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「昭和の日」 (8024)
日時:2013年04月29日 (月) 06時29分
名前:伝統


今日(4月29日)は「昭和の日」。

「天皇誕生日」→「みどりの日」→「昭和の日」 

(1)「天皇誕生日」
   1988年まで4月29日は、昭和天皇の誕生日を祝う「天皇誕生日」という
   国民の祝日でした。(戦前は、「天長節」といわれていました)

(2)「みどりの日」
   昭和天皇が崩御され、年号が平成に改まった平成元年(1989年)に、
   自然に親しむとともにその恩恵に感謝し豊かな心をはぐくむ日として、
   「みどりの日」 と名称が変えられました。

   昭和天皇は、生物学に造詣が深く、自然や生物を大切にされていました。
   また生物学者として数々の研究成果をのこされ、御本も出版されています。

(3)「昭和の日」
   2007年(平成19年)より「昭和の日」と改称され、
   「みどりの日」は5月4日に移されました。

   祝日法には、「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、
   国の将来に思いをいたす」日と定められています。


以下に、「生長の家“本流宣言”掲示板」に掲載された記事のご案内をし、
昭和の御世を振り返り、昭和天皇様を偲び、「昭和の日」のお祝いといたします。



《昭和天皇様大御歌》

(1)昭和8年 御歳33歳(5.15事件、上海事件の翌年の正月歌会始)

   天地(あめつち)の神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を

(2)昭和15年 御歳40歳(開戦1年前)

   西ひがしむつみかはして榮(さか)ゆかむ世をこそいのれとしのはじめに

(3)昭和20年 御歳45歳(敗戦時)

   身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて

   国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり

   爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも

(4)昭和25年 御歳50歳 

   もえいづる春のわかくさよろこびのいろをたたへて子らのつむみゆ

(5)昭和27年 御歳52歳

   国の春と今こそはなれ霜こほる冬にたへこし民のちからに

(6)昭和28年 御歳53歳
  
   新米(にひよね)を神にささぐる今日の日に深くもおもう田子(たご)のいたづき

(7)昭和32年 御歳57歳(傷痍した軍人のうえを思われた歌)

   国守(も)ると身をきずつけし人びとのうえをしおもふ朝(あした)に夕べに

(8)昭和41年 御歳66歳

   静かなる世になれかしといのるなり宮居の鳩のなくあさぼらけ

   日日のこのわがゆく道を正さむとかくれたる人の声をもとむる

(9)昭和45年 御歳70歳
 
   七十(ななそぢ)の祝ひをうけてかへりみればただおもはゆく思ほゆるのみ

(10)昭和50年 御歳75歳

   わが庭の宮居に祭る神神に世の平らぎをいのる朝朝

(11)昭和60年 御歳85歳

   遠つおやのしろしめしたる大和路の歴史をしのびけふも旅ゆく

(12)昭和63年 御歳88歳(生前ご公表最後の歌)

   あかげらの叩く音するあさまだき音たえてさびしうつりしならむ

・・・・・

《「直き心」の日本文明(「4月29日昭和の日」に因んで) (868) 》

   →  http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=204

・・・・・


《大東亜戦争終戦の「聖断」》

終戦を決断された昭和天皇様の「聖断」については、
谷口雅春先生は、「古事記と現代の預言」にてふれております。

「生長の家“本流宣言”掲示板」では、スレッド「天皇・日本の使命と終戦の真相」を参照願います。

  → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=752


・・・・・

《田中静壹大将と甘露の法雨》

昭和天皇様のご聖断後、終戦の玉音放送までにおいては、
一部軍部中堅将校によるクーデター未遂事件が生じましたが、
それには、東部軍管区司令官・田中静壹大将による「甘露の法雨」をかざしながら
の説得で、事なきにいたっております。

これに関しては、以下のWeb等に確認出来ます。

(1)「生長の家“本流宣言”掲示板」のスレッド「大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ」
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=734

(2)「生長の家“本流宣言”掲示板」のスレッド「田中静壹大将と甘露の法雨 」
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=980

(3)陛下(昭和天皇)と大神、両輪のごとく
   
  *「光がこだまする」(林光彦・著)からの紹介です。(P160~P162)

