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慰霊(戦没者追悼) (7681)
日時:2013年04月15日 (月) 06時07分
名前:伝統

安倍首相「日本の平和と繁栄、しっかり築いていく」 
硫黄島で戦没者追悼式

       *産経ニュース(2013.4.14 14:45 )

安倍晋三首相は14日、太平洋戦争末期の激戦地となった硫黄島(東京都小笠原村)で
戦没者追悼式に出席し、

「尊い命を落として祖国のために戦われた英霊に思いを致し、
日本の平和と繁栄をしっかり築いていかねばならない」

と述べた。

安倍首相は

「祖国の安寧を祈願し遠く離れた家族を案じつつ戦場に散った方々の思いを致すとき、
悲痛の思いが胸に迫るのを禁じえません。心からご冥福をお祈りします」

と追悼の辞を述べ、献花した。

硫黄島の訪問には山口那津男公明党代表や新藤義孝総務相らが同行。
硫黄島の戦いで使われた壕や戦死した日本兵の遺骨収容作業現場を視察した。
同島の戦没者約2万2千人のうち遺骨の収容は半数にとどまっている。

また首相は、自衛隊の硫黄島基地で

「遠く離れた孤島で厳しい環境の中、救難活動や急患搬送、
米軍艦載機の離発着訓練の支援などにひたむきに取り組んでいる諸君に
首相として深く敬意を表する」

と述べ、自衛隊員約150人を激励した。

   (http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130414/plc13041414460007-n1.htm

           <感謝合掌 平成25年4月15日 頓首再拝>

硫黄島慰霊 の 高松宮殿下 (7698)
日時:2013年04月15日 (月) 19時32分
名前:伝統

硫黄島の高松宮殿下  〈初出・『明日への選択』平成10年2月号〉

      *Web:今も硫黄島に眠る日本軍の英霊達 より

『高松宮日記』全8巻の完結を前に、
『This is 読売』1、2月号に連載された高松宮妃殿下と作家の阿川弘之氏の対談の中に、
初めて紹介されるエピソードがある。

昭和46年3月、高松宮殿下が硫黄島戦跡をご訪問になった時のことである。

硫黄島は大東亜戦争末期、米軍7万5千の猛攻を、2万余の日本軍将兵が祖国防衛のため、
1か月以上に渡って奮戦し玉砕(全滅)した島である。

戦後、昭和43年まで米国の管理下にあったため、
殿下のご訪問当時は、まだ未整理の洞窟があり、遺骨はそのまま散乱していたという。

殿下が先ずお訪ねになったのは、米軍の火焔放射器でやられ、
ブルドーザーで生き埋めにされかけ、苦しみもがきながら脱出を試みた兵隊たちが、
折れ重なって死んだ跡地だった。

「前もっての説明何もなしで洞窟の前へ立たれた殿下は、ハッと息を呑む気配をお見せになり、
やがて地べたに正座し、両手をついて首を垂れて、暝想状態に入られた。

一言もおっしゃらないから、何を念じていらっしゃるのか祈っていらっしゃるのか
分からないけれど、随行の者みな、電気に打たれたような気分だったと聞いております。
大分長い時間そうしていらして、やっと立ち上がられた」

次にお訪ねになったのは、遺骨の整理が既に済んでいる壕だった。
とはいえ、拾い尽せなかった骨もあり、至る所に散らばったままの骨片もあった。

仕方なしに海上自衛隊駐屯部隊の隊員も、ふだんは靴で遺骨を踏んで歩くように
なってしまっていたという。 

「ところが、殿下はためらわれた。そうして、つと靴を脱ぎ靴下も脱ぎ、素足になって、
骨片の散らばる洞窟内へ入って行かれた。私も知ってますが、硫黄島という名前の通り、
あの島の壕の中に地面から硫黄のガスが噴き出しているんです。
そこを素足で視察した人は、後にも先にも高松宮様お一人だそうです」

   (http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-category-31.html

           <感謝合掌 平成25年4月15日 頓首再拝>

天皇陛下による慰霊 (7714)
日時:2013年04月16日 (火) 04時01分
名前:伝統


(1)硫黄島の不思議な出来事

   B大の3学年には硫黄島研修と言うのがある。
   愛国心を高めるために悲惨な激戦地の戦史を勉強する為にね。

   俺が聞いた話では硫黄島の石を持って帰ってはいけないと言われていたのに。
   隠して持って帰って来た学生が、帰って来て3日目の朝の点呼の時に出てこなかった。
   週番が調べに行くと心臓麻痺で死んでいたそうだ。

