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心の法則 (7410)
日時:2013年04月02日 (火) 03時43分
名前:伝統

     *『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P92~93(4月2日)>より

偶然は一つもない。
もし偶然があるとすれば神の摂理の及ばぬ事物がどこかにあるということを認めねばならぬ。
そしてこれは神の全智に対するはなはだしい冒瀆となるであろう。

偶然と考えられるもののうち、善き一半は神より来たり、悪しき一半は「心の法則」より来たる。
神は悪しきものを与え給わないから、悪しきものは神の最初の創造の世界にはないのである。

神から悪しきものが、貧しさが、病気が、苦難が来るという考えを捨てよ。
それらは神から来るのではない。審判(さばき)は子にゆだねられているのである。
(「ヨハネ伝」)

われわれは神の子であるから、われわれ自身の潜在意識の審判(さばき)が「心の法則」として、
「三界は唯心の所現」として現われるのだ。

・・・・・

<関連Web>

 (生長の家“本流宣言”掲示板)

(1)「心の法則」    http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=79

(2)「心の法則(Ⅱ)」 http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=656

          <感謝合掌 平成25年4月2日 頓首再拝>

心の法則かな! 信念の法則かな! (8069)
日時:2013年05月01日 (水) 03時52分
名前:伝統


     *『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P120(5月1日)>より

お山の杜鵑花(つつじ)が真盛りである。
万物がわたしのために讃歌を歌っている。

讃歌の世界、花葩(はなびら)の降りそそぐ世界、
この世界がそんな美しい世界だと知ったときわたしはこのお山へ招かれて来たのである。

「三界は唯心の所現である」 
釈迦のこの哲学が真実であるならば、心の法則を知ることは
三界を自由に動かし、運命を自由に支配することとならざるをえないのである。

「なんじの信ずるがごとくになんじにまでなれ」
キリストのこの信仰が真実であるならば、信念の法則を知ることは環境を自由に支配し、
肉体を思うまま健康にし、心に思うまま法悦と歓喜と平和を満たすところの
唯一の鍵であるといわなければならない。

  心の法則かな。  信念の法則かな。

せっかく、光明真理に触れたのであるから、
もう一度この問題を復習してみることは、
これからの自分の生活を確固とした基礎の上に置くことになるのである。

          <感謝合掌 平成25年5月1日 頓首再拝>

「三界は唯心の所現」 (8094)
日時:2013年05月02日 (木) 07時20分
名前:伝統

     *『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P120(5月2日)>より

「『生命の實相』を読みましたけれども良人の病気が治りませぬ。
誌友になりましたけれども良人の病気が治りませぬ・・・
いろいろの不幸が重なって出て来ようとしております。

私は今まで願ったことは一つも叶えていただけませんでしたけれども、
これだけはぜひ一つだけでも叶えていただきたいと思うのでございます。
それは良人を今の位置から転任させていただきたいということです。・・・」

これが今日来たある夫人の手紙である。

こういう人は『生命の實相』のどこを読んだのであろう。

「すでにすべてが叶えられているのが生命(せいめい)の実相(ほんとのすがた)である」
というのがわれわれの教えである。

地上の世界が曇っているとも見え、雨が降っているとも見えるにしても、
太陽の本当の相(すがた)は曇っていないのである。

それと同じくこの世が不如意に見えようともわれわれの実相(ほんとのすがた)は
すでに叶えられているのである。

この真実(ほんとう)の相(すがた)を見れば心に歓喜が湧く。
心に歓喜が湧けば、その心の歓びが形にあらわれて幸福な運命となる。

この夫人は不平ばかりを「心」に思っているから、
「三界は唯心(こころ)の所現(えがくところ)」という法則により、
不平に思えることばかりが現われて来るのである。

不平に思うからこそ「不平に思える事柄」が出て来ているのである。
自分で自分に「不平」を製造しながら、神を恨んでいるようなことでは、幸福は来るものではない。
「汝の信ずるごとく汝にまでなれ」である。

不平を心に思わねば、「不平に思える事柄は出て来ないのだ」と言えば、
「不平に思うべき事柄が無くなれば不平に思わずにいられますけれども、こんなおもしろくない
事件ばかり起こるのに不平を思わずにおられるものではありません」と普通の人は言う。