   最近陛下の侍従長をしておられた入江相政(すけまさ)氏の
   『いくたびの春 宮廷50年』を読んだ。
   その中の”終戦の日”を読み、深い感銘をうけた。

   それには、陛下が終戦のご詔勅を録音盤に吹き込まれるご様子や、叛乱軍の乱入による
   極度の緊張につつまれた皇居内の息づまるような状況が克明に書かれていた。

   その中に、田中静壱大将の名を見出して、私はあらためて深い感銘をえたのである。
   『いくたびの春 宮廷50年』では次のように書かれている。

                   ・・・・・

   私の一生に、これ以上にさし迫った4時間は無かったし、これからも多分無いであろう。
   叛乱軍もいなくなって、朝の食事が運ばれてきた。何を食べたか覚えていない。

   一難は去ったものの、去ったばかりで、急に今までは全く感じなかった酷熱の夏の朝、
   おそらく急には食べる気もおこらなかったのであろう。

   田中静壱大将は、身を挺して、叛乱を取り鎮められた。
   それをすっかり見とどけてから、8月24日に自刃。勿体ないことである。

   日本の今日の繁栄は、田中大将の力によるものであり、
   さらに、日本民族が、このように生き残ることができたのも、全く大将のおかげである。

           ・・・・・

   入江侍従長は、このように田中大将の功績を最大級の讃辞で讃えておられる。
   これを読んでいて私は、尊師のお言葉を想い出さずにはいられなかった。


   歴史的な尊師米寿のおめでたい日、
   尊師谷口雅春先生は、どのようなお言葉をおっしゃるのだろうか。

   喜びの中に、全身を耳にしている私たちの前に、谷口雅春先生は、
   「今日の日本の繁栄は、住吉大神のお蔭である」とお話しされ、

   叛乱軍乱入により日本の命運の岐(わか)れる危機一髪の瞬刻限に、
   田中静壱大将を通して働き給うた住吉大神の御働き、
   『甘露の法雨』の神秘を繰り返しお説きになられたのであった。

   田中大将が、あの危急を『甘露の法雨』をうち振りながら鎮圧されているそのお姿に、
   重なるように私達は住吉大神、生長の家の大神が立ち給うておられるお姿を、
   はっきり想像することが出来る。

   されば、入江侍従長のお言葉は、

   「日本の今日の繁栄は、生長の家の大神の力によるものであり、
   さらに日本民族が、このように生き残ることができたのも、
   全く生長の家の大神のおかげである」

   と言い換えることも出来るのではないかと、私には思えるのである。

   あの時、田中静壱大将は、住吉大神の全身全霊になっておられたのである。
   全く勿体ないかぎりである。

   以前、私は「光の泉」誌に書いたことがあったが、日本の国民の多くが知ろうと知るまいと、
   今日の日本の新生と発展は、全く今上陛下(昭和天皇)の御稜威(みいつ)と、
   住吉大神の御働きとが、車の両輪のようにあったればこそ、と思うのである。

   そしてこのことは、今や日本国民全部が知らなければならない時に来ていると思うのである。

   かつて尊師が、講習会のご講義の中で、

   「諸君が知ろうと知るまいと日本人であるならばすでに住吉大神に救われているのである」

   と強調せられることが度々あったことを想い出す。

・・・・・

(昭和天皇)のご巡幸

   昭和天皇は、終戦後昭和21年2月から足掛け8年半、
   3万3千キロにも及ぶ全国巡幸を行なっております。

    (「生長の家“本流宣言”掲示板」内「昭和天皇さまの戦後のご巡幸」
      → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=70 
  
   昭和天皇の最初の訪問先は、空襲の被害のなかから復興した川崎市の昭和電工川崎工場で
   あったが、これを皮切りに返還前の沖縄をのぞく四十六都道府県をくまなく回られ、
   天皇が直接に声をかけられた人数は2万人に達したという。

   GHQは戦争責任を追及されるかも知れない天皇が国民の非難を浴びるのではないかと思いこみ
   巡幸を許可したといわれているが、現人神であった天皇自らが敗戦後の困難のうちにある
   国民に親しく接し、肉声で言葉をかけられたことは、
   計り知れない勇気と復興への希望を与えた。


   <ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ 松ぞををしき人もかくあれ>

   (意味は、生長の家“本流宣言”掲示板」内スレッド「大御歌」内の(271)(272)を
    参照願います)
     → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=72
   