   で、B大に伝わる怪談はここから始まるだが・・・
   その死んだ学生のベットをそのまま使っていたらしい・・・そのベッドで寝ていると
   とにかく金縛りにあう。

   それで、ベッドを替えてくれと指導教官に頼むと
   教官はやっぱりそうかって顔をしてすぐに変えてくれる。
   と言う噂を話を聞いた。

(2)天皇陛下のご訪問

   硫黄島では数々の幽霊話があるが、
   平成6年天皇の硫黄島ご訪問以来、その手の話は激減した。

   それは、硫黄島で天皇皇后両陛下が硫黄島に散った兵士の霊に黙祷を奉げ、
   栗林陸軍中将、市丸海軍少将の短歌に返歌をして礼を尽された為である。

(4)御製、御歌

   天皇陛下 平成6年2月硫黄島にて御製

   【 精根を 込め戦ひし 人未だ 地下に眠りて 島は悲しき 】
 
    →・栗林忠道 陸軍中将
 
       【 国の為 重き勤めを 果たし得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき 】 


   皇后陛下 御歌
 
   【 慰霊地は 今安らかに 水をたたふ 如何ばかり 君ら水を欲りけむ 】


    →・市丸利之助 海軍少将の硫黄島での短歌
 
       【 スコールは 命の水ぞ 雲を待つ 島の心を 余人は知らじ 】 

    <ここまでは、Web:硫黄島の不思議な出来事より
     http://blog.goo.ne.jp/kokoronogakumon/e/8c5a92f7a288426a26c4d181ee93d0d1 >

    <参考Webとして、「硫黄島の玉砕と両陛下」
     http://www.seisaku-center.net/modules/wordpress/index.php?p=393 >

(5)天皇陛下による慰霊祈願、その後

     *Web:「喜寿を迎えられた今上陛下ー天皇誕生奉祝式典ー」より

  ①硫黄島での戦没者慰霊祈願では、多くの犠牲者を出した箇所で慰霊祈願をされました。
   そして、飛行機で日本へ向かうとき、その慰霊祈願された場所から天に向かって
   火柱が走ったそうです。

   それは、天皇陛下が慰霊祈願された事への亡き御魂達の感謝を示すかのようだった
   というのです。

  ②硫黄島には、自衛隊が駐屯していますが、
   夜になると軍靴の足音と軍馬の足音が宿舎に聞こえるのだそうです。
   ですから宿舎の四隅には塩が置かれたそうです。

   しかし、それでも、毎晩、足音が聞こえ、止まなかったそうです。

   ところが、天皇陛下が硫黄島を訪れ、慰霊祈願を捧げ、真心を手向けられたその夜から、
   軍靴と軍馬の足音が聞こえなくなったというのです。

  ③陛下がお帰りになる時に、慰霊祈願した場所から天に向かって火柱が走ったのは、
   硫黄島に眠る戦没者二万千九百柱の御魂が機上の陛下をお見送りし、
   感謝の意を示めすかのようであったというのです。

     (http://shofujuk.cside8.com/22sosin/036.html

           <感謝合掌 平成25年4月16日 頓首再拝>

レイテ島慰霊の旅 (7727)
日時:2013年04月17日 (水) 07時09分
名前:伝統

 *Web:「光の進軍」
  ~仙道 泰”木曽正人団長の「レイテ島」ビリヤバ戦跡地に於ける霊的体験”より

この物語は私(仙道)がハワイに居るときに、尾道の木曽正人氏が自分の不思議な体験談を
手紙で送ってくださったことから始まるのであります。

その手紙と同じことが尾道の「三都新聞」に掲載されていましたので、ここに転載して、
護国の英霊のご冥福をお祈りすると共に、霊的な不思議な出来事と、霊人が告げられた
龍宮住吉本宮に関することなどを、今一度皆様に思いだしていただきたいと思います。

・・・

昭和53(1978)年11月8日号「三都新聞」、『レイテ島慰霊の旅』の記事

……引き続き各自瞑目合掌の内に祈りを捧げるその時、
私は驚天動地の如き経験を得る事になったのである。

私は心奧に、祖国の為に奮戦し武運つたなく護国の神と化された多くの英霊を呼び感謝の誠を
捧げるべく一心に聖経『甘露の法雨』を暗誦しながら精神を統一したのである。

何時しか幽明の境を越えたのであろうか、暫くする内に私の身体に何とも形容出来ぬ柔らかい
ほのかな光が投げかけられている様な、明るい雰囲気を感じてふっと眼を開けた。
(肉眼をあけたか心眼で観たか今もって不明だが。)