そして毎日不平に思って、次の日に思った「心の不平」が形にあらわれて「不平な事件」が
突発する、そして、ますます不平に思う ―― こうして、そういう人には不平と不幸とが
循環輪廻して尽くるところがないのである。

これは心の法則を知らぬからである。

今眼の前に起こっている形の不幸を、実際《ある》と思っているから、
歓ぼうと思っても歓べはしないし、不平が尽くることがない。

不平は「不平」の機関車を運転する石炭のようなものである。
不平の罐(かま)を焚(た)いていながら、「不幸の機関車よ、運転するな」
ということはできないのである。

「それではどうしたら不平に思わずにいられますでしょうか。」
「今眼の前にあることは、過去に自分が思った念(おもい)が形にあらわれて
消えてゆくのだ。ありがたい」 と思えばよいのである。

そして、「今眼の前にどう現われていようとも、それは唯心(おもい)の所現(あらわれ)で
あって本当に《ある》のではない。本当には今自分は、自分の良人は、自分の子供は
すでに健康であり、幸福であるのだ・・・ ああ、ありがたい! 」
と感謝する心になることである。

心が万事の本(もと)である。

          <感謝合掌 平成25年5月2日 頓首再拝>  

思考が《もの》に化(な)る (8210)
日時:2013年05月06日 (月) 06時06分
名前:伝統


     *『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P125(5月6日)>より

眼に見える世界は、われわれの心で造った第二創造の世界である。
その奥に神の心で造った第一創造の世界がある。

第一創造の世界は神の創造であるから曇ることはないが、
第二創造の世界はみずからの心に従って曇ることがある。
雲っても不平を言うまい。自分の心が曇ったのだから。

第一創造の世界は大宇宙であり、第二創造の世界は小宇宙である。
神が大宇宙を造ったように、われわれはわれわれの心でわれわれの周囲に小宇宙を造るのである。

思考が《もの》に化(な)る。念(こころ)が《もの》に化(な)る。

          <感謝合掌 平成25年5月6日 頓首再拝>  

心の法則をいかに活用するか (8253)
日時:2013年05月08日 (水) 04時42分
名前:伝統


     *『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P127(5月8日)>より

心で《もの》を造るのは心の法則に従うほかはない。

病気を治そうと思えば、治るような心になるほかはない。

人に頼んでも、金を払っても、そんなことでどうにでもなるわけではない。

          <感謝合掌 平成25年5月8日 頓首再拝>  

我(が)をなくすること (8278)
日時:2013年05月09日 (木) 04時57分
名前:伝統


     *『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P127(5月9日)>より

我(が)が無くならなければ、第一創造の世界は出て来ない。
心で《もの》を造るといっても、その頑張っている心では駄目だ。

第二創造の世界を、第一創造の世界と同様の完全な世界にするには、
念のレンズが「無我」すなわち「素通し」にならなければならぬ。

「我(が)」のあることはレンズにそれだけ収差のあることで、
第一創造の完全な世界がそれだけ歪んで、第二創造(模写)の世界に現われて来ることである。

          <感謝合掌 平成25年5月9日 頓首再拝>

「感謝で与えられ、不平で奪われる」のが心の法則 (8291)
日時:2013年05月10日 (金) 04時59分
名前:伝統


     *『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P128(5月10日)>より

感謝する程度にしたがって与えられ、

不平を持つ程度にしたがって奪われる。

          <感謝合掌 平成25年5月10日 頓首再拝>

想念(こころ)を大きく持つ (8313)
日時:2013年05月11日 (土) 06時36分
名前:伝統


     *『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P128(5月11日)>より

第一創造の世界===第二創造の世界。
この二つの世界を繋いでいる==(パイプ)は想念(こころ)である。
想念(こころ)が大きくなければ、第二創造の現象世界に完全な状態はあらわれない。

想念(こころ)は==(パイプ)であるから、想念(こころ)で力んでみてもなんにもならない。
凝念(ぎょうねん)は生長の家の神想観ではない。
==(パイプ)を大きく持つのが神想観である。

小さなことに興奮しているようなことでは功徳はないのである。

人相ではこの==(パイプ)は眉間にあらわれる。
眉間に剣(けん)があったり、八の字が寄っていたり、凹(くぼ)んでいるようなことではいかぬ。

          <感謝合掌 平成25年5月11日 頓首再拝>

原因結果の法則 (8375)
日時:2013年05月14日 (火) 04時41分
名前:伝統


「各人の〝分相応〟―― 因果律のこと」

        *(橋本徹馬・著「人生を楽観すべし」より)