   この昭和21年の敗戦直後に詠まれた歌の励ましの力が、巡幸に際しての、
   <戦のわざわひうけし国民を おもふ心にいでたちて来ぬ>という御製へと響き合い、

   被災地や戦災孤児の施設、傷痍軍人の入院する病院、また学校、工場、農村など全国津々浦々
   を歩かれる昭和天皇の実際の行動となった。

・・・・・

《関連Web》

(1)「生長の家“本流宣言”掲示板」内「天皇陛下を守った”青い目の近江商人”」
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=60

(2) 「生長の家“本流宣言”掲示板」内
    「 忘 れ 得 ぬ こ と」 (昭和天皇侍従次長・木下道夫氏著)
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=790

        <感謝合掌 平成25年4月29日 頓首再拝>

マッカーサーを感動させた昭和天皇の言葉 (8047)
日時:2013年04月30日 (火) 07時35分
名前:伝統


        *Web:「正しい歴史認識」より

「…(終戦時において)陛下に対する占領軍としての料理の仕方は、4つありました。

一つは東京裁判に引き出し、これを絞首刑にする。

一つは共産党をおだてあげ、人民裁判の名においてこれを血祭りにあげる。

三番目は、中国へ亡命させて中国で殺す。
     そうでなければ、20個師団の兵力に相当するかと怯えた彼らです。

また第四番目は、闇から闇へ、一服もることによって陛下を葬り去ることでありました。


いずれにしても、陛下は殺される運命にあったのです。
天皇は馬鹿か、気狂いか、偉大なる聖者か、いつでもつかまえられる。
かつては1万8000人の近衛師団に守られたかもしれないが、
今や全くの護衛を持たずして、二重橋の向こうにいる。…


陛下の割腹自刃の計画は、3度ありました。
貞明(皇太后)様は、(侍従に、)陛下から目を離さんように命じました。
じつに一番悩まれたのは、陛下でありましたでしょう。


9月27日、陛下がただ一人の通訳を連れて、
マッカーサーの前に立たれたことは、皆様方もよくご承知の通りであります。
ついに天皇をつかまえるべき時が来た。
マッカーサーは、2個師団の兵力の待機を命じました。
マッカーサーは、陛下は命乞いに来られたものと勘違いし、
傲慢不遜にもマドロスパイプを口にくわえて、ソファーから立とうともしなかった。

陛下は直立不動のままで、国際儀礼としてのご挨拶を終え、こう言われました。

『日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。
私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。
絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります』

――弱ったのは通訳でした。その通り訳していいのか

――しかし陛下は続けました。

『しかしながら、罪なき8000万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、
食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。
温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように』


天皇は、やれ軍閥が悪い、やれ財界が悪いと言う中で、一切の責任はこの私にあります、
絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても…と淡々として申された。
このような態度を見せられたのは、われらが天皇ただ一人であったのです。
陛下は我々を裏切らなかった。

マッカーサーは驚いて、スクッと立ち上がり、今度は陛下を抱くようにして座らせました。
そして部下に、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーをさしあげるように」と。

マッカーサーは今度は一臣下のごとく、直立不動で陛下の前に立ち、
「天皇とはこのようなものでありましたか! 天皇とはこのようなものでありましたか!
私も、日本人に生まれたかったです。陛下、ご不自由でございましょう。
私に出来ますることがあれば、何なりとお申しつけ下さい」
と。

陛下は、再びスクッと立たれ、涙をポロポロと流し、
「命をかけて、閣下のお袖にすがっておりまする。この私に何の望みがありましょうか。
重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」
と。

そののちマッカーサーは、陛下を玄関(ホール)まで伴い、見送ったのです。


皆様方、日本は8000万人と言いました。
どう計算しても8000万はおらなかったでしょう。
いかがです?

1億の民から朝鮮半島と台湾、樺太をはじめ、すべてを差し引いて、どうして8千万でしょうか。
じつは6600万人しかいなかったのです。

それをあえて、マッカーサーは、8000万として食糧をごまかして取ってくれました。
つまりマッカーサーは、いわゆる、陛下のご人徳にふれたのです。

米国大統領からは、日本に1000万の餓死者を出すべしと、
マッカーサーに命令が来ておったのです。

ただ一言、マッカーサーは、
『陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた』
と言いました。

彼は陛下のために、食糧放出を8000万人の計算で出してくれました。
それが後で、ばれてしまいます。
彼が解任された最大の理由はそれであったというのが、事の真相です。

