽」を求めてしまうことです。

快楽を求めるというと、例えば、おいしいと評判のレストランで豪華な食事をするとか、
エステに行ったり、休みをとって旅行する、といったことがあげられます。
これらはリフレッシュできてとても楽しいですよね。

でも、たまにだから楽しいのであって、毎日来る日も来る日も続けると、
最初の喜びはなくなり、遅かれ早かれ飽きてしまいます。
快楽的な喜びといいうのは、一時の快感を運んではくれますが、すぐに色あせてしまうのです。

なぜかというと、快楽を次から次へとやり続けても、
やがては飽きてしまうというメカニズムが、人間の脳には組み込まれているからです。

楽しいことしていると、最初は快楽ホルモンといわれる脳内モルヒネが出て、
「うれしい」「楽しい」と感じるのですが、同じ状態が続くと必ずギャバという
抑制物質が出てくるので、飽きてしまうものです。

たとえお金を山ほど手にしたとしても、最初はいろいろなことができるのがうれしくて
しょうがないでしょうが、何をやってもそのうちギャバが出て喜びを抑制してしまうので、
もっと楽しいこと、もっと刺激的なことはないか、と探し回ることになります。

また「不安「「不快」を避けることを目的に生きると、まずは収入の安定のために働くことに
なります。お金を得るためだけに一生働きつづけるのは、大変な苦痛と忍耐を要するという
ことは、想像にかたくないと思います。

とはいえ、病気の「不安」や「不快」と闘うのは耐え難いものがあるし、避け切れるわけ
ではありません。若くして元気なときはいいのですが、肉体的なことへの不安と不快は
やってくるもの。人間関係でも、不快なことや不安は、必ずやってきますね。

ただ、そういった不安や不快を避けることが、幸せへの第一歩と勘違いをしてしまうと、
本当の幸せには、たどり着けなくなってしまうのです。

では、本当の幸せとは何でしょう。

人の脳のメカニズムは本当に不思議で、自分がやったことで人が喜んでくれたときにだけ
抑制物質のギャバが出ないようになっているようです。その場合は、脳内モルヒネが出続け、
喜びであふれかえる至福の境地に至るのです。

つまり、人は人に喜んでもらうことでしか本当の幸せ、究極の幸せは得られないのです。
ただ、いくら人が喜んでくれても、自分を犠牲にして人を喜ばせていると、いつかは
限界がきます。ストレスがたまって病気になったり、「もうダメ」だと精神的にプチッと
切れて、逃げ出すことになってしまうでしょう。

第一、自分を犠牲にしている場合は、実は人を喜ばせるより、
人の愛をゲットするのが本来の目的なのです。

ですから、自分が最高に楽しいと思ってやれる天命・天職によって、人が喜んでくれて
自分もうれしい、というのが、唯一、最高の幸福の道なのです。

そうじゃない道を行くと、別のことでつらさをごまかしたり、お金をゲットできるような
楽しみ―― パチンコやショッピング、グルメ、旅、エステなど―― にやたらと走るといった、
快楽的欲求に突き進むことでバランスをとるしかなくなってしまいます。

実際、現代社会には、そういう生き方をしている人がとても多いのではないでしょうか。

私たち現代人がやたらと癒しを求めているのは、天命からはずれた生き方をしているからでは
ないでしょうか。

天命を生きていると、生きること、懸命に働くことがそのまま癒しなのです。
なぜなら、みんなが喜んでくれるからです。みんなに感謝されるからです。

           <感謝合掌 平成25年5月10日 頓首再拝> 

幸運のシャツ~心の働かせ方に気を付けよう! (8629)
日時:2013年05月23日 (木) 04時48分
名前:伝統


     *メルマガ「癒しのことば(2013年04月04日)」より

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  「『心の働かせ方に気を付けよう!』
   ……目の前の出来事に対して「悪い受止め方」をしてしまうか、
   「良い受止め方」をするかは、あなた自身の「心の働かせ方」なのです。

   物事の見方、受止め方、光の当て方を変えてみましょう」

               -- アラン(フランスの哲学者)--

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 奇妙な味の短編小説の名手、阿刀田高(あとうだたかし)さんの作品に、
 『不運なシャツ』というものがあります。