(1)因縁 ―― 即ち因果律のこと

   私は前項で各人の「分相応」ということを申しましたが、分相応とは何でしょうか。
   これは過去世からの因縁によって、人々の持って生まれる分限が違っていることを
   意味するのであります。

   因縁ということを別言すれば因果ということです。
   過去に作った原因によって、後にその結果の現れるのが因果であり、
   この法則を学問上では因果律といい、仏者は因縁という言葉を使います。

   例えば私達が持っている金銭を使えば、その金銭は無くなります。
   即ち金銭を使ったという原因によって、金銭が無くなったという結果が現れるのです。

   その他食い過ぎたために胃腸を害するとか。大いに働いたために疲れるとか、
   或いは化学者が酸素と水素とを化合せしめるという原因によって、水という結果を得る
   とか。大雨が降ったという原因によって、大水が出るとかいうのは、皆原因結果の法則、
   即ち因果律の現れであります。

   このように私達は毎日毎日時々刻々に、因果の法則に支配されつつあるのですが、
   人間が持って生まれる分限即ち「分相応」は、過去世のその人々の行為が原因となって、
   その結果を現世に持って生まれて来るのであります。

   勿論誰も生まれる以前の自分を知っている者はないのですから
   そんな事は信ぜられぬという人もありましょうが、しかし私達は現世に於て
   経験する因果の法則から考えて、これは当然そうあるべきだと思うのであります。

(2)私達の知らぬ前生

   私達は過去世に生きていたことの記憶がないからとて、過去世――即ち自分の前生――が
   ないものだとは断定出来ぬのであります。

   例えば人間のもの心がつくのは、大抵4歳か5歳くらいですが、その以前の記憶が
   ないからといって、1歳から4歳までの存在を否定する者はないでしょう。

   それよりも更に進んでいえば、人間はこの世に出て日の目を見る以前に、
   母の胎内に大体10ヶ月いることは、本人には記憶がなくとも疑うべからざる事実です。

   もっと手近なことをいえば、私達が熟睡している間のことは全然記憶がない
   (記憶があるようなら熟睡していないのです)けれどもその間の自分の存在を否定する者は
   ないでしょう。

   実際われわれが熟睡している時には、デカルト(フランスの哲学者ルネ・デカルト)の
   有名な言葉「われ思う、故にわれあり」というコトバさえ通用しない。
   なぜならば熟睡中は「われ思わず、されどわれあり」だからです。

   されば自分に記憶がないことのゆえをもって、自分の過去世――即ち前生――が
   なかったとか、或いは過去世から続く因果が信ぜられぬとかいうのは、近視短見
   というものです。

   別の例をとれば、ここに一匹の蚕の蛾がいるとします。
   この蛾の前身は繭の中にいた蚕です。そうしてそのまた前身は、桑の葉を食っていた
   おかいこさんです。さらにその前身は種紙にくっついていた、蝿の糞のような卵だった
   のです。なおその前身は卵にもならずに母胎内にいたものであり、なおその前身は
   現象以前の存在です。多分それは前世にいた蚕の帰幽したものであります。
 
   若し蛾が物言うものとした場合に、その蛾に対して「君の前身は桑の葉を食っていた
   芋虫のような虫であった」と言い聞かせ。或いは「種紙にくっついていた蝿の糞の
   ようなものであったぞ」といっても、恐らく蛾は「そんな記憶はないから信ぜられない」
   というでしょうが、蛾に記憶がないからといって、その事実は絶対に否定されぬのです。

(3)前生知らぬは神の慈悲

   ある人が天理教祖に向かって
   「人間はなぜ前生が分らないのですか」と尋ねたときに、教祖が

   「前生が分ったら、誰も顔を上げて歩くことが出来まい。それで一代かぎりに
   黒幕を垂れて、分らぬようにしてあるのじゃ、しかし他人には分らなくとも、
   自分には分るように身に知らせてあるから、よく思案して見よ」

   といわれたそうですが、流石に直接神を知った人の言葉だけあって、誠に深刻な話です。

   前生など信ぜられないと思う人々は、自分の前半生または生涯につきまとう不幸の原因に
   ついて、何故こうであるかと思案をして見れば分るのです。

   そうして実際若し前生――即ち自分の過去世――がはっきりと分ったならば、
   誰も顔を上げて歩けぬ次第が知られるのです。
   恐らくは何人にも、色と欲とに関する様々な履歴があるはずだからです。