        <感謝合掌 平成25年4月30日 頓首再拝>

貞明皇太后崩御の日 (8456)
日時:2013年05月17日 (金) 05時02分
名前:伝統

今日5月17日は、(昭和天皇のご生母)貞明皇太后崩御の日です。
 <1884(明治17年)年6月25日 - 1951年(昭和26年)5月17日>


貞明皇太后の前で泣いた昭和天皇

        *Web:「正しい歴史認識」より

日本敗戦のとき、東京の皇居宮殿が爆撃で焼失した。

不便な生活に女官たちが不平を言ったらしいが、
貞明皇太后(大正天皇の皇后・昭和天皇の母)は
「こんなこと何でもありません。むかし(明治以前)はもっと貧しかったのです。
そのころを思えばこんなこと何でもありません。」と告げた。

敗戦後の10月ころ、戦後賠償か財産税かが話題となったころ、香淳皇后(昭和天皇の皇后)は
「宝石なども没収されるくらいなら、今のうちに国民の米に代える手立てはないか」と、
侍従次長に伝えた。

(これより先、昭和天皇自身が、皇室財産つまり個人所有の有価証券の包みを
占領軍マッカーサーのもとへ持参し、国民の食糧に替えて欲しいと申し込んだ。
本官の任務にないのでと受け取らなかったが、アメリカ大統領に善処を要請するとの
回答を引き出したと言う。)

新憲法実施により、皇室財産は国家管理となったとき貞明皇太后は、
「これでむかしにもどったのだね。」と語った。


・・・

また、さらにご立派であったのは、貞明皇太后でした。

戦後、母君の貞明様は、法華経の信者でしたから、戦死者のお名前を10人ずつ書きながら、
法華経をあげて生涯を送られたのです。

その貞明様が、皇霊殿に陛下をお招きになりました。
皇霊殿は高いので、東京の市中が見えるのであります。
焼けただれ、一日千秋の思いでわが子の復員を待つ年寄りたちの姿も、見えるのであります。

貞明様は陛下にそれをお見せになり、
「陛下、国民は陛下のご不徳によって、このように苦しんでおります。
この国を一日も早う復興しようと召されず、お腹をおめしになろう(切腹しよう)などとは
ご卑怯ではありませんか。退位は絶対になりません!」

陛下は、母君の前で頭を垂れて泣かれたそうです。
どうしたらいいのかと。

陛下の万歳を叫んで死んでいった護国の英霊の労苦を労いなさい、
遺族の労苦を労いなさい、産業戦士の労苦を労いなさい

――これが、後の陛下の行幸(外出)になったのでした。

最初の地は広島でした。原爆の地、広島でした。
共産党の腕利きが、今こそ「戦争の元凶である裕仁に対して恨みを報いようではないか」
とビラをまき、宣伝カーで叫んでいました。

しかし、陛下は一兵の護衛をも持たず、ツギのあたった背広をお召しになり、
中折れ帽をかぶって、広島の駅頭に立たれたことは、われらの記憶に新しいところであります。
むしろ陛下がおいたわしかった。
「万歳、万歳」の歓呼をもって迎えられました。

言えばやはり記録に残りましょうから、その県名と市名はもうしませんが、
北陸のある所(福井市)においては共産党が、「朕はたらふく飯を食う。汝臣民飢えて死ね」
とプラカードを仕立て、2000名のデモ行進をやっていました。

「陛下、お逃げなさい」
しかし陛下は、「私に面会を申し込んでいる限り、私が会いましょう」 と言って、
皆の前に頭を下げられました。

「皆様方が私を打擲することによって心が癒えるならば、ごずいにめされたがいい。
でも日本の国を一日も早う復興し、次の子孫へこの国を送り得てこそ、
はじめて護国の英霊に対し、我々が報いる道ではなかろうか」

と陛下は申されたのでした――はっきり言ったほうが良かったのかも知れませんが、場所を。

陛下に向かっての発砲もありました。
八二歳のある老婆が犠牲になったことも、中国地方の一角でありました
(広島で、陛下をねらった弾がはずれて老婆に当たった事件)。
陛下の行幸は、そういう中に続いたのであります。…」