 縦縞のシャツを着て外出すると、必ずといっていいほど、
不運な出来事に遭ってしまう男の人の話です。

 縦縞のシャツを着て会社へ出勤すると、ちょうどその日は健康診断の日で、
 医者からガンの疑いがあると言われます。

 再度、精密検査を受けたの結果、ガンではなかったとわかったのですが、
 これはかなりの心痛でした。

 次にこのシャツを着たときには、友人の車に乗っていて事故に遭ってしまいます。
 幸い、彼は無事だったのですが、かわいそうに友人は亡くなってしまったのです。

 その日の朝も、目の前に縦縞のシャツがありましたが、
 以前のことを思い出して、どうしても着る気にはなれません。

 この縦縞のシャツを着ると、不吉な出来事が起こるように思えるのです。

 そこで彼は、別のシャツを着て会社へ出かけます。
 これで、今日は、不運な目に遭わなくてすむはずでした。

 ところが、帰宅する途中、彼は、ダンプカーにはねられて死んでしまいます。

 そして、最後の瞬間、彼は悟ったのでした。

 『あの縦縞のシャツは、不幸なシャツなんかではなくて、
  本当は幸運を招いてくれるシャツだったのだ。
  今までは、どんな不運な出来事に遭遇しても、あのシャツが命を守っていてくれた。
  でも、今は、そんな幸運のシャツを着ていない……』

 
 幸運のシャツを、不幸のシャツだと思って、着ようとしない人はいませんか。

 たとえば、あなたがスピーチをしているとき、つまらなそうな顔をしていたり、
 イライラしているようみ見える人ばかりを気にしていれば、とてもリラックスして
 話すことなどできないでしょう。

 そんなとき、あなたの話に笑顔でうなずいている人を見つけて、その人に語りかけるように
 してみれば、きっと、落ち着いて話し続けることができるはずです。

 自分の嫌なところばかりを見ていれば、何をするにも自信が持てないでしょうし、
 人の欠点ばかりに目が行くとすれば、まわりには嫌な人ばかりがいるということになって
 しまいます。

 それよりも、自分の良い所を見て、それを表現するようにしてみたらどうでしょうか。
 まわりの人の、長所を見つけてみてはいかがでしょうか。

 それだけで、まわりはステキな人ばかりになるでしょう。
 そして、そんなすばらしい世界を自信を持って進んでいくことができるでしょう。

 何を見ているかが、目の前のことをどう受け止めるかが大切なのですね。

 不幸なシャツだと思っていたものが、本当は、幸運のシャツだということもあるのです。

 自分のダメな所だと嫌っていたことが、本当は、すばらしい長所だということもあります。
 苦しくて、どうしようもないと悩んでいたことだって、成長のきっかけを与えてくれる、
 この世界からのメッセージだということもあるでしょう。

 あなたのまわりの「楽しさ」を見てみれば、世界が楽しさに満たされますし、
 「よろこび」を見つけようとすれば、すべてが喜びに包まれます。

 幸せになるためには、自分がずっと幸せだったということに気づけばいいだけのことなのです。

           <感謝合掌 平成25年5月23日 頓首再拝> 

欠乏感を埋めることは幸せにつながらない (8850)
日時:2013年05月31日 (金) 05時59分
名前:伝統


          *『こころの格差社会』海原純子・著(P23~25)より

(寓話「九十九の輪」の紹介です。~「寓話セラピー 目からウロコの51話」より)

昔々、ある国の王様のもとにひとりのすばらしい召使いがいた。
毎日幸せそうにやってきて、歌を歌いながらハードワークをこなす。
王様は不思議でならなかった。何故あんなに幸せそうなのだろう。

王様は召使いにたずねた。
「お前は何故そのように毎日気分よく幸せようにしているのか? 」

召使いは答えた。
「王様、私はもう十分もっているんです。家もあり、妻も子もいて元気にしています。
食べ物にも困らず働く場所もある。何の不足もないのです」

しかし王様は納得できない。
立派な宮殿に住みおいしい食べ物を食べている自分が満たされないのだから。

そして国一番の賢者にたずねるのだった。
「あの召使いが何故そんなに幸せでいられるのか理由を知りたい」

賢者は答えた。
「その理由がわかる方法があります。しかしその理由がわかると1人すばらしい召使いを
なくすことになります。それでもいいのでしょうか? 」

王様はそれでもいい、と答えた。どうしても理由を知りたかったのである。

すると賢者は99枚の金貨を用意させ、召使いの家のドアにつるしておいた。

翌日、召使いは布袋を見つけた。
急いで袋を家に入れ開けてみると大量の金貨と共に1枚のメッセージが添えられていた。
「この金貨は今までのお前のよい働きに対する報酬である。遠慮なくとっておきなさい」