   昔から優れた人達、例えば釈迦、耶蘇などの如き人は、眼に見える現世の現象界ばかり
   でなく、眼に見えぬ過去世と未来世及び、現象以外の霊界などをも徹見し得て、
   斯かる人間の前生からの因縁即ち因果の連続を説いているのです。

   世の唯物主義者達はこれに反して、眼に見える現象界以外は問題にしないのです。
   眼に見える物質以外は信ぜられぬというのです。そこで唯物主義者という者は、
   過去、現在、未来の三世のただ一世――即ち世の中の3分の1――しか知らぬ人達で
   あることが分るのであります。 

          <感謝合掌 平成25年5月14日 頓首再拝>

【“心の法則”と“平和への道”の神示】  (8554)
日時:2013年05月20日 (月) 06時23分
名前:伝統

(スレッド「『神示』集 (6236)」からの再掲です)

吾が來れるは古へ誤れる道徳観念を修正し、新しき正しき生き方を人類に示さんがためである。
『治にゐて亂を忘れず』と云ふのが古き人類の道徳であつたが、
『生長の家』の生き方は亂にゐて治を忘れざる生活である。

亂を忘れざる者はつひに亂に逢ふ。
亂を忘れざるが故に常に恐怖し、亂を忘れざるが故に武備をたくはへ、
武備を蓄ふるが故に近隣を威脅し、近隣を威脅するがために、
近隣また恐怖して武備を増す。

かくの如くして近隣兵を増すを見て、また自國は更に兵を加へて互に虎視眈々として
近隣相睥睨す。武備に國費を要し、教育費は削られ、俸給は縮められ、民に正色なく、
國に寧日なきは當然である。

汝ら、若し治にゐて亂を忘れざらばつひに亂に會ひ、
亂にゐて治を忘れざらば平和に逢はん。
亂を忘れざるを教へたる古き教も吾前には愚かなる者なるかな。

治にゐて亂を忘れざる者は健康にゐて病ひを忘れざる者である。
健康にゐて病ひを忘れざる者は、如何なる善行の者も、如何なる積德の者も、
すべては病ひに逢わん。

忘れずと云ふことは、心の力にて呼び寄せることを意味する。

求めよ、與へられん。呼べよ、答へんと吾れ汝に告げたであらう。
呼ぶものは皆來ることを疑ふな。

高德の人が病氣になるのは實に不思議だと思ふ人があるかも知れぬが、
治にゐて亂を忘れざるを高德と稱すべくんば、健康にゐて病ひを忘れざる高德者が、
病氣になつたとて不思議ではないのである。

吾れは汝に、死を豫想するなと言ひ、遺言状を書くなと教へたることがあらう。
また、不幸に對して用意すな、病氣の起る時の用意をして藥をて携へ歩むなと
教へたことがあらう。

すべて是れ『心の法則』である。
如何なる高德の者も『心の法則』の外に出ることは出來ぬ。

汝ら心して亂を思ふこと勿れ、心して病ひを思ふこと勿れ、
亂の眞つただ中にゐてすらも、實相の世界の常住平和を思へ。
汝ら眞に實相世界の平和を思へば、汝の世界にも平和は來たるのである。

また汝ら病ひの眞つただ中にゐてすらも、本當の汝の常住健康を思へ。
汝ら眞に實在の汝の健康を念へば健康は來たるのである。

されど悲しいかな。いま實在世界の常住平和を知るものは 寥々なる暁天の星であるぞ。
いま皆のものは一刻と雖も亂を思はない時とてない。
逆の精神波動が積り積つて、汝ら世界はもう累卵の危ぶさである。

近いうちに汝らの世界には一大変動が來るであらう。迷ひの自壊作用である。
○○は○○○と戦はねばならぬ。
神はその時の惨害を出來るだけ少なくするやうに努力してゐるが、
人間の方でもその惨害を出來るだけ少なくするやうに協力するやう頼む。

協力と云ふも何も難しいことではない。
亂の中にゐても心の平和を失はぬ修行をすることである。
そのためには常々神想觀の修行をさしてある。

(昭和六年五月三十日夜神示)