眺めると小高い山頂附近に、柔らかい黄金色に包まれた、神か仏か、観音菩薩か
確かには解らない御方が、尽十方に燦々と霊光を投げかけておられるのが観えるのです。

両側には何時の間にか入道雲の様に(当初雲と思った)横に整然と兵隊姿の英霊が
何千、何万とも知れず正に雲集して浮かんでいるのです。

ぼろぼろに破れた軍服に穴のあいた帽子と、みる影も無い程でありながらその御顔だけは、
皆二十歳前後の若々しい喜びを満面にたたえて私の方を見ている様に感じた。


すると亦遠方でドドーンと云う雷鳴(私には英霊が口を揃えて歓声をあげた様に聞えた)、
と同時に中央に居られる神々しき御方の口が動いたと思うと、私の耳元に綺麗なすみ切った
柔らかい、まるで“金の鈴を振る様な”声が聞こえてきたのである。


「よくお出で下さいました。お待ちしていました。」と言われるのだ。
私は全身にぴりぴりと電流が流れる様な身震いを感じた。
信じられない程の驚き――。その御方は続けられる。


「この日を長い事お待ちしていました……。今日まで多くの遺族の方々、立派なお寺の住職、
政府派遣の方等が慰霊の為に幾度となくお出で下さいました。それは嬉しい事であります。
しかしこれまで誰一人として私達との話合(交流)の出来る方に会う事がありませんでした。

――誰かその様な方をと数年前より想念(霊念)を送り続けて参りました。
がついに本日こうして貴方に来て頂き話合が出来る事は誠に有難いことです。」


私は身に余る感激に唯々合掌して一心不乱にこの言葉を聴いていた。

「私達は過去三十有余年前、祖国の為第一線に参じ唯々一死奉公、残念ながら武運つたなく
此の地に於いて戦死しましたが、今日に至るも私達は魂の安住地を得ることが出来ません
でした。

悲しみの中に今尚、戦い且つさまよっている霊魂の戦友がたくさんおられるのです。
私達は今も“此処に”生き続け祖国日本を守らんと祈念し続けてきました。
何卒一日も早く私達の安住の地を……。貴方を通して多くの人にお伝え下さい……。」

と語られると周囲に雲集せる英霊が一斉に頭を下げられるのです。
私も自然に深く礼拝したと思う。滂沱と流れる涙に胸がつまり、
恐らくは一切無の心境からふっと我にかえり自問自答していた私である。


思えば有史以来初めての敗戦によって大きく痛手を受けた日本と日本国民である。
占領憲法、日教組教育、マスコミの煽動で民族の誇りある精神文化は喪失され
靖国神社の国家護持は勿論天皇陛下公式参拝もままならぬ今日である。

英霊の申される事痛い程心にしみながらも、急ぐべき憲法復元改正も、靖国法案成立も
果してこの私が一人動いたとて出来る事だろうか、否、不可能だ。

と思うや、眼前の黄金色の霊光が急に暗くなり中央座の御方の姿は薄らぎ、
同時に喜色満面だった英霊の顔が落ち窪んで、それは悲しい骸骨に一変したのである。


私は驚嘆して一心に懺悔し落涙していた。全力を尽くすことを絶叫。
瞬間、周囲は再び元の霊光燦然たる世界にもどり、神々しき御方の言葉がまた
聞こえるようになった。

しかしそれからの内容は生長の家信徒の私にとって誠に衝撃的な事であった。

「霊界ではこれまで祖国の現状をみるにつけ私達の死が無駄であったとか、
そうではないとか様々な意見があって混乱していたが、この数年間にようやく平定され、
今後は現象界が浄化されて来るでしょう。

その為に世界は非常に危機的な様相を呈して来ます。
(この内容を具体的に表現されたが本稿では割愛する)日本もその渦中に包含されるが、
祖国の上空は私達の念の力で必ず守ります……。」