召使いは大喜びで金貨を数えはじめた。
1枚、2枚・・・・・・。99枚・・・・・・。おかしい、足りない、何度数えても99枚《しか》ない。
金貨は100枚のはずだ。誰かがぬきとったに違いない。1枚足りない。

召使いはイライラした。
金貨100枚あれば一生幸せに暮らせる。どうしても1枚《足りない》。

召使いは、その《不足した》金貨1枚を手に入れなければ、と思った。
金貨1枚分得るために、もっと残業しよう。妻も働きに出さねば。休日も返上しよう。
食べ物も切りつめ倹約せねば。

召使いは金貨1枚のことばかりを考えて頭がいっぱいとなった。
そして妻を働きに出し、食べ物の倹約を宣言した。
休日も働くので体はつかれ、毎朝苦虫をかみつぶしたような顔で出勤。
歌は消え、不機嫌そうな表情が召使いの顔のトレードマークとなった。

王様は毎日不機嫌な召使いの顔を見るのが嫌になりその召使いをクビにしたのである。
そしてすばらしい召使いを1人失ったのである。

何かが足りないと思い、その何かがあれば幸せになれると外にむかって何かを求めはじめた瞬間に、
人は幸せではいられなくなるという話である。

外的条件を求めることは、高揚感を生み出すこともある一方で、このような結末も生む。
そして一生を、外的条件を求める高揚感で終わらせるのはかなりむつかしいのである。

           <感謝合掌 平成25年5月31日 頓首再拝> 

働き(活動)の中に人間の本当の幸福がある (9168)
日時:2013年06月10日 (月) 07時16分
名前:伝統

        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月11日)より

金(かね)が幾億万円自分の前に積み上げられたとて、
それを使うことができなければ自分が幸福だというわけではない。
そこでわれらは、金を使うことができるので幸福だと考える。

では魔法使いが一瞬目の前に幾億万円の金をあらわして、次の瞬間その幾億万円を眼界から
消し去って「もうお前は金を使ってしまった。お前は金を使ったから幸福だろう」と宣告しても
われらは幸福になれる訳ではない。

そこで「それが幸福でないのは、その金を自分で使わないからだ」とわれらは考えるであろう。

では、自分で金を使うことが幸福であろうか。
金を自分で使うのが幸福であるならば、なぜ金持はその金を召使や他の人に対して
自分が坐っていて必要な品物を買わせているのであろう。

なんでも自分で買物に出かけなければ幸福でありえないというならば、
金持はその多くの金を消費するために、毎日自分で多数の商家を訪問して歩かねば幸福に
なりえないであろう。しかしそんなことをしている金持も幸福者も一人もない。

そこでこんなことがわかる。
金はたくさん持っているということが幸福ではなく、それを使うということが幸福でもなく、
自分が使うということが幸福でもない。

金というものは持っていても使っても幸福になんの関係もないものなのである。
ただ金はわれわれに、また他々(ひとびと)に、働きの動機を与える。
金はわれわれを、そして人々を働かせる媒介となるものなのである。

その「働き」または「働かせ」の感じが幸福であるのを錯覚して
「金が幸福を与える」と誤想しているのである。

働き ―― 活動 ―― のみが人間の本当の幸福なのである。
猟師は獲物をことごとく自分が食べるのではない。
猟師は猟(りょう)をすること、その働きのみが楽しいのである。

人を救うことそのことが楽しいのである。
救った結果収入がないとかあるとかいうことは問題ではない。

多くの生長の家の誌友たちが自分で自動車賃などを費やして、
人々を救(たす)けてあげているのは涙ぐましい立派な行ないであるが、
それはその人の中に宿っている「神」が働いているのである。