・・・


以下は、谷口雅春先生・著「『秘められたる神示』神示講義 秘の巻
《“心の法則”と“平和への道”の神示》」より、要点の紹介です。

(1)「治にゐて亂を忘れず」などというようなことは、それは近視眼的に、眼先の現象処置を
   する上での適当な準備をするという準備工作としての智慧であって、或る期間には必要で
   ありますが、適当な準備をした上では、乱に心に描かず、完全なる安心をもって、

   「調和の世界」を心に描くことによって、却って此の世界に平和を持ち来たすことが
   できるのであります。

(2)この神示が発せられたのは満州事変の直前でありますが、
   唯今の世界情勢にもこの神示はピッタリと当て嵌るのであります。

(3)日本の国土は、強国に囲まれおり、
   実力のない中立主義は番人も戸もない羊小屋のようなものであります。

   それでは、強国の餌食となることに甘んじてしまい、
   却って、戦争の原因となるのであって、(そうならないために)
   日本は恐れず猛獣に立ち向かえる実力を蓄えなければならないのです。

   実力を持って猛獣に恐れず立ち向かうとき猛獣も尻尾を巻いて後退すると
   『続々甘露の法雨』には示されているのであります。

(4)「戸締り」をしないで、「いつ猛獣が襲って来るか、襲ってくるか」と戦々恐々と猛獣を
   《恐れて》いるよりも、「戸締り」を厳重にして「これならだいじょうぶ」の態勢をとり、
   《恐れずに》正面から猛獣の眼をみつめている方が、猛獣に咬みつかれないことになる
   のであります。

(5)唯「実相の円満完全」を念じておれば平和が来るのではないか ―― と考えるのは、
   「ただ人間の実相の完全円満を祈っておれば現象的にはどんな処置を講じないでも肉体は
   健康になるのではないか」と言うのと同じであります。

   「実相の既にある完全さ」と、「現象にそれを実現する処置」とを混同するところに、
   現象的な適当な処置を不要とするような間違った論議を生ずるのであります。

(6)「恐るる勿れ」は「永遠に変わらない黄金律」でありますが、
   「恐れない心境」になるためには、「戸締り」がある方がよいか、
   「戸締り」がない方がよいかはその時の現象界の情勢次第であります。

(7)「戸締り」を一層強固にして、「これだけ戸締りがあるから大丈夫だ」と、
   大船に乗った気持ちになって、恐怖心を滅して大安心」の心境である方が
   「心の法則」にかなった平和への道なのであります。

          <感謝合掌 平成25年5月20日 頓首再拝>

法則は(心の浄化の程度に合わせ)否定的にも肯定的にも作用する (8856)
日時:2013年05月31日 (金) 08時01分
名前:伝統

     *『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P147~148(5月31日)>より

心の法則にせよ、物質の法則にせよ、いずれも反対の方向に働くことができるのである。
同一の力が自動車を前方にも後方にも動かす。
磁気の陽極は惹き、陰極は反発する。

ある種の想念と感情は建設的創造的であって、友そのほか助けとなる力を呼ぶ。

これとは全然反対の効果を生ずる想念および感情もある。
それは誤解と争いと悪意を創る。
この種の想念感情を消極的であると言うのである。
破壊的沈滞的で個人の進歩を妨げるからである。
実際失敗する人は、好ましくない状態を作り出す方向に心の法則を働かしているのである。

次に述べる箴言はメンタル・サイエンスの箴言であって
算術の法則と同じに信頼できる基本的な法則であり、
さっそくあなた自身にも適用されるものなのである。

すなわち「今日貴下の生活の中にある好ましくないもの、貴下の健康・幸福・成功を妨ぐるものは、
その好ましいものと同様に、あなた自身が心の法則に働かしめてみずからそれを
もたらしたからそこに在るのだ」ということである。

些細な事件、不慮の出来事、損失または利得、結婚したり離婚したり、その他人生に起こる
すべてのことの背後にはある見えざる力があり、その見えざる力が具象化しつつあるのである。
その見えざる力は実は自分自身が起こした想念の力なのである。

諸君は想念の法則によって動いている宇宙に住んでいて、そこで想念の法則が、あなたかも
物質的法則が星の運行を支配するがごとく、諸君の運命の運行を支配しているのである。