私は思わず反論した。

「念の力でそんな事が可能ですか。」

間髪を入れずに厳しい叱責の声。

「念の力がどんなに強いかは貴方が一番良く識っているではありませんか。」
――心に深く飛び込んで来た響きに私は素直に謝意を表した。


「しかし現象の日本国は何といっても現象界の貴方達の努力で守るより他に方法はない。
私達も勿論応援は致します。」

「ところで今、長崎の地にすばらしいものが完成しつつありますね。」

しばし考えて答えた。

「はい龍宮住吉本宮という住吉大神の御出御を仰ぐ御社ができてきます。」

英霊が一斉に賛意を表す。

「私達は以前から承知しています。誠に慶びにたえません。
その完成の日を待ちこがれているのです。さて貴方は、谷口雅春(呼びすてにされました)
を識っていますね。」

「はい、私達生長の家の総裁先生です。」

「そうです。しかし御存知ですか、あの方は表面は人間の姿をしているが
実は住吉大神の化身でありますよ。」


その強い響きの言葉にふれた時の私の驚きたるや言語を絶したものであり、
永年の信仰生活の中でこれ程の感動は無かったのである。

嗚呼、尊師は神そのものであらせられる!

「今後の日本国を守るその中心になって活動するのは、実に谷口雅春導きになる
生長の家の信徒の皆様以外にはありません。

確かに自衛隊も必要ですが、まだまだ不十分です。
國と國の戦いよりも内部の革命分子の蜂起を未然に防止することに起ち上がって
下さるのが信徒のみなさまなのです。

しかし何と云っても現在の誌友が二百五十万や三百万では不十分です。
少なくとも壱千万人の方々が信徒誌友になって頂かねば、
この儘ではこの日本国は名のみ残り真の日本国は永久に顕われないかも知れません。

幸に住吉大神の御顕齋をする御社が建立され、
今後は此処が日本国の真の姿を顕す中心となるでしょう。
且つ亦、同時に世界浄化の中心となるでしょう。

以上の事をよく御考慮下さいまして、お帰りになりましたら直ぐに是非とも
多くの方々にお伝え下さる事をお願いいたします。」

その言葉が終ると眼前の霊光がすっと消えていったのである。

その直後私は、「どきっ」と心臓が高鳴る衝撃で我に返った。
誰かが私の肩を叩かれたらしい。

一気に現象界に目覚めたものの暫くは自分が何処に居るのか、
現象界か霊界か混沌としている有様だった。


霊的対話の時間は十分か、二十分か定かでないのだが
他の遺族の方が申されるのもまちまち三十分と言う人も五十分という人もあった。
唯、一様に皆様は私が最初立って祈っていたのがいつしか座して不動になった事が
不思議に思っていたと聴きました。

現象的には晴天に二度も雷鳴が轟いた事、
二十七回も慰霊及び遺骨収集に参加された土肥氏が非常に……。

http://hikarinoshingun.giri.jp/03-aikoku/0301akk-sendou-ronbun/12kiso-masato.htm

           <感謝合掌 平成25年4月17日 頓首再拝>

沖縄慰霊の日 (9435)
日時:2013年06月23日 (日) 05時08分
名前:伝統

今日、6月23日は、【沖縄慰霊の日】

昭和20年(1945年)のこの日、大東亜戦争の沖縄戦が終結されたとされる。

20万人におよぶ犠牲者の霊を慰め平和を祈念する日として、
糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園で戦没者追悼式が行われる。

・・・・・

沖縄戦については、種々の資料がありますが、正しく把握するためには、
次のWebも参考になります。

(1)沖縄県民20万人を救った二人の島守(しまもり)(上)
   → http://blog.jog-net.jp/201006/article_1.html

   沖縄県民20万人を救った二人の島守(しまもり)(下)
   → http://blog.jog-net.jp/201006/article_23.html

(2)「沖縄県民斯ク戦へり」(上) ~ 仁愛の将・大田實海軍中将
   → http://blog.jog-net.jp/201006/article_9.html

   「沖縄県民斯ク戦へり」(下) ~ 仁愛の将・大田實海軍中将
   → http://blog.jog-net.jp/201006/article_8.html

           <感謝合掌 平成25年6月23日 頓首再拝>

今上陛下が忘れてはならない慰霊の日として (9437)
日時:2013年06月23日 (日) 10時35分
名前:コスモス


 伝統さま 有難うございます。

 今日は沖縄の終戦の日ですが、昔友人に誘われて、沖縄の終戦の日に、沖縄に行き、白梅の塔で黙祷を捧げたことがあります。

 今上陛下が忘れてはならない日として、沖縄の終戦の日、広島の原爆忌、長崎の原爆忌、日本の終戦の日を挙げていらっしゃいますが、今日もその模様はテレビ中継されますね。

 色々な事を教えて下さり、有難うございます。大変勉強になります。  合掌

全国戦没者追悼式~安倍首相式辞 (10617)
日時:2013年08月15日 (木) 18時45分
名前:伝統



68回目の終戦記念日を迎えた15日、
政府主催の(第51回)全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で開かれた。