「神は生命(せいめい)」であり「働き」である。
働くもののみが幸福であり、健康であり、活々(いきいき)してくるのである。

           <感謝合掌 平成25年6月10日 頓首再拝>

【本当に幸運だった】 (9550)
日時:2013年06月29日 (土) 07時19分
名前:伝統


          *メルマガ「人の心に灯をともす(2013年06月01日 )」より

   (スティーブ・ジョブズ氏の心に響く言葉より… )

   スティーブ・ジョブズは、カリフォルニア州サンフランシスコに生まれて数週間で、
   同じサンフランシスコに住むポール・ジョブズとクララ・ジョブズ夫妻の養子となった。

   ポールは高校中退だが、ジョブズの目には押し出しのいい、とにかくすごい父親として映った。

   大恐慌時代に青年期を迎え、中西部を転々とし、
   第2次大戦中は沿岸警備隊でパットン将軍の指揮下で働く。
   ただ、何かとトラブルに巻き込まれてしまうタイプで、軍に残ることはできなかった。

   ポールは手先が器用で、沿岸警備隊時代に機関室で技術も身に付け、
   腕のいい機械工としてよく働いた。

   趣味は機械いじりで、ポンコツ車を買っては修理し、
   走れるようにして売っては次の車を買って小銭を稼いでいた。

   自宅ガレージには専用の作業台が置いてあり、ジョブズが6歳になった頃、
   ポールはその一部を譲って「ステーブ、今からここがお前の場所だ」と言った。

   それから小ぶりの金槌(かなづち)やノコギリを渡すと、使い方をこまかく具体的に教えた。

   親子はここでよく一緒に機械を組み立てては分解した。
   「本当にためになった」とジョブズは言う。

   しかし、ポールから受け継いだのは機械いじりの能力より、商売のやりとりだったようだ。
   ポールは、ポンコツ車の修理もうまかったが、それを売買する商売はもっとうまかった。
   稼いだ小銭がジョブズの大学進学の費用になるほどだった。

   ジョブズも交渉の仕方や値切り方、捨てられた車の所有者を推理する能力などを
   身につけていく。

   「本当に幸運だった」

   ポールを父親として持てたことを、ジョブズはそう語っている。

   血はつながっていないとはいえ、ジョブズにとって、
   育ててくれたポールとクララは、亡くなった今も最愛の人たちだ。

   ジョブズの前で「養父母」という言葉は禁句で、
   うっかり口にして何人ものジャーナリストがたたき出された。

   「二人とも私の親だ」

   そうジョブズは言う。

         <『スティブ・ジョブズ 神の遺言』経済界新書 >

   ・・・・・

ジョブズの生い立ちは複雑だ。
実の父はシリア人だが、米国ウィスコンシン大学の大学院生だった時に、
同級生だった米国人との間にできた子どもがジョブズだった。

誕生以前からその赤ん坊は養子に出す事が決められていたという。

子どもの頃はかなり貧乏だったが、21歳でアップルを創業し、25歳で上場し巨万の富を得た。
しかし、結局業績不振から30歳の時に会社から追放された。
42歳で、倒産寸前の会社に舞い戻り、劇的なやり方でアップルを建て直した。

自ら望んで波乱万丈で辛く厳しい人生を歩みたいと思う人など、この世にはあまりいない。
しかし、多くの成功者は、過酷な条件をバネにして生きてきた人が多いのも事実だ。

ジョブズは、養子であったこと、貧乏であった境遇が「本当に幸運だった」と言っている。

松下幸之助翁が、「貧乏、病弱、無学歴」のお陰で成功した、と言うのと同じだ。

自らの過去の厳しい生い立ちや環境に感謝できたとき、人は幸せへの道を歩むことができる。

           <感謝合掌 平成25年6月29日 頓首再拝>

幸せを感じていると、長生きする (9956)
日時:2013年07月20日 (土) 04時46分
名前:伝統


2011年2月、世界的に著名な科学雑誌『Science』に「Happy People Live Longer」
(幸せな人は長生きする)と題した記事が発表されました。

これは、幸福度と寿命に関連する過去の複数の研究事例を総合的に分析したもので、
「いつもポジティブでいることが健康で長生きするための秘訣」と結論付けています
(Science;331,542-3,2011)。

しかも、驚くべきことに、先進国に住む多くの人で比較したところ、
幸せを感じている人は、そうでない人に比べ、7.5~10年寿命が長かった、というのです!