歩一〇四記念講演特集号より

    (http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/18934657.html

・・・

以下は、Web:貞明皇后考 より抜粋

戦中、関屋衣子は貞明皇后を訪れる。
衣子が「今のままでは日本が負ける」と言うと貞明皇后は「はじめから負けると思っていた」
と語り、「もう台湾も朝鮮も思い切らねばならない。

昔の日本の領土のみになるだろうが、勝ち負けよりも、
全世界の人が平和な世界に生きていくことを願っており、
日本としては皇室の残ることが即ち日本の基です」と力強く述べたという。

1951(昭和26).5.17日、狭心症のため崩御。
享年66歳。皇太子妃時代に腸チフスに罹った以外は特に大病に罹らず健康であり、
この日も勤労奉仕団への会釈(挨拶)を行なう予定で、その準備をしている時に発作が起こり、
急死した。

なお昭和天皇は当日進講を受けており、一報を聞きしばらく言葉が無かった。


同年6月8日、貞明皇后と追号された。
追号の「貞明」は、『易経』にある「日月の道は貞(ただ)しくして明らかなり」の
一文を出典とする。

「大葬の儀」は6月22日に行なわれ、
昭和天皇は、以下の誄辞(るいじ、追悼の言葉)を述べている。


   「裕仁」敬みて、皇妣(母)の霊前に白す、
   皇考(父・先帝)の喪を服してより二十有五年、慈恩を仰き奉養に勉め
   楽を尽すの一日も長からむことを願へるに俄に大故に遭ふ、驚愕悲痛追慕止むなし、
   親(木親)殿に殯宮に親祭すること三十余日、茲に礼を具へ儀を挙け将に
   多摩皇考山陵の次に斂葬せむとす、霊車停め難く幽明永へに違ふ嗚呼哀しいかな

    ~ 昭和天皇 、 昭和26年6月22日、大葬の儀において

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/tennoseiron/rekidaitennokakuron/taisyotennoco/teimeikogoco.htm
http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E8%B2%9E%E6%98%8E%E7%9A%87%E5%A4%AA%E5%90%8E


<参考Web:貞明皇太后 http://tamutamu2011.kuronowish.com/teimeikougou.htm >

            <感謝合掌 平成25年5月17日 頓首再拝>

香淳皇后崩御の日 (9283)
日時:2013年06月16日 (日) 07時46分
名前:伝統

       *宮内庁ホームページより

香淳皇后は、昭和64年1月7日,昭和天皇崩御に伴い皇太后となられ、
天皇皇后両陛下をはじめ皇族方、ご親族方がたびたびお訪ねになるなか、
在りし日の昭和天皇をお偲びになりながらの穏やかな日々をお過ごしでした。

平成12年6月14日夜半から呼吸不全が生じ、適応加療が行われましたが、
6月16日にいたりご容体が急変し、老衰のため同日午後4時46分、
吹上大宮御所において崩御(御歳97)されました。香淳皇后と追号されました。

香淳皇后の大喪儀は、皇室の行事として、
平成12年7月25日の斂葬の儀(豊島岡墓地内における葬場殿の儀、武蔵陵墓地内における陵所の儀)
を中心として種々の儀式が行われました。

陵名は武蔵野東陵(むさしののひがしのみささぎ)と定められました。

    (http://www.kunaicho.go.jp/about/history/history11.html

・・・

香淳皇后御歌

【つぎの世に せおうふべき身ぞ たくましく ただしくのびよ さとにうつりて】
【つぎつぎに おこる禍ごとを いかにせむ 慰めまつらむ 言の葉もなし】
【みこころを 悩ますことのみ 多くして わが言の葉も つきはてにけり】

  → http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/1388/waka/waka5.htm


【やすらかにねむれとぞおもふ君のため いのちささげしますらをのとも】

(私たちの国を守るために尊い命を捧げられたますらをの皆様、
 どうぞやすらかにお鎮まり下さいますように、とお祈りをささげられた御歌です)


【樺太につゆと消えたる乙女等のみたまやすかれとただにいのりぬ】



・・・(以下は、参考として、動画の紹介です)

昭和天皇香淳皇后その1
 → http://www.youtube.com/watch?v=lYVAgOVCi-8

昭和天皇香淳皇后その2
 → http://www.youtube.com/watch?v=hnOvL2gOPVo

昭和天皇香淳皇后その2
 → http://www.youtube.com/watch?v=2GbN7nJkQXM

            <感謝合掌 平成25年6月16日 頓首再拝>



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