天皇、皇后両陛下と安倍晋三首相、遺族らが参列。

戦争の犠牲となった約310万人(軍人・軍属約230万人、民間人約80万人)の
冥福を祈り、改めて平和を誓った。


【安倍首相式辞(全文)】

天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、戦没者のご遺族、各界代表多数のご列席を得て、
全国戦没者追悼式を、ここに挙行いたします。

祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に倒れられた御霊、戦禍に遭われ、
あるいは戦後、遠い異郷に亡くなられた御霊の御前に、政府を代表し、式辞を申し述べます。

いとしいわが子や妻を思い、残していく父、母に幸多かれ、
ふるさとの山河よ、緑なせと念じつつ、貴い命をささげられた、あなた方の犠牲の上に、
いま、私たちが享受する平和と、繁栄があります。

そのことを、片時たりとも忘れません。

御霊を悼んで平和を祈り、感謝をささげるに、言葉は無力なれば、いまは来し方を思い、
しばし瞑目(めいもく)し、静かにこうべを垂れたいと思います。

戦後わが国は、自由、民主主義を尊び、ひたすらに平和の道をまい進してまいりました。

きょうよりもあす、世界をより良い場に変えるため、戦後間もない頃から、
各国・各地域に、支援の手を差し伸べてまいりました。

内にあっては、経済社会の変化、天変地異がもたらした危機を、幾たびか、
互いに助け合い、乗り越えて、今日に至りました。

私たちは、歴史に対して謙虚に向き合い、学ぶべき教訓を深く胸に刻みつつ、
希望に満ちた、国の未来を切り開いてまいります。

世界の恒久平和に、あたう限り貢献し、万人が、心豊かに暮らせる世を実現するよう、
全力を尽くしてまいります。

終わりにいま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆さまには、ご健勝をお祈りし、
式辞といたします。

           <感謝合掌 平成25年8月16日 頓首再拝>

天皇陛下のお言葉…全国戦没者追悼式 (10618)
日時:2013年08月15日 (木) 18時47分
名前:伝統


       *「読売新聞 8月15日(木)」より

本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、
さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、
深い悲しみを新たにいたします。

終戦以来既に68年、国民のたゆみない努力により、
今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、
苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。

ここに歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、
全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、
世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130815-00000640-yom-soci

           <感謝合掌 平成25年8月16日 頓首再拝>

大東亜戦争無縁戦没者英霊に捧げる辞 (10653)
日時:2013年08月17日 (土) 04時46分
名前:伝統

・・・

【大東亜戦争無縁戦没者英霊に捧げる辞】
    (谷口雅春先生、昭和35年8月15日)

大東亜戦争に忠勇無双の奮闘をつづけ ついにこの戦争に肉体の生命を献げつくして
霊界に旅立ち給える諸霊に告げ奉ることに今なお遺族不明にして御霊を祀ることを
成し得ざりし戦死の霊たちに斎主(いつきぬし)谷口雅春告げ奉る。 

本日大東亜戦争終了の記念日を選び卿等の忠誠と功績を偲びみたまを慰め奉り 
真理の悟りに導き奉らんとして ここに生長の家の信徒たち集まりて聖経『甘露の法雨』を
読誦し奉らんとす 庶幾(こいねがわ)くはこれを受け給え。

惟うに大東亜戦争は卿等の忠勇無比なる奮戦にも拘らず日本の敗戦となりたれども 
決して卿等の奮戦は無駄に終りたるにも 犬死せられたるにも非ず 

あの戦いの目的は当時すでに明瞭に『大東亜民族解放戦』と名づけられたるに非ずや 
これは人類進化の一周期の完了期が近づきたるが故に 今まで白色人種に侵略され 
その原住国土を白色人種の属国 保護領 植民地とされ 有色民族たる原住民は奴隷の
ごとく待遇されいたる大東亜およびアフリカの有色民族も 

この人類進化の宇宙周期の完了に際して 白色人種と同等に『神の子なり』の自覚を得て
独立すべき宇宙プログラムを現象界に実現する時機至りたれば 有色人種といえども
白色人種を圧倒する力を有するという実例を示して 

有色人種たちの自立独立の精神を自覚せしめる時機を与うる必要ありてあの戦争には
宇宙の人類進化の神界のプログラムを達成する役割を演ずる偉大なる犠牲者出現せざる
べからざりしなり 