米国ケンタッキー大学が行った修道院の尼僧180人を対象にした「幸せ度と寿命」に関する
長期にわたる追跡研究です。

それによると、修道院に入所したとき幸せだと感じていた尼僧の寿命は93.5歳だったのに対し、
あまり幸せだと感じていなかった尼僧の寿命は86.6歳と、約7年の開きがあったとのこと。

つまり、ほぼ同じような環境で暮らしていても、
心の持ち様でやはり寿命には大きな差が出るといえるわけです。

           <感謝合掌 平成25年7月20日 頓首再拝>

調和した心を持ち、それを実行に移す (10287)
日時:2013年08月01日 (木) 04時35分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月1日>(P38~39)より

われわれがもし自分の周囲に幸福な世界を持ちたいと思うならば、
まず自分自身の心のうちに「幸福な世界」を持たなければならぬ。
環境は、心の影、外界は内界の反映であるからである。

では、自分の心のうちに「幸福な世界」を持つにはどうしたらよいであろうか。
また「幸福」とはいかなる状態であるのであろうか。

答えて曰く、調和が幸福な状態である。
億万の富があるも調和がなければ幸福だとは言えない。
だからわれらがもし自分の周囲に幸福な世界を持とうと思うならば
調和した心を持たなければならないのである。

ここに「汝ら天地一切のものと和解せよ」
この教えが絶対権威のあるものとして生きているのである。

まずあなたが不幸であるならば、手近のものと和解しているか省みよ。
和解するとは、「感謝することである」と『生命の實相』の巻頭には書いてある。

「感謝する」とは口先だけで「ありがとう」と
空念仏のような称え語(ごと)することではない。

心に深く感謝の意を起こし、その感謝の意を実行にまで駆り立てるほどの熱意ある
感謝でなければ本当に感謝しているとは言えないのである。

実行とは、心の思いの果実である。心で感謝していますと口には言っても、
実行しない感謝というものは、実のない感謝である。
徒花(あだばな)のような感謝は実を結ばぬ。

「あなたは良人に感謝していますか。」
「ハイ、感謝しております」こう答えながら、
時々「ああもして欲しい、こうもして欲しい、まだこうしてくれれば満足できぬ」と
言うような奥様がどこかにないであろうか。

ここの微妙なところで、その人の家庭の幸不幸と、健不健との岐(わか)れ目があるのである。

           <感謝合掌 平成25年8月1日 頓首再拝>

幸せを感じる人の身体への影響 (10401)
日時:2013年08月06日 (火) 04時18分
名前:伝統


        *「ごきげんな人は10年長生きできる」坪田一男・著(P40~41)より

ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンのアンドリュー・ステップトー教授らは、
人の唾液中のコルチゾール値を測定し、幸せな人と不幸せな人の健康状態の違いを調査した。

それによると、幸せな人と不幸せな人とでは、
このコルチゾール濃度に最大32%もの差があり、
幸せな人ほど、コルチゾールの1日の平均レベルが低いということがわかった。

・・・・

  ①コルチゾールとは、ストレス対抗ホルモンのことで、これには、
   ストレスを緩和したり、感情を穏やかにする働きがある。

  ②長期的・継続的なストレスによって慢性的にコルチゾールの
   濃度が高い状態が続くと、高血圧や高血糖になりやすくなる。

  ③コルチゾールの分泌量が過剰になると、免疫力が低下して感
   染症にかかりやすくなる、抗酸化酵素の働きが弱まり酸化ス
   トレスにも弱くなるといったリスクもある。

  ④長期的には感情や本能を司る大脳辺縁系に悪影響を及ぼし、
   感情が乏しくなったり、記憶力が低下したりすることもある。

・・・・

   つまり、幸せな人のほうが、高血圧や高血糖になりにくく、
   感染症にもかかりにくく、身体と脳の老化もしにくい状態にあるというわけだ。


   さらに、幸せな人は心拍数が低く、血栓の原因となるフィブリノゲン血漿の値も低いこと、
   細胞の炎症レベルも低く、心臓病や動脈硬化といった心血管疾患のリスクが低いことも
   明らかになった。