「想念の法則」とは「因果の法則」ともいい、現在意識すなわち自覚ある心の思想、感情、希望に
常に応えてくれる宇宙普遍の心・阿頼耶識の働きを言うのである。これは神の働きまたは
「真如縁起」ではない。阿頼耶識の働きである。

次に主観心の説明を試みる。

阿頼耶識は心理学上の潜在意識にほぼ一致するものであるが、もっと広義に用いられる。
夢の状態で活動する心、習慣の背後にある心、タイピストや音楽家の指に眼があるかのごとく
働くその指を通して働く心である。

それはわれらの生命(せいめい)の内部にあってわれわれの身体を母胎にいる間から
創造した心である。そして今もその心は再創造を続けているのである。
阿頼耶識が浄化されてアンマラ識となるとき真如実相の智慧に近づくのである。

それが真如実相の智慧に近づくにしたがい、肉体を創造する力は完全となるのである。
われらの肉体細胞は日々死んでいるのであって、新しい細胞と組織とを創造し、生活過程で
消耗(しょうこう)したものと取り換えつつあるのであって、その再創造が、浄化された
阿頼耶識によって導かれるとき、肉体の再創造は完全となり、健康なる肉体が創造せられる。

これに反して阿頼耶識が浄化されないとき肉体の再創造は不完全となり病気となるのである。

          <感謝合掌 平成25年5月31日 頓首再拝>

「心の法則」を知り、幸福生活の第一歩を踏み出す (8967)
日時:2013年06月03日 (月) 04時51分
名前:伝統


      *『生命の實相』幸福篇下(第三十八巻)はしがき より抜粋

多くの人々が欲するものを得ることができないで不幸であるのは「心の法則」を知らないで、
「物質の法則」のみに頼って幸福や繁栄を得ようと努力しているからである。

一例を挙げれば、石川啄木はあれだけ才能ある歌人であったのに、なぜ貧しくかつ不幸であり、
妻にまで裏切られたのであろうか。
それは彼の歌にいかなる彼の心があらわれているかを見ればわかるのである。


    はたらけど働けどなおわがくらし楽にならざりじっと手を見る


この彼の有名なる歌には、人生の苦痛と貧しさをじっと見つめている彼の心が
「じっと手を見る」という動作の描写に集中されて実に巧みに表現効果を挙げているのである。

しかしそのような彼の心そのものが、彼の貧窮と不幸との原因であったことを彼は知らない
のである。

(中略)

石川啄木は自己の欲せざる貧乏や不幸に心を集注し、その印象をさらに深めるために
掌の運命線の儚さまでも心で見つめていたので、そのとおりの不幸、貧乏、病気等が
集中して生じたのである。

この心の法則を読者は知るだけでも幸福生活の第一歩を踏み出すのである。

・・・

<関連スレッド>

 ①「悪運をさける~徳久克己先生 (8553)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1600

 ②「心の世界における運命の形成 (8650)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1616

          <感謝合掌 平成25年6月3日 頓首再拝>

業を飛び超える道 (9360)
日時:2013年06月20日 (木) 05時03分
名前:伝統


     *『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P172(6月20日)>より

自分が他(ひと)に対して冷酷であれば、他(ひと)からも冷酷にせられるものである。

類(るい)は類(とも)を招(よ)ぶ。
冷たい心は、冷たいメスを招(よ)び、刺す心の者は注射の針によって刺され、
人を解剖してはその悪を暴き出す心の者は、解剖せられる病にかかる。

生長の家は必ずしも医療に反対するものではない。
解剖せられる業(ごう)を積んだものが、解剖せられるのは業を果たして業を消す一つの方法
であるから、それはそれでよいのである。

ただ生長の家が教えたいのは、業を飛び超える道である。

業のない世界、暗(やみ)のない世界、光ばかりの世界
そういう世界に入(い)るには神想観をして神の「全き《いのち》にて創造(つく)られてあり」
と念じて、神の「完(まった)き《いのち》」の中に没入してしまうことである。

神の「《完(まった)きいのち》」の中には業もなければ、暗(やみ)もない。

          <感謝合掌 平成25年6月20日 頓首再拝>

心の法則を活用せよ (9655)
日時:2013年07月05日 (金) 04時58分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月5日>(P7~8)より