その偉大なる役割を演ずるために開かれたるがあの大東亜戦争なり 
その偉大なる犠牲的役割を演じて自己の生命を献げて人類進化に道をひらきたるが 
あの大東亜戦争において戦死されたる卿等日本軍の将兵たちなり 

卿等の戦死はまことに無意義にも犬死にも非ざりしなり 
キリストが一身を献げて人類の身代りとなりしがごとく 
卿等は一命を捧げて 大東亜諸民族の魂の自覚の進歩のために貢献せるなり 

卿等の功績決してキリストの人類救済の功績に優るとも劣るものにあらず 
すでに大東亜の民族はすべてその原住国土において独立せり 
すでにアフリカの民族もそのほとんどは原住国土において独立せり 

かくて『大東亜民族の解放戦』と称したりしかの戦争目的はすでに達したり 
戦争目的の達成は勝利というべきなり 日本は勝利せるなり

卿等はみじめに敗戦して犬死せる者には非ず 人類進化の周期完了に近づきて
偉大なる功績を果せるなり 今上陛下が平和愛好の御心にて あの大東亜戦争開始に
反対の意思をなされ『四方の海みなはらからと思ふ世になど波風たちさわぐらむ』と
いう明治陛下の御製を御前会議の席上にて朗詠せられたるにも拘らず戦争を抑止すること
を得ず 

軍の真珠湾爆撃後 陛下はついに宣戦布告の詔勅において
『豈朕が志ならんや』の一句を挿入せしめられたるごときは 
まことに以て あの戦争が人類進化の過程として道を拓くべき宇宙プログラムにして

何れの国民かが犠牲となって大東亜およびアフリカ民族の自覚促進に貢献する
宇宙必要必須の使命を果す必要ありたるが故なり 

かくて卿等は一身を献げて すでにこの偉大なる目的を達成せられたるなり 
讃うべきかな卿等の犠牲的精神よ 

宇宙の大神 今卿等の功績を称賛し 霊界において一層高き位に進められんとす 
そのための悟りの彼岸に渡すべき如来の願船としてここに聖経『甘露の法雨』を読誦す 

これ観世音菩薩の願船なり 塩椎大神の目無堅間の小船なり 
この如来の願船たる聖経に乗りたまいて悟りの彼岸に渡り給えと生長の家信徒一同
卿等を敬って合掌礼拝して感謝の意を述べ奉る
                                 
                                 頓首再拝

・・・・・

(以下は、別の掲示板からの転載です。”復興G さま”のお許しをお願いいたします)


そして昭和38年10月には宇治別格本山に「精霊招魂神社」を建立して
英霊達を祀られることになるのですが、その精霊招魂神社落慶の年8月15日、

和歌山県の寺森仁一氏が、有田市に戦没者無縁寺を建てているのがあることを知り、
未明にそこへ行って祈りを捧げたときの体験が、
『生長の家』誌昭和38年11月号に載っています。

      ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

   無縁塔に捧げる平和の祈り

 昭和38年8月15日未明、突然私は寝床を脱けだして唯一人聖経『甘露の法雨』と
 「大東亜戦争無縁戦没者英霊に捧ぐる辞」を持って、無縁寺に登って行きました。

 夜露は足をしっとりとぬらします。
 あたりはまだほの暗く、東の空はかすかに白み、山には人影一つなく、静寂そのものです。

 香華をくゆらし正坐合掌瞑目――時刻は正に午前5時10分――。
 三千有余柱の無縁の英霊よ眠りませ……。唯一人霊前に額ずいて、神想観のできる喜びを
 天地万霊に感謝しつつ、この声全宇宙に響けと、音声(おんじょう)朗々と招神歌を唱え
 全く神人合一の神想観に入った。

 終って谷口雅春先生がお示し下さった「大東亜戦争無縁戦没者英霊に捧ぐる辞」を、
 本当に全身全霊をもって読誦、英霊に感謝を捧げました。


 「キリストが一身を献げて人類の身代りとなりしがごとく、卿等は一命を捧げて、
 大東亜諸民族およびアフリカ諸民族の魂の自覚の進歩のために貢献せるなり」


 と読んで来た時、雲流れる大空の果てに、或いは炎熱の南太平洋の怒濤に、
 或いは酷熱のジャングルに、散華された幾多の英霊達よ、
 さぞ辛かったろう、口惜しかったろうと涙がとめどなく流れてきました。