   このように、幸せは人の身体にさまざまな良い影響を及ぼすのだ。

           <感謝合掌 平成25年8月6日 頓首再拝>

幸福度 (10475)
日時:2013年08月10日 (土) 04時52分
名前:伝統

日本人は世界で最も不安や恐怖を感じやすい

       *「音響免疫療法」(P182~184)

ここ数年、様々な研究機関が世界の国々の「幸福度ランキング」を発表しています。
例えば、ギャラップ(アメリカの世論調査機関)が2010年に実施した調査によると、
日本の幸福度は155ヵ国中81位でした。

経済協力開発機構(OECD)が2012年に公表した各国の幸福度を測定する
「より良い暮らし指標」では、日本は36ヵ国中21位で、前年の10位より後退しています。

日本は豊かなはずなのに、多くの人が「幸せ」と感じられずに暮らしているのです。

(中略)

実は、日本人は世界で一番「不安や恐怖」を感じる民族なのです。
これは、セロトニントランスポーター遺伝子のS型を受け継いでいるからだといわれています。

セロトニンという神経伝達物質が、脳内に一定量存在していると、人間は安心感を覚えて
不安や恐怖の感情を抱きにくいのですが、バランスが崩れると不安になり、
長期的に欠乏するとうつ病になりやすいことが分かっています。

セロトニントランスポーターはタンパク質の一種で、これが脳内にセロトニンが増えすぎると
回収して調整しており、この情報がコード化された遺伝子には「L型」と「S型」があります。

L型遺伝子のほうがより多くのトランスポーターを生産します。
そのため、S型のセロトニントランスポーター遺伝子を両親から受け継いだ人は、
L型セロトニントランスポーター遺伝子を受け継いだ人よりも不安を感じたり、
うつ病になる傾向が高いということが明らかにされています。

この遺伝子は、一般には「不安に遺伝子」とか「恐怖遺伝子」と呼ばれています。

2009年い発表された『ジャーナル』では、29ヵ国5万135人の遺伝子調査を行なった。
結果、東アジア人はS型遺伝子を持っている割合が非常に高く、70~80%になっていました。
これに対してヨーロッパ人は40~45%でした。

29ヵ国中、S型遺伝子を持っている人の割合が一番高かったのが、
ニッポン人で80.25%だったのです。

このような結果からも、日本人は不安や恐怖を感じやすい国民のため、
ネガティブな感情が先に立ち、なかなか幸福感を得られないようです。

例えば、コップに水が3分の1ほど入っていたとします。
これを見て日本人の多くは、「あと3分の1しか残っていない」と受け取りますが、
ヨーロッパ人は「まだ3分の1もある」と受け取るわけです。

こうした思考は、恐怖遺伝子を持っている影響だとされています。

・・・・・・

<参考>

 恐怖の遺伝子が、セロトニンの分泌を抑制しているのですから、
 セロトニンの分泌を高めれば、不安や恐怖の感情がなくなり、安堵感になるということです。

 セロトニンが少ないと血液の温度の低下を感知しても
 体温調節する温熱中枢を充分活発化できません。
     
 セロトニンが少ない人は一日中体温が低く、冷え性になりやすいため、
 体の機能をいつまでも活発化できません。集中力の低下なども引き起こしてしまいます。

 そして、セロトニンが不足すると感情にブレーキがかかりにくくなるため、
 不安やストレスを強く感じたり、うつ病になりやすいのです。
 
 セロトニンは一定のリズムでの外側からの刺激によっても分泌促進されます。
 そのため、脳への一定の振動=読経、吐く呼吸法などが効果があります。

 (「生長の家」の行の、「聖経 甘露の法雨」の読誦や「神想観」がこれにあたります)

・・・・・・
           <感謝合掌 平成25年8月10日 頓首再拝>

幸せの道 (10594)
日時:2013年08月15日 (木) 04時04分
名前:伝統

       *「幸せの道」斎藤一人・著(P171~180)

時々、

「一人さんさァ、幸せになりたいんだけど、幸せになる方法を教えてくれますか?」

って言う人がいるんです。

「いいよォ。『幸せ』って言いな」
これだけなんですけど。  (笑)