なんじの欲する事物の上になんじの心を集注せよ。
なんじの欲せざる事物の上になんじの心を集注してはならない。

病を欲するならば、病の上に心を集注せよ。症状を気にかけよ。心配せよ。
しからばなんじの病は必ず増大すべし。
心をそれに集注するものが実現するからである。

多くの人々がなぜ不幸であり、不健康であるかの原因は、
好まないものにことさら心を集注して心配するからである。
なぜ、君は自己の欲せず希望せざるものの上に心を集注するのであるか。

幸福ならんと欲する者は、自己の幸福のみに心を集注せよ。
他の人の幸福のみに心を集注せよ。他の人の幸福を羨(うらや)んではならない。
幸福を羨む心は、幸福を否定し、抑制し、不幸を欲する心であるがゆえに、
みずから不幸を招くのである。

他人の幸福を自己の幸福と感じうるものは、自分が今いかに現実に乏しくとも、
他(た)のすべての人の幸福が自分自身の幸福であるがゆえに、
すでに豊かであるのである。

なんじの欲する事物の上になんじの心を集注するとき念の創化作用によって、
ついにそれをこの世界に現実化するに至るのである。
なんじ、何を欲するや。これをまず自己自身に問え。

しかして、健康を欲するならば、「われは完全なり健康なり。われは生命(せいめい)なり。
われは神の子なり。われは永遠の存在なり。われは不老なり。われは何物をも羨まず。
われは日々にいっそう、神の子の完全さを顕現するなり」と常に精神を集注して念ずべし。

諸君が成功を欲するならば、常に偉大なる物のみを心に描け。
偉大を念ぜずして偉大になった者は一人もないのである。
小なる計画は人を魅(ひ)曳きつける磁石的力を有しないのである。

いやしくも失敗を予想するなかれ。しかし細心であれ。一歩一歩を大切にすべし。
大望を抱くものは日常生活に気をつけるのである。
気をつけることと、恐怖することはちがうのである。

将棋の木村名人のように一分一秒を大切にして、
しかも最後の勝利を前途に描く者はついに勝つのである。


心の法則を知らざる者は、健康を欲しながら病気を念じ、
成功を欲しながら失敗に精神を集注し、
すべて逆に逆にと心を使うから失敗するのである。

されば健康を欲し成功を欲するものは少なくともその基礎知識として勝利の常識として
わたしの「人生は心で支配せよ」の本一冊ぐらいは読んでおかなければならないのである。

・・・

*谷口雅春先生の著書「人生は心で支配せよ」については、次のWebも参考になります。

<参考Web:”山ちゃん1952 さま”のブログでの「人生は心で支配せよ~はしがき」
       http://plaza.rakuten.co.jp/tecnopla/diary/201204160001/

         <感謝合掌 平成25年7月5日 頓首再拝>

類は類を招(よ)ぶ (10478)
日時:2013年08月10日 (土) 05時04分
名前:伝統

      *「光明道中記」(八月十日 善き言葉のみ使う日)より


【現象世界を善くするには言葉を善くせよ。万物はその言葉通りになる。
                        (『生命の實相』第六巻)】

すべての人間の中には「自分」の念(おもい)が映っている。
彼が善であり、悪であるかは、皆「自分」の念(おもい)の鏡である。

良人は「自分」が近づく以前からあんな悪い癖のあった男であったのであるから、
良人の性格が悪いのは私の責任ではないなどと云うのは、
三界唯心の真理を撥無するものなのである。

凡そ三界唯心の真理は「類は類を招(よ)ぶ」の真理を伴うものなのである。

即ち自分の心と類似の姿が自分の周囲に展開するのであるから、
自分の周囲にそう云う良人が引き寄せられて来るのは自分の心の反映であると
云うことが出来るのである。

良人から見た妻の場合も矢張りそうである。妻の性格がたとい自分と結婚する以前から
そのようであるにしても、そのような妻が自分の身辺に引き寄せられて来たことは
矢張り自分の業(ごう=念の集積)の展開であるのである。

かくの如くして自分の良人も、自分の妻も、自分の親も、自分の子も、
さては主人も、社長も、社員も、召使も悉く、
自己の念(おもい)の展開であるが故に、ただ「有りがたく受ける」ことである。

ただ有り難く受けたときには、業は形にあらわれるとき
蒸気の圧力がピストンの運動となって消えるのである。
そして本当に有りがたくならせて頂くのである。

          <感謝合掌 平成25年8月10日 頓首再拝>



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