 その悲惨な最期を想起し本当に心の底から慰めてやりたい気持で読誦を続けました。

 
 「讃うべきかな卿等の犠牲的精神よ 宇宙の大神今卿等の功績を称讃し
 霊界において一層高き位に進められんとす」


 まで読んできた時には、万感胸に迫り、ワァッとばかり大声をあげて泣いてしまいました。
 朗々の声も声にならず、ただ滂沱(ぼうだ)の涙が膝をぬらすばかり。

 深い深い世界平和の祈りの内に聖経『甘露の法雨』を誦(あ)げ、
 大調和(みすまる)の歌を終って二拍手の後、目をあけてふと眼前を見ると、
 無縁塔が黄金色に輝き後光が射しています。

 不思議、と振返れば、はるかに東の山上から太陽が昇り始め、
 金色の光芒燦然(こうぼうさんぜん)と輝くその神々しさ、思わず合掌した時、
 パッと頭に閃くものがありました。

 昔神武御東征の折、賊軍長髄彦(ながすねひこ)が押し寄せて皇軍が危くなった時、
 いずこからともなく金の鵄(とび)が飛び来り、神武天皇の御弓の筈(はず)に止り
 金色燦然(こんじきさんぜん)たる後光に賊軍は退散したという神話から、

 軍人の最高栄誉である金鵄(きんし)勲章が制定されたが、
 光は“真理”であり退散した賊は”迷い“である。

 今こそ“真理の御言葉”によって、今まで迷っていた三千有余の無縁の英霊は、
 高き霊界にのぼられて我等を守り給い世界平和の礎となられた神啓であると拝しました。

 更に不思議なことは、下山しようとした6時20分頃、
 急に雨が降り出しやがて沛然(はいぜん)たる大雨となって身動きもできません。

 思えば三世の霊魂達がこの谷口先生の讃辞により、
 霊界に於て懐しい親子兄弟との再会を果した随喜の涙でなくて何でありましょう。……

 今こそ全信徒一丸となって世界平和の祈りと実践運動に徹し、
 世界平和の先達であり人類光明化の尊い犠牲となった二百三十万の英霊に、
 谷口雅春先生の讃辞を捧げて霊界より人類光明化運動に参加して戴き、
 全世界を愛の霊波で覆いつくそうではありませんか。

   (『生長の家』誌 昭和38年11月号より)

     (http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1349267312/1084

       <感謝合掌 平成25年8月17日 頓首再拝>

倒れた墓石、密林化…放置される陸軍墓地 (10656)
日時:2013年08月17日 (土) 08時19分
名前:相良武雄


太平洋戦争の戦没者らを弔った陸軍墓地の墓石が、所有者不明のまま放置されているケースがあることが分かった。

 福岡市では墓が損壊しても修復されず、山口市では草も刈られずに密林のようになった時期があった。遺族らは「国に召集されて命をささげた以上、国や自治体が責任を持って管理してほしい」と訴えている。

 福岡市中央区にある谷陸軍墓地。日清、日露、太平洋戦争の戦没者らの遺骨約1万5000柱を納めた高さ数メートルの石碑が10基ほど並ぶ。その片隅では、寄りかかった樹木に押されて墓石1基が倒れている。「修復を行政に頼んでも、また断られるだろう」。8月上旬、元陸軍中尉で建設会社会長の菅原道之さん(89)(福岡市)はつぶやいた。
陸海軍の軍用墓地は戦後、82か所の所有権が大蔵省(現財務省)に移転。さらにその一部が自治体に譲与、無償貸与されるなどした。谷陸軍墓地は1969年から福岡市が無償で借りている。2005年3月の福岡県西方沖地震で石碑5基の石柱がずれたため、菅原さんらは「倒壊の危険性がある」と、所有者の福岡財務支局と管理者の市に補修を求めたが、断られた。

 同財務支局は「国有財産として登録されているのは土地だけ」、市は「国から借りているのは土地だけで、石碑などの管理は所有者がすべきこと」と話すが、いずれも所有者については把握していなかった。

 行政の動きがないなか、菅原さんらは有志に呼びかけて寄付金約1100万円を集め、修復にかかった。石碑内の納骨室は浸水し、骨つぼが床に落ちて壊れていたが、ボランティアで作業を進め、08年12月に修復を終えた。

菅原さんらの調査によれば、石碑の多くは1935年、陸軍が主導して市民の勤労奉仕によって建立された。菅原さんは「軍民一体となって造り、国にささげたもの。国有財産であることは明らか」と語る。