(いつもは、この話だけで終わりなんですけど)

今日は特別に、もう少し詳しく話させていただきます。
(この話は、)聞けば聞くほど、信じられない話です。


幸せだって言うと、守護霊様が喜んでくれるんです。
「あーそうか、お前幸せか、俺が付いてるからだよ」なんて言って喜びます。

ご先祖様もね、幸せだって言うと、ご先祖様も喜んでくれるんです。
「そうか、お前、幸せか。俺たちもな、いろいろあったけど、命ずっと繋いできたからね。
お前にそうやって言われると、俺たちも嬉しいよ」なんて言って、ご先祖様が喜びます。

「あー、幸せだ」って言うと、神様が喜びます。
「そうか、よかった、よかった。お前、幸せでよかったな」って、神様が喜んでくれます。

「地球に生まれて幸せ」って言うと、地球が喜んでくれます。
「そうか、幸せか。もしお前、俺がいなかった、お前おっこちゃうんだぞ」
いろんなこと言って喜んでくれます。 (笑)

「日本に生まれて幸せ」って言うと、日本が喜びます。
「この会社に入れて幸せです」って言うと、社長が喜んでくれます。
「みんなと働けて幸せ」って言うと、同僚が喜んでくれます。

これは、ものすごく難しいのはわかってますけど、家に帰って、
「あなたと結婚できて幸せ」って言うと、旦那さんが喜んでくれます。
これはほんとに難しい技です。 (笑)

「お前みたいな子ができて、幸せだよ」って言うと、子供が喜んでくれるんです。

で、周りじゅうが喜んだら、ほんとに幸せなんだよ。


今日はもう少し話しますね。


不幸な人の特徴があります。

例えば飲みに行きます。

えー、飲みながら、国が悪い、政治家が悪い、官僚が悪い、社長が悪い、あいつが悪い、
こいつが悪い・・・よーく聞いていると、自分以外全員が悪いです。  (笑)

そりゃあ大変だよね、あなた以外全員悪いんだもんね。悪い奴に囲まれて生きているんだもんね、
わかるよ。うんうん、わかるわかる。

ところでさ、国が悪いとか、政治家が悪いとか言ってると、逮捕されて拷問される国って
いっぱいあるんだよ。
日本って平気で言えるの。言えるだけ幸せな国なの。

「最近、私のこのお腹に肉が付いちゃってさ」(笑)
今、世界中で1年間に200万人餓死してるって言われているの。
その中で、余分に肉が付くほど、ご飯が食べられたっていうのは、幸せなんだよ。


病気が治らない人の特徴があります。
「元気になった? 」
「まだここがちょっと・・・」
いっつも最高に元気だった時のこと、そのことばっかし考えてる。

ところが治る人は違うの。
「元気になった? 」
「お陰様でね、前は痛くて3時間しか寝られなかったのが、今、5時間寝られるようになりました」
最高に悪かった時のこと考えて、ちょっと良くなった、ちょっと良くなったって感謝している人は、
どんどん良くなってきます。


ところでね、「幸せの道」っていう話なんだけど、「幸せの道」ってどこにあるんですか?
って聞く人がいるんですけど、そんなもんないんです。非常に残念です。 (笑)


人生って、草原と同じです。
みんな自分の好きな道を歩きます。

その道を、今日の朝、目が覚めて幸せ、ご飯が食べられて幸せ、
みんなといられて幸せ。幸せだ、幸せだと言いながら、歩いた人の後ろに、
幸せの道ができてきます。    (拍手)

不平とか、不満とか、愚痴とか、泣き言とか言いながら、
歩いた人の後ろに、不幸の道ができます。

遠くに幸せを求めないでください。
遠くに幸せを求めると、ほとんどの人が行き着きません。
苦しくなるだけです。

それより、今の自分の幸せに気がついてください。
ご飯が食べれて幸せ、花が見れて幸せ。

どうしても幸せと思えない人は、1分だけ息止めてください。
1分後に必ず 「息が吸えて幸せ」。    (笑)

幸せだ、幸せだって言いながら歩いたこの幸せの道は、
必ず成功の道に繋がってます。

本日は、どうもありがとうございました。    (拍手)

           <感謝合掌 平成25年8月15日 頓首再拝> 



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