 山口市の山崎陸軍墓地には、主に明治期の墓石約300基や昭和初期の石碑がある。山口財務事務所によると、土地は国有地だが、墓碑の所有者は不明。維持管理の予算はつけてないという。

 「以前はジャングルのようだった」。旧陸軍、陸自幹部OBらでつくる「山口県偕行会」の会長、坂本強さん(85)は話す。見かねた自衛隊OBや隊員らが十数年前からボランティアで雑木を切り、雑草を刈っている。

 墓地を巡る対応は、自治体によって異なる。熊本市の陸軍墓地、花崗山陸軍埋葬地は戦後、市有地となり、1980年に市指定史跡となった。市によると、墓石の所有者は不明だが、修繕などについては史跡のため補助金交付の対象となる。宮崎県都城市の陸軍墓地は納骨堂も国有財産。市は、国から土地と一括して無償で借り、老朽化した納骨堂を改修し、管理している。

旧軍の墓地制度に詳しい原田敬一・佛教大教授(日本近代史)は「軍は自らの規定に基づいて軍用墓地を設けており、墓や碑が個人の所有物とは考えられない。国は責任を持って対策を講じるべきだ」と指摘。小田康徳・大阪電気通信大教授(同)は「軍用墓地の存在は地域と軍の密接な関わりを示すもので、地域住民が徴兵され、戦死した事実の証し。遺族の高齢化が進めば、ますます維持・管理は難しくなる。戦争遺跡として国や自治体が保存すべきだ」と話している。(小松一郎)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130811-00000201-yom-soci


終戦の日、ガダルカナル島で遺骨収集へ 大学生「一柱でも多く日本に」 (10657)
日時:2013年08月17日 (土) 08時23分
名前:相良武雄


15日、68回目の終戦の日を迎えた。そして、今年は、先の大戦の激戦地、ソロモン諸島のガダルカナル島で、日米両軍の激戦が終結してから70年の節目の年でもある。同島には今も約7千柱の遺骨が残っており、大学生らが17日から遺骨収集活動にあたる。活動を担ってきた遺族らの高齢化が進む中、若い世代の役割は増してきている。現地に赴く学生は「兵士ですら苦労した環境だからこそ、若い力を生かし、一柱でも多く祖国日本にお迎えしたい」と話している。

 ガダルカナル島での遺骨収集活動に参加するのは、NPO法人「JYMA 日本青年遺骨収集団」(東京都千代田区)の会員である大学生と大学院生の男女6人。遺族戦友会「全国ソロモン会」のメンバーらとともに作業にあたる。


程は31日までの15日間。JYMAによると、同島での遺骨収集は飛行場など島北部の沿岸地域が中心だった。今年は、当時米軍に占領されていた飛行場の奪還を目指し、島中央部の山岳地帯を迂回して進軍した「丸山道(まるやまどう)」での捜索を計画している。

 「なんで70年も置き去りにしているのか」。今回の派遣で学生隊長を務める都留文科大3年の丸山翔太さん(21)は、7月下旬に電車内で居合わせた初対面の米国人男性に言われた一言が忘れられない。

 この言葉で、「戦勝国と敗戦国の違いはあると思うが、国のために戦った人たちを取り戻せないような国は誇りにできない」との思いを強くした。



丸山さんは「軍事や軍隊が好きなわけじゃない。兵隊として出征して散った人たちを考えると、知らないふりをするわけにはいかない。『草生(む)す屍(かばね)』のまま放っておくことはできない」と話す。友人や家族から「お前がやる必要はない」と反対されながらも、昨年に続き参加する。

 ガダルカナル島での活動は過酷だ。JYMA学生代表で国学院大3年の高山寛さん(21)は昨年8~9月、同島での活動に参加した。むせ返る暑さの中、スコップや熊手でひたすら土を掘り返していたところ、脱水症状で倒れた。

 数分もたたないうちに体中にハエやアリがたかってくる。意識はあるが、手足がしびれて払えない。木の間からかすかに差し込む陽光に「ああ、兵士もこうやって倒れていったんだな」と実感したという。

遺骨収集活動はこれまで主力を担ってきた戦友会や遺族会の高齢化が課題となっている。代わって未開の密林や過酷な洞窟で活動を担う若い世代の役割が増している。JYMAもその一つだ。JYMAは昭和42年に「学生慰霊団」として発足。45年からは遺骨収集事業を開始し、昨年度末までに約1700人を派遣、約16万柱の遺骨収集を実施している。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130815-00000101-san-soci



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